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ありえないほど優しい子

翌朝。

まだ教室に人影がまばらな時間帯、白川澪は誰よりも早く学校に来ていた。


なぜかと言えば──


「……やっぱり、今日も散らかってる」


教室の後ろの棚が、また荒れていた。

プリントは床に落ち、折れた傘は突っ込みっぱなし。

誰かが片付けようとした形跡はない。


澪は小さくため息をつくと、しゃがみ込み、ひとつひとつ丁寧に拾い上げていく。


これは毎朝のことだった。


別に頼まれたわけではない。

誰も澪の働きに気づかないし、感謝もしない。

それでも彼女は毎日片付ける。


「散らかってると、誰かが困るもんね……」


その「誰か」が自分である可能性を、澪はいつも考えない。


彼女は、誰かが困るのが嫌なだけ。

自分が困ることには慣れてしまっている。


これが、澪の「ありえないほどの善良さ」の一つの形だった。


床に落ちたプリントの端に、飲み物がこぼれたような跡があった。

澪はためらわず、自分のハンカチで拭き取った。


「……よし。きれいになった」


ハンカチはシミだらけになったが、澪は気にしない。

それよりも、「次に使う人」が気持ちよく使えるかどうかが大事なのだ。


そんな澪を見つけたのは、一番に登校してきた男子生徒──


佐久間遥斗だった。


「あれ? 白川さん、また片付けてるの?」


澪はびくりと肩を震わせ、振り向いた。


「……あっ、うん。なんか散らかってたから」


「いつもやってるよね、これ。誰も気づいてないけど」


「大したことじゃないよ。勝手にやってるだけだし……」


遥斗はしばらく澪の手元を見つめ、少しだけ眉をひそめた。

まるで、言いたいことがたくさんあるのに言葉を選んでいるように。


「でもさ……白川さんのハンカチ、毎日汚れてるだろ?

あんまり無理しなくていいんじゃない?」


「……汚れるの、いいよ。誰も困らないし」


その答えに、遥斗は胸の奥が少し痛んだ。

澪の“やさしさ”は、どう考えても普通じゃない。

誰かに強制されたものでも、押し付けられたものでもない。


ただ、彼女自身が「自分より他人」を優先する癖がついてしまっただけだ。


「白川さん、これ。昨日のプリント落ちてたよ」


大切そうにプリントを差し出す遥斗。

澪は少し驚いたように瞬きした。


「あ……ありがとう」


その一瞬、澪の表情がやわらかくなる。

この学校生活の中で、彼女が素直に表情を変える相手はほとんどいない。



放課後。

澪は教室を出ると、いつものように急いで帰宅した。


家に帰りたくないけれど、帰らないわけにもいかない。


夕暮れの鎌倉の街。

海風が吹く狭い道を歩いていると、前から見覚えのあるシルエットが現れた。


「澪、帰り?」


またしても神谷空だった。


彼は笑って手を振るが、澪の足は自然とすこしだけ止まる。


「……うん」


「今日も学校、大変だっただろ?

俺、澪のこと、よく頑張ってるって思うよ」


その言葉は優しい。

けれど、澪はほんの一瞬だけ胸がざわついた。


空の優しさには、わずかに“温度”が違う。

遥斗のような、真っ直ぐで澄んだ優しさとは。


「……家まで送るよ」


「いい。ひとりで帰れるよ」


「俺は心配なんだよ。澪ってさ、ほんとに……やわらかいから」


その声には、なぜか甘さと重さがあった。


澪は俯き、小さく「……大丈夫」とだけ言った。


空は笑って引き下がったが、

その目の奥には、どこか言いようのない影が揺れていた。



部屋に戻った澪は、机の引き出しを開けた。


そこには──

昨日まで使っていたはずの白い靴下がない。


「……あれ?」


探しても見つからない。

けれど澪は、深追いしなかった。


「また……どこかに落としたのかな……」


本当は気づいている。

でも、疑うことが怖かった。


そしてその“怖がり”さえ、澪の優しさの裏返しだった。


小さな善意、小さな損、小さな違和感。

積み重なっていくそのすべてが──


やがて澪を深い闇へと誘う「始まり」だった。

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