第四章 過去と現在と(3)
昔話をしよう。
昔々あるところに、決して老いることのない男と女がいた。
しかし二人には決定的に違うところがある。もちろん性別の話じゃない。
死ぬことができるのか否か。女は不老というだけで不死ではなく、男は不老に加えて不死でもあった。
いきなりこんなことを言い出して頭がおかしくなったと思うかもしれないが、まあ御伽噺かなにかだと思ってくれればいい。少しの間、お付き合い願おう。
男は不老不死の呪いをその身に受けていた。
決して傷付くことのない、言葉通り無敵の体。どんな剣でも斬れず、どんな槍でも貫けず、どんな斧でも砕けない。しかし痛みや疲労は体に残り、いつしか通り抜けていく。食事を取らなければ当然飢えるし、水がなければ渇きは癒えない。ただ死なない、傷付かないというだけで、受けるはずだった傷と同等の苦痛は刻まれる。
もちろん生まれつきではなく、元はただの人間に過ぎなかった。しがない軍人一家の末の息子だ。しかし何の因果か、男は身の丈に合わない呪いを宿してしまった。それはどんなに後悔してもやり直せない、遥かな過去の出来事。
世界がただ一つの大陸と、ただ一つの王国で構成されていた時代。
それは、歴史と呼ぶには遠すぎる過去の話だった。
かつて世界には、竜族と呼ばれる亜人種が存在していた。女もその一人だ。
見た目には人間と変わらず、しかし竜は老いることを知らない。肉体的にピークを迎えると、その時点で成長が止まるのだそうだ。そして半永久的に生命活動を維持し続ける。ただ不死ではないために、致命傷を受ければ当然死んでしまう。毒や病には強いようだが、それでも絶対ではなかった。
しかし竜は、その優位性に反して個体数の少ない種族だった。繁殖能力が非常に低く、また、その意欲も旺盛ではない。永遠の生と言っても過言ではない特性を持つがゆえか、種族繁栄の本能が薄れていったのだろう。
そのような特異な体質のせいか滅多に人間と関わることはなく、人里離れた山奥でひっそりと暮らす種族。存在すら否定されかねないほど、その営みは密やかで静かなものだった。だがそれでも、人間と竜は良い関係を築いていたと言えるだろう。関係性こそ薄いが、少なくともお互いにとって害ではなかった。争うことなく共存できるはずだった。
しかし、争いは起きてしまった。
人は強欲で、嫉妬深い。
どれだけ望んでも届かない高みを見上げ、人の王は狂ってしまった。
手に入らないのなら、壊してしまえばいい。我らこそが、この世界の覇者であると。
それは大陸を破滅へと導く、人と竜の大戦の嚆矢。
男が竜殺しの名を受けたのも、その頃のことだった。
ゆうに百万を越える王国軍と、全体で見ても千に届くかどうかという竜の戦い。
結果は目に見えていたはずだった。しかし予想だにしない竜の激しい抵抗に遭い、軍は幾度となく撤退を余儀なくされた。所詮は繁栄を為しえなかった劣等種と侮り、人類こそが万物の霊長だと驕ったその報い。ここに来てようやく、人は竜の真の力を思い知ることとなった。
圧倒的な物量を物ともしない圧倒的な個の力。それこそが、竜の真価だった。
尋常ならざる巨躯。鋼鉄をも易々と引き裂く爪と牙。刃を通さぬ強靭な鱗。そして、大空を羽ばたく壮大な翼。ただ長生きなだけの人間だとタカを括っていた将兵達の目の前で、竜の肉体は堂々たる姿へと変容していった。
人を遥かに凌駕する高次の存在。一人の竜を仕留めるまでに、何百、何千という兵士が無残に散っていった。屍の山を築き、なおも雄々しく吼える竜。その姿は一種神聖なもののように思えるほど神々しく、そして禍々しくもあった。
人も竜も数多くが死んだ。
一介の武人であった男も、死に物狂いで戦った。
やがて、その戦いの果てに竜の王を打ち倒した男は、しかし血の呪いを浴びて不老不死の存在と成り果てる。アンドヴァリの贈り物と呼ばれる呪い。
竜の王であり腐敗と呪いの王、ワーグナーは男に告げる。永遠の孤独を与えようと。
そしてワーグナーは最期に、世界を呪った。
放たれたその呪いは大いなる災厄──ヨルムンガンド──と呼ばれ、大陸を包む巨大な蛇となる。
その吐息は大気を腐らせ、流れ出た血はマグマのように煮え滾っていた。身を捩じらせる度に大地が悲鳴を上げ、尾の一振りで山脈が跡形もなく消え去る。それはまるで怒りの化身のように、世界を破壊しつくした。
悪夢は七日七晩続き、人類はおろかこの星に存在する全ての生命が滅亡の危機に瀕していた。大規模な地殻変動をも引き起こした史上最悪、惑星規模の大災害。唯一だった大陸は砕け散り、やがてそれは五つの大陸へと姿を変える。
僅かに生き残った人々は、誰もがその目に絶望を宿していた。
孤独だった。
ワーグナーの言葉は真実となり、男の心を蝕んでいく。
時は流れたが、歳を重ねないその体は多くの人間の死を通り過ぎてきた。
不老不死を語る伝承は数多く存在するが、それは実際に得た者からしてみれば苦痛でしかない幻想である。決して死ねない体になんの意味があるのだろうか。同じ時を歩む者のいない人生のどこに意義があるのか。死の概念を持たない者が、はたして生きていると言えるのだろうか。男には、自分が人間であるのかどうかさえ、わからなくなっていた。
そして激しい自責の念が、男の心を殺さなかった。いっそ壊れてしまえば楽だったが、それはとても卑怯なことだと、最後に残った良心が許さなかった。破滅の引き金を引いた男が許されるべきではないと。だから、男は生き続けた。せめて世界の行く末を見届けること、それが自らの役目なのだと必死に言い聞かせて。
しかし、それにも限界はあった。耐え切れなくなって自らを手にかけたこともある。罪の意識に苛まれ、取り残されることに疲れ果て、いつしか男は首に刃を当てていた。だか、かつて竜王を打ち破った剣をもってしても、その呪いを打ち消すことはできなかった。
いつか自分を殺せる者が現れてくれるだろうか。永遠の束縛から解き放ってくれるだろうか。
そんな、もう自分が正常なのか狂っているのかもわからないほどの時を過ごしていた時、男は竜と出会った。
その竜は言った。
「何でも背負おうとするのは良くない。誰も、君に期待なんてしてないんだ」
「それに、世界はそう諦めたものでもないよ。もっと寛容なのさ」
「こんなに世界は広いんだ、どれだけ歩いても足りないし、いつか見た景色もすっかり変わってしまう」
「ご飯はいつだっておいしいし、いくら君だってお腹は空くだろう」
「幸せなんて探せばいくらでもあるものさ」
「死にたいだなんて酔狂だね。まだ知らないことはたくさんあるだろう」
「責任なんてのは後付けの言い訳さ。もっと自分勝手でいいんだ」
ごく当たり前であるかのように、同じ時を歩む者は世界を楽しんでいた。
矢継ぎ早に浴びせられる言葉の一つ一つが、まるで染み渡るように男の体に吸い込まれていった。いったい何に対して気を張っていたのか、女の言葉を聞いた途端にわからなくなった。
泣いてしまいそうで、しかし涙は出なかった。なんだか損をしてしまいそうで、泣くことがもったいないと思えた。
思えば男は、その時ようやく、『生きはじめた』のかもしれない。
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「どうだい? まだ死にたいなんて思ってるのかい」
唐突にそんなことを聞いてくる。
「バカ言え」
「すぐウジウジするんだから。あんまり聞き分け悪いとまたお説教だよ」
「わかったから、もうその話はやめてくれ。泣きたくなる」
昔馴染みというのはタチが悪い。まあ、言葉のワリには優しい声だったが。世話焼きというか、こういうお節介が好きな奴だ。
「暖かい子だろう、姫は。いい子だよ」
唐突に話を変えたソフィアは、目を閉じたまま邸宅に顔を向ける。
「我侭なだけだ。自分勝手でやかましい。私がこんな体じゃなければ今頃魚の腹の中だったんだぞ」
その目には何も映らないというのに、心の奥底まで見通すような目をしてこちらの考えを読み取っていく。こういう時のこいつは苦手だ。
「きっと君のことだから、こんな暖かい場所にいてもいいのかなんて迷ってるんじゃないかな。いつまでもそんなだから、ルーシーも心配してるんだよ」
古い知り合いの教会関係者、というのはこのルーシーという男だ。こいつも色々とお節介を焼いてくる一人である。今時の流行についてなどは、主にこの男から聞かされる。何とかフラグとか、ツンデレとか。
「きっと思い出せるよ。ただなんでもない人であった頃を」
いちいち核心を突いてくる。全く厄介な女と知り合ってしまったものだ。
「契約を結んでしまった責任があるからな。勝手に消えることもできやしない」
「前にも言ったろう。責任なんてのは後付けの言い訳さ」
「うるさい」
気恥ずかしさを紛らわすためにそう告げて、ソフィアの背中を押しながら、強引に屋敷へと歩を進めていった。
屋敷の中央ホールは大宴会場と化していた。
立食パーティの形式で料理が並べられ、お嬢はそこら中を駆けずりまわって料理を堪能している。帯刀さんはそんなお嬢のあとについて甲斐甲斐しく世話を焼いていたが、私とソフィアを見てこちらへと向かってくる。
「お帰りなさい」
彼もなにか感づいていたのかもしれない。しかし嬉しそうにそれだけ言って、やはり変わらない微笑みで迎えてくれる。
もう心配いらないね、なんていう余計な言葉を残してお嬢のところに駆け寄っていくソフィアは、手土産を持参できなかった原因であるお嬢に悪戯を仕掛けんと画策していた。
「お話は済みましたか」
「ええ、昔話を少し」
今の私は晴れやかな顔をしていることだろう。言い訳があるというのは幸せなことだ。
「ネコ! 圧勝記念撮影するわよ! 早く来なさい!」
偉そうに手招きをするお嬢や、なぜか私達よりも早く来ていたらしい櫛田さん、騒がしいお嬢を睨み付ける神野さんに、ノートパソコン片手に宿題をしながら食事を頬張る黒スーツ達、そして両手にクリームパイを抱えたソフィアが、テーブルの向こうで待っていた。
さて。
人としての尊厳を欠いた名前を払拭するべく、どうやって自己紹介をしたものだろうか。そんなことを考えながら、まるでそこが私の定位置であるかのようにポッカリと空けられたお嬢の隣へと、私は歩き出していた。
第四章 終




