プロローグ 空と海と
──世界は誰のために在る──
こんな意義が存在するかもわからないような益体もない疑問を持ったことが誰しも──あるのか定かではないし、時間と労力と熱量の無駄遣いでしかないが、少なくとも私にはある。
厳密に言えば今そう思っている。
しかしなぜ私がそんなくだらないことを思いついたかと言うと、不思議な予感が突如として閃いたという、ただそれだけである。一世を風靡した偉大なるガキ大将や、目の前で私を睨め付けているこの女ならば、自信を持ってこう答えてくれるだろうという予感。
『自分のもの』と。
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それは最悪な一日の始まりに訪れた、僅かな幸福の時間だった。
目覚めたばかりの私の目には、壮観の一言に尽きる景色が飛び込んできていた。
頭上では海鳥が天空の自由を謳歌し、眼下では時折イルカが飛び跳ねている。
語りかけるように朗々と鳴く姿は幻想的で、まだ夢の中にいるのかと思わせる。
見渡した世界は、こんなちっぽけな私などまるで意に介さずに、どこまでも続いている。
視界はそのほとんどが万般の蒼。
遥か彼方の水平線。空と海とのコントラストが描いた絶景。
そして漣が、船も、心すらも、揺り籠のように穏やかに揺らしていた──。
さて、これは逃避と言うのだろうか。
むしろ現実を見つめ返してみたつもりだったのだが、底意地の悪そうな笑みを浮かべ、デッキチェアにもたれ踏ん反り返っている女は、どうやらそうは思ってくれなかったらしい。
「ボケーッとしてないでなんか言いなさいよ」
確かに呆けて見えただろうが、現状を把握するために周囲を確認したに過ぎない。
つい先ほど目覚めたばかりの私には、いったいなぜこんな状況に置かれているのかがさっぱりわからない。なぜやわらかなベッドの上ではなく、どことも知れない船の硬い甲板の上で目覚めなければならないのか。まあとりあえず素晴らしい景色は堪能したことだし、目の前の女でも観察してみることにしよう。
一言で言うなれば、絢爛豪華というのが適切だろう。個人的な意見ではあるが、おおよそ大抵の人間が同じ感想を抱くはずだ。ただ、決して豪奢な衣装に身を包んでいるわけではない。清楚な純白のワンピースに空色のカーディガンを羽織っただけという身軽な格好だ。
纏っている衣服それ自体はとても質の良い物だろう。特別私に鑑定眼があるというわけではなく、一目見ただけでレベルの違いに気付かされるくらいに出来がいい。
しかし、それはあくまで引き立て役でしかなかった。この女の存在そのものが先ほどの言葉を体現し、私はその純粋な美しさに目を奪われていた。
長い髪。まるで自身が輝いているように艶がかり、風にサラサラと解ける高貴な瑠璃色。光に透けるとさらに鮮やかに蒼が際立っている。
白い肌。その髪とは対照に染まることを拒絶するような澄明さを持ち、その手足は華奢で細くありながら、爪の先まで生命が溢れているようにしなやかだった。
凛として威を放つ目鼻立ちの整った顔。その大きな瞳はこの世の如何なる宝石よりも輝きに満ちた黒曜が填め込まれ、芸術品を愛でているような気にさせる煌めきを放っている。
だがこういう場合残念と言うべきだと本能が私に語りかけていた。天は二物を与えず。
あまりそういうことに拘りはないのだが、あえて一言で言い表すならばこうだ。
「だから黙ってないで何かしゃべ──」
「──貧乳」
「ンだとゴラアアアアアアァァァァァァァァ──!」
女が猛然と立ち上がり怒気を孕んだ奇声を発している。後半はほぼ超音波だ。
まいったな。思わず声に出してしまったようだ。しかし失礼な表現だったのだろうか。私の持つ語彙ではこれ以上ないというほど適切に思えたのだが、先だって美しいと表現した顔が憎悪に歪んでいることからも、失敗は確定しているのだとうかがえる。
……スマナイ、顔だけではなかった。その威風堂々とした姿も見る影なく、立ち上がり大股を開いて拳を握りこんでいる。小刻みに震え今にも襲いかかってきそうだ。
しかし座っている時はわからなかったがこうして全体を眺めてみると、美しいよりは可愛いと言った方がいいかもしれないと、認識を新たにしていた。女というより少女と形容するべき子供がそこにいた。
背が低く、立ち向かい合った状態では頭頂部がはっきりと観察できるほどで、至極どうでもいいが旋毛が時計回りであることが確認できる。
「お嬢様! 落ち着いてください!」
「ここここの無礼者め! もう一度海の藻屑にしてやるわ!」
少女の周囲を固める黒いスーツの集団、どうやら使用人らしき人達が悪鬼の如きこの少女を抑えてくれているようだ。
空気を焦がす炎天下の中、見ているだけで暑苦しくなってくるスーツに身を包んだ男達は、閉め損ねた蛇口のように汗をダラダラと流している。その忍耐力と根性に拍手を送りたい。
まあそれはともかくとして、どうも気になる言葉が聞こえた気がする。もう一度とはどういうことだろうか。
「ああああんたねえ、命の恩人に向かってなんて言い草よ! まだ発展途上なだけよ!」
「「その通りでございます!」」
男達が声を揃えて少女に同意する。統制が取れているのがまた鬱陶しい。
しかし眩暈がしてきた。どうやら私はこの騒々しい少女に命を救われたらしい。そういえば私の体がズブ濡れなのはそういうことか。
目覚めてみれば陸地の影すら見えない海のど真ん中。頭の天辺から爪先まで塩気のある水で濡れた自分。そしておそらくはこの少女の所有物だろう船の上にいる。
いくらなんでも理解するなという方が難しい。それを補足するように一人の男が私の傍らに立ち、小声で耳打ちをしてきた。
「……あのお方が海に浮かんでいたあなたを見つけたんですよ。もちろん引き上げたのは私ですが。お願いですから刺激するような言動は控えてください……」
言われて見ればこの男、スーツもシャツもベタリと肌に張り付き、髪からは水が滴り落ちている。心からの感謝を捧げよう。そして手遅れな気もするが、この羽交い絞めにされている少女にも一応の謝辞を述べておくことにした。
「ありがとう」
「フン! 恩をいきなり仇で返すような奴助けるんじゃなかったわ!」
実際に助けてくれたのはベタベタになったスーツを脱ぎもせずじっと耐えている彼だろう、と言いたくなったが、そこはまた抉れそうなので黙っておこう。
しかし一応の礼を述べたことで多少は怒りも治まったのか、少女はまたデッキチェアに深く腰掛け、鑑定するような目つきで上から下へとこちらを眺めている。
黒スーツの男達もホッとしたような面持ちで少女の後ろに控えた。
「あんた……、あんな海のど真ん中でなにしてたわけ? 遠泳にしちゃ頑張りすぎよ」
むしろこっちが聞きたいくらいだ。目が覚めればデッキチェアの上で踏ん反り返った女王様気取りの貧乳女……、失礼、発展途上の少女が私を見下ろしていたのだ。
「ちょっと、だからなんか言いなさいよ」
一瞬男達がビクリとする。安心してください、先ほどは失言でした。
まあ現状の把握はできた。では次にすることといえばこうなった経緯を思い出すことだろう。私は意識を失う前に何をしていたのか、記憶の糸を手繰り寄せる。
と、しかし返ってきたのは空虚な軽すぎる手応え。おかしいと何度も何度も記憶の逆再生を行う。
…………
…………?
だがどれだけ考えても、その疑問が解消されることはなかった。
どうやらそれ以前の問題のようだ。改めて眩暈を覚える。
アイデンティティの喪失。
最も根本的な疑問。
ここはどこで、私は誰だ?
感想など残していただけると嬉しい限りです。
第四回MF文庫Jライトノベル新人賞応募、二次落選作。
最近ようやく落ちた理由がわかるようになってきました。
ただ、反省と教訓の意味も籠めて、そういう部分は直さずほぼ当時の原文ママです。




