1. 春一番と邂逅
「行ってきまーす」
アルトス・クレイは元気よく家を出た。
アレキサンドラ学園高等部一年生、身長と体重はともに平均程度。
外見は可もなく不可もない。髪色は焦茶色で前髪は自然に下ろされ、額を軽く覆う程度、横や後ろも過度に刈り上げられておらず、清潔感はあるが目立たない。
要するにどこにでもいる普通の学生だ。唯一違うのは魔力がないということのみ。
内容が一言一句頭に入っているにも関わらず、勇者の伝説が書かれた本を読みながら歩みを進める。昨日は『風魔術の秘法』という若干奇妙さは漂うが新しい魔術書を読破したことで、生まれ変わったような気分にもなっていた。今日から新たな一歩を踏み出すんだ。
春の日差しを背に学園に向かう石橋に差しかかった時、川のせせらぎとともに、小さい鳴き声が耳に届いた。
「ニャー、ニャー......」
「みーちゃーーん!」
何事かと思い周りを見渡すと、一匹の小さな猫が川に流されていくのが目に飛び込んできた。その先、土手のすぐ下の川べりには、膝をついて泣きじゃくる少女の姿があった。
嘘だろ......。誰か魔術で助けられる人はいないのか。普段なら登校を急ぐ生徒や道を急ぐ大人が一人二人とは歩いているはずの場所なのに.......。誰か......誰か!僕は魔術が使えないんだ......。
そうだ、昨日読んだ本に書いてあったはずだ。風魔術は"高きから低き"が基本だと。それを頭の中でイメージして詠唱する。
何度も何度も繰り返し口にした、その言葉を唱える。
「『一筋の風よ』!」
......何も起きなかった。くそっ!くそっ!。やっぱり僕に魔術は使えない、猫も泣いている小さな女の子も助けることはできないんだ......。その間にも小さな命は流れに揉まれ、今にも力尽きようとしている。
己の無力さに項垂れた視界に、勇者の本が目に入った。表紙に描かれた勇者の姿。剣を手に魔王へと勇ましく立ち向かう姿。.......そうだ、魔術が使える使えないなんて関係ない!。勇者なら迷わず助けに行くはずだ!。
意を決して土手の斜面を滑り降り、そのまま川へと飛び込む。思ったよりも流れは速く、猫のいる場所まで距離が縮まらない。それどころか、本ばかり読んでいたせいで体力がなく溺れそうになる。
「……ごふっ、あ……ッ!? ……っか、もご、か……ッ!」
制服がどんどんと水分を含み、鉄の塊のようになって水底へと身体を引っ張っていく。視界の端に猫と女の子が映った。
ごめんよ。助けることができなくて......。瞳を閉じ、そのまま意識が持っていかれそうになる。身体が軽くなっていくのを感じた。ああ、死ぬのか......。
次の瞬間、僕を底へと引きずり込んでいた水の重圧が瞬く間に吹き飛ばされた。
「え……っ!?」
水底へと沈んでいたはずの身体が、見えない巨大な手に掬い上げられるように、ふわりと宙に浮く。それは優しく、けれど抗いようのない強さを持った風だった。
春の柔らかな光が再び目に飛び込んでくる。視界の端では、同じように風に包まれ、驚いたように目を丸くしている小さな猫の姿が見えた。
「た、助かった?」
巻き上げられた風は、俺と猫を優しく抱えたまま、ゆっくりと土手の斜面へと着地させる。
「っゲホ!...ごほっ!」
飲み込んでいた水を吐き出すように咳き込んだ。
「みーーちゃーーーーん!!」
「んなぁぁん」
少女が弾かれたように駆け寄り、ずぶ濡れの猫を抱きしめた。 安堵からわんわんと声を上げて泣く彼女の隣で、黄金色の髪を春風に靡かせた同い年くらいの少女が女神のように微笑んでいた。
「もう大丈夫だよ。......あなたも大丈夫?」
鈴を転がしたような澄んだ声が、ぼんやりとした意識に心地よく響く。差し出された白く透き通るような手と、逆光を浴びてキラキラと輝く黄金の髪。そして何よりも、純粋ながら人を魅了するような可愛い笑顔に、僕はただ呆然と彼女を見上げることしかできなかった。
ハッとして、お礼を言わなくてはと声を絞り出す。
「あ……、え……っ。助けてくれてありがとうございます」
「無事でよかった〜。猫ちゃんも大丈夫そうだし」
ほんわかとした様子でこちらまで心が温かくなるような、混じりけのない純粋な笑顔を僕に向けた。一瞬天国にいるのではないかと錯覚するほどだった。
「とりあえず、猫ちゃんとあなたを乾かすね」
そう言ってこちらに両手を伸ばすと猫と僕は淡く柔らかな光に包み込まれた。陽だまりの中にいるような心地よさを感じたかと思うと、重かった制服はすっかり乾き、心なしか活力が湧いているような気がした。
「念のため治癒魔術も混ぜておいたよ。どこか痛むところはない?」
驚愕で喉が鳴った。風魔術に治癒魔術を同時に......。しかも無詠唱で!?
「一体、君は......」
驚きのあまり漏れた言葉だった。 しかし彼女は、それを名前を尋ねる言葉だと受け取ったのだろう。
「あ、ごめんなさい。名乗りもせずに」
彼女はいたずらっぽく、けれど優雅な所作で長い黄金の髪を耳にかけ、真っ直ぐに僕を見つめて名乗った。
「私の名前は、ミリアーヌ・グライスと申します。あなたのお名前は?」
「僕はアルトス・クレイです。助けてくれて本当にありがとうございます」
「ミリアーヌお姉ちゃん、助けてくれてありがとう!」
猫を大事そうに抱えながら女の子がお礼を言った。彼女はしなやかな体を折り曲げ、女の子の視線に合わせるように優しく屈んだ。
「どういたしまして。......猫ちゃんはもう川に入っちゃダメだよ」
女の子の腕の中にいる猫の鼻先にそっと指を寄せ、愛おしそうに目を細めた。
「にゃぁーん」
猫の返事を聞いた彼女は、「ふふ、約束だよ」と満足そうに頷くと、立ち上がった。
「またね、お姉ちゃん!助けてくれて本当にありがとう!!」
「またね〜。気をつけて帰るんだよ」
遠ざかっていく小さな背中を、僕は彼女と共に並んで見送った。
隣で手を振りながら微笑む、この不思議な少女との出会いが僕の運命を大きく変えることになる。けれど、その時の僕はそんなことを知るはずもない。舞い上がる金糸の隙間から覗く彼女の穏やかな横顔、そのあまりの美しさに見惚れているだけだった。




