第一章
雨の日は、いつもより少しだけ、自分が透明な箱の中に閉じ込められているような心地がする。
氷の溶ける音が、静かな店内にやけに響く。
指先でグラスの縁をなぞると、冷たい結露が指の腹に吸い付いた。
「紗季、さっきから一言も喋っていないよ」
向かい側に座る瀬尾が、困ったような、それでいて楽しそうな声を出す。
彼は白ワインのグラスを傾け、琥珀色の液体越しに私を見ていた。
ここは、雨の日だけ私たちが訪れる場所だ。
駅から少し離れた、地下にあるバー。
湿ったアスファルトの匂いも、街の喧騒も、ここには届かない。
「……考えていただけ。雨の日の氷は、晴れの日より早く溶ける気がしない?」
「そんなわけないだろう」
彼は低く笑う。
その笑い声が、私の耳の奥を微かに震わせる。
私たちは、とても知的な友人同士だ。
好きな本の話をして、美味しいお酒を分け合い、互いのプライバシーには踏み込まない。
何より、彼は私の親友の婚約者なのだから。
それが、この関係を成立させている一番頑丈な背骨だった。
「でも、わかるよ」
瀬尾が不意に、テーブルの上に置いていた私の手に、自分の指先を重ねた。
ほんの一瞬のこと。
けれど、驚くほど熱かった。
雨に冷やされた私の皮膚が、彼の指が触れた場所からじりじりと焼け焦げていくような錯覚。
完璧な静物画のようだった私たちの世界に、小さな、けれど決定的な亀裂が入った音がした。
「雨の日は、いろいろなものが、いつもより脆くなる」
彼の声から、さっきまでの軽やかさが消えていた。
重く、湿り気を帯びた、生々しい男の声。
私は動けなくなる。
引くべき手は、泥の中に沈んでしまったみたいに重い。
私たちは、ただの友人だ。
そう自分に言い聞かせる私の心臓が、ひどく醜い音を立てて波打ち始めていた。
「……このシャブリ、少し火打石のような匂いがするわね」
私はあえてグラスの中に意識を集中させ、逃げるように言葉を紡いだ。
彼の手が重なる数秒前、私たちはまだ、安全な言葉の海を泳いでいたはずだった。
「ミネラルが強いんだろうな。冷えすぎていないのがいい。喉を通る時、鋭利な刃物みたいに輪郭がはっきりしている」
瀬尾はグラスを回し、淡い黄金色の液体を眺める。
彼の語り口はいつも正確で、感情の混じり気がない。
「これなら、少し癖のある料理でも負けないわ。たとえば、生牡蠣にたっぷりのレモンと、それから……少しだけ、苦味のあるクレソンのサラダ」
「いいな。クレソンのえぐみが、このワインの硬い酸を柔らかくしてくれそうだ」
私たちは、架空の食卓を並べるように言葉を重ねる。
もし私たちが、ただの食通の友人同士であったなら、この会話はどれほど豊かで満ち足りたものだっただろう。
バターをたっぷり使った舌平目のムニエル。
あるいは、少し血の匂いのするジビエのテリーヌ。
次々と浮かぶ料理のイメージは、どれも生々しい実感を伴って私の舌の上を滑っていく。
けれど、実際には私たちの前には、ハーフサイズのボトルと、空になりかけたナッツの小皿があるだけだった。
「紗季は、いつも完璧な組み合わせを欲しがるね。料理も、お酒も、……それ以外のことも」
瀬尾の声が、ふっと低くなった。
完璧な組み合わせ。
それは、パズルのピースが隙間なく埋まるような、清潔で動かしようのない平穏を指している。
私はそれを守るために、この雨の日のルールを、この静かなバーを、そして彼との距離を、細心の注意を払って維持してきた。
「それが一番、疲れないもの」
私がそう答えた瞬間だった。
テーブルの上に置いていた私の手に、彼の指先が重なったのは。
それまで語り合っていたワインの冷たさも、クレソンの苦みも、すべてが吹き飛ぶほど。
ただそこにある彼の皮膚の「熱」だけが、暴力的なまでの質量を持って私を支配した。
喉が渇く。
ワインでは決して潤せない場所が、ひりひりと熱を帯びていくのがわかった。
「……そろそろ、行かなくちゃ」
私は彼の手を振り払うこともできず、ただ小さく息を吐いた。
重ねられた指先を解くと、そこだけがひどく寒々しく感じる。
「真由に、よろしくね」
あえて親友の名前を口に出す。
それは、私自身に言い聞かせるための呪文だ。
ここに魔法なんてない。
私たちはただ、雨の音に惑わされているだけの、善良な友人たちのはずだ。
「ああ、伝えておくよ」
瀬尾は、もういつもの涼やかな表情に戻っていた。
彼が席を立ち、伝票を手に取る。
その背中を追いながら、私は自分のバッグのストラップを強く握りしめた。
店を出ると、街はすっかり夜の青に沈んでいた。
雨足は弱まっていたけれど、大気は飽和した湿気で重い。
「送るよ。タクシーを拾おう」
「いいえ。少し歩きたいから。駅まで、すぐだし」
本当は、密室になるタクシーの後部座席が怖かったのだ。
彼のジャケットから漂う微かな煙草の匂いや、体温。
それらが、私の輪郭を曖昧にしてしまうのが怖かった。
私たちは並んで歩き出す。
傘が時折、カチリと音を立ててぶつかり合う。
会話はもう途切れていた。
信号を待つ間、私は濡れたアスファルトに反射する信号の赤色を眺める。
その色が、どこか不吉な血の跡のように見えて、思わず目を逸らした。
「紗季」
不意に名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「次の雨の日、またここで」
彼は私を見なかった。
ただ、前を向いたまま、ひどく静かな声で言った。
それは約束というよりも、逃れられない宣告のように響いた。
私は頷くことも、拒むこともできず、ただ唇を噛む。
「……おやすみなさい、瀬尾さん」
駅の改札の前で、私は一度も振り返らずに立ち去った。
電車に揺られながら、窓ガラスに映る自分の顔を見る。
そこには、真由が知っているはずの「親友の顔」をした、見知らぬ女が立っていた。
帰宅してシャワーを浴びても、瀬尾が触れた場所の熱は、いつまでも引かなかった。
石鹸の香りに包まれても、私の肌は、あの雨の夜の不穏な匂いを覚えている。
溶け出した氷のように、私の日常がゆっくりと、けれど確実な速度で形を失い始めていた。
本作は全5話・完結済みです。
土日月に分けて更新予定です。どうぞ最後までよろしくお願いいたします。




