第一章 名前と職業と(2)
現状を憂う間もなく時は過ぎ、船は既に闇に包まれていた。
私はあてがわれた上等な客室の中、窓から見える夜の風景を眺めながら今日を思い出していた。星の海と潮の海、二つは溶け合い神秘の幻想を私に見せる。
自分の中に知識はあっても記憶がないため、思い出せるのは今日の出来事以外ないのだが、その私の少ない記憶は悪くないものだった。
食事を終えた我々に待っていたのは瑠璃姫杯フィッシング対決。勝者には一週間の有給休暇が与えられる。
別にどうでもよかったのだが、帯刀さんの説得に応じて渋々私の参加を認めた少女は、勝てば私が記憶を取り戻すまでの間、金銭面において一切の面倒を見るという豪華商品をチラつかせ、魅力を感じた私はトローリングを開始した。
勝利条件はその体長を測り決定、坊主ならば無論失格である。
結果から言おう、瑠璃姫杯を制したのは主催者だ。
私は体長四メートルに及ぶ大物シロカジキを釣り上げ勝利を確信したのだが、少女の代行として参加した帯刀さんがフィッシュ。体長四・五メートル、青いストライプの美しいクロカジキが宙を舞っていた。
重量では勝っていたそうなのだが残念ながら勝利条件は体長。そしてあえなく時間切れを迎え、勝利の女神はなかなかS気質が強いのだと悟る。
甚だどうでもいい余談だが、少女が釣り上げたのはトローリング中引っかかったと思われる可愛らしいハリセンボンだ。
そもそも主催者が参加、その上代理を立てていいのか疑問だが、哀れ黒スーツ達は少女の夏休みの宿題をやらされるハメとなる。有給休暇など取りようのない少女が出した代替案だ。
言い忘れていたが今日は八月二十七日。残り四日、明日の昼には港に着き、水那上邸に着くのは夜ということなので正味三日で仕上げなければならない。
いくら高校一年生(ここは驚くところだ。私は中学校の間違いではないかと本気で疑った)の宿題とはいえ、日本有数の良家の子女が通うらしい学校の出したものは彼らの頭脳では厳しいようだ。
とまあそうこうしているうちに夕暮れを迎え、待望の晩餐を迎えた腹ペコ達がまたもダイニングで戦争を繰り広げる。帯刀さんの一番の得意料理であるというブイヤベースは、今思い出してもまだ余韻が残る絶品だった。どこか懐かしい、いわゆるお袋の味とでも言うべきだろうか。そんな優しい味がした。
正直に言おう。楽しい一日だった、
記憶を無くしたことなど忘れて楽しんでいた。
しかし、彼女は私のことをこう言っていた。無表情、そして抑揚のない淡々とした口調をしていて、感情が見えないと。だがそれは表に出にくいというだけの話だろう。
私と暴走少女の口論(主に彼女が捲し立てていただけなのだが)を見ていた帯刀さんは「お二人共とても楽しそうですね」と不動の笑顔で感想を述べていた。そこを見て楽しそう、と言われるのは全くもって心外だが、見える人にはそのように見えていたのだから。
おっといかん、ブイヤベースを想像したら涎が垂れていた。と、急ぎティッシュで口を拭おうとしたその時、ドアの向こうから甲板に向けて歩く音が聞こえた。
足音の軽さからして少女のものだと思われる、ヒールが床をノックする音が静かに響く。夜風にでも当たろうというのだろうか。
そういえばもう一つ忘れていた。彼女には礼を述べねばなるまい。
偶然とはいえ私を見つけたのは彼女だ。調子の上に胡坐をかかせる気がしてならないのだが、どうやら私はそこまで恩知らずではないようだった。
ドアを開けると涼しい風が流れてくる。陽に焼かれて火照った体には、確かに丁度良いかもしれない。涼むついでに礼を言うことにして、私は裸足のままで彼女を追った。
月明かりに照らされた中、彼女は船首の柵に手を付き、その名に恥じない瑠璃を風に靡かせていた。名付け親に密かに敬意を表する。
「あんた……、変な奴よねえ」
どうやら気付かれていたらしい。波が寄せる音に包まれる中、裸足のペタペタという間抜けな足音がすれば当然か。
「改めて礼を言っておこう。ありがとう」
「な……なによ……、いまさら。きき気まぐれよ気まぐれ」
照れたように、いや、実際照れているのだろう、彼女が答える。照れるくらいなら感謝しろなどと言わなければいいのに。
「それでも構わん。それと、今日は楽しかった」
言葉を受け少女が振り返ったその瞬間──
──一世一代の不覚。
迂闊にも私は、見惚れてしまっていた。
この深々とした夜を照らすような、月よりも静かで、太陽よりも眩しい笑顔。何の害意も打算もなく、純粋な感情が向けられている。楽しかっただろうと、暗に言われているような気さえした。だが──
「? なによ? 私の顔になんか付いてんの?」
「米粒が」黒点の如く。
「──!」
台無しだった。おそらくここに来る前にキッチンにでも忍び込んだのだろう。食いしん坊なお嬢様はゴシゴシと口元を拭いながら睨み付けてきた。すると突然、何か珍しいものでも見たような顔に変わり、意外な言葉を発する。
「あ……。なんだ、あんた笑えるんじゃない」
「……?」
自分の顔を手で探る。口の端が上がり、どうやら私は笑っているようだった。
不思議な気分である。笑う、とはこんなにも心地良いものなのかと。
記憶喪失にほんの少しだけ感謝する。笑うという行為の心地良さを、まるで生まれて初めて味わうかのような、本日二度目の悪くない気分だった。
自分の内から、自然と言葉が紡ぎ出される。
「多分、君のおかげだ。ありがとう」
今の私はきっと彼女に向けて微笑んでいるのだろう。この腕白お嬢様を前にして、聖人君子にでもなったような酷く優しい気持ちになっていた。
……? 少女の顔がなぜか真っ赤に染まっている。何が起きたのかは知らないが、よく表情の変化する面白いお嬢様だ。
そんな私の視線に気付いたのか、さらに赤く染め上げた顔を伏せながら少女は口を開く。
「ははははは早くねね寝なさいよね! ああ明日は忙しいわほ!」
わほ、とはなんだろうか。少女は焦ったように私に飛び蹴りを喰らわせ、一目散に階段を駆け降りていく。全く騒がしい。少しは風情というものを楽しむ余裕はないものか。
と、それはまあさておくとして、もう一人の御仁と落ち着いて話しでもしようか。
「帯刀さん、少しよろしいですか?」
「……驚きましたね。完全に気配は消していたつもりなのですが……」
そのワリには落ち着いた静かな声で答え、操舵室の影から姿を現した。私にもよくはわからないのだが、そこに存在するということがぼんやりと知覚できていた。
「ふう……、あなたは不思議な人ですね」
まあ確かに。太平洋単独漂流、記憶喪失、となかなか体験できないことを同時に味わっている。ただ不思議というより奇抜とか奇妙とかいう次元な気もする。
「お嬢様はああ見えて繊細な方なんですよ」
言葉遊びか? 全く逆の表現で会話するという趣旨なのだろうか。しかし彼の顔を見るに、そういう意図は隠されていないようだった。
「あのお方はその置かれている立場から、命を狙われることも珍しくありません。だからこそ我々がこうして御身の警護を仰せつかっているのですが」
それは簡単に予測できる。狙われる理由も様々にあることだろう。
「その弊害でしょうか、なかなか他者に心を開くことがないのですよ。ゆえにあなたには驚かされるばかりです。あのお嬢様があんなにも楽しそうに、初対面の御仁と遊んでいる姿を見せるとは」
「……喧嘩の間違いでは?」
「そこもまた、ですよ。お嬢様が相手ではほとんどの場合喧嘩にすらなりません。お嬢様を前にしてそのお立場に萎縮してしまうのでしょう。あのように激しく感情を顕に(あらわ)するのは、身内以外では滅多に見られません」
水那上家という名がどれほどの意味を持つのか知らないが、それほどの権力と影響力を持つ家柄ということは理解できた。
そして抱えていた一つの疑問を彼にぶつける。今ではそれもなんとなくわかっているのだが、彼と話していると心が穏やかになってくる。もう少し付き合ってもらうとしよう。
「昼前の話ですが、安心、と言っていましたね。あの意味を聞いてもよろしいですか?」
「ああ、そのことですか。今となっては最早信頼とまで呼べるかもしれません。背中を預けてもいいと思うくらいに」
彼にそう言わせるに足るなにかがあるのだろうか。自分のことながら疑問だ。
「話が逸れましたね。失礼ですがあなたのその肉体を拝見した際、正直私は警戒しました。鋼のように鍛え抜かれた体、百戦錬磨を思わせる体運び、獅子の如き濃厚な気配。もしやお嬢様を狙った刺客ではないかと」
どうやら私が彼に感じたものと、そう変わらない感想を抱いたらしい。申し訳なさそうな顔を私に向け、彼は続ける。
「ですが記憶喪失という点に疑いは抱きませんでした。あなたから感じる雰囲気に怪しい所は見られず、仮に嘘だったとして、それが見抜けぬほど間抜けでもありません」
しかし普通ならば疑うのが当然の配慮だろう。
彼の評価はともかく太平洋の真ん中で漂流者を拾うなどというそれ自体が異常事態だ。ましてそれが記憶喪失だなどと、我ながらよく信じて貰えたものだと嘆息する。
「信じた理由にはもう一つあります。今のこの状況、警戒しているワリには随分軽微だと思いませんか?」
「……確かに」
いくら手練れの護衛が付いているとは言っても、武装もしていないクルーザー一隻ではいささか不安が残る。海賊の船団にでも襲われればこれでは太刀打ちできまい。
「答えはこれです」
彼が差し出したのはイヤホンだった。そして真上を指差して。
「周囲五百キロに至る海域全ての船舶、航空機が常時衛星で監視されています。異常があれば即座に私の下に情報が届けられ、待機している航空機動部隊が駆けつけます」
なんとまあスケールのデカイ話だ。しかしそれなら私が漂流していた原因すらも把握できそうなものだが、その辺りどうなのだろう。難破船の類はいないと言っていたが。
その私の疑問を全て見透かしているかのように、さらに彼は続けた。
「あなたのことに関しては回収した後に異常として報告されました。しかしそれはとても奇怪なものだったのです」
驚いたような大仰な素振りを見せ、上着のポケットにイヤホンを仕舞い込む。そして操舵室の方向を指差し口を開いた。
「周囲に船舶や航空機の姿はなく、この船に取り付けられたソナーにも潜水艦や単独潜航の反応はありませんでした」
淡々と続けてはいたが、彼の表情はいつしか怪訝なものに変わっていた。
「しかし、です。監視衛星からの映像に一点おかしなものがありました。それは潮流に流されるままに延々と海を漂い続けるあなたの姿です」
三度目の眩暈が私を襲う。一体私はなにをしていたのか。
「そこからなにかしらの情報が得られればよいのですが、おそらく有益なものは得られないでしょう。ですが予測される結果は、少なくともあなたが刺客の類ではないと言う確信です」
怪しいことこの上ないと思うのだが、彼の言うことはもっともだ。
要人を狙う刺客がまさかそんな不確定要素満載の接触方法は取らないだろう。隠れてすらいない。原因は不明だがただの漂流者であるという以外に定義付けすることはできそうになかった。私を信用してくれた彼のその広い心に感謝するしかない。
「その情報は後に安心を補助する役割を果たしてくれましたが、決め手となったのはやはりあなた自身ですよ」
「買い被りです」
私はただ状況に流されたに過ぎない。彼を安心させる材料がなに一つ見当たらないのだが、それは彼のみが知っているのだろう。無理に詮索する必要もない。
だが彼は懐かしむような目を虚空に向け、吐息とともに言葉を漏らした。
「本当にあなたは不思議な人です。たった一日をともに過ごしただけなのに、数年来の友人のような気さえします」
彼にこう言われて悪い気はしない。光栄ですらある。
「さて、冷えてきましたね。あなたももう休んだ方がいい。長々と詰まらない話を聞かせてしまって申し訳ありません」
潮風に当たりすぎたか、確かに体が冷えてきた。それにどうやら疲れているようだ。彼女の遊びに付き合わされた体は疲労を訴え、睡眠を欲していた。
彼に見送られながら客室へと戻る行程の途中、私の心を占めているのは一つの疑問だった。最初に抱いたものから少しだけ変化したそれは、やはりどれだけ考えても解消されることはなかった。
はたして、私は一体何者なのだろうか。




