第一章 名前と職業と(4)
ここはどうやら水那上家が所有している船舶係留のためのマリーナらしい。
昨晩から交代制で航行していたクルーザーは予定を少々過ぎたおやつ時に帰港した。
私はホッと胸を撫で下ろしている。なぜならようやく足が平穏を取り戻し、その役割を全うするべく地上に帰還を果たしたからだ。
バカ正直に喰らい続けることもなかったのだが、避けると更に勢いが増すのでほどほどのところで妥協した。おかげで医師には頭以外も見てもらうことになるかもしれない。
しかし先ほどから帯刀さんの姿が見えない。こちらはむしろそのままいなくなって欲しいのだがお嬢もいない。いるのはセカセカと働く黒スーツ達、そしてポツリと残された私。
流石に帯刀さんがいなければどうにも行動に移せないので、手伝いをしながらこうして待っているというわけだ。
荷物は少なく全て運び終えたようで、黒スーツ達も一休みしている。しかしなにか様子がおかしい。これはもしかして嵐の前の静けさという奴だろうか。
どこかピリピリと張り詰めたような空気が周囲を支配している中、私は自分の感覚が間違っていなかったことに気付き、遅まきながら水那上家に関わってしまったことを後悔した。
──ああ、私は決して幸運などではなかったのだな。
突如として吹きつけた一陣の風と爆音。それが始まりだった。
マリーナの入り口から濛々と熱を伴った煙が巻き起こる。けたたましいエンジン音。
黒煙を拭うように突然何台もの車が猛スピードで突っ込んできた。それも私目掛けてだ。正確には私の後方、クルーザーに向けてだろうが。
運転手のいないワンボックス。フロントガラスの奥には多数のダイナマイトが確認できた。足がヒリヒリと痛みを主張しているので残念なことに夢ではないだろう。
「なんだこれはッ!」
「旦那! こっちこっち!」
黒スーツの一人が私をマンホールの下へと手招きしている。
迷っている暇はない。即座に行動に移り滑り込む。
梯子は無視して落ちるとそこは地下通路だった。下水道ではないようで、おそらく隠し通路という奴だろう。抜け目がない。
黒スーツに続いて走ろうとした直後、足下がおぼつかなくなるほどの振動と、私の頭痛を膨らませる爆発音が上部から聞こえる。
ここは崩れたりしないかと不安になるが仕方なしに狭く暗い道を黒スーツとともに走る、昇る、また走る。裸足で。
それは短い行程だった。すぐに出口へと到達し、ドアを開けたそこはマリーナの埠頭から少し離れた建物の中。マリーナ到着からまだ三十分も経ってないのにコレか、とか色々言いたいことはあるが船は無事かと港へ目を向ける。
……が。
無事どころの話ではなかった。一瞬言葉に詰まる、というか言葉が出てこない。
なぜか船首に搭載されたアヴェンジャーがその猛威を奮っている真っ最中だ。どこかに格納してあったのか、左右に開かれた船首部分から顔を出している。大体あれは航空機搭載型のガトリング砲のはずで、今では生産もされていない。おまけに側面からはファランクスが出現し、防空体勢もばっちりだった。巡洋艦の名は伊達ではないらしい。
あれは最早、戦闘艦だ。
私に余計な兵器の知識があることなど今はどうでもいい。現状を説明させて頂こう。
船に向けて突撃したはずのワンボックスは衝突手前の路上で炎上中。アヴェンジャーの洗礼を受けて跡形もなくなっていた。
出力の高い航空機ならともかく、もしも船がしっかりと係留固定されていなければそのまま海に向かって進んでいってしまうか、小型艇ならば簡単にひっくり返ってしまうほどの反動を持つ三十ミリ機関砲。対戦車が主要目的と言えばその威力のほどはわかるだろう。
未だ戦闘は継続しているようだ。しかし海岸沿いを走っているため船の近辺しか見て取れない。
発射音とは言えない連続音が断続的に響き渡る。十秒で千発を打ち尽くす機関砲をあれだけ打ち続けるとは一体どれだけの弾丸を積んでいたのだろうか。劣化ウランではなくタングステン製であることを、水那上家が環境に優しいことを願いつつ我々も戦場を後にするため走り出した。
「いったいこれはどういうことだ?」
疑問を口にするのが遅すぎた。黒スーツは必死に走りながら答える。
「あの手口はまず間違いなく蒼一郎様でしょうね」
「蒼一郎?」
よくわからないが敵は判明しているということか。帯刀さんの安否が気に掛かるところだが、あの船に負ける要素は感じられない。最新鋭とは言えない装備だがダイナマイトを積んだ程度の一般車両の神風特攻では何台あっても塵に等しい。
「蒼一郎とは何者だ」
おそらくは対立する家同士の抗争かなにかだと推測できるのだが、いくらなんでもこれはやり過ぎだろう。だが返ってきた答えは私の予想の遥か上空でニッコリと微笑んでいた。
「お嬢様のお兄様です」
何度目の眩暈だろうか。引っ掛け問題ではないので冒頭から読み直すのはお勧めできない。
血を分けた兄妹でこんな争いをするとはどういう家訓をしているのかと興味すら湧いてくるが、言われてみれば『様』を付けて呼んでいた時点である程度のことは察するべきだった。
しかしよくよく考えるとなるほど、と思わせる。彼女の護衛の仕組みを知っていればこそ、海上での戦闘は避けたというところだろう。
衛星監視という網をすり抜けるには海上では障害が少なすぎる。その点地上であればなにかと誤魔化しやすいだろう。水際を攻めるという点も理に適っている。
「そして我々は囮の囮、ということになりますね」
その言葉で私が今置かれている状況を苦悩とともに理解した。それはつまり、
「──伏せろっ!」
こうした危険に晒される立場というわけだ。風を切る音が一行の頭上を通り過ぎる。推測するまでもなく狙撃手だろう。
彼らも流石というべきか、私の一言に即座に対応し物影へと身を潜める。お嬢の護衛に付いているのは伊達ではないらしい。
「怖っ!」
「今のなに!? ねえ今のなに!?」
気になる言葉が色々と聞こえた気がするが今は忘れよう。とにかく涙目になっている彼らが頼りにならないということだけはわかった。
盾となる遮蔽物が少ないこの場所で狙撃手とは厄介この上ない。周囲の状況を確認する。
係留地点付近は各種施設があるため比較的遮蔽物が多い。だが私が地下通路から抜けて出てきたのはその外れにある小さな休憩所。そこから目的地と思われる格納庫までは一本道、というより遥か向こうが見渡せるほど拓けた滑走路だ。片側は広大な海が広がっているがのんびり泳いでいる内に追い詰められるだろう。
私や黒スーツ達の身をかろうじて守っているのは、ジャンボ機用タラップだ。こんなものを必要とするような航空機まで所有しているのか、と感心している余裕はもちろんなかった。
「こここりゃあ蒼一郎様も本腰入れてきたみたいですね、そそ狙撃手なんか用意しちゃって」
平静を装いながらそう言ってくれるが、どうやら本気らしい。これは困った。
ここから格納庫までは約三百メートル。三キロはあるだろう滑走路の端から端まで走ることと比べたら遥かにマシに思えるが、狙撃手にとって狙いをつけるには十分すぎる距離だ。
こちらにはそれに対抗できる装備もなさそうで、どうしたものかと思案していると黒スーツの一人がヘッドセットで通信を始めた。同時にアヴェンジャーの砲音が止み、代わりに鼓膜を刺激するのは空気を切り裂くローターの回転音。
──コブラ。船首に鎮座する機関砲から聞こえていた轟音はその主を替え、上空から放たれる鉛の雨へと変わる。雨音などと生易しいものではないそれは爆発音を伴い、標的である車両ごとコンクリートを抉り穿つ。
そしてクルーザー上空で猛威を振るうそれとは別のヘリが甲板に降り立っていた。なにかを回収しこちらへと向かうその砲手席には砲手の膝の上に乗ったお嬢と、ランディングギアに足を乗せて笑顔で手を振っている帯刀さんがいた。まるで戦争映画の主人公のようだ。
喧しい、うるさい、騒がしい、どう形容しても心地良いとは思えない音に包まれる中、帯刀さんが私と黒スーツの下へと飛び降りる。およそ十メートルはあったと思うが足は大丈夫だろうか?
「お待たせしました」
彼は全く問題ないというような微笑みを見せ、私の心配が杞憂だったことを知る。
が、こんな予想外もいいところな波乱に激しく抗議したい気持ちが沸々と込み上げてくる。しかしながらそれも叶う状況ではないと、納得はしていないが理解はしているので今はやめておくとしよう。
どうやらすっかり逃げ場をなくしてしまったらしいしな。
わざわざタラップから顔を出すまでもなく、敵が距離を詰めているのがわかる。狙撃手はあくまでこのための時間稼ぎだったのだろう。コブラがそのまま遊弋していてくれれば警戒を促せたのだろうが、あっさり私達を見捨てて彼方へ行ってしまった。
「さて……、どうしたものでしょうか」
帯刀さんは全く危機感というものが感じられない物言いで、タラップの脇から周囲の様子をうかがっている。
コブラの援護が全く期待出来ないとなると、正直手詰まりのように思えてくる。未だ迫り来る神風ワンボックスの処理にかかりきりなのだろうが、少しくらい手助けしてくれてもいいんじゃないかと愚痴をこぼしたくなる。去っていく間際、砲手席にチラリと見えたお嬢の嘲笑を浮かべたドヤ顔が網膜に焼き付いていた。
まあそんなことはどうでもいい。今は我々の身の安全が第一で、今度お嬢に生きて会うことがあれば、その貧相な身体的特徴を私の持つあらゆるボキャブラリーを駆使して表現してやろう、などとは微塵も思っていない。もし死んだ場合は化けて出た上で更に貧相になるように呪いでもかけてやろう、とも思っていない。
しかしこんな状況のワリに私も随分と落ち着いたものだった。心臓の鼓動も平静を保っており、呼吸も乱れていない。まるで危機だと感じていないのは私も同じらしい。
争い事に縁があったのだろうかと思わせる。不思議と感覚は鋭敏に研ぎ澄まされ、目を閉じていても、周囲に展開する兵士達の肩が上下するさままで知覚できるほどだった。
それはまるで、世界そのものを感じ取っているかのような、流れを読み取る感覚。
「心配はなさそうですね」
私を見てそう述べる彼は、まるで予想通りだとでも言いたげだった。
「まあなんとか。できればアレに乗って撤退したい気分ですが」
「コンパクトなお嬢様はともかく、流石に定員オーバーですね。それにお嬢様は敵前逃亡を善しとしません。迎撃あるのみ、との仰せですしね」
帯刀さんは楽しそうにそう告げて、相も変わらぬ菩薩の笑みを浮かべたまま私に拳銃を手渡してきた。笑顔でやり取りできる内容ではない気がするが、もはやどこに突っ込めばいいのかわからなくなっていた。
とりあえず常識を無視することにして、ブツを確認してみる。差し出されたのはデザートイーグル50AE、世界最高威力を誇る大口径の拳銃である。彼専用にカスタマイズされているのか、グリップに多少の癖があった。
「あなたは?」
帯刀さんのホルスターに予備の拳銃は見当たらない。と、更に細くすがめた目で、
「恥ずかしながら、実は射撃はそんなに得意じゃないんですよ。こちらの方がなにかと楽なもので」
おもむろにジャケットを脱ぎシャツの袖を捲る。あらわになったその両の腕に、彼には似合わないと思える黒一色の雄々しい獣の爪が描かれていた。
いや、浮き出てきたという方が正確だろう。先刻までそこにはまっさら綺麗な肌があるばかりで、刺青は存在しなかったはずだ。決して私の見間違いなどではなく、眼科医の手配については必要ないだろう。
そしてこれは私見だが、刺青というには存在感がありすぎた。『刻印』とでも言った方が余程しっくりくる代物だ。
まるでそれ自体が意思を持つかのように拍動していると、そう思えた。なんだか見覚えのある光景のようでいて、しかし私が知っているだろうものとは決定的に違うとわかるのだが、記憶の深層を針で刺激されるような感覚が付きまとう。
だがそんなことを考えている間も敵は待ってはくれない。ゆっくりと、しかし確実に距離を詰められている。
気配からしてこちらの三倍近くはいる。三十余名といったところだろうか。と冷静に戦力を分析し、絶望的な状況ながらもどう対応するかを考えていた矢先、意外にも動きを見せたのはこちら側の人間だった。
帯刀さんが不適な笑みを浮かべた刹那のこと。
「私が先陣を切ります。援護頼みましたよ」
呆然とする私をよそに、そう告げた帯刀さんの姿は既に消えていた。
「──なっ!」
普通に考えれば無謀としか言いようがない暴挙。
しかし次の瞬間私の目に映ったのは、宙を舞う敵兵の姿だった。
引き金を引く暇すら与えられなかった最初の兵士は、なにが起こったかすら分からなかっただろう。
低く低く、超低空滑走する帯刀さんが拳を打ち上げ一人のアゴを捉える。
そして一呼吸も待たず次の標的が体をくの字に曲げていた。
疾風迅雷。今の彼ほどこの言葉を体現している人間はいないと思えた。
伸ばした拳の先、意識を失った男が頽れる中、静かに口を開く。
「立ちはだかるのならば──」
言葉を待たず銃弾が放たれる。
だがそこに彼の姿はなく、短機関銃は誰もいない空間をなぎ払おうと必死に薬莢を吐き出していた。
「──容赦はしません」
はたして声が真下から聞こえたことに気付けたのか、更に一人が意識を刈り取られる。
この兵士達もこれまでの手際の良さから察するに、それなりの場数は踏んでいるのだろう。しかし目の前の異質な存在に完全に呑まれ、全身を震わせていた。
強い、などという言葉で片付けられるレベルではなかった。人間に許された範囲の埒外に存在する悪魔かなにかではなかろうかというほどで、常識を逸脱した身体能力。だがそれだけに甘んじているわけではなく、射線の間に必ず敵を挟むよう巧みに位置を移動している。これでは下手に打てば同士討ちにしかならないだろう。単騎よく大軍を制すとはこのことだ。
黒スーツ達もタラップの脇に構え、悲鳴を上げながらもそれぞれの得物を手に銃声を轟かせている。様々な色合いを見せる破裂音、地面が抉られ削られる音、遠方から聞こえる爆発音、そして硝煙の匂い。それらは今ここが、紛れもなく戦場であるということを嫌と言うほど私に実感させた。
「……仕方ないな」
誰に聞かせるつもりもなく、はたして自身から出た言葉なのかすらわからない独り言を呟いていた。そして帯刀さんから預かった拳銃を黒スーツの一人に渡し立ち上がる。
「旦那?」
「私には必要ない」
なぜだかそう思った。兵器に関する知識はあったし、それを扱う腕もおそらく。だが私はきっとこういう物よりも向いていることがあるのだろう。体がはっきりとそれを肯定し、内在するなにかが、『お前には私がいるだろう』と語りかけてくるようだった。
タラップを包囲展開する兵士の左側面は、帯刀さんが単独でかき回している。無手で戦術兵器並の戦力を誇る彼相手にもはや助太刀は必要ないようにも思えるが、静観しているだけというのも後味が悪い。せいぜい邪魔をしないよう、私は逆から行くとしよう。
飛び出す。
知覚などさせない。十数メートルを一足に、瞬時に間合いを詰める。
秒に満ちたか満たないかの刹那。それでなくとも、帯刀さんの蹂躙とも言える単騎特攻に泡を食っていた兵士に近づくのは容易だった。容赦はせず一人のアゴを掌で打つ。
鈍い音と手応えを右手に感じ、男が声もなく頽れ膝が地面に辿り着くまでの間、次の標的の背後に迫り脇腹に打撃を叩き込む。
兵達が次々に私と帯刀さんの二人に昏倒させられていく。私の仕事は本当に楽なもので、無防備で隙だらけの急所に打撃を加えるだけ。なにか忘れているような気もするが、どうでもいいと思えるほどに圧倒していた。
帯刀さんは私の参戦に驚きもせずに、鉄火場には似合わない笑顔を向ける。
その瞬間だった。
集中し研ぎ澄まされ、鋭敏になりすぎた感覚は小さな異物を感知する。ライフル弾。
自己の思考と反射速度が銃弾すらも凌ぎ、時を止めたような錯覚を起こす。知覚領域内に侵入したそれの狙いは帯刀さんの頭部。
──危ない!
「ッ──?」
何かが砕けるような音に、幾人かの兵士の顔には笑みが浮かんでいた。勝利を喜んだものではなく、助かった、という安堵の笑み。
だが結果は、信じがたい形で姿を現していた。
私の心配が如何にムダであったかを喜ぶべきか、それともここは眉間を押さえて悩む素振りを見せるべきか、はたまた尻餅でもついてみせるか、対応に迷う事態が起きている。
運悪く、狙撃から現在までの状況を正確に理解してしまった兵士の顔からは笑みが消え失せ、絶望の色に染まっていた。
「いや申し訳ない、私の腕は特別製なもので」
周囲を置き去りにしてあっけらかんと彼は語る。
頭を庇う形で掲げられたその腕の数センチ手前で弾丸は、何もない空中で停止し潰れて(、、、)いた。と、その奇跡を起こした腕が、鈍色の光に包まれていく。誰も彼もが瞬きをすることを忘れている内に彼の両腕は、常識や物理法則を無視した、無骨で、巨大な、黒鉄の手甲に覆われていた。
「さて、久し振りに虎徹を出しましたね」
空気の読めない遠方から聞こえる爆音と彼を除いて、世界は静まり返っている。とりあえず後で詳しく聞くことにしよう。今は驚きの連続で少々疲れているようだ。
それに、私はその光景を──そういうものがあることを、知っているような気がしていた。




