微妙な違和感
放課後のチャイムが鳴り、教室から生徒たちが次々に帰っていく。
雑談しながら帰る者、部活へ走る者、教室に忘れ物を取りに戻る者。
その中で、白川澪だけは、誰にも気づかれないように
そっと掃除用具入れの前に立っていた。
モップの柄がすこし曲がっていて、
雑巾の入った箱はぐちゃぐちゃに押し込まれている。
ホウキも長い軸のものと短いものが混ざって倒れかけていた。
(……これ、明日の当番が困るよね)
澪は迷わずしゃがみこみ、モップを立て直し、
雑巾を一枚ずつきれいに折って、箱の中に並べ始めた。
当番ではない。
誰にも頼まれていない。
ただ──
「誰かが困るかもしれない」という理由だけで、彼女は動ける。
その静かな善良さは、周囲にとって目立たない。
むしろ、気づかれすぎると珍しがられるほどだった。
「……あれ、白川さんまだいたの?」
背後から声がした。
村上美桜と佐野梓が、帰り支度のバッグを肩にかけながら歩いてくる。
澪は驚いて立ち上がった。
「う、うん……ちょっとだけ片付けてただけで……」
美桜がわざとらしく眉を上げた。
「えらいねぇ、当番でもないのに掃除? ボランティア精神?」
梓も続ける。
「ほんと真面目〜。でもさ、それやられると
“私らサボってるみたい”に見えちゃうんだけど?」
澪は一瞬困惑して、慌てて首を横に振った。
「ち、ちがうの……そんなつもりじゃ……」
「澪ちゃんって、ほんと“いい子”だよね〜」
声は褒めているようで、意味は真逆だった。
皮肉が混じり、くすっと笑う2人。
胸がひりつく。
けれど澪は、怒るという発想がそもそもない。
(……私がやらなければいいだけ、だよね)
「ご、ごめんなさい。もうやめるね」
「いや、別にいいけど〜。好きでやってるんでしょ?」
美桜はそう言って髪を払うと、何もなかったように廊下へ消えていった。
澪はただ小さく頭を下げ、彼女たちの背中を見送った。
胸の奥に重たい何かが沈む。
だけど、それが“悲しみ”なのか“困惑”なのか、うまく言語化できない。
(邪魔……だったのかな……
私、いつも余計なことしてるのかもしれない……)
そのときだった。
「澪、まだ帰ってなかったんだ」
背後から穏やかな声。
振り向くと、神谷空が廊下に立っていた。
学校の前を通りかかっただけ──のような自然さで。
しかし澪の肩は、ほんの少しだけ震えた。
「そら……どうしてここに……?」
「家の近くだからね。
澪が遅いから、心配で見に来ただけだよ」
その言葉は優しいのに、何故か胸がぎゅっと緊張する。
空は澪の頭にそっと手を伸ばした。
「あんまり残ってると危ないよ?
澪はさ、ほんとに……放っておけないんだから」
その手が澪の髪に触れようとした瞬間──
澪は反射的に半歩後ろへ下がった。
空は一瞬だけ目を細めた。
不満とも、悲しみともつかない色が混じる。
「……避けるなんて、珍しいね?」
「ご、ごめん。疲れてて……びっくりしちゃって……」
謝る必要などどこにもない。
ただの普通の反応なのに、澪はまず謝ってしまう。
空はその様子をじっと見つめ、ゆっくり笑った。
「澪は変わらないね。
だれに対しても優しくて、素直で……
だからこそ俺が守ってあげないとって思うんだよ」
その微笑みは、あまりに優しいのに──
何かが“重い”。
澪の心臓がきゅっと締まった。
(……どうしてだろう。
優しいのに……苦しくなる……)
その違和感は、まだ名前もつけられない。
ただ胸の奥に、小さな影のように沈んでいくだけ。
「ほら、帰ろう。暗くなるよ」
空が先に歩く。
澪は小さく頷きながら、その背中を追った。
今日一日で、何がどう変わったわけでもない。
けれど澪の心には──
誰にも気づかれない、小さな不安の種がひっそり植えられていた。




