薄闇を血に染めて (1)
気がつくと、
いつの間にか亜生、太知、サヤの三人は成り行き上で臨戦態勢の陣形を取っていた。
すなわち、
ベイン・ペインで行動不能になった太知を庇うように、亜生は東吾へ相対し、サヤは逆方向から迫る人影に向かう恰好。
そして、
形ばかりとはいえ、陣形が整ってからの亜生は驚くほど素早く行動を開始した。
急に、胸の前で腕を交差させたかと思うと、それをすぐさま両側へ開く。
と、即座、
「始めるぞ、サヤ!」
言ったが合図。
開戦の号令。
これを聞き、それまではリラックスした風で、ゆっくりと太知たちへ向け歩み寄ってきていた東吾の足が一時、止まる。
直感による危険回避?
否。
直感などでなく、具体的理由による停止。
それは、
両側へ翼のように開いた亜生の手を見ての行動。
一瞬前までは何も持っていなかった。
一瞬前までは単に拳を握っているだけだった。
だが、
今はその両手を開いている。
今はその両手に持っている。
何やら、黒塗りの球体を。
東吾はそれを見た。
ゆえに足を止めた。
止めざるを得なかった。
この時点、亜生が手にしていた黒い球体をまともに目にしていたのは東吾のみ。
つまりは、それが何であるかを見定めることが出来たのも東吾のみ。
もちろん実体を知るのはその球体を取り出してみせた亜生だけだが、見てもいなければ予測も出来ない。
そういう意味でも実体を知り得たかは別にし、少なくともこれが何であるかを予想することが出来るのは東吾だけ。
だからこそ足を止めた。
何故なら、
東吾の目に見えた亜生の手中にある球体には、
導火線がついていたから。
それも、火のついた導火線が。
総合した見た目のみからするならば、それはまるで古いマンガの中にでも描かれているような爆弾の様。
これをどう判断するか。
本来ならば考慮にすら値しない。
日常、常識、現実といった観点からは。
何やらつまらぬ手品のひとつくらいと見てもおかしくはない。
しかし違う。
こと、この状況においては通用しない。
日常、常識、現実といった価値観は通らない。
これはゲーム。
悪魔が取り仕切る狂気のゲーム。
油断や決めつけで行動すれば、間違い無くそこが命取りになる。
結果、足を止めた。
まともに考えれば慎重すぎるほどの思慮によって。
が、そうした東吾の思惑など無視するように、亜生は自らの為すべきことを手早く実行する。
東吾が亜生の手にした球体を目にし、動きを止めたのとほぼ同時、
亜生は両手を振りかぶると、立ち止まった東吾に向けて黒い球体を投げつけた。
瞬間、
薄暗かった室内が、
閃光に包まれる。
眩く、目を焼かんばかりの強烈な閃耀。
重ねて、
凄まじい轟音と爆風。
転瞬、
辺りから視神経を射る光は失せ、変わって濃い灰色の光景が眼前を覆う。
正確には、その正体は煙。
爆発物の燃焼によって生じた硝煙と、砕け散った床石の細かな粉塵。
それらが質量と温度の低い火砕流の如く、東吾のいる部屋奥から反転するように亜生へ向け、畏怖さえ感じさせる勢いで文字通り、襲い掛かった。
途端、
飲みこまれる。
灰色の、貪欲な巨獣にでも捕食されたように。
鼓膜どころか、全身の骨すら軋むほどの爆発音。
視界をごっそりと奪う濃密な煙霧。
加えて、堅牢な石で出来た部屋もまた、烈震でも起きたように震えていた。
そんな状況の中、
まともに殴りつけるような形で吹き付けてくる爆風を正面から受けつつも、亜生は瞬きひとつせずに正面を見据え続ける。
まさしく人間離れした……というより、人間ではないからこその不動。
紛れも無く、悪魔。
そう思わせるに十分なまでの異常な沈着。
今しも頬の辺りをかすめ、飛んでゆく石の破片や、ともすれば直立した姿勢を保つだけでも苦労する部屋全体の揺れにも動じることなく、灰色の不透明な強風に髪をなぶられながら、ただその場に根を生やしたように立っていた。
これに対し、
人間である太知はそういうわけにはいかない。
ベイン・ペインの苦痛に耐えるだけで精一杯の状態だというのに、そこへさらに全身が痺れるような爆発の大音響。
次いで襲ってきた痛烈な耳鳴りに顔をしかめる暇すら無く、今度は地震のような激しい部屋の揺れに、屈み込んだ体勢が横倒しになるかと肝を冷やす。
もうこれだけでさえ、過剰なまでの災難は受けているにもかかわらず、おまけとばかり、煙と砂塵が乾いた台風にでも乗せられたように全身を打つ。
呼吸もままならない。
ただでさえ、痛みで呼吸が困難であったところに追い打ちの煙と砂塵。
目は開けられず、口の中は砂状になった床石が入り込んでジャリジャリと嫌な感触。
無理をして鼻から吸い込んだ空気は、欲していた酸素の含有量は極めて少ない、煤けて澱み切った代物で、およそ呼吸には適さなかった。
代わりに得られたものといえば、喉を焼き、傷める刺激物の感覚だけ。
絵に描いたような(泣きっ面に蜂)の展開。
自然、咳き込むことになった太知は、先ほどから長らく自分を苛んでいる激痛に合わせ、呼吸困難による酸素欠乏でふらつく頭を左右に振ると、細糸一本で辛うじて意識を保っている自分を感じながら、しばしぼんやりと宙空に目を泳がせる。
まるで、とうの昔に消え失せた思考力を懐かしむように。
すると、
「……聞こえてるか太知?」
静かに、
それでいて、つい今しがたの轟音で馬鹿になった耳にも届く声を発し、亜生が言う。
言われ、ふと気付く。
曇り果てて何も見えなくなっていた周囲の視界が、思いのほか早く晴れ始めているのを。
そこで、目を凝らしてみた。
次第に立ち込めていた灰煙は収まり出すと、まず目に入ってきたのは、床に這いつくばる自分の眼前へ立つ亜生の姿。
そしてその前方。
深く抉られたように破砕された部屋奥の広範な床石。
しかも、天井の一部までが小規模ながらも砕け散っている。
薄れゆく煙越しにこれらを見て、太知はこの爆発による破壊が如何に強力なものであったかを頭は動かぬなりに、おぼろげながらも理解した。
「思うに、そこまでヘロヘロになってちゃあ話を聞いてもろくに考えられやしないだろうが、とはいえあんたの回復を待っていられるほど、こっちものんびりできる状態じゃない。だから聞くだけ聞いていておくれ」
振り返りもせず、太知に背を向けたまま。
状況すら理解出来ない……いや、状況を理解するための頭が働かない太知へ、亜生はいつものマイペースで話を続ける。
ただし、
まだ煙の晴れ切らない部屋の奥へと視線を向けているその背中からは、表情を見ずとも伝わってくるほどの、強い緊張を漂わせている点だけは大きな相違だったが。
「ゲーム・キーパーの力は、ことゲーム参加者に対しては絶対的ともいえるほど強力だ。ゲームへの強制参加に始まり、自在に居場所を移動させたり、持っている力に制限をかけることも自由自在。まさにやりたい放題といってもいい」
亜生が話している間にも、徐々に視界を遮っていた深い煙霧が沈殿してゆき、明瞭さを取り戻されてゆく。
ただ、例外的に爆心地である東吾が立ち止まっていた周辺は発生源ということもあり、砂塵と硝煙の濃度はいまだ強い。
それでも、
わずかずつでも見えてくる。
見えてくるのだ。
「しかし、御存じの通りで何事にも抜け道はある。本来なら、ゲームの参加者となった時点で主導権はすべてゲーム・キーパーである私が握っているわけだが、そこから逃れる方途も確かに存在するのさ。言うなれば裏技……バグを利用した単純な不正……」
言葉が継がれる中、おぼろな意識の中で亜生の背中越しに見る爆心地の変化を、目敏くとらえていた。
思考は停止。
身動きも出来ない。
そんな状態でも、時とともに煙のカーテンからわずかずつ姿を現し始めた何かの影に、太知は目を疑う。
あれほどまでの爆発。
フィールドである部屋自体まで破壊しかねないレベルの爆発。
その攻撃をまともに受け、東吾が無事でいるとは到底、思えなかった。
もちろん、事前につぶやいていた亜生の言葉から、理由こそ知らないが、東吾にゲーム・キーパーの力が通用しなくなっているらしいとは分かっている。
ではあるが、
だからこそ亜生は直接的な力の行使でなく、間接的行使という小技を用いたのだろう。
爆発を起こした力はゲーム・キーパーによるものでも、それによって生じる爆風や飛散する瓦礫は二次的なもの。
いわば副産物。
それならゲーム・キーパーの力は通用せずとも、純粋な物理ダメージとして攻撃を加えられると考えるのはごく自然な思考だ。
シンプルゆえに真理。
ならばあの攻撃を受けた東吾は、とても無事に済んでいないはず。
爆発の規模からしても、悪くすれば死んでいようと不思議に思えない状況。
だのに、
太知の痛みは消えない。
ということは……。
「……私も甘かったよ。あの腐れ天使が姿を見せた以上……しかもそいつと東吾が関わったとなれば、悪巧みのひとつやふたつはしてて当然。ほんと……我ながら知恵足らずのこの身がうらめしいね……」
言って、亜生は背後に倒れる太知を振り返った。
実際の時間は大して経過していないのに、ひどく久しぶりに太知は亜生の顔を見た気がして、何やら妙な感覚を覚えたが、その理由は少しばかり複雑。
始めて見た表情であったための誤解。
想像すらしていなかった表情であったための誤解。
現実、考えてもいなかった。
亜生がこんな顔をしようとは。
それは、戸惑いすら感じさせるほど自嘲した表情。
その違和感が状態的にも正常でない太知の時間感覚さえ歪めたというのが実情。
なのであるが、
そこを払拭する暇も無く、亜生は再び前を向く。
思わず、つられて太知の視線を前方へと向けた。
その時、
偶然であると同時に必然として、太知は知る。
何故、東吾に亜生の力が通用しなかったのか。
何故、あれほど苛烈な攻撃を亜生が仕掛けたにもかかわらず、いまだ自分は苦痛にさいなまれているのか。
何故、亜生はついさっき、あんなにも自嘲と自己憐憫を織り交ぜたような、煩雑に過ぎる表情を浮かべていたのか。
後に多少の説明を亜生から受けることで話しの全容を補填する必要はあったものの、おおよそは嫌でも目に入ってきた光景で察しがついた。
未練がましく、煙の晴れ切らなかった部屋奥。
東吾の立っていたろう位置。
そこの煙がようやく薄れてきたところで、視認した光景。
当たり前だとは思っていたが、やはり東吾の姿はそこに無かった。
代わりに、
黒い……真っ黒な分厚い板状の何か。
サイズは縦が3メートル強。横は2メートル弱。
モノリスのような外観のそれは、よく見ると床から10センチほどの空中へ浮き、全体から熱を帯びたような煙を漂わせている。
これが何か。
一体、何なのか。
奇妙なくらい、太知には直感的に推測が出来た。
そして、
その推測は前述の通り、亜生によって完璧に補完された。
「あれが……ブラック・ラックさ……」
一言。
言ったのを太知が聞き、理解した頃合いを計り、亜生は続ける。
「本来だったら、あの力は明光が持っていたもの。それを、あのクソ天使は東吾に植え込みやがった。分かるかい? 通常はひとりにひとつしか持っていないはずの力を、あいつはふたつ持っている。ゲーム・キーパーの力が通じなかったのもこれが原因さね。力で参加者を特定するゲーム・キーパーの性質が裏目に出て、参加者がダブって認識されちまうんだよ。だから私の力も誤作動を起こし、東吾の力を制限できなかったというわけだ」
亜生がそこまで語ったのを確かめたかのように、視線だけは前へと向けたままにしていた太知の目は、黒く巨大な板状をした浮遊物の横から、ひょいと東吾が顔を覗かせたのを見た。
最悪な第一印象を裏切らぬ、最悪に不快な笑顔を湛えた横顔を。
無論、その様子は同じ方向を見ている亜生も目にしていただろう。
「こうなると、東吾はゲーム・キーパーの力で単純に無力化させることはできない。しかも、ベイン・ペインとブラック・ラック。精神攻撃と物理攻撃の二段構え。こうなったらもう私も手加減なんて悠長なことは言っていられない。というわけで太知、あんたにはひとつ覚悟しておいてもらわないといけなくなったね。このゲーム、間違い無く……」
ここまで、
途中まで話した亜生に向かい突然、件の黒い板状の浮遊物が急接近してくる。
刹那、
「確実に殺し合いになる!」
断定的宣言。
言い放ち、亜生はひりつくような緊迫感を背中にまとい、再び素早く身構えた。




