第一章 名前と職業と(1)
「──記憶……喪失ゥ?」
どうやらそのようだ。
そこまで疑わしい目をしなくても良いのでは、と言いたくなるほど彼女の声も視線も疑念に満ち満ちている。事実なにも思い出せないのだからしょうがない。
「はあ、それはまた災難に次ぐ災難ですねえ。あ、これどうぞ」
黒スーツを統括しているらしい男からタオルを差し出される。
短く揃えられた黒髪。精悍な顔立ち。鋭さを秘めていながらその眼差しには優しさが感じられる。スマートな紳士という表現が良く似合う男だ。
歳の頃は三十代前半あたりだろうか。背は少女を見下ろす山の如く。そしてスーツの上から見ても、その体躯がどれほど鍛え絞られたものなのか予想が付いた。まあ服がビショ濡れだったせいもあるが。
「ありがとうございます」
「帯刀、そんな奴に優しくしてやることないわ。これで十分よこれで」
タオルを受け取り帯刀と呼ばれた紳士に礼を述べると、遮るように少女が口を出してきた。ちなみに少女が差し出したのは見事な刺繍が施された──やはり質の良いものだろう──猫の額よりはマシな程度のハンカチだ。
体を拭くのに適しているかは別として、どちらが高価かと言えば明らかに少女の差し出した物だろう。電器屋の名前がプリントされたいかにもな粗品タオルとは、流石に比べようもない。ただまあすっかり機嫌を損ねてしまったようで、手渡されることなくヒラリと舞い落ちた布切れが、如実に少女の機嫌の向きを表している。
「拾いなさい」
「お、お嬢様!」
見なかったことにしよう。
けだし、その言葉は間違いなくこちらに向けられたものだが、あいにくと私は記憶を探る作業で忙しい。塩水に濡れた髪をタオルで適当に拭きながら、周囲に見覚えのある風景がないか再度探してみる。
まあ、あるといえばある。というよりは、その生涯を陸の孤島の地下深くに幽閉された囚人でもない限り誰しも見たことがあるだろう海と空ばかりが広がっている。わかりやすく言えばそれしか見当たらない。雲すら遠慮がちに点在しているのみである。
その海にポツリと浮かぶ巨大なクルーザー。流石にこんなものに見覚えはない。
どうでもいいが無視したことで更に機嫌を損ねてしまったようで、足がゲシゲシとミュールで削られている。これもきっと高価なものだと思わせる、オードリーも驚きの意匠を凝らした一品だ。
「無視! してんじゃ! ない! わよ!」
「お嬢様!」
喋るか踏むかどちらかにして頂きたい。どちらにせよ思考の邪魔でしかないが、できれば痛みを伴わない方向で頼む。と、一つの違和感に気付いた。
私自身の姿。まるで服としての原型を留めていないボロ布で覆われているだけで、靴も履いていない。漂流者丸出しの格好だった。
その私の裸足をヒールで痛めつけているあたり少女の容赦のなさがうかがえるわけだが、それはさておき布が体に纏わり付いて気持ちが悪い。天寿を全うしたとは言えない服の成れの果てを破り捨て、生まれたままの姿を披露する。
「──な! なななにしてんのよ! レレレレディの前ではははだははだかかかっ!」
「お嬢様! お気を確かに!」
何を狼狽えているのかわからないが早口言葉の素養はありそうだ。ちょっと心の中で練習してみたがそのセリフ中々難しいぞ。まあとりあえず、淑女と言うにはお淑やかさが多分に足りない少女に一応配慮して、タオルを巻くことにしよう。
「ハア……ハア……、信じられない戯け者だわ……」
「ああ、気配りが足りなかったようで済まない。そんなにムラッとしないでくれ」
「するかっ!」
言葉を間違えた。こういう時は『イラッ』と言うべきだったか。キラウェアを彷彿とさせる煮え滾った視線が熱い。
「抑えてくださいお嬢様、見たところ日本の方ではないようですし……、いやまあ、そのワリには流暢な(りゅうちょう)日本語ですが」
「日本?」
ここは日本なのか。そして私は日本人ではないらしい。一歩前進だ。
意識していなかったが言葉にもどうやら対応できている。だがここは日本の一体どこなのだろう? 目安になるものが全く見受けられない。と、男が鏡を持ち出してきた。
「どうです? ご自分の姿を見てなにか思い出されたことは?」
浅黒い肌に肩ほどまで伸びた白銀の髪と瞳。それが私の特徴だ。歳は二十代前半だろうか。自分の姿を見ているにも関わらず、他人を見ているような客観的な感想だった。
そして一向に記憶が蘇る気配はない。
「いや全く、申し訳ない」
「いいんですよ。焦らずゆっくり思い出しましょう。それと、ここは日本ではありません」
では一体どこだと言うのだろう。男は続ける。
「太平洋のど真ん中です」
海鳥が、鳴いていた。
▼
私の現在位置が判明した。
ミッドウェイ諸島、アリューシャン列島、千島列島を結んだ三角地帯の中央からやや西へ。最も近い国は日本というだけの遥か遠洋。
なぜこんなところに浮かんでいたのか甚だ(はなは)疑問だ。もう少し発見が遅ければ魚達においしく頂かれていたかもしれない。
とまあそんなことを考えながら用意された衣服に袖を通す。黒いシャツに黒いスーツ、ネクタイだけは白い。まるで喪服のようだ。
男性用キャビンのクローゼットには、一面黒で統一されたスーツ達がびっしりと詰め込まれており、こだわりでもあるのか、それともそういう決まりでもあるのかと考えさせられた。
さしたる問題もなくシャワーと着替えを済ませた私は、キャビンの扉を開け甲板へと続く階段を昇る。
爽やかな潮風が髪を撫で、燦々と凶悪なまでに照りつける太陽が出迎えたのだが、幸いにも私にジャケットの着用は義務付けられていないのでそこまで暑苦しい思いをすることもない。
「あら……、馬子にも衣装ね」
「良くお似合いです」
先ほどの二人が私を眺めて、それぞれ思い思いの表情を浮かべている。
「どうも」
少女の言動はいまさら気にならない。むしろ背伸びをしている感があり、どこか滑稽ですらある。聞き流しておこう。
「見た目だけは合格ね。だけど言葉遣いがなっちゃいないわ、私を誰だと思ってるの」
高飛車をそのまま声に乗せたような偉そうな口調で、腰に手を当て尊大な態度で私を睥睨している。見上げながら見下すとはなかなか器用な奴だった。
これまでの言動や彼ら黒スーツ──今や私もその一員だが──の態度を見れば高貴な生まれの者なのだろうと推測はできる。
しかし知らないものは知らない。
「──ひん……の良いお嬢様」
「ちょちょちょっと待ちなさい! 今なんて言おうとしたの! ドコ見て言ったの! もう一度言ってごらんなさい!」
「お嬢様! 落ち着いて!」
「その通りだ、落ち着けお嬢様」
「あんたが言うな!」
危ない。もう少しでまた噴火の起爆剤になるところだった。
しかしだ、救われたことも事実。郷に入っては郷に従えと言うし、少しは敬うことにしよう。せめて語尾にお嬢様を付ける程度は譲歩することにした。
「まあともかくです、これも何かの縁。我々は今日本に向かっているのですが……、お客人もお困りのご様子。とりあえず我々に同道して頂いてその後対策を練りましょう」
「助かります」
というより同道するしかないだろう。
「帯刀! こんな奴海に落としてしまいなさい! 鮫の餌にでもなればいいわ!」
「まあまあ」
全く忙しないお嬢様だ。帯刀という御仁を少しは見習った方がいい。
「もういい! キャビンで一休みするわ! あんた達!」
「「はっ」」
少女はぞろぞろと男達を引き連れて船内へと消えていった。デッキに残されたのは私と帯刀氏。やっと落ち着ける空気が漂い始める。
「ふう……、申し訳ない。私どもの主は少々腕白な方なもので……」
「心中お察しします」
苦労しているのだろう。海を眺めるその背中が哀愁に満ちている。
「ああ、申し遅れました。私は帯刀是人。お嬢様の警護主任を担当しております」
なるほど、と頷かざるをえない。立ち居振る舞いに無駄がなく、足運びからも何か武術を嗜んでいるだろうと思わせる。相当な手練れだろう。
「私は……」
名乗ろうとして自分の現状を再確認する。全く、記憶喪失とは厄介だな。
「ああ、結構ですよ。記憶喪失とはさぞお困りのことでしょう」
「お気遣い感謝します」
本当に困ったものだ。所持品といえば身に着けていたボロ布ぐらいなのだが、私を定義するには情報が少なすぎる。大体なぜそのような格好で太平洋を単独漂流していたのか。そんなことを考えていると帯刀氏が疲れた顔で語り出した。
「我々の目的を説明させて頂きますと、現在太平洋横断というお嬢様の気まぐれ旅行の最中でして。その復路の行程であなたを発見、回収したという次第です」
気まぐれで太平洋横断を思いつき、実際に行動に移せる権力と資金と暇を有した子供。警護の厳重さから見ても相当な名家のお嬢様なのだろう。下手をすればクルーザーで試し轢きくらいはされたかもしれない。
「いや全く驚きましたよ。こんな大海原のど真ん中に身一つで漂流してる方がいるなんて。お嬢様が豆粒のようなあなたを見つけなければ気付かず通り過ぎておりました。この辺りで船が難破したという情報もありませんし」
もう少しくらいはあの少女に感謝してやってもいいかもしれない。そういえば当の彼女の名前を知らないなと思案顔をしていると、察したように彼が続けた。
「水那上財閥次期御当主、水那上瑠璃姫様。それが私共の主の名です」
財閥のお嬢様。しかも次期当主の器だったとは別の意味で恐れ入った。子宝に恵まれなかった現当主に憐憫の情を抱かずにはいられない。我侭放題に育っているところを見ると放任主義なのかそれともバカ親なのか、ぜひお目にかかりたいものだ。
「しかし記憶喪失ですか……。となると一度医師に診て頂いた方が良いかもしれませんね。よろしければこちらで手配を取り付けさせて頂きますが。ああ、当家が抱えている医師ですのでもちろん金銭のご心配には及びません」
重ね重ねこの御仁には感謝しなければならない。親身に私の心配をしてくれているのが言葉以外にも感じられる。如何せん私は無一文もいいところだし、ここは厚意に甘えさせて頂こう。
「このご恩はいつか必ずお返しします」
「いや、いいんですよ。護る事を生業とする職業柄おせっかいを焼いてしまうのが癖なんです。困っている人を見かけるとつい」
このようなできた御仁があのような暴君に仕えていると思うと切なくなる。せめて彼がいつの日か報われることを祈らせてもらおう。それにしても、
グウウゥ~
腹が減った。
「──ップ、ハハハ。いや、失礼。見かけによらず安心させてくれる人だ。丁度いい時間です。食事にしましょう」
安心、とは一体どういうことだろうか。しかし今はそんなことよりも空腹で仕方がない。彼にはつくづく世話になるなと、嬉しさ混じりの溜息を吐いた。
さて、この広い世界で、一体どれだけの人間が純粋な善意に触れることができるだろうか。どうやらまだまだ人の世も捨てたものではないようだが、とりあえず言えるのは、私はきっと運が良い、ということだろう。
▼
美味い。海の上で食べるシーフードパスタとは乙なものだ。
それだけではない。巨大な一枚のテーブルの上に所狭しと並べられたどの料理達にも舌鼓を打つしかなかった。
オリーブオイルと塩であっさりと味付けられた海藻と烏賊のサラダ、一風変わったマグロとアンチョビのカルパッチョ、チリソースのかけられた海老のフリット。メインディッシュからサイドディッシュに至る全てが私の胃袋を歓喜させている。
驚きなのはこれら全てを調理したのが帯刀さんだということだ。
マルセイユに長く滞在したことがあるそうで、その際に知り合いとなった港町のシェフに色々と教わったらしい。その時から料理が趣味になっていると言っていた。
その他大勢の黒スーツ達から聞いた話では、最早趣味の領域を遥かに超える腕前だと誇らしげに語っていて、それについては語られるまでもなく実感しているのだが、そこよりもこうして部下に誇りとして語られる彼の存在の大きさを再度知る。
もう一つ意外だったのは、少女がその他大勢に混ざって食事をしていることだ。
大抵この手のお嬢様は使用人達が見守る厳か(おごそ)な雰囲気の中、テーブルマナーを披露しているのか食事を取っているのかわからないような風景が広がるものだと思っていた。
良い意味で期待を裏切ってくれたのだが、黒スーツ達と料理の取り合いをしているのはお嬢様として失格なのではとも思う。ただ『サンビョウルール』という食べ物を粗末にしないためのテーブルマナーは褒めてやってもいい。
「お味の方はいかがですか?」
当の本人が似合いすぎるほどハマっているエプロン姿で、パスタのおかわりを抱えながらキッチンから姿を現す。
「驚きました。料理の腕にも彼女にも」
帯刀さんは大皿を置きながら苦笑していた。少女と男達からヒャッホウという喜びの声が上がり、彼もまた席について料理をつまみ始める。
「お嬢様は奔放でしょう。でもこうしてたくさん食べて貰えるというのは作り手にとっては嬉しいものです。将来が少し心配ですが」
彼の上座に座る少女を見る目には、深い親愛と尊敬の念が籠められている。二人の間には他者の入り込めないなにかがあるのだろう。それは主従という関係を越えた崇高なものに昇華しているように見えた。
「さあ、どんどん食べてください。おかわりはまだありますからね」
十数名を悠々収容してなお余りあるダイニングでは、少女と男達の咆哮が響き渡る。それともう一つ、私の腹もまだまだイケると訴え、口と手を早く早くと急かしていた。




