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第一章 名前と職業と(3)

 明けて翌日。当然疑問が解消されるはずもなく。

 丸窓から差し込む遠慮のない日光と襲い掛かる脱力感で目が覚める。

 壁にかけられた時計を確認すると今は七時半を回ったところ。

 全く、溜息を吐きたくなる。昨日のお嬢のように私もキッチンに忍び込めばよかったと思わざるをえない。

 グウウゥ~

 腹が減った。


 流石に素っ裸で行動するわけにもいかないので、とりあえず昨日借りたままのシャツとスラックスに着替える。相変わらず足は裸足のままだ。靴の予備はなかったらしくビーチサンダルを用意してくれたのだが、あれはどうにも私には合わない。なんというか動き辛くて適わないので、裸足の方がいくぶんマシだった。

 目的のダイニングは客室の下に位置している。

 構造上の一階部分は男性用キャビン、娯楽室(お嬢専用キャビン)、数十に及ぶ客室、船長室(お嬢の寝室)、で占められており、その内容からこの船の巨大さが把握できるだろう。

 地下一階にあたる部分は昨日も述べたような広々としすぎている感のあるダイニング、一流レストランの厨房と呼べるほどに設備の充実したキッチン、ソフトドリンクで埋め尽くされたバーカウンターなどがある。奥にはカジノなんかもあるらしい。

 地下二階部分は未だ入ったことがない。関係者以外立ち入り禁止の札が階段に掛けられており、そもそもそれに該当するのは私だけではないだろうかと思ったのだが、どうやら帯刀さんとお嬢以外は入れないらしい。


 まあそんなことはどうでもいい。生を渇望する亡者の如く、空腹の私の足はダイニングへと向かう。と、パンの焼ける良い匂いが鼻孔を心地良く刺激し始めた。

 ダイニングに入ると既に朝食の準備をしていた帯刀さんが、大量のホットサンドの乗った盆を片手に出迎えてくれる。

「おはようございます。もうすぐ朝食の準備が終わりますので座って待っていてください」

 彼の仕事はお嬢の護衛であってコックではないはずだ。おいしい食事にありつけるのはとても助かるのでそれはそれで一向に構わないが。

 しかしこれはある意味拷問に近いものがある。目の前で湯気をたてているホットサンドを前にお預けを喰らっているので、腹が悲鳴を通り越して断末魔の叫びを上げている。涎の栓は壊れたように洪水を起こしていた。世話になっている客分としては、ここで粗相をするわけにもいかないので我慢するしかない。

 すると匂いに釣られた哀れな亡者がもう一匹餌場へと姿を現す。ネグリジェのようなパジャマに身を包んだお嬢だった。

 寝ぼけているのか半分閉じたままの目で席につき、私の我慢を嘲笑うかのようにホットサンドを貪り始めた。今ほど彼女に敵意を抱いたことはない。

「ああもう、お嬢様。またそんな格好のままで……。お客人の前ではしたないですよ」

 全くだ。これが彼らの主だというのだから不憫で仕方がない。マヨネーズソースがルージュの代わりになっているお嬢様などおそらく彼女以外存在しないだろう。

「ほら、口元がベタベタに……」

 しかし微笑ましい光景でもある。ああしてお嬢の口元をナプキンで拭っている帯刀さんと、未だ寝ぼけたまま食事をフライングし続けるお嬢。まるで子育て奮闘記を生で見ているようで、全く飽きさせない人達である。

 まあしばしこの風景を見て空腹を誤魔化すことにしよう。我慢する程度の価値はある。

 ハァ……、それにしても腹が減った……。


                ▼


 そして私は今既視感を覚えている。

 当然の如くそれは昨日以前の過去のことではなく、つい先日もこんなことがあったような気がするのだが、簡単に説明すると視界に入り難いプチ暴君が私の足をミュールで削っている。

 その理由とはこうだ。至極勝手極まりないのだが、あられもない寝巻き姿を見られたことに気付いた(ホットサンドを大皿半分ほど平らげたあたりで)お嬢は、顔を帯刀さんが茹で上げたばかりのタコのように赤く染め、私に向けてホットサンドを投げつけ始めた。

 もちろん食べ物を粗末にするなど私は許せない。全て口と手でキャッチしてやったのだが、それがいけなかったらしい。最終的に私の頬には彼女の足型が付くことになった。

 そのまま船長室に帰っていったおかげでお嬢の分のタコのマリネは私がおいしく頂いたのだが、彼女が消えた後でぞろぞろとやってきた黒スーツ達によると、朝はああ(・・)なので、お嬢が朝食を終えるまではダイニングに入らないというのが暗黙の了解なのだそうだ。できれば昨日の内に言っておいて欲しい。

 長くなったが今もなお削られ続けているのはそういった身勝手な私怨からだ。

 黒スーツ達は今帰港の準備に追われている。彼らも彼らで甚だ迷惑な感謝を寄せていた。私が昨日救助? されてからというもの、お嬢の攻撃の対象が絞られたということで仕事がはかどるのだそうだ。本当に迷惑極まりない。

 いい加減無視できないレベルにまで勢いが増してきたので、そろそろ抗議するとしよう。

「お嬢、痛い」

「フン! 自業自得よ!」

 その言葉そっくりそのままお返ししたい。そもそも見られたくないのならば自分で気を付けるべきである。

 どれだけ甘やかされて育ったのだろうか。この時ばかりは帯刀さんに教育方針を変えるよう進言したくなっていた。

「大体『お嬢』ってなによ。様を付けなさい、様を」

 名を呼ぶほど親しいわけではない。しかし誰しも呼称は必要だろう。ゆえに昨日寝る前にそう呼ぼうと決めたのだが。

「私はお嬢の従者ではない」

「世話してあげてるじゃないの!」

「お嬢の世話になった覚えはない」

「助けてあげたじゃないの!」

「知らん。私は帯刀さんに助けられたと自覚している」

「なななによ! きき昨日はほら、その、ありがとうって……」

「気の迷いだ」

 私は回答に失敗したのだろうか。痛みがむしろ増した気がする。そしてそれは気のせいではなく、体感では二割増だ。

「いやあ、頑丈な人がいてくれて助かる」と笑い。

「全くだ、当分湿布とはオサラバだな」と安心し。

「凄いな、顔色一つ変えてない」と感心している。

 このように黒スーツ達が口々に私への感謝やら感嘆を述べているのだが、その内容がとてもじゃないが喜べない。大体今日限りでこのお嬢とはめでたくお別れできるのだ。多少は水那神家の世話にはなるだろうが、当分などという不条理があって堪るかと切に願う。


 しかし彼らとて、なんの根拠もなしにそう言っているわけではなかった。

 それが現実になるなどとは思ってもみなかったのだ。いや、今でもそう思っている。

 私はどうやら彼女達の存在を甘く見すぎていたらしい。

 だがそれを思い知ることになるのは、まだ少し後のことだった。


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