「真の名」と信頼
それから10ヶ月あまり、セレーネーと共にいくつかのクエストを一緒に消化する日々がつづいたある春の日、セレーネーは自らの「真の名」を私に示した。
「真のことば」で「ミニー ネル オドソル(我ガ名ハ「輝キ」ナリ)」と。
たいへんな信頼である。心臓がひっくりかえるほど驚いた。
以前に参加した白の陣営のミッションでも、ともに行動する仲間とは命を預けあったが、このミッションではまず「白の陣営のメンバー」として評価・判断されていたのであって、個人として信頼をうけたわけではない。
「真の名」を明すほどの深い信頼を示してくれる相手にであったのは生涯ではじめてのことである。
「真の名」とは、「真のことば」によって名付けられた、その人固有の「真実の名」であり、男子は6才、女子は7才の夏至の日に「名付け親」から授けられる(高い精神感応力をもつ魔導師に「発見」してもらう、と言い換えることもできる)。神々に願いを捧げる時など、心の中で神に語りかける時に自称として用いるが、日常生活で一般に使用することはない。きわめて秘密性が高く、通常は、友人はむろん親兄弟や妻子など自分の家族にすら明かすことはない。なにかの拍子に敵対者に知られ、呪いでもかけられたなら致命的なダメージを受けるからである。
「真のことば」は、太古に大地を海中から持ち上げた神々が用いたとされる言葉で、人間が魔法や呪術をかけようという場合に用いられる言語である。ヘラス語(ギリシャ語)をはじめ、現在の世界各国で人々が用いていることばは、この「真のことば」が訛り、崩れたもので、これらを用いて魔法・呪術をかけようとしても、ほとんど効くことはない。
魔法・呪術にかならず必要なのは「真のことば」を用いることであり、「真の名」ではない。「真の名」のかわりに普通名詞をもちいても、それなりに魔法・呪術はかかる。たとえば、そのへんの足もとにおちている石ころを魔法を使って放り投げる場合、「石」の普通名詞である「タシュ!」という呼びかけを用いて十分に目的を達成することができる。あるいは冒険者どうしがバトルする場合なども同様である。たとえば雷撃をくらわせる場合「ワガ聖ナル雷ヨ!コノ○○○ヲ撃テ!」と「真のことば」で唱えることになるが、○○○にあたるターゲットの呼び方は、「テル カラ フン(この黒き衣の者)」とか「ヘラス ヘレール メロス ゲデク テル フン(ギリシャ語でメロスと称するこの男)」という単語で代用しても、八,〇〇〇〜九,〇〇〇とか、クリティカルが出た場合には一二,〇〇〇など、けっこうなダメージを与えることができ、これで十分にバトルは成立する。
これがもし○○○の部分に「真の名」が入ろうものなら、ターゲットが受けるダメージは、即死級のものとなる。
冒険者たちは、ミッションの実行中、パーティ仲間と互いに命を預けあう関係をもつが、それでも、基本的には「真の名」を仲間に告げることはない。その後のクエストで敵・味方にわかれることもありうるからだ。
医師は技量を尽くしたのち、神に対して治療の成功を祈る「神頼み」を行う関係で、他人の「真の名」を多数知る職業のひとつである。かつてデュオニスは、「謀反人(=白の陣営のメンバー)」を治療した場合に患者の「真の名」を報告するよう医師たちに求める法律を制定しようとして失敗したことがある。
現在のシラクス市政府の医療長官は、医師たちにデュオニスのための密告制度をおしつけ、治療をうけにきた冒険者たちの情報をあつめる体制を作り上げた功績で今のポストを獲得した男で、この諜報網に引っかかって命を落とした白の冒険者は数しれない。そんな男が、「冒険者の情報の密告と、冒険者の「真の名」の名の密告は、全く質の異なる問題です!前者は医師たちに王への忠誠心の有無や程度を問うだけですが、後者は医師たちに人の道を踏み外すよう強いるものです!」と、デュオニスのこの法案に猛反対したのである。
「私がつくりあげた医師の密告体制は、デュオニス様ご1代にのみご奉仕するためのもので、デュオニス様が神に召されるとともに、跡形もなく消滅する性質のもの。それに対し、この新しい法律は、医者という職業への信頼を徹底的に失墜させ、その悪影響は後世に何世代ものこってしまう。だからこんなものを許すわけにはいかない!」と、マグナ・グレキア中の医師によびかけ、法律を撤回せねばすべての医師が医療活動を放棄する!とデュオニスに迫ったのである。
デュオニスの狗とさげすまれているこの男にも、彼なりの、医師としての倫理感があるのだなぁ・・と評判になった。
「真の名」とは、じつにこのようなものであり、世間では、他人の「真の名」をひとつも知ることなく生涯を終える人が大部分である。そのようなものを他人に告げることは、とてつもなく強く、深い信頼を相手に示すことになるのである。
冒険者として、信頼できる仲間と巡り会うことは大いなる幸せである。
セレーネーから「真の名」を示されて、うれしさのあまり天にも昇る心地で舞い上がったことはいうまでもない。
ところがその翌日になるとセレーネーの態度は一変しており、それからさらに数日ののち、第1話で述べたように、わけもいわずにいきなり、突然、絶縁を通告されてしまうのである。
・デュオニスの医療長官のエピソードを追加
・セレーネーが「真の名」を告げてから態度が豹変するまでの時間の経過を修正