第四章 過去と現在と(1)
八月某日。
「ミスター、ここから先は立ち入り禁止だ」
ここはハワイ諸島、ホノルルの港。私はある目的を持って行動し、この港から日本へと渡る船に乗り込む予定だった。
予定だった、とは、現在こうして物々しい雰囲気の男達に周囲を囲まれ、こめかみに銃口を突き付けられている状況であるため、はたして予定通りに船が出立できるのか疑問であったからだ。
一週間ほど前、私の下に手紙が届いていた。
定住する地を持たない私に宛てられる郵便は、古い知り合いである教会関係者のおかげで各地の教会で受け取ることができるようになっていた。
やはり古い、しかし別の知り合いから送られてきたその手紙はどこか格式ばっていて、封蝋で閉じられていた。そういえば変に凝り性な奴だったな、と懐かしむ。
内容はこちらの近況がどうなのかという質問ばかりで、手紙の意味がないのではと呆れるが、まあ奴なりに心配してくれているのだろうと思うことにした。
その手紙の最後に今は日本で暮らしていると書かれており、根無し草の放浪はやめて地に足をつけて見るのも悪くないと感想を述べていた。私に対する皮肉も籠めて。
追伸に、暇があれば寄ってみるといい、なんて素っ気なくしながらもしっかりと住所を記載し、手土産にはなにがいいだのとねだっているあたりが図々しい。
しかし、折角の誘いに乗らないのも損だなとこうして足を伸ばしているあたり、私も少しばかり図々しいのかもしれない。
そうして。
ゆっくりと旅路を楽しもうと船旅を選んだ先でこれだ。厄介事にはほとほと縁がある。
「パスポートとチケットはあるんだがね。二時間後に出航する船が泊まっているはずだ」
「この雨のせいで欠航だよ。わかったら回れ右だ」
そう言われてはいそうですかと立ち去るほど素直でも従順でもない。このような横暴には相応の礼をもって応えるのが作法だろう。
「へ?」
男は間抜けな声を最後に沈黙した。
即座に行動に移った私は素早く身をかがめ、男の腕を取りそのまま肘を腹部に入れていた。随分と手荒だったワリにはこんな返答に慣れていないようだ。
動転し棒立ちとなった男達の急所を殴りつける。
彼らは引き金の引き方を忘れてしまったらしい。指先に力を籠めるだけであるというのに、ザァザァという雨音が絶え間なく続くだけで銃声が響くことはなかった。
倒れ伏す音すら雨にかき消された男達を尻目に、現在置かれた状況を勘案する。
シージャック、マフィアの裏取引、等々巻き込まれた可能性を挙げればキリがない。比較的処理が楽なものであるよう祈りながら船に向けて歩を進める。引き返すという選択はない。
「…………!」
埠頭の方からかすかに叫び声が聞こえた。雨音は時間が立つにつれ更に激しいものとなっていき、それが一体なにを叫んでいるものなのか聞き取ることができないほどになっている。警戒を強めながら埠頭へと急いだ。
すると、先ほど私を取り囲んだ者達と似たような格好の集団が一隻の船の前で銃を構えている。私の位置とは距離にして五十メートルほど離れており、やはり会話は聞こえない。
銃口を向けられているのはまだ少女と呼べるほどの女の子と、黒いスーツに身を包んだ男達。どうやらさっきから聞こえていたのは少女がギャアギャアと喚いているせいだった。その度胸には感服するが、状況を考えた方がいい。
さて、どうするべきか。
あの様子では私の乗る船も出港は見合わせることになるだろう。対立している二つの集団以外に人は見当たらず、先ほどの私のように囲まれ追い返されてしまったに違いない。それでも警察が駆けつけないあたり、既にどちらかに金でも握らされて抱き込まれているのだろう。
となると解決策としては、早々に揉め事を終わらせて、当初の予定を後押しするより他ないという結論に達した。
気配を消し、物陰から埠頭へと少しずつ近づいていく。明らかに悪人顔の男達を全員気絶でもさせて、あとは大義名分を手に入れた警察にでも処理してもらおうと考え、少女達の方へと顔を戻した。その時。
少女は刀を手にしていた。
足下にかすかな違和感。雨は地に落ちるというのが当然の摂理である。
しかしアイザック・ニュートンがもしもこれを見たならば、果たして万有引力を提唱することができただろうか。今この場においては、雨が集束し天に昇っていた。
巨大な一つの流れと化したそれは男達を飲み込み、更には少女自身も飲み込んで肥大化していく。
それは油断だった。横合いから大きな衝撃。
「──瑠璃姫プレゼンツ! 叢雲! タイフーーーーーン!」
まさかこんなところまで、と自身の慢心に気付いた時には既に、雨によって生成された竜巻に飲み込まれていた。
浮遊感。
(──ッ!)
ゴボリと酸素が吐き出される。本来であれば対処できたはずなのに、咄嗟のことで対応が遅れてしまった。息苦しさに意識が遠のいていく。
視界が目まぐるしい速度で回転していき、身動きが取れないまま酸素だけが無情に消費されていた。状況的にはかなりマズイ。
「吹き飛べえええええええええっ!」
薄れ行く意識の中、大海原に向けて竜巻ごと放り出されたということだけは確認できた。しくじった、という後悔の念を抱く。
そこで私の意識は──完全に途切れた。
▼
時は現在に戻り。
気付けば竜巻から放り出されていた私は全身泥だらけで地面に伏していた。
ここぞとばかりに抱きついていた櫛田さんを引き剥がす。
沸々と怒りが込み上げていた。焼き直したように以前と同じことを考え、ニュートンを引き合いに出していたあたり記憶がなくなっていても自分は自分でしかないのだなということに感銘を覚えるが、今はどうでもいい。
そもそも同じ攻撃を二度に渡り喰らい、そのどちらもが記憶に作用したという嘘みたいな事実に呆れ返る。
どうやら私の記憶を奪った犯人は──
「お前か……ッ!」
お嬢はノリにノッていてこちらの声などまったく聞こえていないようだった。これはお仕置きが必要だろう。既に雪久は白目をむいて気絶しており、帯刀さんが拘束している。なんの遠慮も必要ない。
「ネ、ネコ君? 大丈夫ですか?」
帯刀さんは心配げな表情でこちらの様子をうかがっていた。
「いえ、大丈夫です。それよりも……、記憶が、戻りました」
一拍の呆けたような間の後。
「本当ですか! いやあ、それは良かった。こう言ってはなんですが怪我の功名……、あれ? どうしました?」
我が事のように喜びを見せてくれる彼に感謝の気持ちを捧げたいが、それよりもまずお嬢に対する怒りが先行する。その帯刀さんは私の怒りを察してか、困った顔で疑問符を浮かべていた。
「──グラム」
私の剣。私を識者として定義させ、ともに長い年月を歩んできた分身。背に宿る菩提樹の葉の刻印が熱を持ち、白銀の光が形となって顕現する。
まさか雇い主がラスボスであったなどとは思いも寄らなかったが、相手にとって不足はない。
「ネコ君!? ちょ、ちょっと落ち着いてください! そりゃあ確かにお嬢様はアレな人ですし、勢いに任せて私達まで攻撃に巻き込むような人ですが!」
結構酷い事を言っていた。
「安心してください。少しばかりお仕置きをするだけですから」
「え?」
慌てた帯刀さんというのもなかなか見れないだろう。少し意地悪をしてみる。
「付き人たるもの」
最後までは言わない。
あ、と諦めたように顔を手で押さえて、しかししょうがないと道を空けてくれる。
「時には教育のためお叱りすることができる者、自分で言った言葉でしたね」
お嬢がそんなやり取りをしている私達に気付き、悪どい笑みを向ける。帯刀さんは巻き添えを食わないように櫛田さんを連れて屋敷へ避難した。雪久は庭の木に吊るされている。
「フフフ、このあたしにあんな悪戯した罰よ! 思い知ったか!」
いやはや、これから思い知ることになるのはお嬢の方なのだがな。
「さてお嬢、少しばかり調子に乗りすぎたみたいだな。お尻ペンペンの時間だ」
プ、と一笑に付したお嬢は、さも下らないと言うように挑発してくる。
「ハハン、雨の日のあたしは無敵よ! やれるもんならやってみなさいよ! そらかかってきなさい!」
フハハハハハハ、と悪役の高笑いを響かせ水竜をまとう。
どうやら今時の流行については私の方が詳しいようだ。知っているか? そういうセリフを、最近ではなんたらフラグと言うのだそうだ。
「行けぇっ!」
幾重にも枝分かれした竜の首が、私を包み込むように襲い掛かってくる。まるで槍の雨のようだが、私にとってこんな攻撃はなんの意味も成さない。
撫でるようにゆるりとした速度で、切先が水の奔流に触れる。しかしたったそれだけのことで竜はただの雨へと戻り、地面へ染み込んでいく。
「──あ? あれ?」
おかしいな、とまた同じように竜をけしかける。こちらも同じこと。
「無駄だ」
「ちょ、ちょっとあんた! なにしたのよ! なによこれ!」
そう言っている間も同じことを繰り返し、お嬢の身を包む竜は質量を減らし頼りない姿になっていた。悔しさと焦りで顔を真っ赤にしたお嬢は地団駄を踏んでいる。雨はいくらでも降ってくるが、好き勝手に暴れたせいでお嬢の方がガス欠のようだ。
仕方ない、説明してやろう。
「私の持つ剣は竜殺しなんて呼ばれたこともあってな」
「だからなんだってのよ! ならこれでどうだ!」
そういう意味で言ったわけではなかったのだが。今度は竜ではなくテニスボール大の水弾がいくつも撃ち出される。しかしこの剣の前では水風船のように弾け、覆水は返らない。
「有り得ない事象を否定する剣というわけだ」
識者というものは特別な武装と契約を交わすことによって同化し、超常を起こす。しかしそれは本来起こりえない事象を喚ぶという行為であって、あるべきはずの未来、流れを歪めるというもの。グラムはそんな歪みを強制的に現実に引き戻す、識者にとって天敵とも呼べる能力を持っていた。
「ちょっと! なんなのよその反則技!」
「反則だろうとなんだろうとそういう能力なんだ、仕方なかろう」
それに、
「大体お嬢のそれの方がよほど反則技だろう」
「あたしはいいのよ!」
なんという自己中心的思考だろうか。ない胸を誇らしげに張る姿には同情すら沸いてくる。
そしてお嬢の認識には大きな誤りがある。
「私の能力はあくまで、相手を同じ土俵に立たせるというだけのものだ。反則というにはあまりにもささやかだろう?」
分が悪いと判断したのだろう。じりじりと後ずさりするお嬢に呼応するように、水竜がお嬢の周囲で右往左往している。
「きょ、今日はこのへんで勘弁してあげるわ! さあ、帰るわよ、ね!」
「つまり」
「聞きなさいよ!」
勝手に話を進める。
「剣士として私を越えない以上、勝つ見込みはないということだ」
かろうじて残っている水竜を切り捨て、お嬢の刀を弾く。どうやら雨を操るという能力以外はからっきしで、たったそれだけのことでお嬢は刀から手を離してしまった。地に突き立ったその刀は、蒼い光の粒となって消え去っていく。
「わわ私の負けね! ホラ、認めたわよ! さあ、バカな叔父様もやっつけたことだし帰ってご飯──」
「待て」
ムンズとお嬢の首を引っ掴む。
「たたたたた帯刀! あんた護衛でしょ! 主人を助けなさい!」
帯刀さんはお嬢に向けて一礼し、せめてもの配慮として目を逸らしていた。
「さあ、はじめようか」
夜の水那上別邸に、お嬢の悲鳴が木霊した。




