平穏終了のお知らせ――お隣さんは主人公でした
長い長い一日が、ようやく終わろうとしていた。
昨日から約二十四時間。
たった一日。されど一日。
間違いなく、康生の人生で最も情報量が多く、最も精神を消耗し、最も「現実とは何か」を問い直された日だった。
時の魔女という廃人。
属性という謎の概念。
時間操作。
別世界。
そして、自分は“苦労人属性”。
脳はフル回転し、理解が追いつかず、否定し、受け入れ、また否定し、最後は半ば投げやりに「まあ、そういう日もあるか」と諦めた。
振り返れば、ため息が雪崩のように押し寄せるのは明白だ。
一生分の幸運を吐き切る気がして、康生は敢えて思考に蓋をした。
だが――
ひとつだけ、どうしても納得できない問題が残っている。
怪訝な顔のまま椅子に座り、風呂場から鼻歌交じりで出てくるイザベラを待つ。
「はぁ、久しぶりの風呂は気持ちかのう」
バスタオルで銀髪を拭きながら出てきた彼女は、完全に我が家モードだった。
ドライヤーの温風に揺れる髪は、絹糸のように艶めいている。
そして何より。
異臭が消えている。
清潔。完全新品。
シャンプーの香りが、やけに上品だ。
(……高い方使いやがったな)
だが口には出さない。大人の対応だ。
イザベラは鼻歌を続けていたが、ようやく康生の視線に気づく。
「どうしたの、坊ちゃん。もしかして、照れちゃってますwww?」
口元を隠して笑うその顔に、拳が疼く。
しかし康生は目を閉じ、精神を闇に沈める。
「座れよ、イザベラ」
「??」
首を傾げつつも正面に座る。
近い。
香る。
花畑。
腹立つ。
「で、お前はなんで風呂に入っているのだ?」
「そこに風呂があるから」
「登山家か」
「だってそうじゃもん」
深呼吸。
「お前の事情は理解した。協力も承諾した」
「うむ」
「だが、居候を認めた覚えはない」
「ふぁ!?」
心底驚いた顔。
「何故そんな目で私を見るのだ!?」
「お前が住んでいい理由がないだろ。そもそも歪みの元凶の居場所は?」
「ノウ。ゼンゼン、ワカラナイ、デース!」
「頭カチ割るぞ」
「ま、待て! お前の属性なら引き寄せられる! きっと! 多分! あとこの家、冷蔵庫に食べ物あるし、風呂入れるし、電気あるし、家具あるし、heavenなのじゃ!!!!!!」
「欲望丸出しじゃねぇか」
三周回って清々しい。
そして次の瞬間。
イザベラは美しいフォームで土下座した。
「お願いじゃ! お前さん見つけた瞬間に契約解除してしまったのじゃ! ここで追い出されたら美女ホームレスが誕生してしまう!」
必死。
哀れ。
だが。
「ちぇ。くそ。仕方ないなぁ」
希望に輝くイザベラの瞳。
そして――
康生は猫のように首根っこを掴み、外へ放り出した。
バタン。
チェーン。
鍵。
完璧。
静寂という名の平和が戻る。
夜九時。
星がちらつく。
「せめてあと一日はゆっくりしよう」
拳を握る。
扉を叩く音は、聞こえないふりをした。
その夜、康生は久しぶりに“ひとり”を満喫した。
そして地獄の月曜日。
眠たい目をこすり、支度を済ませ、扉を開ける。
そこに居たのは――
イザベラではなかった。
見たことのない男。
「初めまして」
「ど、どうも」
「隣に引っ越してきたナロウって言います。よろしくお願いします!」
差し出される手。
同い年ほど。
だが、明らかに異質。
ファンタジー世界の住人のような服装。
作り物のように整った顔立ち。
太陽のような笑顔。
そして。
“主人公感”。
理屈ではない。
直感だった。
二日前の話を思い出す前に、身体が理解していた。
(……こいつ、主人公だ)
誰が見ても主人公。
物語が始まりそうな存在。
ナロウは爽やかに笑う。
「困ったことがあったら、何でも言ってください!」
完璧すぎる。
康生の脳内で、点と点が繋がる。
イザベラの話。
別世界。
主人公属性。
歪み。
そして――
隣人。
喉が乾く。
「……よろしく」
握手を交わした瞬間。
妙な高揚感と、確信。
物語が、動き出した。
平穏は、完全に終了した。
苦労人属性、発動。
康生は確信していた。
この男は間違いなく。
この世界に来てしまった“主人公”だ。




