2-2 素晴らしきこの世界
他人を殴る事に、躊躇いなどない。
自分を通す為、生きる為、力を振るわなければならない状況に今まで居た俺は、その事に疑問を持たなかった。
教会に、あんな穢れを運んできたあの女が許せない。
自分の目標としていた場所を汚したあの女が許せない。
だから、殴る。
……だが、本当に、それで良いのか?
振り上げられた拳を見て、唖然とする三人を見る。
一人は、アレクシアと名乗った美しい女。もう一人は、瞳を潤わせた小柄な女。最後の一人は、どこかアレクシアに似た、中性的な容姿をした性別不明の人物。
三人が一様に、俺を見て、目を見開いていた。
その眼差しに、帝都での出来事が脳裏によぎる。
助けを求める手を振り払い、死体の山を踏み歩き、気に入らない者を薙ぎ払ってきた、あの頃を。
今までの自分を捨てようとしていた筈なのに、また俺は、あの瞳と正対しなければならないのか?
そんな事で良いと、本当に思えるのか?
「…………え?」
過去を思い返し、拳を下げると、アレクシアが意外そうな声を漏らした。
「何だ? 殴って欲しかったのか?」
殴ろうとした時以上に茫然とした顔でこちらを見つめるアレクシアに、そんな嫌味を言う。
「な――――」
顔を赤くして、何か言おうとするアレクシアに背を向けて、俺はその場を後にした。
――――――――――――――――
「……何だったんですか? あの人」
ニーナが、僕の疑問も代弁するように、男の背中を見ながらそう言った。
「無茶苦茶な人だったね」
拳を振り上げた時の、男の表情を思い返す。
……あの人は、確実に、姉さんを殴ろうとしていた。
それこそ、何のためらいもなく、至極当然のように、良心の呵責なしに、だ。
だというのに、あの人は、急に拳を収めた。
突然、迷いが見えた。
あの瞳の揺れは、何かに戸惑っているようだった。
「無茶苦茶、ね。そんな言葉じゃ足りないわ」
吐き捨てるように、姉さんが言った。
普段、想いを押し殺し、表には出さないよう努めていた姉さんには考えられない程、感情の籠った声だった。
「そうです! お姉さん、悪い男に引っかからなくて、良かったですね!」
何か勘違いしている様子のニーナは、明るい声で姉さんを励ましていた。
どうも、姉さんがあの人に好意を持っていると、そんな想像をしているようだった。
確かに、あの人に対する姉さんの態度や、眼差しは、普段とは考えられない程想いのあるものだった。
昔から施されていた教育の賜物か、どんな失礼な態度をとられても、超然とした雰囲気を崩さなかった姉さんが、ほぼ初めてと言っても良い位に、人間臭い行動を取ったのだ。
勘違いしても仕方はない。
しかし、長年家族として一緒に暮らしてきた僕には分かる。
姉さんがあの人に向ける感情は、恋ではなく、限りなく憎しみに近い憤怒だろうと。
恋心というには、あの感情はドロドロし過ぎている。
かといって、嫌悪と言うには激し過ぎる。
姉さんは、怒っているのだ。
あの人の、何かに。
僕には、それが何なのか分からなかったが、そうとしか考えられなかった。
姉さんの表情を覗く。
今はもう見えなくなった男の去って行った方向を見る姉さんの表情は、歪んでいる。
「……帰るわよ、クロリス」
少しして、普段ならあり得ない、乱暴な口調で姉さんが帰宅を促す。
「それより、姉さん。何があったか、訊かせてもらえる?」
今まであの人の強烈な印象で忘れていたが、一体、あの仮面の人間たちはなんだったのだろう。
ニーナの言う通り、イベントなら良いのだが……僕には、そうとは思えなかった。
姉さんに向けられたあのナイフは、確実に姉さんを殺す気だった。
「ニーナの事なら心配いらないよ。いつもはこういう娘だけど、口は堅いから」
ニーナの方を見て、逡巡している様子の姉さんに、僕はそう声を掛ける。
確かに、ニーナの常はハイテンションで、明るい性格だけど、僕は知っている。
ニーナは、人の秘密を漏らさない、とても信頼の置ける人物だと。
「はいです! 私、口は重いです。というより、生まれてこのかた喋った事ありません!」
任せてください! とニーナはちいさな胸を張る。
「ま、まぁ、少しニーナの頭を疑ってしまうような事言ってるけど、口が堅いのは本当の事だから。安心してくれて良いよ」
それに、と僕は続けて言う。
「それに、ニーナも、『五家』の内の一つ、カステラ家の一員なんだ。僕らの家に関する事なら、尚更言わない筈だよ」
――五家。
昔から、聖都の中で重要な立ち位置を持つ家系。
それぞれが行政に深い繋がりがあり、実質、この聖都を動かしているといっても過言ではない程の権力を持つ。
そして、僕らの『リヴァーモア家』も、ニーナの『カステラ家』も、この五家の一つである。
そして、五家は、自らの保身の為、自分たちの情報を漏らす事はなく、そして、五家のトップである、リヴァーモア家に逆らう事もない。
「……そう。それでは、話しても平気、なのかしら? ねぇ、ニーナさん」
姉さんが妖艶に笑う。
どうも、乱されていたペースが戻ってきた様だ。
「――は、はい! 任せてください!」
その狡猾な毒蛇のような、獰猛な獅子のような瞳に圧倒されたのか、ニーナは背筋をピンと伸ばし、姉さんに向かって敬礼した。
「ふふ、良い娘ね。クロリス、『遮断の響奏』を」
『遮断の響奏』。人の認識に効果を及ぼす『第四響奏術』の一つであり、他人の、視覚だったり、聴覚だったりといった、認識を遮断する、第四響奏術の中でも高位の術式なのだが、他人に漏らしてはならない情報のやり取りをする事の多い貴族の間では、基本を差し置いてでも教えられるものだ。
姉さんの言葉に頷いて、僕は言葉を紡ぐ。
「クロリス・リヴァーモア、ニーナ・カステラ、そして、アレクシア・リヴァーモアに関する、『全ての情報の遮断』を開始。繰り返す、クロリス・リヴァーモア、ニーナ・カステラ、そして、アレクシア・リヴァーモアに関する、『全ての情報の遮断』を開始」
術式の起動の際に紡ぐワードは、術者によって様々だ。
詩のように、美しいワードを紡ぐ者もいれば、語呂合わせのように、言いやすい言葉紡ぐ者もいる。
僕の様に、事実だけを告げるワードの紡ぎ方は逆に珍しいらしい。
「……相変わらず、風情の欠片もないワードですね、先輩のは」
ニーナが、やれやれという風に肩を竦める。
「全くね。展開の早さは流石だけど、もう少し、風流と言うものを学んだ方が良いのではないかしら?」
姉さんとニーナは、どうも昔から僕のワードの紡ぎ方が気に入らないらしい。
やりやすいんだけどなぁ。このやり方。
「ま、まぁまぁ、発動出来た事だし、そこはひとまず置いておいて、姉さん、話してくれるね?」
このままでは二人から説教が始まりそうだったので、僕は話を本題に進める。
「そうね。術式の効果も、いつまで持つか分からない事ですし」
そう言って、姉さんは事の顛末を語り始めた。
―――――――――――――
帝都では考えられなかった、綺麗に舗装された並木道を進む。
煉瓦造りの石畳に、陽光を柔らかに受け止め、風に揺れる木々達。道を往く人々ですらも、温かな空気を纏っており、まるで、一つの楽園のようであった。
その、淀み過ぎていた帝都とも、綺麗過ぎた教会やあの女とも違う空気は、居心地が良く、聖都に来て良かったと、そう思わせる空気だった。
「おや? おやおやおや?」
そんな中、何処かで見た事のある服を着た一人の男が、俺を見るなり、顔を喜色満面にしながら近付いてきた。
真っ白に染まった髪を全て後ろにやり、大きな眼の中に輝くブラウンの瞳はモノクルを通して俺を見つめる。
その容貌から、年齢は不詳。見ようによっては二十代にも五十代にも見える。
ただ、飄々とした雰囲気でも隠しきれない、得体の知れない『何か』があった。
「う~ん。なるほど。なるほどなるほどなるほどね」
俺の体を舐めるように、あらゆる方向から見回し、時には撫で、年齢不詳の男は、一言、こう言った。
「君、良い男だね」
「……は?」
何を言っているの分からず、俺は男に訊き返す。
「いや~、良いね。良いね、君。是非脱いで見せてくれないか?」
「……な、何を?」
「裸」
――な、何なんだ、コイツ。
帝都では居なかったタイプの男だ。聖都では普通の事なのか?
そもそも、他人の裸を見て何になる。何の意味もないだろう。
「さぁ、脱いでみ――グボァッ!」
「何やってんだクソ神父」
なんだか危険な感じのする男は、突如横から飛んできた誰かにドロップキックをかまされ、横に吹き飛んで行った。
「ったく、好みの男を見つけると直ぐコレだ。悪いな、少年。ケツの方は平気か?」
横から飛んできた人物は、先程の教会で見たシスターと同じ服に身を包んだ、妙齢の女だった。
ブラウンの瞳を持つ垂れた眼に、シャープな顎、年齢不詳な容貌は、先程の男にそっくりだった。
「平気だ。あの男は、アンタの兄弟か何かか?」
植え込みに頭から突っ込み、未だ起き上がってくる気配を見せない男を指差す。
「あぁ、ウチの愚兄だ。全く、その気の無いヤツには手を出すなと何度も言ってるんだが……おい、いい加減に起きろ!」
そう言うと、シスターは植え込みの男を引っ張り出し、その腹に蹴りを入れる。
「うっ……ひ、酷いな、モモちゃんは。いきなりのドロップキックは先週の家族会議で禁止した筈じゃないか」
腹を押さえて立ち上がると、男は悲痛そうな声を漏らす。
「黙れ。まずテメェが誰彼構わず手を出そうとしなけりゃ良いだけの話だ」
「そんな! 良い男を見掛けて声を掛けないのは紳士の心得に反するよ!」
「安心しろ。少なくともテメェが紳士であった事は未だかつて有り得ねぇから」
「僕ほどの紳士はこの地球上に居ないよ! 女の子に手を出した事は一度もないんだよ!?」
「そりゃテメェの性癖の問題だろ! 女に興味ねぇだけだろうが!」
「当たり前だ!!」
「開き直るな!!」
どんなに罵声を浴びせられても挫けない男は、その喧噪の合間に俺に何度もウィンクを送ってくる。それがまた、何とも背筋を震わせた。
―――――――――――――――――
「――まぁ、待つんだ、モモちゃん。見ろ、周りの人が皆引いている。ここは、停戦協定といこうではないか」
何故だか、極めて冷静に、神父らしい男は手でモモと呼ばれた女を遮った。
「引いてるのは全部テメェの所為だ!」
全くだ、と俺は思う。
この男さえいなければ、この場はこんなにも混沌としてはいなかっただろう。
神父とシスターが言い争う渦中に、異邦人が居て、それを他の人間が遠巻きに眺めている。
明らかに、異常な光景だった。こんなの、帝都でも有り得ない。
「さて、それで、君の名前を教えてもらおう。ちなみ、私はジジ・バドエルだ。こちらは、モモ・バドエル。世界でたった二人だけの家族だ」
「アタシはもっとマトモな家族が欲しかったけどねぇ!」
叫ぶモモ。
その気持ちは推して測るべし、だろう。言葉の意味は分からないが。
「……ハルキ・テンカだ」
このまま名乗らないでいたら、面倒なことになるだろう。
そう思い、俺は名を告げた。
「…………ハルキ?」
その途端、ジジが一瞬、怪訝そうな表情を見せる。
今までの飄々とした雰囲気が一気に消え去り、真剣な表情を覗かせる。
「……アニキ?」
モモが心配そうにジジの顔を覗き込む。
しかし、それでも、ジジは似合わない真面目な表情を崩さない。
「…………良い」
「は?」
「良い男とは名前すらも良いものなのか。全く、勃起するところだった」
「――死ね、クソ神父!!」
モモのとてつもない蹴りが首に入り、ジジはまたしても植え込みに突っ込んだ。
―――――――――――――――――
「……つまり、教会で初めて出会った男に二度も投げ飛ばされ、挙句に仮面の奴らに命まで狙われたって事ですね?」
「解り易く言えば、そうね」
ニーナの要約に、姉さんは頷く。
「……散々でしたね」
「そうね、散々、よ」
苦々しく、姉さんは言い放つ。
その口調には、やはり、演技でない生々しい感情が含まれていた。
「でも、あの人って、本当に悪い人だったのかな?」
「……何言ってるの?」
姉さんが、人前ではしてはいけない表情でこちらを睨む。
背の低いニーナは見えないから良かったものの、もし見てたら、気絶や失禁は禁じえないだろう。
「そうですよ! 先輩、おかしくなっちゃたんですか!?」
「いや、僕も、あの人の全てを悪くないって言う訳じゃない。でも、さ。こんな風には考えられない? あの人は、暗殺者から姉さんを助けてくれたって」
僕達貴族に、暗殺の危険にさらされる事がないとは、言い切れない。
例えば、他都市に赴いた時など、いろいろな場面で、暗殺の危険というのは訪れるものなのだ。
それが、自分の都市で起こったとしても、何ら不思議ではない。
そもそも、今まで暗殺の危険に出くわさなかったのが幸運なのだ。
「そ、それは、考えられない話ではありませんけど」
ニーナが言い淀む。
今までの悪人が、突然、救世主に変わろうとしているのだ。それは仕方のない話だ。
「姉さんは、どう思う?」
「関係ないわ。例え命を救われたとしても、私とアイツは相容れない。ただそれだけの話よ」
「……姉さん」
滅多に見せない頑固な態度を取る姉さんを、僕は少し微笑ましく思ってしまう。
それが確実に憎悪よるものにしろ、こういう態度を取る姉さんは、良いと思う。
「……何よ?」
笑っていたのがバレたのか、少し不機嫌そうな声色で姉さんが問う。
「いや、なんでもないよ」
誤魔化して、僕は遮断の響奏を解く。
「もうこの話はお終いにしよう。誰かを憎んでも、何の得にもならないよ。それより、姉さん、何処かに遊びに行かない? これからニーナと、遊びに行く予定だったんだけど」
しかし、たとえ僕にとっては微笑ましいものでも、あの人にとってはそうではないだろう。
そう思い、僕は姉さんの感情を他のものに向けさせる事にした。
しかし……
「いいえ。私は良いわ。あなた達二人で行ってきなさい」
ニーナの方を見ながら、姉さんは僕の誘いを断った。
「……そう。残念だな。でも、大丈夫? アイツらがまた襲ってくるかもしれないけど」
「平気よ。警官を捕まえて、送ってもらうから」
そう言うと、姉さんはニーナの耳元で何か囁いて、真っ直ぐと警官の詰め所に向かって行った。
「姉さん! ……って、行っちゃった。大丈夫かなぁ」
言って、ニーナの方を向く。
「……何やってるの?」
しきりにガッツポーズをしているニーナに、僕はそう訊く。
「い、いえ! 何にも!」
「そう? なら良いんだけど。……そう言えば、さっき姉さんに何て言われたの?」
「え!? あ、あの!」
「ほら、何か耳元で囁かれてたじゃないか。あれ、何だったのかなぁって」
少し混乱して様子のニーナに、僕は話の要旨を伝える。
「そ、それは……」
「それは?」
「が、頑張ってね、って……」
「何を?」
「――せ、先輩は知らなくても良いんですよ!!」
少し怒ったように言って、ニーナは僕の手を引く。
「ほら、行きますよ、先輩!」
またしてもニーナに手を引かれて、僕はその場を後にした。