謝る必要のない人
四時間目の授業が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
椅子の音、話し声、廊下に向かう足音。
白川澪は、机の上に広げた筆箱をそっと閉じた。
使い古したボールペンを手に取り、鞄にしまおうとした──そのとき。
ツルッ。
澪の指からペンが滑り、床に落ちた。
「あ……」
しゃがもうとした瞬間、
ひとりの女子がそこを通りかかった。
村上美桜。
彼女は落ちていた澪のペンにまったく気づかないふりで──
踏みつけた。
ペキッ。
軽い音がして、ボールペンのキャップが割れた。
「……っ」
澪は顔を上げた。
美桜はそのまま進み、
背後で佐野梓と江藤莉奈がくすっと笑っている。
「ご、ごめんなさい!」
澪は反射的に叫んでいた。
まるで自分が悪いかのように、
謝らなければいけないと本気で思ったかのように。
美桜はゆっくり振り返り、冷たい微笑を浮かべる。
「ん? なにが“ごめんなさい”なの?」
「わ、私が……落としちゃって……通りづらかったよね……」
美桜はあきれたように片方の眉をあげた。
「ふーん……。別にいいけど?
でも落とすほうが悪いよね」
梓が続ける。
「そうそう。通る人のことも考えなきゃ」
莉奈も同調する。
「白川さんって、ほんと注意力ないよね……」
澪は俯き、ペンを拾い上げた。
キャップが壊れ、替え芯が少し飛び出している。
胸の奥がきゅっと痛む。
(……私が悪かったのかな……)
だけど次の瞬間。
「いや、それは違うだろ」
低くて、はっきりした声が澪の背後から落ちてきた。
佐久間遥斗だった。
美桜たちが一瞬固まる。
「落とすのは誰でもあることだよ。
踏んだのに謝らせるのおかしくない?」
美桜が苛立ったように返す。
「なにそれ? 私が悪いって言いたいの?」
「そうじゃなくて──
白川さんが“謝らなきゃいけない状況”じゃなかったってことだよ」
遥斗は淡々と言った。
怒っているというより、
理不尽な状況に“納得がいっていない”という表情だった。
澪の指が震えた。
誰かが自分の代わりに言葉を出してくれるなんて、
考えたこともなかった。
美桜はふっと笑い、肩をすくめた。
「……ふーん。わかったわかった。
じゃあもういいよ。踏んだほうが悪いんでしょ?」
言葉では認めながら、態度は明らかに不快そうだ。
梓と莉奈は目を合わせ、何かを企んだようにくすっと笑った。
美桜たちはそのまま教室を出ていく。
残された空気は、静かで、重かった。
遥斗は澪の横にしゃがみ、壊れたペンを見つめた。
「白川さん……大丈夫?」
「だ、大丈夫……私が落としたのが悪いから……」
「違うよ」
遥斗は即座に言った。
「白川さんは、悪くない」
澪は息を呑んだ。
その一言が、
胸の奥のどこか柔らかい場所に触れた。
痛みと同時に、温かさも広がる。
だけど、涙は出せない。
泣いたらきっと迷惑だから。
澪は小さく笑う。
「……ありがとう。ほんとに……大丈夫だよ」
遥斗はしばらく澪の表情を見つめ、
何かを言いかけて──やめた。
「……無理しないでね」
そして自分の席へ戻っていった。
澪は握りしめた壊れたペンを胸に押し当て、
深く息を吐いた。
(……あんなふうに誰かが言ってくれるなんて……)
心臓が小さく跳ね続ける。
嬉しい。
でも怖い。
助けられたことに、慣れていないから。
その日の夕暮れ。
校門を出ると、路地の影に誰かが立っていた。
神谷空だった。
「澪、今日も遅かったね。
誰かに……何かされてない?」
優しい声。
でも、どこか鋭く覗き込む視線。
澪の背筋が、わずかにこわばった。
「な、なんでもないよ……
今日も、ちょっと忘れ物して……」
空は澪に歩み寄り、
その顔を覗き込む。
「澪は“なんでもない”って言うけど……
ほんとは、困ってるんじゃないの?」
その声は柔らかいのに、逃げ道を塞ぐようだった。
澪は小さく首を振る。
「だ、大丈夫……大丈夫だから……」
空はしばらく澪の目を見つめ──
ゆっくり微笑んだ。
「そっか。
無理しないでね。……澪は、守りたくなる子だから」
その微笑みは、優しさの形をしているのに、
どこか胸の奥をひやりとさせた。
澪の足取りは重く、
心の奥には、今日壊れたボールペンのような
小さな“ヒビ”が静かに残っていた。




