薄闇を血に染めて (2)
太知が変化を感じたのは、ちょうど亜生へ件のブラック・ラックが接触するほどに迫ったのを見た時だったろうか。
目の前まで猛烈な勢いで接近してきていた黒い巨大な板の質感は、杳として知れない。
木製か、金属製なのか。
プラスチック?
アクリル?
不思議なくらい分からない。
そんな考えの中、亜生とブラック・ラックが激突寸前というところまで状況が至った時、身の危険を察知して亜生へ手を伸ばした際、ふと気づいた。
少し前には人のことなど気遣う余裕も無い状態だった自分が、無意識に亜生を心配した事実をきっかけに。
無かった余裕が今はある。
つまるところ、
余裕を生じる理由があるということ。
実際には考えるまでも無く単純な理由。
痛みが緩和していた。
あれほど激しく自分を苛んでいたはずの痛みが、和らいでいる。
ただし、やはりあくまで和らぐ程度。
まともな身動きは取れないし、顔から吹き出す脂汗も流れっ放し。
健常な状態には程遠い。
それでも、
受ける痛みの強度が下がったのは事実だと分かるし、十分に有り難く感じた。
何もできないのと、何かできるのとでは天と地ほども差がある。
だから早速、その生まれた余力で太知は叫ぼうとした。
切迫したブラック・ラックとの距離にも微動だにせず、直立不動を保つ亜生に対して。
が、
結果的には太知が声を上げる必要は消失する。
というより、
声を出せなかったというほうが正確な表現かもしれない。
別にベイン・ペインによる苦痛のせいではない。
その効力が、何故だか弱まっていることは変わらない。
その気になれば。無理をすれば。
どうとでも声を張り上げられる自信は今の太知にはあった。
ただ、
もっと根本的な問題として、叫ぶ理由が無くなったのである。
今にも眼前で亜生にブラック・ラックが衝突しようかと見えたその時、
それはまさしく、瞬く間の出来事。
まさにブラック・ラックが亜生に激突したかと思い、瞬きひとつした次の瞬間。
目を開けた太知は、
発しかけていた声を飲み込んだ。
何故なら、
亜生のわずか手前で、ブラック・ラックが停止したから。
ではなく、
ブラック・ラックが停止から。
それも、
突然に現れた人型をした何かによって。
どこからいきなりこんなものが姿を出したのかと、太知は驚きつつも、驚いている自分に多少ながら安心した。
急な出来事に驚く程度の余裕も取り戻していると。
言い換えるなら、それだけつい前まで太知には微塵も余裕が無かった。
そういう意味で、驚いた事実は事実として、どんな形にせよ自分の中に余力が出始めているのは喜ばしく思えたのである。
さておき、
突如として亜生とブラック・ラックの間に現れた人の形。
一見した姿は、筋骨隆々とした長身の巨漢。
だが、並みの巨漢ではない。
身長は少なくとも3メートル以上。
下手をすれば4メートルにも届くだろう。
全身は赤銅色をし、胴体はさながら岩山のようで、そこから柱材にでも使いそうな太い丸太を思わせる手足が伸びている。
ここまでならば、まだぎりぎりで人間の範疇。
異形とは思うが、かろうじて人かと思うことは出来たろう。
ところが、
決定的に人とは違う。
それだけは断言していい。
何しろ、この赤銅色の巨漢には、
顔が無かった。
というか、細かく言うなら、
頭らしきものが存在しないのだ。
本来、人間なら首があるはずの場所は、ぽっこりと肉が膨れているようになっているだけで、その上には頭と呼べるような代物がまったく無い。
例えるなら首無しの大男。
強引に人として表現すると、こんな感じであろうか。
そんな奇怪極まる眼前の存在を見つつ、いまだ普段より鈍っているとはいえ、思考する余力を得ていた太知は、しばしするとすぐにそれが何であるかを推察した。
サヤから聞かされていた力。
サヤが戦った相手の使った力。
ジャイアント・ジャック。
ほぼ間違い無く、これがその正体。
太知の予想は限り無く確信に近かった。
そして、
その首無し巨人がブラック・ラックと亜生との間に入り、これまた巨大な両手でブラック・ラックを鷲掴み、それ以上の進行を止めている。
「……やっぱなあ。素直にはやらせてもらえないか……」
少し、距離のある場所からの声。
聞こえてきた位置はちょうどブラック・ラックの背後。
言わずもがな、東吾の発した声だった。
状況的な条件に加え、御親切にもブラック・ラックの横から半身を出している。
ここまで明確な判断材料を提供してくれると、さすがにまだ頭の回転が本調子でない太知には有り難くもあり、何とも複雑な心境にさせられた。
と、なるほどまだ回転の鈍い頭に苦慮している太知のことなど気にするでなし、この東吾に対して亜生が応答する。
「当然だ。こちらとしても太知は掛け値無しの切り札。そう簡単に始末されてたまるか」
「すげえ惚れられっぷりだな車輪。ま、悪魔なんぞに好かれても俺はうれしかないけどな」
そうふたりが言いあったところだろうか。
ブラック・ラックをがっしりと掴み止めていたジャイアント・ジャックに異変が起きた。
いや、正しくはジャイアント・ジャックにではない。
原因を作ったのはブラック・ラックのほう。
それまで単なる縦長の黒い板にしか見えなかったブラック・ラックが、急に形を変える。
ただし、変えるといっても部分的。
ジャイアント・ジャックの手が掛かっている部分に限定。
平らなはずの黒い表面が突如、隆起したかと思うや、それは即座に弧を描くように飛び出してフックのような形状へ。
そんな変形がブラック・ラック表面で十数箇所。
黒い触手のように素早く伸びる。
ただでさえ気味の悪い光景が、ひときわ気色悪くなって見えたのと同時、
ずらりと伸びた鉤爪状のそれは、獲物に飛びつく蛇のような素早さで、そのすべてがジャイアント・ジャックの体に喰い込んだ。
途端、
ジャイアント・ジャックが身をのけ反らせて苦しみ出した。
しかも、
それとまったく同じタイミングで、どこからか警報ブザーのような音が響いてくる。
どちらも急なことだったため、えらく心臓に悪い。
そうでなくとも、そのブザー音ときたら形容するにもただ(不快)としか言い表せないほどに耳障りなものだったのである。
薄暗く、松明に照らされた広い石室。
そこへ宙に浮く巨大な黒い板状の物体を掴む首無しの巨人。
さらに板状の物体から飛び出した鉤爪が、首無し巨人の全身へ喰い込んで今にも皮肉を引き裂かんばかりに触手を引き縮めている。
ここまででも、すでに度を越えた状況の奇怪さゆえ、並の人間なら気がおかしくなったとしても決して不思議ではないのに、加えておかしなブザー音。
体を震わせ、半ば暴れるように鉤爪へ抵抗する素振りを見せる首無し巨人の様子と相まって、ブザー音はもしかすると口の無い……どころか、首から上が丸ごと無い巨人が発する悲鳴の役割を果たしているのではと、ぼんやり太知は思ったりした。
すると、
「無駄な足掻きはよせ。人間相手ならいざ知らず、実体化した力でしかないジャイアント・ジャックにブラック・ラックの責め苦は通用しない」
変わらず、構えたまま立っている亜生が言う。
「その割には随分と苦しそうにもがいてるみたいじゃん?」
「これは生身の人間がそれを受けた場合、苦痛の度合いがどの程度かを示しているに過ぎん。この音も然り。自動車や飛行機に様々な計器が取り付けられているのと同じことだ」
「現実にそうだとしても、残酷なほど単なる物扱いだなあ、おい。さすが人間でさえ使い捨ての駒にするだけはあるねえ」
「……それも、明光の姿をしたやつから吹き込まれたのか?」
「さあてね。ただ、筋は通ってたのは確かだな。自分の力を取り戻すため、八百長のゲームを俺らにやらせたうえ、用が済んだら全員あの世に送ってるってえ話はさ」
「……」
「否定はしねえの?」
「したら、信用するのか?」
この問い返しに、東吾はどう捉えるべきか分からない笑いで返す。
ただし意味は至極、読み取りやすい。
信用するはずが無い、ということ。
そこに限っては黙っていても伝わってくる。
なるほど、
天使とやらの知略たるや素晴らしいものだ。
敵ながらあっぱれとは、まさしくこのことかもである。
多少、複雑ではあるが手順としてはこう。
第一に、亜生が悪魔だという事実を利用し、印象操作。
第二に、その上で死亡した(実際には天使が殺した)参加者たちの死因を亜生だと思わせる。
最後に、自分の持っている(これも実際は亜生が持っていた)力を与え、自分たちの絶対的な優位を揺るがす。
こういった積み重ねにより、亜生の立てていた計画をご破算にしようと、そういう算段。
元より、真っ向勝負などしてくる手合いとは思っていなかったが、想像以上のしたたかさ。
一周回って、もはや感心さえしてしまう。
とはいえ、
悠長なことを考えていられるのもこれまで。
事態の逼迫は目にも明らか。
先手で優位を取られたからには、後手なりの立ち回りが必要になる。
生殺しの苦痛が続く中、太知にもそれくらいの思考は出来た。
のだが、
「しかし何にせよ、余裕こいてる場合じゃあねえと思うぜ。実質、俺はお前と車輪のふたりをひとりで足止めしてる。てことは……言わないと分からねえか?」
東吾からの妙な問い。
こいつは何を言わんとしているんだ?
そう、
奇遇にも亜生と太知がまったく同じ疑問をこの問いから抱いたその時、
背後から悲鳴が上がる。
咄嗟、反射的に振り返った亜生と太知は、まずそれが誰の悲鳴かと思った。
思ったが、瞬時、
誰のものでもないことを知る。
正確さを期すると、人の悲鳴ではなかった。
さらに言えば、悲鳴という表現も少々違う。
正体は、
犬の鳴き声。
後ろを見てまず目に入ってきた光景がその事実を後押しする。
広い石室の左右。
そこに、ずらりと並ぶ甲冑姿の人影。
その中央付近。
見えたのは、
倒れた人影。
思うや、またひと鳴き。
よく見ると倒れた人影の横で、犬らしき影が天を仰いで吠えている。
刹那、
太知は、自分自身が叫び声を上げそうになった。
目が慣れてきて、ようやく見えてきたその人影。
それが、
石造りの床へ血まみれで倒れるサヤの姿だと理解したがゆえに。




