2-1 この世で一番最低な男
――――そう、私が自分の死を確信した時。
「……へ?」
間抜けにもそんな声を漏らしながら、私は……空へと、舞い上がった。
どんどん上へ。今まで自分が居たところを見やると、あの癪に障る男が、ナイフを持った狸面を蹴り飛ばしていた。
恐らく、というよりきっと、アイツが私を救ってくれたのだろう。
死の淵より救われるという、恋心を抱いてもおかしくない状況なのだが、どうして、アイツに対しては怒りしか浮かんでこないのだろう。
全く、人の心というのは不思議だ。
「姉さん!」
上昇も終わり、そろそろ自由落下に入るといった頃、私は、安心と不安を入り混じらせたクロリスの声を聞いた。
想像以上の速さで予想落下地点まで辿り着いたクロリスは、私を受け止めようとしているのか、大きく手を広げる。
鳥面は当然現れたクロリスに、一瞬ぎこちない動きを見せるも、瞬時にそれを抑え、今現在最も厄介であろうあの癪に障る男の元へ向かっていった。
「――姉さん、大丈夫?」
衝撃を全て自分に回したのか、顔を痛みに歪ませながらも、クロリスは優しい笑顔でそう私を気遣った。
「えぇ。あなたは?」
しかし、クロリスにその気遣いを指摘しても、決して認めようとしないので、私は敢えて礼を言わず、クロリスの頭を撫でる。
「大丈夫。気にする程のものじゃないよ。それより、姉さん。一体何が――」
「せーんぱーい! 置いてくなんて酷いですよー!?」
クロリスの声を遮って、甘ったるい声を響かせながら、小柄な女の子がこちらに走ってやってきた。
「こんな可愛い女の子置いて行ったら置き引きされちゃいますよ……って、お姉さん。お久しぶりです。イベントのキャストに選ばれるなんて、やっぱりお姉さんは凄いんですね!」
コロコロと表情を変えていきながら、小柄な女の子は私の手を握り、そのままブンブンと振り回す。
「さっすが先輩のお姉さんって感じです! 都市を挙げてファンクラブが出来るのも肯けますよ!」
「に、ニーナさん、ですよね? そろそろ止めて貰えると、ありがたいのですけれど」
あの男の所為で剥がれてしまった猫を再び被り、私はニーナさんに手を離すよう要望する。
「――す、すいません。私、つい興奮しちゃって」
ニーナさんはそう言うと、心底申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
前に会ったときは気づかなかったが、どうやら、感情表現がとても豊かな子らしい。
「いえ、気にしないで。もう平気だから。それより、イベントって?」
「え? あ、あの、アレって何かのイベントじゃないんですか?」
指差された方向を見ると、そこには、仮面を被った二人の人物と互角以上の戦闘を繰り広げる、あの腹立たしい男の姿が。
しかしその姿は、男の人間性を補ってあまり有る程、素晴らしいものだった。
二対一という不利な状況であるにも関わらず、一歩も退かず、逆に圧すほどの腕前に、相手を近付かせない体捌き。
そのどれをとっても、一級品だった。
「ほら、今日って、列車の来る日ですし、何かのイベントなのかな……って、お姉さん?」
「……え? な、何かしら?」
ゆさゆさと漸く私は、ニーナさんに話しかけられている事に気が付いた。
「どうしたんです? まるで恋する乙女のような瞳で――まさか、あの中に好きな人が居るんですか!? そうなんですね!?」
ニーナさんは急に目を爛々と輝かせると、饒舌に語り始める・
「でも、今までそんな浮いた噂のなかったお姉さんが……いや、分かりました。つまり、こういう事ですね? あそこの三人はこの都市の人間ではなく、他都市の旅芸人。急に出会った今までにないタイプの男に、お姉さんは他の人とは感じた事のない雰囲気を感じ、恋心を抱く。しかし、お姉さんは聖都を代表する貴族の子女。その恋はただ眺める事しかできない哀しいものだった……って感じですね!? 大体合ってますよね!?」
「いえ、全然違――」
「えぇい皆まで言うなぁ! 分かってます。分かってますって。あの長身の男の人でしょう? 目付は悪いですが、確かに男前です。それに、強いときた。お姉さんの気持ちは分かります」
「だから、違います」
大体、あの男に惚れる等、絶対にあり得ない。絶対にだ。
そもそも、人間の精神構造上恋愛感情を抱くのは仕方がないとして、あの、この世の罵詈雑言を使い果たしてもまだ足りない程の男に、愛情を持つのはおかしいのだ。
「本当ですか――って、終わっちゃいましたけど、お姉さんは出なくても大丈夫だったんですか?」
見れば、仮面の二人は撤退を開始しており、もうその姿が小さくなる程までに、遠ざかっていた。
「あれ? あの背の高い人、こっちに来ますよ?」
「え?」
確かに、男はゆっくりとこちらに近付いてきていた。
「お姉さん、どうします? 告白かもしれませんよ?」
そんな訳がない。
あの男の性格上、そしてあの男の表情からして、そんな事があるわけがなかった。
――悪い目付を更に歪ませ、肩を揺らしながらこちらに歩いてくるその姿は、不機嫌を隠そうともしていなかった。
「おい、女」
私のすぐ目の前で立ち止まった男は、その夜を思わせる黒い瞳で真っ直ぐに私の目を見つめる。
「……女?」
男の随分な物言いに、私は男以上の不機嫌を言葉に込める。
人を性別で呼ぶだなんて、失礼にも程があるんじゃなかろうか。
「私には、アレクシアって名前があるんだけど」
「それがどうした。お前の事など訊いていない」
後ろで、ニーナさんが、うわ、と呟くのが聞こえる。
確かに、そう言われても仕方がない声色だった。
「……それじゃ、何よ? 私に何の用?」
男の鋭い眼差しを睨み返し、私はそう問う。
男は無言のまま、その場に佇み、そして――
急に、拳を振り上げた。