薄闇を血に染めて (3)
「始めるぞ、サヤ!」
活を入れるような大声が背後の亜生から飛んできたのを合図にし、サヤもまた横に従えたハインド・ハウンドとともに、前方から近づいてくる人影へと臨戦態勢を取っていた。
無論、万全の構えとは言えない。
ゲーム開始早々に倒れてしまった太知の穴を補おうと、そして太知を守ろうと、無理くりに引き出した責任感、義務感でまだ姿の見えぬ敵へ立ち向かおうとしているだけの姿勢。
こういった現状では月並みな恐怖や怯えもある。
気を張ってはいるが、ともすれば、たたらを踏みそうになるような足の震えを止められる程度には程遠い。
それも当然。
サヤは最初のゲームについてはほぼ、ハインド・ハウンドの力に頼り切り、運良く勝っただけのこと。
当人は勝負に対する覚悟も無ければ、意地や度胸などは毛ほども持ち合わせていなかった。
単純に恐怖から来る自己保身。
純粋な生存本能。
好戦的な性質とはかけ離れたサヤの性格を考えれば、これ自体は至極当然。
どちらかといえば、サヤはむしろ戦いを忌諱するタイプである。
ただしそれらがハインド・ハウンドに良い形で作用した可能性も否定できない。
ここはいつもの亜生らしく義務欠陥を如実に表して必要な説明を大いに端折った部分のひとつなのだか、
ハインド・ハウンドは力を持ち、それを行使するものに対して献身的な防衛反応を起こす特性がある。
力の保持者が落とす影で生成されるハインド・ハウンドにとり、まさしく力を持つものは生みの親も同然。
この点では、実際の人間と犬との主従関係に近しい。
主人が脅威を感じれば、それを排除しようと動く。
それがハインド・ハウンドの基本的な行動原理。
主人を守ることを第一義として認識、実行する。
もちろん、そのように知覚する高度な知性を持っているわけではない。
非生物であるただの力が、生物の持つ感情や欲求を模倣し、行動へ表しているに過ぎない。
言うなれば、訓練された犬の特性を精巧に再現したロボットのようなもの。
現実の意思や意識といったものが存在するわけではない。
しかし、
受け取り側にとって、そうした真実は特別な意味を持たない。
目に見えたり、感じたりすることが真実。
だから人間は感情移入をする。
命を持たないものに対しても。
もの言わぬ人形やぬいぐるみにすら親愛の情を抱くほどなのだから、疑似的にでもコミュニケーションをとれるものに愛着が湧くのはごく自然な人間の心理だろう。
事実、サヤはこのハイント・ハウンドを心から信頼していた。
状況もほとんど理解出来ぬまま最初のゲームを戦わされたサヤが、傷ひとつ無く無事に勝利を収められたのは、紛れも無くハインド・ハウンドの力とその特異な性質による。
それゆえの信頼。
加え、個人的印象。
偶然にも半年前に失った愛犬の面影をハインド・ハウンドに重ね合わせたことが大きかった。
そのおかげで今、
サヤは立っている。
恐怖と緊張に震える自分を奮い立たせて。
が、
そんなサヤの奮起は次の瞬間、無情にも消し飛ばされることになった。
着実にこちらへと近づいてくる敵を必死に、視線を逸らさず見据えていたサヤの両耳を突如、激しい轟音が襲ったから。
否。
正確には耳に限られたような生易しいものではなかった。
全身を通る骨の芯まで軋むほどの大音響。
当然と言えば当然。
体どころではない。
周囲の空気、床、壁、天井といった部屋全体。
余震も無しに巨大な本震が来たような凄まじい振動がそれらすべてから伝わってくる。
この現象によるサヤの驚愕は無論、尋常ではなかった。
やっとの思いで気持ちを整理し、戦いに臨もうとした出鼻にこれ。
面喰わないほうが不思議だ。
そう、それが自然。ゆえに、
結論、サヤは取り乱した。
直後に吹き付けてきたものすごい量の煙と粉塵にも身を叩かれ、取り繕っていた精神は脆くも上っ面を剥ぎ取られる。
地金が出てしまうと、もうあとは落ちるだけ。
硝煙と砂塵で目もろくに開けられず、鼻や喉の奥には乾いた痛みがへばりつく。
それでも、
一体、何事が起きたのかという気持ち。
一体、何事が起きたのかを知りたい気持ち。
何より、
太知の身を案じる気持ち。
それらの感情が勝り、振り返る。
実際には他人の心配をする余裕など欠片も無いはずなのに。
この辺りは理性と違い、理屈ではない働きを起こしやすい感情というものの成せる業か。
さておき、
背後に目を向けたサヤは、一時ながらも安堵した。
なお煙る不明瞭な視界の先、
太知の姿を見て。
煙に包まれたその姿は判然としないが、倒れかけていた姿勢はやや持ち直して見え、少なくとも状態の悪化や、新たに大事があったらしき様子はうかがえない。
安心しきるには早計だが、小康状態だというだけでこの場は十分満足すべきなのだろう。
太知の大量吐血は今になって思い出してもぞっとするが、亜生の話を素直に信用するなら、命の心配は無い。
となれば確認を終え、もうやるべきことはひとつだけ。
残るひとり。
確実に近づいてきている相手と戦うこと。
それに尽きる。
思い、再び気を張り直したサヤはすぐに向かってきている相手の方向へ踵を返した。
自分の役割を果たすため。
ちっぽけな使命感と開き直りを支えに振り返る。
ところが、
希望というものは、手に持った途端に失う。
転瞬。
後ろを向こうと体ごと視界を巡らしたその時、
サヤはそこでようやく異変に気付いた。
始めこそ目の錯覚かと思った。
しかし違う。
確かにそれらはそこにあった。
確かにそれらはそこにいた。
松明に照らされ、壁伝いに整然と。
身の丈は2メートル程度。
全身を金属製の甲冑で包み、手には長大な棘の鞭。
知らぬ間にずらりと、サヤを左右から挟むようにして並んでいる。
言葉は無かった。
というより、
口などきけなかった。
一瞬とはいえ忘れていた恐怖心が蘇ってきたために。
気がつけば、歯が鳴っている。
カタカタ、カタカタと。
連動するように全身にも震えが戻る。
膝の力が萎えそうになるのを堪えるのもやっとのことだった。
立っているがやっと。
薄暗く、広い石室の中、左右を不気味な甲冑の軍団に挟まれ、その手にある鞭でいつ打ち据えられるかと、怯えるのは当たり前だろう。
だが、
サヤの心に致命傷を与えたのは、これら奇怪な鎧の集団ではない。
その本質。首魁。
もはや後ろにも退けず、左右も囲まれた状態で、サヤが目にしたもの。
それは、
ようやくに暗い前方の部屋奥から姿を現した男の姿。
身なりは太知と同じ男子の制服。
玉のように肥えた大柄な体をゆらりゆらりと左右に揺すりつつ、真っ直ぐにサヤを見ながら近づいてくる。
そこでサヤは、
心が、
根元から折れる感覚を覚えた。
その男の顔。
表情の無い顔に唯一、両の目だけを大きく見開き、淡々と進んでくる。
淡い松明の灯を映した双眸を光らせて。
まるで、闇夜に獲物を狙う獣の目。
絶望を植え付ける威圧。
そうして、
ただ立ちすくみ、少しでも気を緩めたら涙がこぼれそうになるぎりぎりな状態のサヤと、もうひとりの相手……ガントレットを操る宗政との対峙がついに成る。
と、
この先、一瞬の先に待つ地獄を予見したのか、サヤの危うい足元を支えるようにして隣へ寄り添うハインド・ハウンドが、低く、くぐもった唸りを上げた。




