第四章 過去と現在と(2)
「う、うう……、汚された……」
「なにを大げさな」
お嬢は涙を浮かべてシートに縮こまっていた。
ところで蒼一郎が住む別邸だというのにその本人を全く見かけなかったが、どうやら櫛田さんが安全な場所へと避難させていたらしい。お嬢をこうして確保した後に一応顔を合わせようとしたのだが、一体どこに放り込まれていたのか茫然自失となっていたため、挨拶すら交わせない状態だった。
返事くらいしなさいと半ベソをかいたお嬢が蹴りを入れると、ごめんなさい、ごめんなさい、と、お経のように唱えていたので諦めて帰ることにした。
それと雪久の処遇についてだが、そこは当主である蒐現に任せるらしい。しばらくはこのまま別邸に拘束し、いずれ引き渡すということで話はまとまっていた。犯罪者として告発されるよりも遥かに厳しい地獄が待っているだろうと、帯刀さんは嬉しそうに語る。
そして次期当主争奪戦についてだが、雪久の存在もなくなった今、蒼一郎にそんな争いを続ける気力はないだろうというのが結論である。
結局最後まで下着姿のままだった櫛田さんの話では、傭兵を仕向けたりしていたのも雪久の手引きであって、その協力が得られない以上、今後は多少の嫌がらせを行う程度の力しか残っていないと言っていた。
蒼一郎がお嬢に負けを認めさせたらという条件であったのに、お嬢が期限切れの前に蒼一郎を完膚なきまでに叩きのめしたというなんとも言えない結果で終わってしまったが、下手に未練や禍根を残すよりは遥かに良いだろう。
そして私の記憶についてだが、まだお嬢には話していない。
帯刀さんは私から伝えるのを待つと言い、これからのこともこっちの都合に合わせてくれるらしい。つくづくその配慮に感謝する。
しかしわざわざ自分から力についての講釈を垂れてしまったのだ、お嬢も気付いているのかもしれないが、とりあえずそこを追求されることはなかった。
車に乗り込む直前、うつむきながら寂しげな表情を見せたお嬢が気にかかったが、まさかな、と自分を誤魔化すことにした。
それにしても、この件に関して叱りたいことは山ほどあった。
どれだけの人がお嬢を心配し、そしてここへやってきたのか。自己を省みない勇気は、決して褒められたものではない。
それなりにお嬢のことを見てきた上で判断するが、良い言い方をすると情が深く、身内には甘いのだろう。いかに鈍い私でも、これが私を含めた部下を思っての行動だということは理解できる。しかしだからと言って簡単に納得できる問題でもない。
黒スーツ達はよほど心配だったのか、無事なお嬢の姿を確認すると全員揃って大泣きをしていた。その姿を見たお嬢が見せた表情は、嬉しそうでいて、同時に負い目を感じているようでもあった。自らの境遇が巻き込んだとでも思っているのだろう。
よしよし、と一人一人の頭を撫でていくその姿に見えた謝意と後悔に免じて、用意していた言葉は胸の内にしまっておくことにする。私が何か苦言を呈するよりも、黒スーツ達の涙の方がお嬢にとっては効くようだった。
帰路についた車の中は静かだった。お嬢が尻を押さえながら落ち込んでいるせいもあるが、全員疲れていたというのが本音だ。帰りを待っている人達に元気な姿を見せるため、少しの間でいいから休息を取りたかった。
神野さんに事の顛末を報告した帯刀さんの話では、屋敷で祝勝パーティの準備をしているらしく、主に食事が楽しみである。腹ごなしにしては過激すぎる運動を終えて腹が減っていた。
いつしかお嬢は尻を押さえるのをやめ、勝手に私の膝の上に頭を乗せている。屋敷に着いたら起こしてと顔を背けて短く告げ、既に寝息を立てていた。
食べ歩きツアーの帰りをやり直しているような気分だ。流石に今回は落書きをするつもりはない。
そんな穏やかな時間をしばらく過ごしていると、屋敷の塀が見えてくる。
なんとか眠気を振りきりやっと帰ってきたと溜息を吐いた時、門の前に佇む人影に気付いた。
「おや、こっちに顔を出すなんて珍しい」
帯刀さんが呟く。
そういえばと、いつか帯刀さんとバルコニーで交わした会話を思い出す。記憶が戻った今ならはっきりとわかるが、どうやら共通の知り合いだったらしい。お嬢を起こさないようにそっと膝を外し、帯刀さんと二人で車を降りる。
「久しいね」
女が薄く色付いた唇を開く。
「ああ、待たせてしまったか」
「それほど待ってはいないよ。元気そうでなによりだね」
長く美しい髪が風に揺れる。
その色は全てを飲み込んでしまいそうな原初の白。
ゆっくりと女が目蓋を開くと、そこにあるのは光を映さない灰色の瞳。
「ソフィア」
「ジークフリート」
儀式であるかのように互いの名を呼び合う。彼女はこういう会話を好むことを覚えていた。
「意外と世界は狭いものですね」
そうだね、そうですね、と揃って帯刀さんに同意する。
「先に屋敷に戻っていますよ。ああ、良かったらソフィアも祝勝パーティに顔を出していって下さい。きっとお嬢様も喜びます」
そんなに気を使うような間柄でもないのだが、今は少し助かった気がする。私達を残して車は門を潜り、屋敷へと消えていった。
「どうしてここにいるとわかった?」
「ここのメイド長さんに君の話を聞いてね、もしかしたらと思って来たら正解だったよ」
そうか、と頷く。
「実は姫の誘いで仕事を貰っててさ。五稜館学園ってとこの食堂でシェフをしないかって。お給料もいいし、結構前から厄介になってるよ」
なるほどと合点がいく。運命というのはほとほと悪戯好きらしい。
「ところで、記憶喪失だって聞いたけど?」
「それならついさっき戻ったところだ。タイミングが良かったな」
そして一応お嬢のせいだったことや、手土産の酒は太平洋に消えたことを伝える。
短い会話のやりとりが続いていた。やはりこういう会話を好むようで、少しも変わっていない彼女に懐かしさと安堵を覚える。最後に会ったのは何十年前だったか。
「どうだった?」
「何がだ」
「記憶喪失だよ。そんなの滅多に体験できないじゃないか」
ああ、確かにそうだ。そしてそれこそが、今戸惑っている原因であったりもする。
「なかなかいいものだったぞ。何もかもが新鮮で、望むべくもない世界だった」
「へえ……、ちょっとだけ、うらやましいな」
それからも少しの間、こんな会話を続けていた。




