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第二章

 翻訳という仕事は、どこか外科手術に似ている。


 誰かが生み出した異国の言葉を、一度バラバラに解体し、私の部屋にふさわしい器に盛りつけ直す。

 神経を使う作業だけれど、静かで、清潔だ。


 お気に入りのリネンのシャツ。

 丁寧に淹れたコーヒー。

 磨き上げられた机の上には、辞書と、一輪挿しのダリア。


 私の日常は、そうした「自分の好きなもの」だけで完璧に防衛されている。

 誰の体温も、誰の勝手な情動も、この部屋の空気までは汚せないはずだった。


 けれど、窓の外で雨が降り始めると、その境界線がふわりと滲んでしまう。


 低気圧のせいか、それとも窓を叩く規則的なリズムのせいか。

 机に向かっていても、文字が私の指をすり抜けて、どこか遠い場所へ逃げていってしまう。

 

 夕暮れ時、空が深い群青色に染まる頃、雨足はさらに強まった。

 

 私は仕事を切り上げ、クローゼットから一番地味な色の傘を取り出す。

 真由が「地味すぎて、紗季の美しさがもったいないよ」と笑ったグレーの傘だ。


 鏡の前で髪を整え、リップだけを塗り直す。

 鏡の中の私は、いつも通り、冷静で理知的な女の顔をしていた。


 それなのに。

 靴箱からパンプスを取り出すとき、指先が微かに震えていることに気づく。


 今日は、雨の日だ。

 

 親友の幸せを祈っている自分と。

 親友の婚約者と、地下のバーで冷えたワインを飲む自分。


 どちらが本当の私なのか、今の私にはもう分からない。

 私は、自分が作り上げた清潔な部屋を逃げ出すようにして、玄関の鍵をかけた。


 重い扉を閉めた瞬間、湿った風が頬をなでる。

 アスファルトが濡れる匂い。

 その匂いに誘われるようにして、私は地下へと続く階段へ足を向けた。


 その約束に、特別な儀式があったわけではない。


 半年前、やはりひどく雨が降っていた日に、偶然雨宿りをした先で彼と出会った。

 親友の隣ではなく、ひとりの男としてそこにいた瀬尾さんは、驚くほど静かで、どこか危うい色気を纏っていた。


 そのとき交わした会話があまりに心地よく、同時に、あまりに危険だったから。

 私たちはどちらからともなく、ひとつの境界線を引いた。


「雨が降っている日だけ。ただの友人として会おう」


 晴れた日の彼は、真由を愛する誠実な婚約者だ。

 けれど、雨がすべての色彩を奪い、街の輪郭を曖昧にする間だけは、彼は誰のものでもなくなってしまう。


 このルールさえ守っていれば、誰も傷つかない。

 私は親友を裏切っているのではなく、ただ「雨」という非日常を、彼と分け合っているだけなのだ。

 そう自分に言い聞かせ、私は地下へと続く階段を一段ずつ、深く、降りていく。


 けれどその実、私は知っていた。

 ルールを設けるということは、そうまでしなければ踏み越えてしまう何かが、私たちの間に確かにあるという証拠なのだ。



「……そろそろ、行かなくちゃ」


 私がそう告げると、瀬尾さんは何も言わずに頷き、最後の一口だったシャブリを飲み干した。

 グラスの底に残った僅かな雫が、照明を反射して鋭く光る。

 

 会計を済ませて店の外に出ると、地下の静寂が嘘のように、雨音が世界を支配していた。

 一歩歩くごとに、パンプスのヒールが水たまりを叩く。

 

 駅へ向かう道すがら、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。

 会話を止めてしまうと、雨の匂いが鼻腔の奥まで入り込んできて、バーで維持していた「ただの友人」という薄い膜が剥がれ落ちてしまいそうだったからだ。


「……真由に、よろしくね。今度の週末、一緒にランチに行く予定だから」


 不意に沈黙に耐えかねて、私は自分を律するように言った。

 真由。その名前を出すとき、胸の奥がチリりと焼けるような感覚がある。

 

「ああ、伝えておくよ」


 瀬尾さんの声は、雨の音に混じってどこか遠く響いた。

 彼はいつも通り、傘を差していない方の手をコートのポケットに突っ込み、真っ直ぐ前を見て歩いている。

 

 駅の改札前。

 自動改札機から吐き出される、無機質な電子音が響く場所。

 ここが私たちの境界線だ。


「じゃあ、おやすみなさい。瀬尾さん」


「おやすみ、紗季。気をつけて」


 彼は一度だけ私を見て、短くそう言った。

 その瞳には、真由に向けるのと同じような、あるいはそれ以上に穏やかな光が宿っているように見えた。

 その穏やかさが、かえって残酷だ。


 私は振り返らずに改札を抜けた。

 

 ホームへと続くエスカレーターに乗り、吸い込まれるように地下へ降りていく。

 背中に彼の視線を感じるような気がして、私は一度も後ろを見なかった。


 これでいい。

 雨の日の魔法は、駅の改札という無機質な機械によって断ち切られたのだ。

 電車に揺られて自分の部屋に帰り、鍵をかければ、私はまた「真由の親友」という清潔な役柄に戻ることができる。

 

 そう信じていた。

 部屋に着いて、スマホが震えるまでは。



 自分の部屋に戻り、濡れたコートをハンガーにかけた直後、スマホが短く震えた。

 瀬尾さんからだった。


『すまない、資料を貸したままだ。明日使うのを忘れていた』


 それは数日前、翻訳の参考にと彼から渡された建築雑誌のことだった。

 今から取りに戻るという。

 「明日でもいいのに」という言葉を飲み込んで、私は「わかりました」とだけ返した。


 十五分後、インターホンの音が鳴る。

 

 ドアを開けると、そこには傘を閉じたばかりの瀬尾さんが立っていた。

 バーの暗がりにいた彼とは、少しだけ印象が違う。

 廊下の蛍光灯の下で見ると、彼の肩先が雨で濃く濡れているのがやけに生々しく感じられた。


「夜分に、ごめん。どうしても明日、必要な資料なんだ」


「いいえ。すぐ持ってくるから、そこで待っていて」


 私は彼を部屋の中には入れず、玄関のたたきに待たせたまま、リビングの机へ向かった。

 

 この部屋は私の聖域だ。

 誰にも邪魔されない、私だけの清潔な秩序。

 

 急いで雑誌を手に取り、玄関へ戻る。

 彼に手渡して、それで終わるはずだった。

 おやすみなさい、と言って、重いドアを閉める。

 そうすれば、雨の日の魔法は解けて、私はまた安全な日常へ戻れるはずだった。


「これ。忘れないように、付箋を貼ったままにしておいたから」


 私が差し出した雑誌を受け取ろうとして、彼が一歩、踏み込んでくる。

 

 狭い玄関の空気が、一瞬で書き換えられた。

 雨の匂いと、微かな煙草。そして、彼という存在が放つ、熱い圧迫感。


「……紗季」


 名前を呼ぶその声に、抗いようのない湿り気が混じる。

 彼の手が雑誌の端を掴み、そのまま吸い寄せられるように私の手首をかすめ、首筋へと這い上がってきた。

 

 熱い、と思った。

 

 雨に冷やされた私の肌にとって、彼の指先はまるで火を押し当てられたような衝撃だった。

 

 逃げなければ。

 ここは私の聖域で、彼は真由のものだ。

 頭の片隅で、冷徹で知的な私が必死に警告を鳴らしている。

 

 けれど、その警告は、彼の指が私の脈打つ場所に触れた瞬間に砕け散った。

 

 喉の奥が、ひりつくように乾く。

 これまで「雨の日のルール」という綺麗な名前をつけて飼い慣らしていたはずの感情が、黒い泥のような渇望となって溢れ出した。

 

 最低だ、と思う。

 親友を裏切り、自分を欺き、それでもこの熱に触れていたいと願う自分が。

 

 瀬尾さんの指が、ゆっくりと私の髪を掬い上げ、耳の後ろをなぞる。

 その感触に、身体中の毛穴が総毛立つような、暴力的なまでの快楽と自己嫌悪が同時に押し寄せた。

 

「……だめ。瀬尾さん、だめよ」

 

 拒絶の言葉を口にしながら、私は彼を押し返すどころか、その胸元に顔を埋めそうになっている自分に絶望する。

 

 彼から漂う、冷たい雨の匂いと、隠しようのない男の体温。

 それらが、私がこれまで丁寧に積み上げてきた翻訳家の、独り好きの、良き親友としての秩序を、音を立てて融解させていく。

 

 もう、言葉は何の役にも立たなかった。

 知的な会話も、ワインの銘柄も、すべては今この瞬間、彼の腕に抱かれるための前奏曲に過ぎなかったのだ。

 

「紗季、君も、分かっていたんだろう」

 

 耳元で囁かれた掠れた声。

 私は答える代わりに、彼のシャツの濡れた肩口を、爪が食い込むほど強く掴んだ。

 

 親友の婚約者。

 その重い肩書きも、倫理も、今はこの熱い体温の前では、ただの冷えた灰に等しかった。




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