第二章 主と従と(2)
ヨーロッパ、西アジア地域を中心とする傭兵派遣で財を成す企業、ブラッドストーン社。表向きは傭兵派遣業務が利益の大半だとされているが、その実、マフィア等の裏組織から依頼され行う非合法な活動の方が基幹業務と言って差し支えなかった。
マフィアの経営する農場の監視警備から密輸入、暗殺、営利誘拐とその業務内容は多岐に渡り、裏社会への貢献度は計り知れない。
帯刀は当時、その企業において二十五という若さで大尉級、分隊長を任されるほどの人材であった。如何なる任務であろうと微笑みを絶やすことなく冷静沈着に遂行する彼は、内外問わず『道化』と揶揄され隠れた畏怖の対象だった。
仕事であれば老若男女一切を差別することなく、平等に死を運ぶ。いかにも模範的な職業軍人である。しかしそういった忠実な面だけではなく、リスクマネージメント能力こそが帯刀の持ち味であり、そこが企業に高く買われていた。
階級のワリに率いる部隊は十人程度と規模が小さいが、帯刀が率いる特殊機構分隊は存在そのものが異端と呼べる、暗殺やゲリラ戦を得意とする一級戦闘員のみで構成されており、企業の暗部を支えると言って過言ではなかった。
「隊長、本社からですよ」
焼けつくような日差しが降り注ぐ季節、八月。フランス──パリ郊外のスラムと呼ばれる街に彼とその分隊は滞在していた。
とても上等とは言えないアパートメントの一室、果物が山ほど詰め込まれた紙袋を抱えた男が、一通の茶封筒を帯刀に差し出した。ソファに腰掛けたまま黙ってそれを受け取る帯刀の表情は、微笑みなど到底似合わぬ、氷の彫像のような冷え切った白面だった。
封を切り中を確認すると、書面にクリップで留められた写真に素っ気なく、『誘拐案件』と記されていた。そこにはカメラに向かって元気よくピースをする日本人の少女が写っている。八歳を迎えたばかりの、幼き日の瑠璃姫だった。
「張り合いないのが回ってきましたね」
「……」
帯刀の部下、あまり傭兵稼業が似合うとは言えない痩せぎすな男がリンゴを齧りながらボヤく。そして男の言う通り、帯刀にとってもいまさら何の感慨も湧かないつまらない仕事の一つでしかなかった。
だが書面に記載された報酬に関する項目には、彼らの半年分に相当する法外なサラリーが記されており、それは分隊を歓喜させるに足るものだった。傍らにいる男は飄々(ひょうひょう)とした様子で口内の果実を嚥下し、冷やかすように口笛を鳴らしている。
彼女に関する記述はこうだ。日本を代表する五稜と呼ばれる大財閥の一つ、水那上家の息女。現在付いている護衛の規模は三人の雇われSPのみ。そして詳細は不明であるが、家出中であるという情報が付与されている。
全く暢気なものだと、平和な国に生まれるとこうも危機感がなくなるものなのかと、帯刀は内心呆れていた。しかし背後にある財閥の権力は甚大。仮に失敗でもしようものなら報復は覚悟しなければならないが、標的の戦力から見てもその可能性は限りなくゼロに近いものだった。
「出ている奴らを呼び戻せ。今日中に現場に入る」
その言葉で空気が一変する。帯刀の顔には道化と呼ばれる所以、微笑みという仮面が姿を現し、傍らにいた男の締まりのない顔は対照に、戦士のそれとなっていた。
▼
「問題です」
もったいぶるように微笑み、
「この後我々はどうなったでしょうか?」
不思議な質問を投げ掛ける。『我々は』と言っている時点で答えは出ていると思うが、彼の遊びに付き合うとしよう。
「失敗したんでしょう?」
たった今聞かされたばかりの、過去の帯刀さんとは別人としか思えない温度のある表情を携えて、頷きを返してきた。しかしながらかつて傭兵だったということを除いて、一聴した限りでは信じがたい。
「正解です。こちらはたった一人の標的に対し十人体制、それでなくとも相手の戦力はゼロに等しい。護衛とは名ばかりの、包囲されたことにも気付かぬお粗末な連中でした」
「……」
「フフ……、納得いかない、という顔ですね」
喉の奥から苦笑を漏らしながら、彼は私の顔を眺めていた。
何かしらタネはあるのだろう。帯刀さんがお粗末な連中、と言っている以上本当にそうであっただろうから、護衛が実は凄腕でしたという展開も考えられない。しかしながら結果は真逆であり、そこには意味が存在するように思えた。
▼
『隊長、包囲完了しました』
イヤホンから流れてきた部下の声には答えず、帯刀は両脇に控えた二人に目で合図をしていた。
標的はあっさりと包囲されていた。フランス南部の港町に宿泊しているという情報を受け、翌朝ホテルから出てきた標的を今までずっと尾行していた。
太陽がそろそろ天頂を目指そうかという時刻、路地裏の寂れたリストランテ。
それは市場が近いというのに、漁師ですら通りがかることも稀な裏通りに居を構えていた。分隊にとって絶好のロケーションを提供してくれた店の裏口は、既に帯刀の部下が張り付いている。
表口の向かい側、幌を張った軽トラックの中で帯刀を含めた傭兵が数名、今か今かと息を潜ませていた。
標的の護衛と思しき屈強そうなスーツ姿の男が三人、それぞれ入り口と標的の脇に構えている。傍から見ればそれだけで威圧感のある風景だが、分隊の錬度と比べると溜息を吐きたくなるほどの素人だ。
『予想以上に呆気ないですね』
「無駄口を叩くな。失敗は許されない」
静かに警告を与える。帯刀としてもつくづく同じ意見ではあったが、どんなアクシデントが起きないとも限らない。相応の注意と対策は講じているが、予期できないことが起き得るからこそアクシデントというものだろう、と自戒する。
帯刀は一瞬罠かとも考えた。要人という意識がないだけの子供だとも思えるが、護衛を雇うあたりそれなりに自分の立場を自覚しているのだろう。しかしながら罠を張るメリットも、自分を餌にするリスクも、また誰ともわからない相手を想定して、などの理由を加味すると愚策としか言えない。第一伏兵の存在の一切が確認できないことも、その可能性を否定している。
「店内は標的に加えて護衛三名、それと女が一名。閃光手榴弾を使用後制圧、標的を回収した後即時離脱する」
イヤホンから声は届かず、マイクをこつんと叩いた音だけが聞こえる。
店に目を向ける。雪のように白い長髪を一つに束ねた美女が、標的と談笑していた。おそらくは店主だろう。巻き添えを食わせることに同情はしない。標的を狙う絶好の機会を逃すつもりは、帯刀にはなかった。
タイミングを計る。車内に六名、裏手に四名。
軽トラックが移動を開始し店の正面を通り過ぎようとした時、幌から一斉に飛び出す。
一瞬で決着は付いた。ほんの少し扉を開き投げ入れるだけ。耳を塞いでいても耳鳴りがするほどの破裂音と、日の光をも染め上げる白光が店内を埋め尽くす。
「GO!」
扉を蹴破り全員が一気に突入し、標的へと向けて走る。
──はずだった。
「標的が……いない?」
疑問がすぐに警戒へと変わる。自らの体を掻き抱き、床に蹲っているのは護衛の三名。足りないのは標的と、もう一人。
「ガッ、ハァッ……」
気付いた時には遅かった。聞こえてきたのは先に突入した部下の苦悶の声。状況に理解がついていかない。
しかし疑いようもない事実が帯刀に突きつけられていた。今まさに倒れようとしているのは間違いなく帯刀の部下であり、その光景を成したのは女。白い長髪を靡かせ、残像は流れる白光となって四人の傭兵を一息に叩き伏せる。
帯刀の脳裏には店の女主人の顔が浮かんでいた。
「クソッ!」
躊躇いなく引き金を引き、打ち続ける。しっかりとグリップされたデザートイーグルが大口径の破壊力を見せ付けるが、一発として掠りもしない。
残る六人が間断なく奏でる発砲音が店内に響き渡る。しかし空しくもテーブルや椅子、食器を壊すばかりで、その勢いはどんどんと衰えていく。巻き上げられた埃が煙と化し視界を狭めていった。
『ウワアアァァァッ!』
白光が閃く度に次々に倒れていく部下達。恐怖に染まった悲鳴。目で追いきれない。銃弾が掠りもしない。そんな相手がいるなど想像もつかない。人間かどうかすら怪しい。悪魔の所業。そんなとりとめの無い思考の断片が錯綜する。
「嘘……だろう……」
煙が晴れた頃には、予想だにしなかった惨状が眼前に広がっていた。白目を剥いて倒れる部下達、流れ弾を受け呻き声を上げる護衛。一分とかからず全滅。そして、ようやくその姿をはっきりと確認させた白い髪の悪魔が、目の前にいた。
「君が指揮官みたいだね」
薄く色づいた唇から発せられた声は突き刺すような鋭さで、体を芯から凍えさせる冷気を含んでいた。幻想を思わせる美しさを誇る女を前にして、しかし想起させられる言葉は絶望を伴うもの。
帯刀は気付いていなかった。何度も引き金を引いているのに何一つ撃ち出していないことを。スライドが開いていることにも気付けず、弾装を替えるのも忘れ、一心不乱に人差し指に力を籠めていた。
ゆっくりと女が近づく。足音が鳴る度に、帯刀はビクリと震えを強くする。
これまで如何なる戦場においても恐怖という感情を抱いたことのなかった帯刀は、今初めて感じる情動が一体なんであるのか理解できなかった。
そうして自分を追い詰める感情にも気付くことができないまま、それは帯刀を暴挙とも蛮勇とも言える行動に駆り立てる。
「アアアアアァァッ!」
悲鳴にも似た叫びを上げ、銃を投げ捨てナイフを手に取る。
「愚かだね」
煌くナイフの軌跡は確実に女を捕えていたはずで、しかし空を切る。何度も何度も繰り返し、それでも女の肌は白く美しいまま。全ての攻撃が紙一重で避けられている。
「懲りないなあ」
女が退屈そうに溜息を吐いたその時、激しい痺れとともに帯刀はナイフを落とし、吹き飛ばされていた。手刀一閃、そして掌打。意識を失いそうな衝撃の中、それを留めたのは新たな衝撃。背中を激しく壁に打ちつけ、朧気ながらもかろうじて意識を保つ。
「目的はあのお嬢ちゃんか、いけ好かないな」
「ア……アァ……」
怖い。今抱えているのは間違えようのない恐怖だと確信した時には、何もかもが遅かった。それは帯刀の神経を貪り、涙を溢れさせ、止まらない震えを誘う。
盲目の女。その瞳は決して光を宿すことのない、灰色の瞳。
目の前の女の手は槍のように鋭い貫手へと変わり、帯刀の喉を貫こうとしていた。
しかし、本来描いていた結末とは違う終わりを迎えようとしたその時、鈍く軋む音を伴って瑠璃姫が床下から這い出てきていた。
帯刀の前へと歩み寄った瑠璃姫は、女の前に立ちはだかり言い放つ。
「いじめちゃダメ」
しっかりと女の目を見据えて言い放った瑠璃姫は振り返り、帯刀を抱きしめた。まるで赤子をあやすかのようなその抱擁に、帯刀はただ放心し、安堵し、涙していた。
「いいのかい? こいつらは君を狙って来たんだろう?」
「だって泣いてるし……、可哀相じゃない。弱い者イジメはいけないのよ?」
瑠璃姫は困ったような表情を見せ、しかしすぐに笑顔を見せる。
知ってか知らずか、己の誘拐未遂犯を可哀相の一言で片付け、あまつさえ弱者呼ばわりをしていた。
能面のように無表情だった女の顔が破顔する。
「クッ、ククッ、ハハハッ、なかなかの大物だね君は、フフ……」
「ホラ、もう泣かないの。いい子、いい子」
本来なら屈辱を感じていただろう。しかし帯刀は、どうしてもそんな気になれなかった。年端もいかない子供の胸に抱かれながら、安心している自分に驚いていた。
完全な敗北を悟り、そうして見上げた天使と悪魔の笑顔。どんな絵画よりも輝きに満ちたその光景を忘れまいと、帯刀はただそれを見続けていた。




