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第三章 兄妹と争いと(3)

「貴様ら……、なぜ──!」


 帯刀さんが視線を向けた先には、水那上雪久がいた。

 この状況が理解できていないのかしたくないのか、驚愕に目を見開き唖然としている。後ろには(みの)(むし)のような物体を引き摺っていた。くぐもったようなムグー、とかいう声を出す奇妙な生き物だ。

「お嬢様!」

 帯刀さんの怒気を孕んだ叫びで、あれがガムテープでぐるぐる巻きにされたお嬢だと気付く。

「いい格好だなお嬢」

「モガガモガモゴ(引っぱたくわよ)!」

 何を言っているのかわからない。

「櫛田! 貴様こんなことをしてただで済むと思っているのか!」

 蒼一郎をそのまま中年にして目つきを悪くしたらこんな大人になるんだろう。卑屈そうな男が激昂する。

「いいえ、ただで済まないのは雪久様、あなたの方ですよ」

 痛恨の返答に雪久がたじろぐ。額に汗を浮かべ、自分の思惑が崩れ去ったことをようやくと理解したのだろう。

「クソッ! クソォッ!」

 こんな状況だ、次に取る行動は簡単に予測できた。つい数時間前の出来事が頭を過ぎる。

「──畜生が! 道を空けろ! こいつがどうなってもいいのか!」

「本当にわかりやすい奴だな」

 そう言って雪久が懐から取り出した銃をお嬢の頭に突きつけた時──

 

 ──ゾワリ、と背筋が凍った。


 そこにいたのは温厚な紳士ではなく、殺意の塊。

「脅しとはいえゾッとしませんね。その引き金にはあなたの命も乗っているということをお忘れなく」

「ヒッ!」

 言葉は丁寧なままだったが、帯刀さんの瞳はナイフのように鋭く釣りあがっていた。質量を持った、それだけで傷つけられそうな視線に射竦められた雪久の膝は盛大に笑っている。お嬢はそんな状況ながらも平然としていた。

「い、いいから言う通りにしろっ!」

 振り絞るように必死で出しただろう声はカラカラに乾いていた。

 勝敗は決していても王手をかけているのはあちらだ。今は逃げの一手に回るしかない。仕方なしに揃って指示に従う。

「いいか、少しでも怪しい動きをしたら撃つぞ!」

 いかにも小物のセリフだ。帯刀さんも櫛田さんも一言も言わずに従っていたが、しかし雪久が部屋を出ようとしたところで呟く。

「ご安心を、これでお終いです」

「?」

 このままでは逃げられてしまうのではと思ったが、帯刀さんの表情はすっかり元の恵比寿顔に戻っている。

「彼は識者(ロア)という存在について、なにも知らないのですよ」

 それは答えになっていないが、妙な説得力のある一言だった。


「しばらく待ってからお嬢様を迎えに参りましょう。巻き添えを食いますよ」


                ▼


 これまで来た道をなぞるように屋敷を歩く。

 のんびりしている暇はないように思うが、帯刀さんと櫛田さんの二人に焦った様子はまるで見られなかった。

 と、外に近づくにつれ雨音が激しくなっていることに気付く。来た時は小降りであったのに、もう大雨と呼んでいいほどに勢いを増してきたらしい。


 雨は嫌いだ。理由はわからないが。


 ただ本能が危険だと、そう警告している。それはきっと誤作動ではなく、最後の扉を開くことに躊躇を覚えたほどに大きくなっている。

 雨の音だと思っていたそれが、まるで大洪水でも起きたかのような轟音になっていることが、警告が間違いではなかったと確信させるに至った。

「ああ、今回も(・・・)手加減なしですねえ」

 帯刀さんは困ったような顔をしながらニヤニヤと笑いが抑えきれず、どこかざまあみろという含みを持たせていたように思う。櫛田さんは依然としてなにも変わっていないように見えるが、なぜか浮き輪とゴーグルを装備している。そんな事より早く服を着て欲しい。

 もう私も覚悟を決めるべきだろう。扉に手をかけ一息に開け放つ。


「──フフフフフフウハハハハハハハハハフヒュウフフー!」


 お嬢は刀を手にしていた。

 その刀でガムテープによる拘束を解いたのか、悪役丸出しの顔で大爆笑している。

 雪久の姿は見当たらない。どこに行ったのだろうと左右を見渡してみるが、全く見当たらない。上空からゴボゴボと何かが溺れているような声が聞こえるが、全然見当たらない。

「いつもより高く上がってますね」

 目を逸らしたかったが、帯刀さんの言葉でつい視線を上へと向けると、そこには──


 竜がいた。


 雨は地に落ちるというのが当然の摂理である。

 しかしアイザック・ニュートンがもしもこれを見たならば、果たして万有引力を提唱することができただろうか。今この場においては、雨が集束し天に昇っていた。

 巨大な一つの流れと化したそれは雪久を飲み込み、更にはお嬢自身も飲み込んで肥大化していく。

 超自然的現象を間近にして愕然とする私に、帯刀さんが語りかける。

天包叢雲(てんぽうむらくも)。水那上当主に代々受け継がれ、しかしそれを宿す者は誰一人として現れなかった秘宝中の秘宝。しかし生まれる以前の胎内の赤子に宿り、お嬢様を識者(ロア)たらしめているのがあの刀です」

 お嬢がそれまでのしきたりを無視して次期当主として選ばれた理由。これがその一端なのだろう。

「その力は甚大。天ノ叢雲(あめのむらくも)の名で伝承に語り継がれたそれは、雨を呼び寄せ、自在に操るという天候すら支配した神の領域にまで達します」

 最も持たせてはいけない人間の手に渡ってしまったのではないだろうか。下手をすれば核のボタンを渡すよりも危険だ。だが、

「ならば初めから使っていれば良かったんじゃ……」

「しかし、です。まだお嬢様自身の力はそこまで自在に扱えるというレベルに至ってはおりません。限定状況下、つまり自然的に雨が降っている状態でしかその力は発揮できないというのが真相です」

 あの時、高速道路上で交わした二人のやりとりの意味がようやくわかった。

「さてそろそろ私達も逃げましょう。マリーナよりも酷いことになりますよ」

 ハッとした時には既に帯刀さんの姿が消えていた。櫛田さんはシュノーケルの調子を確かめている。

「ん?」

 マズイ、お嬢と目が合った。

 そういえばあの時私が描いた海苔眉毛が消えていることに気付き、そしてそれを思い出したのか、お嬢が目を細め額に血管を浮かべている。


「おいそこのお前」


 意外と冷静に話しかけられた。

「なんだお嬢」

「車であたしが寝てる間になんかしなかったか?」

「知らないな、私はなにも描いてない」

「そうかそうか、ところで何でイタズラ書きされたこと知ってるんだ?」

 ダッシュで逃げる。

「そこになおれバカネコオオオオオッ!」

 チィッ! 一丁前に頭を使ってきたらしい!

 しかし時既に遅かった。とっとと逃げていれば良かったと、先に立たないものを立てる。

 天を衝くように昇っていた水竜は地に下り、私を取り囲むように円を描いて勢いを増していく。どこかで見たような景色だ。その流れの中に意識を失った雪久を見つける。

「喰らえええええええ!」

 ああそうか、と、雨の奔流に巻き込まれたところでつい先日見たテレビを思い出していた。それだけではないような気もするが、今はどうやって抜け出そうか考える方が大事だ。


「──瑠璃姫プレゼンツ! 叢雲! タイフーーーーーーン!」


 浮遊感。

 視界が目まぐるしい速度で回転していき、身動きが取れないまま酸素だけが吐き出されていく。状況的にはかなりマズイことになっていた。


(息が……持たない……ッ!)


 巨大な竜巻に巻き込まれた私の意識は朦朧としはじめていた。

 まるで夢を見ているような感覚。しかし夢にしてはやたらと現実味を帯びた既視感に惑わされながら、私の意識は記憶の深層へと潜り込んでいった。



                      第三章 終

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