薄闇を血に染めて (5)
サヤと宗政が対峙した時点で、すでに展開は決していたのかもしれない。
戦意のある人間と、戦意の無い人間。
それが顔を合わせたとしたら、どういう流れが待っているか。
一方に戦意が無いのだから、戦いは起きない?
そんなわけはない。
戦いとは常に、戦意があるものがひとりでも存在すれば成立する。
虎と鹿が対峙したとして、鹿に戦う気が無くとも、その場が無事で済むなどということが無いのと同じだ。
実際、
サヤの意思など関係無く、宗政からの攻撃は迅速に実行された。
左右の壁を装飾する像のように並ぶ甲冑たちが振り上げた棘鞭は左右で11対。計22体。
つまりは22本の棘鞭が一斉に、狙い定めてサヤに向かい、振り下ろされたことになる。
この事実だけで想像させられる結果は凄惨極まりない。
単なる革鞭でさえ、人の皮膚程度はやすやすと裂く。
だというのに、これは棘鞭。
細長く切り揃えられた獣皮を編み込んで作られた鞭本体へ、等間隔に金属製のスパイクが打ち込まれている。
こうなると皮膚どころではない。
肉まで容易く引き裂けるだろう。
文字通り、絶体絶命。
すくんだサヤの足も、今は大した問題ではない。
何故なら、避けようとして避けられるはずがないから。
回避不能の攻撃。
それこそがガントレット最大の特徴にして最強の特質。
逃げること自体が限り無く不可能に近いのである。
左右に列を成した甲冑の戦士は前後に展開し、前進しようが後退しようが関係無く、その鞭を縦横に振るう。
元より行くも退くも出来ないように出来ているのだ。
足が動こうと、状況は変わらない。
だから、
サヤはただ立ち尽くしたまま、自分へ向けて降り注ぐ22本の棘鞭を、恐怖に強張った顔で見つめるしかなかった。
そう、
サヤに限っては、これ以外に出来る行動は無かったと断言して差し支えない。
そして、
一瞬と一瞬の狭間は終わりを告げ、サヤの体は粗挽きのミンチになろうとした。
その、
まさにその瞬間、
一寸刻みに分解された露の間の一片を使い、動く。
ハインド・ハウンド。
影の犬が。
鼻先。
もはや鼻先まで迫っていたサヤへの攻撃。
棘鞭の雨。
それを転瞬、
どのようにそこへ現れたのかも分からぬ素早さで、影の犬はサヤの頭上に姿を移したかと思うと、それがどのようにおこなわれたかを考える隙さえ与えず、すでにその時点で22本、振るわれてサヤへと届く目前だったすべての鞭を、もれなく宙空で闇色の牙が並ぶ巨大な口ですっかり咥え、捕らえていた。
すると同時、
そこからどういった体勢の変化を空中で成し得たのかは知る由も無いが、口にすべての鞭を咥えたまま、ハインド・ハウンドは黒い旋風のように身を高速で回転させると途端、一気に咥えている22本の棘鞭を引きちぎる。
牙がよほどに鋭かったからだろうか。
見た目上では体をねじり、力任せに食いちぎったような恰好であったが、大量の棘鞭は張り詰めて切れる際の音ひとつ立てず、静かに全体の三割程度の長さを失い、そぞろに残された部分を宙に舞わせた。
編み込まれた革紐は解かれ、なびく。
結わえて、纏められていた髪が、髪留めを失って広がるように。
瞬時、
影の犬は着地する。
短い唸りとともに、口に残した22の棘鞭、その一部を鬱陶しそうに首を振り、横へと吐き捨てながら。
ここに至り、
サヤはつい数瞬前までの怯えきった自分を忘れてしまうほど、張り詰めていた自分の中の何かが、どっと抜けてゆくのを感じた。
まるで、破裂寸前だった風船の口を開けたような勢いで。
実証による安心。
これに勝るものは無い。
いくら、とっくに信用していたとしても。
目の前で見せられる事実以上の信頼は存在しないのだ。
それゆえに上書きされ、さらに強固となる。
ハインド・ハウンドへの信認。
(勝てる)という確信ではなく、
(守ってくれる)という確信。
忠誠については疑いもしていなかったが、能力は別のこと。
ただ、これも信じていなかったわけではない。
ハインド・ハウンドが強力な力なのは認識していた。
が、物事は単体では判別できない。
相手の力と比べて、始めて可能になる。
優劣の差を見極める行為が。
初見では、サヤは宗政自身の異様さと、加えてガントレットの圧倒的な威圧感を前に、自信と呼べるようなものはまるきり消し飛んでしまった。
元より頑丈というわけでもなかった心が折れたのも、むべなるかな。
しかし結果的には力の優劣においてもハインド・ハウンドが上だと理解した。
この認識によってもたらされる安息は大きい。
事実、サヤはほっとするのと同時、速やかに自分の精神が修復されてゆくのを感じ、視線を頭上から前方へと向け直していた。
自分には影の犬がいる。
確実に、完璧に自分を守る影の犬がいる。
その絶対的な確信が、完全に折れたはずの心を支え、あまつさえ以前より堅牢に補強してくれていた。
そのおかげで、
再びサヤは宗政と対峙することが出来た。
胸に憑りつく恐怖を払い、目を合わせることが出来た。
ここだけを見たとしても、第三者的な視点ですら両者の形勢は逆転したように思えただろう。
少なくとも、優劣無しの拮抗状態と見るのがごく自然。
それほど、ハインド・ハウンドが見せつけた能力は、宗政とガントレットの放つ得体の知れない不気味さを払拭するのに十分だった。
だが、
世界を生きる人よ。
希望を抱くなかれ。
絶望することを恐れるならば。
残念ながら、サヤに関してはこの忠告をする人間が側にいなかった。
結果、
彼女は知ることになる。
この世にあっては、一寸先は闇。
やっとの思いで這いあがった崖から、奈落へ突き落される。
きっかけはとても……ささやかだった。
サヤの見つめる先。
甲冑が列を成すその先に立つ、法野宗政。
肥え太り、身動きするのもきつそうな学生服のそれが、
再び目を合わせるなり即座、
ニタリと笑った。
汚らしい歯並びを口から覗かせて。
瞬間、
サヤは総毛立つ。
背筋を虫が這い回るような悪寒に襲われ、またしても、
侵食される。
蘇りかけていた心が。
今までよりもさらに強い、言い知れぬ恐怖に。
と、
ここで突然、
影の犬が動いた。
再び恐怖にすくむ体をどうしてよいか分からぬサヤに既視感を与えながら。
それは先日のゲームの再現。
ほとんど宙を飛ぶように、一本の矢の如く馳せる。
宗政を目掛け、驚嘆すべき速度で。
この時、サヤは別のことを思考していたため、ハインド・ハウンドのこうした行動がいかなる理由によるものかを考える余裕は無かった。
けれど、もし第三者がいたなら、こういう解釈がもっとも適当だろう。
ハインド・ハウンドは力を持つものとの間に疑似的な主従関係を形成する。
とすれば、主人の感情変化を敏感に察知し、自らの判断で脅威を取り除こうと動いたとしても不思議は無い。
そうなると……、
今度は違う意味での恐怖がサヤに芽生えた。
先日の戦いで見せた積極的に敵性者を排除しようとする凶暴さ。
そして先ほど見せた破壊的ともいえる攻撃力。
合わせて考えれば、
手加減無しに人間を襲えば相手を殺しかねないと容易に察しが付く。
思い、
サヤは慌てて制止の声を上げようとした。
ところが、
声を上げるより前に、
サヤは声を失う。
今、まさしく今、
眼前で起きた出来事を信じられず。
わずか前、事も無く相手の振るった22もの鞭を噛みちぎったハインド・ハウンド。
認識していた範囲でも、もうほとんど宗政の足元まで迫っていたそのハインド・ハウンド。
それが、
何故か跳び込んでいった勢いそのまま、サヤのいる後方へ吹き飛んでいた。
ただし、
低空を這うように駆けていた姿勢が、どういうわけか天高く、宙を舞って放物線を描くように変わっているという差はあったが。
どうしてこんなことになったのか。
始めは混乱していたせいもあり分からなかったが、答えは考えるまでも無く、勝手に目の中に入ってきた。
鞭である。
考えれば当たり前だ。
ガントレットによる攻撃は22体の動く甲冑たちが持つ棘鞭しかない。
しかしそこが疑問でもある。
さっきはあれほど見事にすべての鞭をあしらってみせたハインド・ハウンドが、どうして同じ鞭での攻撃を喰らってしまったのか。
が、
その疑問もほどなく晴れる。
これも同じく、見える事実として。
鞭の数。
そこが先ほどとの明らかな相違。
いや、
鞭の数というのは正確な言い様ではない。
鞭の、先端の数。
鞭そのものの本数は22本と変わっていない。
なのだが、問題は言った通りに先端の数。
ハインド・ハウンドが喰いちぎったために編み込まれていたものがばらけた鞭は、今や1本当たりから伸びる先端の数は10やそこらではきかなくなっている。
単純に計算しても、おおよそで22×10以上。
220を上回る数の攻撃が一度に襲いかかる理屈になるわけだ。
かくも多方向から攻撃を繰り出されては、さしものハインド・ハウンドも対応しきれなかったと、そういうことであろう。
それを証明するように、ハインド・ハウンドは短い空中散歩を終えるや、あわや叩きつけられるように床へ激突するところを器用に身をよじって姿勢を整え、四肢で地面を捉えてピタリと着地した。
サヤのわずか後方に。
ここで、
サヤは反射的に……というより、ある感情が先行して背後へ着地した影の犬に目を遣った。
影の犬の、その身を案じて。
別にこれが分かれ道というわけではない。
どちらにせよ、どうなるかは決まっていた。
前を向いていようと、後ろを向いていようと。
受け取り方によっては、これはこれで良かったとも思える。
少なくとも、
見ていなかったことにより、無駄な恐怖を味わわずに済んだ点だけは。
ともあれ、
これで回避できた事柄はそれ限り。
苦痛はまったく同じように受けた。
後ろのハインド・ハウンドへ顔を向けたのとほぼ同時、
誇張でなく、サヤは自分の背中が爆発したのかと思うような凄まじい衝撃を受け、その場に倒れ込んだ。
もちろん、疑問は頭に浮かぶ。
何が起きたのか、と。
思ったが、
思考は出来なかった。
それどころか、
呼吸も出来なかった。
背中に受けた衝撃が大きすぎて横隔膜が麻痺し、一時的な呼吸不能に陥ったのである。
これだけで終わっても悪い展開としては十分。
十分ではあるのだが、
ことがそう優しく終わるほど、世界は慈悲深くは無い。
一度目の衝撃で倒れ、床に突っ伏した状態で息も出来ない。
そこへさらに衝撃。
二度目の衝撃。
これを受けた時の感触が、サヤに自分の身へ何が起きているのかを教えてくれた。
ガントレットの攻撃。
それをまともに受けている。
一度目は単なる衝撃としてしか感じられなかったが、徐々に麻痺していた感覚が目覚め始めると、細かな状況が理解できるようになってきた。
まず、背中全体が熱く感じ、
次いで皮膚の剥がれる感覚が襲い、
加えて肉が引き裂かれ、飛び散る自身の血が、床を染めてゆくのを苦痛とともに味わった。
幸か不幸か、痛みはそれほど強くなかった。
受けている傷の深さを想像するが、その度合いに比して苦痛は軽い。
理由は考えなくとも分かった。
失神しかけているのだ。
一撃目を喰らった際、そこでもう意識は半ば削り取られていた。
二撃目を喰らった際、視界が暗転した。
もし、ここまでで宗政が攻撃を止めていたら、
黙っていてもサヤの意識は完全に失われていたはずである。
そうなる寸前、
サヤが失神する寸前、
三撃目がきた。
骨折をともなう際に特有の重い痛みが全身を駆け巡り、その刺激で意識が混濁した状態ながらもかろうじて繋ぎ止められたのは、彼女にとっては拷問のようなものだろう。
それでも、
背中を挽肉のようにされ、全身の骨を折られても、なお意識が微かにも残っていることにサヤは感謝していた。
何故なら、
意識を完全に失ったなら、間違い無くこのまま自分は死ぬのだろうという確信めいた思いが頭の中を占めていたから。
そうして、
意識が無くなってしまったなら、
今、耳元で聞こえる悲しげな犬の鳴き声も聞けなくなる。
耳鳴りに混ざり、わずかに聞こえるその鳴き声。
とうに理屈で物事を考えられなくなったサヤにとって、その声は自分がまだ生きていることを知るための、最後にして唯一の方途となっていた。




