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悪魔は蒼ざめた月のもとに  作者: 花街ナズナ
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薄闇を血に染めて (6)

信じられない光景を見るのは、別に不幸なことではない。


ただし、

信じたくない光景を見るのは、間違い無く不幸だ。


度合いの差こそあれ、亜生と太知は同じように後者の光景を目にしていた。


はっきり見ていても、それでもなお信じたくない光景を。


薄闇の中、

冷たい石造りの床にうつ伏せで倒れたサヤの姿。


制服の背面はあらかた失われ、引き裂かれて朱色に染まる背中だけがひどく鮮やかに見える。


呼吸をしている様子もうかがえない。

両の手足は不自然な方向に曲がり、床の血溜まりに浸かったまま微動だにしない。


見た目だけなら完全に死んでいると思える状態。


だからこそ、

亜生も太知も、揃って絶句していた。


亜生は、発するべき言葉が見つからず。


太知は、ただ、

単純に声を出せず。


口だけを大きく開け、喘ぐように声を出そうとするが、出ない。

感情が揺さぶられ過ぎたために。


「あーらら。法野センパイ、またやり過ぎてやんの」


凍り付いていたような時間感覚。

硬直していた場の空気。


それらを無視し、

背後からの声。


当然、

サヤへ目を遣っていた亜生は、即座に振り返って声の主を睨んだ。


不破東吾。


まんまと亜生、太知のふたりをひとりで釘付けにした男。


その男が、

現在の惨状を理解しているとはとても思えないような、ふざけた調子で述べていた。


感情的になっているための僻目かもしれないが、まるで倒れているサヤのことを嘲笑するような態度で。


少なくとも亜生にはそう見えたのである。


「東吾……」

怒りに満ちた目と、唸るような声を向け、亜生は分かりやすく自身の感情を東吾に伝えた。


だが、

東吾は相変わらずの飄々とした態度を崩さない。


「おいおい、何で俺を睨むかね。あの女をやったのは法野センパイだろ?」

「……」

「それにお前ら、ちょっと勘違いしてるぜ。あの女、まさか死んでるとでも思ってんの?」


言われ、

はっとなった亜生はまたもサヤへと目を向けた。


そこで、あまりにも大きい見落としに気付く。


倒れたサヤの横。

ハインド・ハウンドがいる。


はっきりと、確かに。


もし、サヤが死んでいるものと仮定するなら、サヤが力を行使することによって存在しているハインド・ハウンドもまた存在し得ない。


つまり、

生きている。


しかもどの程度かは分からないが、意識も残っているはずだ。


少なくとも、まだ……。


「ほんと、学習能力無えよなお前。法野センパイはどんなに相手を痛めつけても、絶対に殺したりやしない。無草とのゲームでもセンパイは無草をズタボロにはしたが、殺しはしなかったのは覚えてるはずだろ?」

「それは……でも、明光だって単に死ななかったというだけで、下手をすれば命を落としかねないような……」

「だーから、そこだよ」

「……?」

「法野センパイはマジモンのドSだからな。その場ですぐ死ぬような攻撃はしない。ちゃんと加減はするんだよ。とはいえ今は生きてても、この後も生き延びられるかまでは知りやしないんだけどさ」


これを聞いて、

亜生は不快感も露わに、顔をしかめた。


思えば、宗政のそうした傾向は感覚的にも、経験的にも知っていたはずだ。


両親を殺した人首礼次に似た匂い。

力に酔った人間特有の狂った匂い。


どこかで自覚していたはずのものを、またも見落とした。


力は持っていても、人間ならば普通に出来るようなことが何ひとつできない。


無意識、唇を噛む。

己の無知蒙昧さに。


まるで変わっていない。


操り人形のように扱われていた天使の頃と。

まるで変わっていない。


「まったく、気の毒したもんだよなあ。悪魔のお前は自業自得としたって、車輪……と、針子っつったっけ? 運悪く、俺たちと戦うことになったのがそもそも……」


苦虫を噛み潰したような顔をする亜生を嘲るよう、東吾はそう言って笑う。


耳障りな笑い混じりの声で。

もはや決まったも同然と勝負を見てとり、傲慢かつ尊大な口をきいた。


のだが、

何故か、東吾は言葉を言い切らずに口を止める。


「……今……」


割り込むように、発せられた声を聞き、

止める。


声の大きさだけなら、気にもかけないはずの声。

蚊の鳴くように小さな、ともすれば聞き逃しそうになる声。


なのに、

東吾は口を止めた。


止めざるを得なかった。


その声の中に、異様を感じたから。


しかも尋常なものではない。

音量に頼らぬ威圧。


聞き取った声にそうしたものを感じ取り、何やら、うっすらとした恐怖を抱いて声のした方向を探る。


ところが、

この行為を東吾は心底、後悔することになった。


いや、

後悔すべきはもっと以前の行為。


滑らせた口。


原因はそこにあるのだと、発見した声の主が継いだ言葉によって知らせてくれた。


「運が悪かったとか……今、言ったか……?」


実際は探るまでも無いこと。

簡単な消去法。


この場にいるのは全部で5人。

声を聞いた東吾自身は除き、残りは4人。


亜生は目の前にいて、顔を合わせて話していたから違うことははっきりしている。

サヤはもう声など出せる状態ではない。

宗政はあれほど小さい声をかけてくるには距離が遠い。


つまりは、

太知。


亜生のすぐ後ろで、ベイン・ペインの苦痛に耐えかね、膝をついて屈み込んでいた。


そう、

つい先ほどまでは。


それが今、

立っている。


背中を向けた格好で全身を脱力させ、立っている。


途端に大きな疑問が東吾の中を駆け巡った。


何故だ?

何故こいつは立ち上がっている?


現在、ベイン・ペインで与えている苦痛はまず致死レベル。

立ち上がるどころか、意識を保つのさえ不可能に近いはず。


それなのに……何故?


困惑にも似た状態で、東吾の思考が無意味なループを始める。

決して答えに到達できない、迷路の思考。


そこへ、

東吾の混乱など察するはずも無く、太知は振り向いた。


瞬間、

凍り付く。


東吾の思考……を含む、精神、心、魂。

付随する肉体をも。石のように硬直する。


振り向いた太知の、あまりにも、


あまりにも恐ろしい形相と、何より焼きつくような憤怒の視線がもたらす恐怖によって。


「……おい、この下衆野郎……」


言いながら、

太知は正面から東吾を見据えると、地獄の底から湧き上がるような声で話し出した。


死体のように真っ青な顔。

自らの吐血で赤黒く染まった口元。

怒りに燃え盛る双眸。


悪魔などより悪魔じみた姿をし、太知はなおも唸るように声を発する。


「生きるの死ぬのを……運が悪かったなんて……そんな気安い言葉ひとつで片付けようとしてんじゃあねえよ……!」


恫喝などという生易しいものではない。

骨身にまで浸透してくる畏怖、恐慌。


ここに来て、ようやく東吾は自分の軽率に気づいた。


この男……太知にとって、生死を運で語ることは絶対の禁忌。

何があろうと触れてはならない不可侵の領域。


理由までは分からない。

東吾には、太知の生い立ちを知る術は無かったのだから。


とはいえ、

もう触れてしまった。


最悪の逆鱗に。


取り返しなどつかない。


転瞬、

向き直った太知は一歩一歩、不気味な足取りで東吾へと近づき始めた。


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