婚約破棄してくれてありがとう〜商家の地味娘、実は王国唯一の上級薬師でした〜
プロローグ
「リナ、君との婚約を破棄する」
その言葉は、春の陽光がやわらかく差し込む午後の応接間に、ひどく無感情に響いた。
ダルトン・フォーリー侯爵子息——黄金色の髪をさらりと撫でつけ、仕立てのいい上着を纏った二十歳の青年——は、まるで天気の話でもするように言い放った。向かいのソファには、商家の娘リナ・ベルクが座っている。
「……理由を、聞いてもよいですか」
リナの声は、自分でも驚くほど静かだった。動揺していないわけではない。ただ、不思議なことに涙が出なかった。
「正直に言おう」ダルトンは窓の外へ視線を逸らした。「君は真面目で、悪い娘ではない。だが僕には、もっと華やかで——社交界で輝ける女性が必要なんだ。商家の出では、侯爵夫人として釣り合わない。それだけのことだよ」
それだけのこと。
リナは胸の奥で何かがすとんと落ちる音を聞いた。悲しみではなく、あるいは——長い間疑っていたことが、ついて証明された、という奇妙な安堵に近い感覚だった。
「わかりました」
「……怒らないのか」
「怒る理由がありません。ダルトン様が正直に話してくださったことに、むしろ感謝しています」
青年は少し居心地悪そうに眉を動かし、「話がわかる娘だ」と言い残して立ち上がった。扉が閉まる音が、応接間に短く響く。
リナはしばらくその場に座ったまま、膝の上で手を組んでいた。
——五年間の婚約だった。
物心ついた頃から、ベルク家の長女であるリナはフォーリー侯爵家の嫡男と許嫁の関係にあった。父が取引先との縁を深めるために結んだ約束事で、リナ自身に選択の余地はなかった。ダルトンは悪い人間ではなかったが、最初から二人の間に恋愛感情はなかった。お互い、義務として付き合っていた——それが実態だった。
だから本当は、怒りよりも先に来たのは解放感だった。
(自由になった)
リナはひとり、静かに微笑んだ。
第一章 秘密
翌朝、リナは王都の外れにある一軒の建物へ向かった。
「ベルク先生、おはようございます!」
薬師ギルドの試験場——その受付で、二十代の職員が顔を輝かせた。リナは苦笑する。
「ギルドの中では、ただの『リナ』でお願いします」
「でも昨日、上級薬師の最終試験に合格されたんですよ? 先生と呼ばせてください!」
上級薬師——それが、リナが三年かけて密かに取得した資格だった。
事の始まりは十七歳の頃。婚約者の屋敷へ向かう道すがら、倒れていた老婆を助けようとしたとき、通りがかりの薬師に処置の仕方を教えてもらったことがきっかけだった。その日の帰り道、リナは薬師ギルドの門を叩いた。
婚約者がいる身で資格取得など、侯爵家が聞けばどう思うか——だからリナは誰にも言わなかった。もともと父の商家を手伝いながら帳簿の管理や薬草の仕入れをこなしていたため、知識を深めるのに時間はかからなかった。
そして昨日——婚約破棄の翌日——リナは試験に合格した。
「上級薬師の合格者は、王国で現在何人いますか」
「ええと……登録者で十二名です。先生が十三人目ですね」
十三人。王国の人口は数百万。その中の十三人。
「昨日の合格は、ギルド内に通知しましたか」
「もちろんです! ギルド長が大変喜ばれて——あ、そういえば今朝、お手紙が何通か届いています」
受付の女性が差し出した封筒を見て、リナは目を瞬かせた。
一通目——王宮医務局の封蝋。
二通目——王国騎士団の紋章。
三通目——大商会「アルケミア」の社章。
「……全部、昨日届いたんですか」
「はい。ギルド長が言うには、上級薬師の合格は身分を問わず、貴族から平民まで各所に通知される決まりだそうで」
リナは封筒を胸に抱えたまま、しばらく動けなかった。
第二章 引き抜き合戦
王宮医務局からの手紙は、端的だった。
『上級薬師資格取得、誠におめでとうございます。つきましては、王宮専属薬師として迎えたく、ご検討いただければ幸いです。待遇等については面談にてご説明いたします。——王宮医務局長 エドワード・キャラン』
騎士団からの手紙は、もう少し熱烈だった。
『我が騎士団は慢性的な薬師不足に悩んでおります。上級薬師の資格をお持ちの方を迎えられるのであれば、団長として最大限の待遇をお約束します。ぜひ一度、団本部へいらしてください。——第一騎士団団長 グラン・セルヴァ』
アルケミアからの手紙は、三通の中で最も長く、最も具体的な数字が書いてあった。
リナはそれらを机の上に並べ、額に手を当てた。
(どうしよう)
困惑していた。怒っているわけではない、悲しんでいるわけでもない——ただ純粋に、昨日と今日で世界が変わりすぎていて、頭の整理が追いつかなかった。
結局リナは、三ヶ所すべてに返事を出した。面談をお受けします、と。
最初に訪れたのは王宮医務局だ。
白と金を基調にした廊下を歩きながら、リナは内心の緊張を悟られないよう努めた。案内してくれた文官が扉を開けると、中には白髪の老医師と——もう一人、予想外の人物がいた。
「リナ・ベルク殿ですね」
第二王子、レオン・フォルクスが立ち上がった。薄い金の髪と静かな青い瞳。二十二歳にして文武に秀でると名高い王子が、わざわざ面談に同席していた。
「殿下が……直接、いらっしゃるのですか」
「上級薬師の合格者の十三人目というのですから、決して大げさではありません」レオンは柔らかく微笑んだ。「リナ殿のことは調べさせていただきました。商家の娘でありながら、三年間、誰にも言わずに独学と実習を続けた。その努力と誠実さに、私は敬意を感じています」
リナの頬が、わずかに熱を持った。
「本題に入りましょう」エドワード医務局長が咳払いをした。「王宮専属薬師として、最高位の待遇でお迎えしたいと考えております。具体的には——」
数字を聞いた瞬間、リナは椅子から転げ落ちそうになった。
翌日は騎士団本部を訪ねた。
団長のグラン・セルヴァは、見るからに歴戦の武人で、大柄な体躯に傷だらけの手をしていた。しかし話し方は意外に気遣いがあり、リナを緊張させない工夫をしてくれているのがわかった。
「正直に言う。うちの騎士たちは怪我が多い。上級薬師に来てもらえたら、どれだけ心強いか」
「騎士団に薬師を置くことはできないのですか」
「下級薬師ならいる。だがな」グランは苦い顔をした。「先月も重傷者を三人出した。解毒と外傷処置を同時にできるのは、上級じゃないと無理なんだ」
リナは胸が痛んだ。純粋に、助けたいと思った。
「条件の話をしてもよいですか」
グランの顔が明るくなった。
三ヶ所目、アルケミア商会を訪ねたのは三日目だ。
会長のシド・アルケミアは、四十代の男性で、目がくるくると動く商人らしい人物だった。執務室には薬草の香りが満ちており、棚には見たことのない薬品が並んでいた。
「単刀直入に言わせてもらおう。君に来てほしいというより——君と組みたい」
「組む、とは」
「うちは薬の製造と流通をやっている。だが研究開発が弱い。上級薬師として、研究部門のトップをやってほしいんだ。給与より、特許と利益分配で報いる。どうだ」
リナは目を細めた。商家の娘として育った本能が、この提案に強く反応した。
(これは……面白い)
第三章 ざわめき
三ヶ所の面談が終わったころ、王都の上流社会はにわかにざわめき始めていた。
「フォーリー侯爵家が婚約破棄したベルク家の娘が、王宮と騎士団とアルケミアに引き抜かれているらしい」
「上級薬師だって? あの商家の娘が?」
「第二王子殿下が直接面談されたとか……」
噂は貴族の屋敷を、商会の茶会を、あっという間に走り回った。
その噂は当然、ダルトン・フォーリーの耳にも届いた。
「……リナが、上級薬師?」
友人からその話を聞いたとき、ダルトンは珈琲カップを取り落としそうになった。
「そうらしいよ。しかも王宮と騎士団が取り合いをしているとか。第二王子殿下まで出てきたって話だ」
「王子が……」
「ダルト、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
大丈夫ではなかった。
ダルトンは自分が何をしたのかを、ようやく理解し始めていた。社交界で輝ける女性が必要だと言った。釣り合わないと言った——商家の出では、と。
だが今、社交界で最も輝いているのは、他でもないリナだった。
一週間後、ダルトンはベルク家を訪ねた。
応接間で向かい合ったリナは、婚約破棄の日と変わらない落ち着いた顔をしていた。ただ、纏う雰囲気がどこか違う。背筋が、以前より伸びているように見えた。
「リナ、突然すまない。その……話があって来たんだ」
「どのようなご用件でしょうか」
「先日のことなんだが——」ダルトンは言葉を選んだ。「君のことを、少し……誤解していたかもしれない。上級薬師を取得されていたとは知らなかったし、もし再び——」
「再び?」
リナは首を傾けた。柔らかく、しかし明確に。
「婚約のお話でしたら、お断りします」
「……っ」
「ダルトン様は正直な方です。社交界で輝ける方が必要だとおっしゃった。今も、それは変わらないのではないでしょうか」
「しかし、君は——」
「私が王宮や騎士団に評価されているのは、薬師としての力があるからです。社交界での華やかさとは、また別のことです」
リナは穏やかに続けた。
「もし私が上級薬師でなければ、ダルトン様は今日ここへいらっしゃいましたか?」
ダルトンは答えられなかった。
「思っていた通りです」リナは静かに微笑んだ。「どうか、ご自身に合う方を見つけてください。私のことはお気になさらず」
第四章 選択
その翌週、リナは三ヶ所からの正式なオファーを手元に並べた。
王宮専属薬師。
騎士団付き上級薬師。
アルケミア商会、研究部門トップ。
三つとも、魅力的だった。三つとも、悩ましかった。
そこへ、四通目の手紙が届いた。
差出人——第二王子、レオン・フォルクス。
『先日の面談とは別に、個人的にお話したいことがあります。もしよろしければ、王都北の「白薔薇亭」にて、来週の昼にお時間をいただけますか。——レオン』
「……個人的に」
リナはその一文を何度か読み返した。
白薔薇亭は、王都でも指折りの品のある茶館だった。王族が私的に使うことがある場所と聞いたことがある。
迷った末に、リナは返事を書いた。「参ります」と。
約束の日、白薔薇亭の個室でレオンはすでに待っていた。護衛を一人だけ扉の外に残し、二人きりになる。
「突然呼び出してしまって申し訳ありません」
「いいえ。殿下のご用件とあれば」
「今日は殿下ではなく、レオンとして話させてください」
レオンは真っ直ぐにリナを見た。青い瞳に、迷いはなかった。
「率直に言います。あなたに興味があります——薬師としてだけでなく、一人の人間として」
リナは目を丸くした。
「殿下……いえ、レオン様は、私のことをどれほどご存知なのですか」
「婚約破棄のことも知っています。それでも——いや、それを知ったうえで、あなたに会いに来ました」
「なぜ、破棄された娘などを」
「あなたは三年間、誰にも言わずに努力を続けた。婚約破棄の翌日に試験を受けた。三ヶ所からオファーが来ても、慌てず、きちんと吟味している」レオンは言葉を続けた。「華やかではないかもしれません。しかし、あなたの芯には本物の強さがある。それが、私には眩しく見えます」
リナはしばらく黙っていた。
窓の外では春の陽光が白い花々を照らしており、どこか婚約破棄の日と光の色が似ていると思った。
「……一つ、聞いてもよいですか」
「何でも」
「レオン様は、騎士団の方ですか、それとも王宮の方ですか」
レオンが一瞬、きょとんとした顔をした。それからゆっくりと笑った。
「どちらの立場から来たわけでもありません。どちらのオファーとも無関係に——ただの、レオン・フォルクスとして来ました」
「ならば」リナも、初めて少し砕けた口調になった。「まずは、お友達から始めませんか。私は人を見る時間が必要な性格なので」
「もちろんです」
レオンは嬉しそうに、しかし控えめに頷いた。
第五章 決着
その翌月、王都で開かれた春の夜会に、リナは招待された。
以前ならば婚約者の付き添いとして出席するだけだった場所に、今日は薬師ギルドの代表として名が呼ばれた。上級薬師の称号を持つ者として、王宮の医療政策に関する表彰を受けるためだ。
会場に入った瞬間、視線が集まるのを感じた。
「あれがベルク家のリナ嬢か」
「上級薬師の……」
「第二王子殿下と親しいとか」
ざわざわとした囁きの中に、一つ見知った顔があった。
ダルトン・フォーリーが、隣に華やかな令嬢を連れて立っていた。社交界向きの、明るく美しい女性だった。ダルトンが望んでいた通りの相手なのだろう。
二人の視線が一瞬、交差した。
ダルトンの表情が、複雑に揺れた。
リナは、ただ微笑んだ。敵意でも哀れみでもない——心からの、晴れやかな笑みで。
(よかったじゃないですか。望む通りの方と)
そして視線を前に戻した。壇上では王宮医務局長のエドワードが、リナを呼ぶ声を上げていた。
「上級薬師リナ・ベルク殿。王国医療発展への貢献を称え、ここに王宮上級薬師の称号と、医療顧問の地位を授与します」
拍手が会場を満たした。
リナは壇上で、一礼した。顔を上げたとき、会場の奥でレオンが静かに拍手をしているのが見えた。目が合うと、彼は小さく頷いた。
「おめでとうございます、リナ殿」エドワードが手を差し伸べた。「今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ」
リナは握手を返しながら、ふと思った。
一年前の自分に教えてあげたい。婚約破棄されても、泣かなくていい。あなたはちゃんと、自分の足で立てるから——。
エピローグ
それから半年後。
リナは王宮医療顧問の職に就きながら、アルケミア商会との研究提携も結び、月に一度は騎士団へ出向いて怪我人の処置にあたる、という少々多忙な生活を送っていた。
「本当に休まないんですね」
騎士団の医務室で包帯を替えながら、レオンが呆れたように言った。彼は今日、民間への視察名目でここへ来ていた——実際のところ、リナの仕事ぶりを見に来るのが目的だというのは、二人の間では暗黙の了解になっていた。
「好きでやっていることですから」
「三ヶ所を掛け持ちするのが、本当に好きなんですか」
「必要としてくれる場所があるというのは、幸せなことです」
レオンは少し黙った。
「……あなたは変わっていますね」
「よく言われます」
「誉め言葉です」
リナは手を止めずに、ちらりとレオンを見た。彼は本気の顔をしていた。
「レオン様」
「はい」
「来週、新しい鎮痛薬の試験をするのですが——立ち会いますか? 退屈かもしれませんが」
「行きます」レオンは即答した。「絶対に行きます」
リナは小さく笑った。
窓の外では、夏の終わりの風が、薬草の香りをのせてゆるやかに吹いていた。
あの春の午後、応接間で婚約破棄を告げられたリナ・ベルクは——今、誰に頼ることもなく、自分の選んだ場所に立っていた。
それはきっと、婚約破棄がなければ訪れなかった場所だった。
だから、感謝している。
本当に、あの言葉に。
——了——




