第二章 主と従と(4)
「そういえば聞きたいことがある」
「何よムグ」
揃って椅子に腰掛け、夜食を開始したお嬢に質問を投げ掛ける。
が、その前にこの部屋について少々の説明をしておこう。
ここは私に用意された付き人用の私室である。帯刀さんは最初からここに押し込むつもりだったのだろう、漂流時に私が身に付けていた布切れが嫌がらせのようにハンガーに掛けられていた。
部屋はとても従者に用意されたものとは思えないほど広く、お嬢の部屋の半分程度らしいが、ちょっとしたロックコンサートくらいなら楽々行える。
床は一面に絨毯が敷かれ、土足でいいのか躊躇させるほど上等な物だった。
壁際に親子六人で州の字を書けそうなベッド、多種多様なスーツ類で中身を埋められたクローゼットがあり、すぐ傍にマホガニー製のアンティークデスクと空の本棚が並んでいた。窓際ではヘンリー・クレイ・ワークが歌ったような大きな年代物が時を刻む。
中央部はできれば見ないでくれ。やはりマホガニーの英国アンティークだろうテーブルと椅子が置かれているのだが、その上が悲惨だ。乱雑にバラ撒かれた食料の数々、ソーセージやハム、パンが食い散らかされている。
お嬢の品のなさはもはや才能だ。これほどの家に生まれておきながら、ここまでヤンチャに振舞うことができる人間はそうはいない。
では話を戻そう。
「まずお前の兄のことだ。なぜ兄妹に狙われる」
以前帯刀さんはお嬢のことを『水那上財閥次期御当主』と言っていた。その辺りの事情だろうとは思うが、だからこそ解せない部分がある。なぜこの破天荒娘が次期当主なのか。
「阿呆な親父のせいよ」
期待するだけ無駄な話だが、お父様、とか呼ばないまでも親父はないだろう。一体誰がコイツに言葉遣いを教えたんだ。あと作法も。
「あたしの高校進学を祝うパーティでマイク掴んで盛大に叫びやがったわ。次期当主はあたしだって」
どうやら親父殿は放任主義ではなくバカ親だったようだ。
「バカ兄貴も出席してたからその場で文句言ってたわね。跡継ぎは自分じゃないのかって。しつこいくらい喚いてたわ」
当然と言わないまでもそう言いたくなるのもわかる。こいつの兄貴がどれほどの大バカ者かは知らないが、親父殿は間違いなくバカだ。目の前に広がる光景を見てお嬢が大財閥の跡取りだと思える奴がいたら一目だけでいいからお目にかかりたい。
「でも──」
お嬢の年齢よりも下に見える顔が、怒りを携えた険しいものになる。
「親父は条件を加えたわ。バカ兄貴が高校卒業するまで、三年に進級したところだったから一年の間に、あたしに負けを認めさせたら跡取りは譲る。そういう条件よ」
帯刀さんの部屋はどこだろうか。今すぐ契約を取り消したいのだが。
「それ以来バカに狙われるようになったってわけ。腹立たしいわ」
つまりだ、私もこいつとともに危険に身を晒すこととなったわけか。眩暈と頭痛と心労が同時に汽笛を響かせ私の脳内を駆け巡る。しかし疑問は幾つも残る。
「その兄や親父殿はここにはいないのか?」
兄はともかく、帯刀さんの性格からして親父殿には引き合わされると思っていた。とはいえ大財閥の当主においそれと顔合わせできるとも思っていなかったが。
「兄貴はあのパーティ以来別邸に引き籠もってるわ。学校には来てるみたいだけど行事以外で見たことないわね。親父は一年の半分以上は仕事で飛びまわってるかお母様のところに行ってるわ」
「お母様のところ?」
母に対してはそう呼ぶのだな、といまさらこいつがお嬢様じみた呼び方をすることに感心する。それにしても母とも別居しているのか。
「お母様は体が弱いのよ。空気の良いとこで療養して頂いてるわ」
「そうか……」
あのお嬢が少し寂しそうな表情を見せたことに驚きを禁じえない。しかしこれについてはそう突っ込んだ質問をすべきではないなと自重した。
「襲撃の頻度は」
「月に一回か二回くらいね」
希望的観測だが、最低で八回、最高で十六回か。むしろこいつを差し出してやりたいぐらいだが、帯刀さんの信頼を裏切り職を失う。それどころか帯刀さんに命を狙われかねないので、それは勘弁願いたい。
「付き人なんていらない。なんて言ってられないからしょうがないけどあんたで我慢してあげる。光栄に思いなさい」
後半部分は聞き流した。もちろん意図的に。重要なのは前半だ。
「付き人が必須な条件でもあるのか?」
「五稜館の決まりなのよ。高等部の生徒全員異性の付き人必須」
「五稜館とは一体なんだ」
「あたしの通う学校。私立五稜館学園。水那上、高千穂、御門、一之瀬、番流の五家が出資してできた名門子女オンリーのエスカレーター式」
「なぜ異性に限定する」
「ま、そのうちわかるわ」
私の想像力では及ばない金持ち共の道楽が注ぎこまれていそうな学校だ。お嬢のように歪んだ性格破綻者を輩出した歴史を誇ることだろう。
しかしある程度私の置かれた状況というものを把握できた。
「これが最後だ……、この跡目争いについて、お前自身はどう思っている」
「どうだっていいわ。欲しけりゃ自分の力で奪うわよ」
予想はついていたが、その手の欲はないようだ。
と、私の分を残すことなく夜食を食べ終えたお嬢が指を舐めながら立ち上がる。
「さ、あんたも早く寝なさいよね。明日は朝から出かけるわよ」
お嬢はそう言ってさっさと部屋をあとにし、部屋に残されたのはゴミと静寂だった。
夜食を食べ損ねたことも相まって、疲れが一気に押し寄せる。肌触りも寝心地も最高のベッドに横になり、今日はもう寝るとしよう。
まるで重力がなくなったような浮遊感。フカフカにもほどがある……。
そうして微睡に包まれていく意識の中、私の思考の大半を占めているのはお嬢の兄についてや、五稜館という付き人必須の学校のことなどではなく、体罰はどの程度まで許されるのだろうかということだった。
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気付けば私はいつの間にか椅子に掛けていた。
ここは天上の楽園だろうか。
私の前に次々と現れるのは美味そうな料理達。
薄靄に包まれた周囲には人の気配もない。召し上がってもよろしいか?
きっと夜食を食い損ねた私に神が与え給うたご慈悲なんだろう、そう思いフォークを握る。しかしだ、なぜか空腹のはずなのに訪れる満腹感。
食べたくて仕方がない。なのに腹は一杯。どういうことだ。
「……!」
気付けばどんどんと遠ざかっていくテーブル。なにか聞こえたような気がするがそれどころではない。ちょっと黙っていてくれ。
「…………!」
うるさいな。私は今料理達を追いかけるのに必死なんだ。ご飯よ待ってくれ、お願いだ。
「…………!」
遠ざかる料理とは反対にあまり思い出したくない声が次第に大きくなっていく。と──
「──起きなさいっ! このバカネコッ!」
目を開けるとそこには、真っ白な天井とお嬢の顔があった。釣り上がった目は小学生くらいなら眼力だけで泣かせることができそうなほど凶悪な怒りを携えている。
なるほど、あの満腹感はこれか。ベッドの上に土足で上がっているお嬢が私の腹を踏んづけていた。夢の中でまで食事の邪魔をするとは何か恨みでもあるのだろうか。
「退け」
「ふぎゃっ!」
足首を掴み引っ張る。体勢を崩したお嬢はベッドに顔面から落ちるハメになっていた。いい気味だ。
時計を見ると今は九時を少し回ったところ。仕方なく起き上がることにした。どうやら目覚ましをセットし忘れたようで、すっかり寝坊してしまったようだ。朝食は七時から八時までの間に食堂に行けば用意されていると言われていたのだが、時間とは無情なものである。
「朝食は食いっぱぐれたか」
「起きんのが遅すアアアアアアアアア!」
鼻を押えながら起き上がったお嬢の顔が灼熱の如く燃え上がっている。視線は私の腰の辺りで固定され、並々ならない殺気を私に気取らせる。耳を塞いでおこう。
「このっ! ド変態イイイイィッ!」
……耳鳴りがする。
寝室に無断で入る方が間違っていると思うんだが。
どんな格好で寝ようとそれは私の自由である。たとえそれが裸であったとしてもだ。
「仕方ないだろう。首が窮屈だったんだ」
「だからって裸はないでしょっ!」
いちいちうるさい奴だ。ドアは半開きなのだからがなり立てなくても聞こえている。
仕方なくクローゼット内のスーツを取り出し外出の支度をする。昨日のお嬢の言葉を思い出し、面倒くさいことこの上ないが付き人として初の仕事を迎えるためである。
テーブルの上には帯刀さんからの書置きが置かれ、こう書かれていた。
『必要な物を揃えておきました 帯刀』
書置きの隣にはカードと現金のびっしり詰まった財布、携帯電話、防弾ジャケット。最後のはなにかの手違いだろう。帯刀さんらしくないミスだ。
と思いたい。しかしながら昨日の件もある。できることならこういう都合の悪い記憶を現実ごと消し去ってほしいのだが、なんともままならないものだ。
それでも財布と携帯だけをジャケットに仕舞い、ベストにしては重すぎるそれは置いていくという決断をするあたり、私には危機感がないのか、それとも自信があるのか。
まあ考えても仕方がないし、動きづらいからという理由を後付けして納得することにした。
選り好みをせずに適当に選んだのはダークグレーのサマースーツである。ヨーロピアンスタイルなのか少し窮屈だ。
「待たせたな」
「遅いっ! 主人を待たせるなんてどういう付き人よ!」
「謝ったろう」
「謝ってないじゃない!」
バレたか。そこまでバカではないようだ。
機嫌の悪さを象徴するように、お嬢は通路の遥か向こう側まで響きそうなほどに音を立てて歩いていく。ところで私は地図がないと外にすら出られないのだが、コイツは把握しているのだろうか。するとエレベーターの前でお嬢が止まった。
「どうした? ここは一階のはずだろう。地下に駐車場でもあるのか?」
「昨日地図あげたじゃない。よく見てみなさい」
ハハン、と鼻で笑いながらお嬢がボタンを押す。
今日は流石に現在地を見逃すようなヘマはしていない。照らし合わせてみると確かにここはエレベーターなのだが、どうも妙であることに気が付いた。
地図には幾つものエレベーターのマークがあるのだが、その全てにアルファベットが振られていた。そしてその扉の向こう側は個室ではなく通路が続いている。昨夜も奇妙な違和感を覚えたものだが──と、ここでようやくカラクリが解けた。
「水平移動するエレベーターか」
「こんなダダっ広い家で歩いて毎日暮らすとか無茶に決まってるじゃない」
決まってる、とは言うがそんな無駄な設備を備えているお住まいはお嬢の家くらいしか知らない。それ以前にここしか知らないので確証はないが。
偉そうに語り続けるお嬢は放っておいて、とりあえずやってきたエレベーターに乗ることとしよう。しかしこれはエレベーターと呼んでいいのだろうか?
そしてタネがわかってしまえば昨日の迷子もこれのせいだとわかった。
地図には通常の通路に加えて、平面エレベーターの通り路まで描かれているのだ。そのせいで必要以上に入り組んだ表示がされており、この地図を作成した人間の悪意すら感じられる。ところどころ余分なイラストが書き加えられており、テーマパークの案内図のように見えたのはそのせいもあった。
まあ地図の右下に瑠璃姫作、というサインを確認し悪意を確信したわけだが。
そんなことを考えている間にエントランスブロックであるA地点へと辿り着く。帰りは居住ブロックであるX地点、これで安心できるというものだ。
気分が乗ってきたのか、相変わらずお嬢はペラペラと持論を語っている。しかしそんなことはどうでもいい。今の私にはここでの快適な暮らし方を模索する方が余程重要である。
そして、だ。ここだけは私も知っていた。
はたして人の力で開くのかどうか疑問に思える内門、その開門方法。脇に備えられたボタンを押すと開くという至って簡単な仕掛けになっている。ガリバー仕様の外門は警備室で管理しているらしい。どこもかしこも全自動だらけで人間味がないが、もしも手動だと言われたら私は迷うことなく窓をブチ破る。
「おはようございます、お嬢様」
朝日が注ぐ中、門を開けた先では黒スーツ達を従えて帯刀さんが出迎えてくれた。
「おはよう。あんた達、ちゃんと宿題やってる?」
「バッチリですよ! 仏文の和訳なんか度肝抜かれますぜ」
別の意味でな。満足そうに笑うお嬢にほんの少しだけ同情するが、自分でやらない奴が悪い。今度からは託す相手を選ぶことをお勧めする。
と、帯刀さんが耳打ちをしてきた。
「お嬢様のお姿に何かご感想は言われましたか?」
突然なにを言い出すかと思えば。これといってなにも感想がないというのが感想だ。
「いえ、なにも」
「あなたとのお出掛けを楽しみにしていらっしゃったんですよ。何度も何度も着替え直して。一言『似合ってる』だけでも良いのでお願いします。それだけで機嫌が良くなりますので」
何か企んでいそうな顔の帯刀さんに不安を覚えるが仕方ない。また不機嫌になって暴走に付き合わされるのも疲れる。ここは言われた通りにご機嫌取りでもしてみよう。
これだから自尊心の高いお嬢様というのは厄介だ。
「ネコ! 早く乗りなさい!」
「……はいはい」
黒塗りの高級外車の後部座席では、はち切れんばかりの笑顔を浮かべたお嬢が手招きしていた。ご機嫌取りをする必要など全く感じないのだが、あの楽しそうな顔に免じて今日だけは従うことにしよう。




