あらかじめ失われた日常 (5)
「私が天使に襲われ、力を砕かれて被った被害は多々あるが、特に大きいのは、最後に残った力がどうにも、使い勝手の悪い力だったってことだよ」
「それは……ゲーム・キーパーとかって力のことか?」
「まさしく」
おどけたような……それでいて、どこか陰りのある表情をし、亜生は答える。
「ほんとに、難儀なことこの上なしさ。私の力を何人かの人間が拾っちまっただけでも問題だっていうのに、加えて私のとれる対策も大きく限られちまった。他の力と違い、ゲーム・キーパーはその力の効果範囲がゲーム参加者に限られる。言ってしまえば今の私は、悪魔としては切ないほどに無力なんだよ」
「それでも、人をだまくらかしてゲームに参加させるくらいはできるんじゃないか」
「逆に言うと、それすらできなかったら、ひどく悲惨なことになってたろうね。想像するだに楽しくない」
「自分は無力な悪魔のまま、拾われた力を好き勝手、人間に使われる状況がか?」
ここまで細々と亜生にされてきた嫌がらせに対する仕返しの意味合いもあったろうか。
太知は、自分でもなんだか意地の悪い口調で、亜生にそう聞いてみせた。
しかし、
亜生の返答から、彼女の思いは太知の考えていたものとは、まったくもって異なるものだと、すぐに知ることとなる。
「確かにそれも大問題だな。私の力は一部とはいえ、人間が使うには強力過ぎる。ろくなことに使われない可能性が高い。過去の例から見ても、人間は悪魔から得た力で大抵、不幸しか起こしていないしね。特にひどいのは人間同士の殺し合いさ。同類嫌悪なんてえ言葉があるが、人間はまさしく、それの塊のようなところがある。神と人間が共通しているところは、人間を殺すのがたまらなく好きなんじゃないかってところだよ」
気掛かりな事柄の相違。
てっきり、自分の力を取り戻せないことに弱っているのかと思ったが、心配していたのは自分の力が悪用されることに対するものだった。
悪魔のくせに人間の行動を心配するとは、なんとも拍子抜けする。
「太知、あんたのような特別な例外を除いて、大抵の人間ていうのは欲深い。一度、力を得たらそれを手放そうなんて思わないのが普通さ。となると、私の力が人間に対して不幸な結果を招くのはまず疑いが無い。それを回避するため、私は今の自分が出来る範囲での方途を尽くしたつもりだ。結果として、あんたには相当の負担を強いることになるだろうが、人の命がかかってる以上、あんたも今さら、嫌だとは言わないだろう」
「人の命が、かかってる……?」
「ゲーム・キーパーも、あんたのフェイト・ヘイトも、どちらかといえば私の力の中ではあまり好戦的でない力さ。だけど都合の悪いことに、他の力はほとんどが直接、人の命を奪えるような力。そして経験上、人間てのは自分の手を直接に汚さず人を殺せるとなると、やたら積極的に殺す傾向がある。私の力を使って殺人を犯すやつが出てこないのが逆に不思議。というより、すでに犠牲者は出てる」
「……!」
亜生の言葉に、太知はショックのせいで一瞬、間を空けてしまった。
犠牲者がもう出てる?
犠牲者って……?
「……おい待てよ……その、犠牲者っていうのは、つまり……」
「死人が出てるって言ったほうが分かりやすいかい?」
これにもまた改めて、太知は言葉を失う。
疑問が確信に変わったショックもまた、ひどく大きかったのが原因である。
それでも亜生の様子に変わりは無い。
死人が出ている事実を語りながらも、どこか平然とした調子で続けた。
「何も驚くほどのことじゃないだろ? さっきも言った通り、あんたら人間たちときたら手軽に人が殺せるとなると殺さずにいられないやつばっかりさ。まあ、私の経験上って限定はつくけど、それにしても人間ていう連中の殺したがりっぷりときたら、私でも辟易するよ。その点を考えるに、現時点では被害者はまだふたりしか出ちゃいない。ただのふたりっきりしか死んでないんだ。これは運が良いというべきじゃないかい?」
「どこがだよっ!」
口と一緒に体もしばらく動かなくなっていた太知だったが、亜生のこの軽口にはさすがに憤慨して、急な怒鳴り声を上げる。
「大体から、この騒ぎの元になったのは全部、お前なんだろ! だったらなんで、そのふたりとかっていうのが殺されるのを黙って見てやがったんだよっ!」
怒りに任せた怒声。
声でもって、亜生のことを殴りつけるような勢いで太知は言った。
それほどに腹が立っていた。
人の命に対する、亜生の無思慮が。
軽薄さが。
だから大声で怒鳴り散らした。
しかし、
意外。
亜生の反応。
気にもせず、聞き流されると思った。
それなのに……、
悲しそうな顔をした。
何が理由でかまでは、その時点では分からなかった。
ただ、
悲しそうな顔をしたのだけが、はっきりと目に映る。
眉を寄せ、目を細め、下手をすると今にも泣きそうな顔をして。
それから、
少し間を置き、亜生は答えた。
「……確かに……」
声音も弱々しい、落ち込んだような一言を始まりに。
「助けられなかったのは私のミスだ。それは間違い無い。もっと早く私の力が、あんたらの中に入り込んじまったことに気付いていれば、死人なんぞ出さずに済んだろう。けど、間に合わなかったんだよ。知った時には、もうそいつはふたり殺してた。今は私の力を取り込んじまった連中全員、ゲームに参加させてるから、ゲーム・キーパーの力で殺しは止められる。けど、そのふたりは……間に合わなかったんだ……」
ここに至って、
太知は亜生の奇妙な性質を知った。
亜生は自分を悪魔だと名乗っている。
そしてそれは多分、真実だろう。
だが、
イメージしていた悪魔というものとはどうも、亜生は噛み合わないところがある。
人の命など、何とも思わない。
必要なら直接的、間接的に関わらず、人など平気で殺す。
そういったイメージに、亜生は重ならない。
少なくとも見聞きしている雰囲気を信じるなら、彼女は本気で死んでしまったふたりの人間のことについて後悔をしている。
もちろん、これが悪魔一流の騙しのテクニックで無いという保証は無い。
が、不思議と太知はそう思えなかった。
自分でも妙に感じるほど、亜生の態度に一片の疑念も浮かばなかったのである。
こうなってしまうと、太知も自分の態度が定められずに困惑した。
本気で怒りをぶつけられるのも、相手が血も涙も無い悪魔だという前提あればこそ。
そこのところが、こうも疑わしくなってしまうと、どうも具合が悪い。
抜いた怒りの刃はどこに収めたものかと迷いつつ、仕方なく太知は、悲しげに目を伏せている亜生に、明らかに戸惑った声で問うてみた。
「その……言い様からすると、殺された人たちに関しては、もし助けられるものだったなら、助けたかったとお前は思っていると解釈していいのか……?」
「……言わずもがな、だろ?」
この答えを聞き、太知は溜め息ひとつと同時に腹をくくった。
そして言う。
「なら、ひとつ俺と約束しろ」
「なんだい?」
「乗りかかった船って言葉もある。お前の言う通り、俺はすでにお前が言うところのゲームとやらに乗っちまった。だが俺はルールとやらには従っても、自分自身の意思には反するつもりは無い。だから、これだけははっきりさせておく。俺がどういう形でそのゲームへ関わるのにせよ、最優先するのは人の命だ。人を死なせないこと、人を殺さないこと、殺させないことをすべてに優先させて行動する。それを了承するという条件を呑むなら、お前の下らないゲームに本気で付き合ってやる」
有無を言わせない、真剣な表情と口調。
真っ直ぐな視線。
そんな太知の態度を見て、亜生は先ほどまでの陰りがある顔を変化させる。
苦笑いのような表情。
そうして、これもきっぱりした口調で答えた。
「その約束についても言わずもがな、だよ。私も始めから、あんたたち人間の無事を最優先に動いていたつもりだ。それはこれからも変わらないし、変える気も無い。ただし……」
「……ただし?」
「私は人の命は平等と捉えていない。命の価値を天秤にかけ、もしどうしても誰か死なせなければ納まらない状況になった場合、私は価値の低い命は見捨てる。そこさえ同意してくれるのなら、あんたの出した条件を呑もう」
太知のしたものと比べても、遜色無いほどに断固たる態度と言葉。
だけに、
太知は眉をひそめると、加えてさらに亜生の言った内容について詳しい説明を求めた。
話すほどに増えてゆく質問に、自身でも辟易しつつも。
「……さすがに……ここまで話したからには、ハナからお前の言い分を否定はしないよ。ひとまずはその真意を聞こう。一体どういう基準でもって、人の命に優劣をつける? また、死なせなければならない場面てのは、具体的にどういう状況だ?」
「分かりやすく言うなら、殺しをするやつは基本的に価値が低い。殺すほどに、そいつの価値は下がってゆく。考えてもみれば分かると思うが、こっちが助けようとしているそばから、殺して回るようなやつを、助ける必要性は見い出せない。というより、そいつを殺さなければ、さらに多くの命が奪われるのは明白だろう。つまりは他者を生かすためにおこなう殺人だよ。例えば、ふたり殺すつもりのやつを殺せば、ひとり分の命がプラス収支になる。対して、そいつを生かしておけば、最低でもひとり分のマイナス収支さ。加え、将来的にはさらに多くの命を奪う危険性もあるわけだ。目に見えているマイナス要因は削除する。この点については納得してもらえないと、いざという時に重大な決断ができなくなるかもしれない。私の危惧はそこだけさ」
流れるように理路整然と、亜生は言った。
あまりに無機質な話しぶりに、太知が少なからず呆然とするほど。
確かに、
言っていること自体は筋が通っている。
道徳とか、常識的観念に照らせば納得しかねるかもしれない。
が、内容自体は至って正常だ。
太知も常々、思っていた。
何故、殺人者と一般人の命が平等なのかと。
殺人を犯す事情は色々ある。
とはいえ、どんな理由があろうと殺しをした人間と、それ以外の人間の命が平等なわけがないのだ。
というより、平等であってはいけない。
昔の言葉に(大の虫を生かして、小の虫を殺す)というのがある。
理屈はそれと同じだ。
命の価値を理解出来ないやつを生かすより、命の価値を理解している人間を生かすのは当然のことだろう。
ただ、不思議な道徳観が蔓延する現代では、誰も声高に言わないだけだ。
文明的と言われる国ほど、人道主義などとほざいて、殺人者の権利を保護する傾向が強い。
では殺された者の権利はどこだ?
殺した人間を殺しても、殺された人間は生き返らないからどうした?
そうじゃない。
物事には(けじめ)が必要なのだ。
罪に対する正当な罰。
だが、ここで問題が発生する。
話の流れからして、
すでにふたりの人間を殺しているやつというのは、ゲームの参加者だ。
ということは、
それと自分は戦うことになるかもしれない。
いや、可能性はすこぶる高い。
その場合、そいつを自分が殺すのか?
となると、やはり考えてしまう。
殺す覚悟は正直、出来ていない。
相手がたとえ殺人者だとしても、それを殺せば自分も殺人者になる。
誰かを殺した者は、誰かに殺されることを覚悟する必要がある。
いくらなんでも、太知にはそこまでの覚悟は無かった。
死ぬかもしれないというリスクも十分に重荷だが、それに加えて、殺人者として不名誉な死を迎えることにも抵抗が大きい。
死への純粋な恐怖。
殺人者となる恐怖。
双方が絡まり合い、感情を隠しきれず、太知の額を冷や汗が流れた。
すると、
知らぬ間に接近していた亜生の手が、ふと太知の額に触れる。
一瞬、急なことに身を跳ねそうになった太知の額を、それでも亜生はゆっくりと指で拭うようにし、その汗を掬い取って言った。
息がかかるほど、顔を近づけた状態で。
「その様子からして、私の提案に対してよりも殺しについての抵抗が強いようだね太知。けどそこは心配いらないよ。そういった重たい始末は私がする。人間のあんたにそこまで多くを強いるつもりは無い。あんたの言う通り、元を辿れば今回のことはすべて私の責任だ。必要な時には必要なことをする。それが私の役目だと分かってる。だからあんたは、ゲームに専念しておくれ。お互いにとって、そうするのがベストだろうからね」
ささやくように、耳元にまで近づけた口で亜生はそう言うと、太知の耳元でペロリと汗のついた指を舐めた。
表現し難い、渾然とした気分が太知の胸に込み上げる。
吐き気もあった。
が、妙な興奮も覚えた。
拭い取られた自分の汗を舐められる気分。
想像もしていなかったし、味わうとも思っていなかった気分。
至近距離のため、はっきり見えたわけではないが、亜生の白い指が赤い舌先になぞられるのを見た時の感覚は、複雑怪奇としか言い表せない。
その混乱にも似た意識の中、
太知の耳元で再び、亜生の声が響く。
「では、長いおしゃべりは一旦ここで終わりとしようか。案ずるよりも生むが易しだ。ゲームをそろそろ始めよう」
言われた声とともに、吐息が太知を耳をくすぐった。
途端、
平衡感覚が乱れる。
意識はしっかりとしているが、足元がグニャリと沈み込むような感覚。
「おい、ちょっと待てよ! 俺はまだ心の準備が……」
「そんなもの、いくら時間をかけたって出来るわけが無いさ。いい加減で腹を決めな。何度も言ったろう。あんたはもう首を突っ込んじまった。ゲームはもう止められない。実際に始める以外、覚悟なんてしようが無いんだよ。強引にでも始めるより無いんだ。覚悟はゲームの中ですればいい。大丈夫、私はずっとあんたと一緒にいる。とにかくあんたは生き延びることに集中しな」
その言葉からすぐに、
視界に変化が起きた。
自分がフェイト・ヘイトを使った時と似た景色の変化。
歪むように周囲の色彩が急激に変化したと思うや、
またしても見慣れぬ場所が姿を現す。
それはまるで、
まさしくゲームの世界で場面が転換するような、不思議な世界の変質だった。




