見えない罪を背負わされて
翌日、二時間目の国語。
授業が始まろうとしたとき、
突然、前のほうから声があがった。
「ねぇ、これ……誰が書いたの?」
梓が教科書を高く掲げる。
ページの端に、
大きく丸く描かれた落書き。
猫のような顔に、
変な“鼻”がついていた。
ざわ……っとクラスの視線が集まる。
美桜がわざと大げさに言う。
「え、なにこれ。最低じゃん。
先生の似顔絵バカにしてる?」
莉奈が続ける。
「ちょっと悪質じゃない?」
完全に“事件扱い”だった。
澪は胸がざわざわして、
思わず席を縮こめた。
(こわい……どうしよう……)
そのとき。
「これ……白川さんの字に似てない?」
梓の言葉が教室に落ちた。
澪の呼吸が止まる。
「えっ……?」
美桜が優しい声で言った。
「責めてるわけじゃないよ?
でも……前にも教科書落としてたし……
描いちゃった可能性もあるかなって」
“責めてない”。
その言葉ほど、罪を押しつけるものはなかった。
澪の頭が真っ白になった。
(そんなこと……してない……
でも……もしかして……私……?
記憶が抜けてるのかな……)
いや、そんなはずはないのに。
心が弱っていると、
自分を疑ってしまう。
「……ご、ごめんなさい……
私……もしかしたら……」
謝ろうとした瞬間──
「違うよ」
静かな声が澪の背中から響いた。
佐久間遥斗だった。
クラス中の視線が一斉に彼へ向かう。
「その落書き……
白川さんの机じゃなくて、
梓さんの机のほうにあったよね?」
梓の顔が固まった。
しかしすぐ笑って、
「たまたまじゃない?
白川さんが置きっぱなしにしてたのかも」
遥斗はその言葉に、
ゆっくり首を振った。
「……白川さんは、
そういうこと絶対しないよ」
クラスがしんと静まる。
澪の胸が熱くなる。
でも──
その“味方する言葉”でさえ、
澪には恐怖だった。
(遥斗くんが……
巻き込まれちゃう……)
澪は慌てて笑顔を作り、
小さく言った。
「だ、大丈夫……!
本当に大丈夫だから……
私が、気をつけてなかったのかもしれないし……」
また“自分のせい”。
またその言葉。
教室の空気がゆるく歪んでいく。
「ほら、本人が言ってるし」
「なら白川さんってことでいいんじゃない?」
「次から気をつければいいよ〜」
美桜たちの声が重なる。
罪が確定する瞬間。
澪の胸の奥で、
なにかが音もなく崩れた。
昼休み。
澪はひとりで机を拭きながら、
小さく息を吐いた。
(……どうして……
私ばっかり……)
涙が出そうになる。
でも泣けない。
泣いたら迷惑だから。
そのとき、
後ろからそっと声がした。
「白川さん」
遥斗だった。
「さっきの……気にしないで。
君は悪くない。絶対に」
澪は震える笑みを浮かべた。
「ありが、とう……
でも……私が曖昧にしたから……
みんな困っちゃうよね……」
「困らないよ。
困ってるのは……白川さんだけだ」
その言葉が胸に刺さる。
慰めでも叱責でもない。
ただ真実だった。
澪はぎゅっと拳を握った。
(……どうして……
私なんかのためにこんな……)
遥斗を見る目が、
怖くて、
でも暖かくて、
どうしていいかわからなかった。
放課後。
澪が廊下を歩いていると、
昇降口の影から静かな声が聞こえた。
「澪」
神谷空だった。
薄暗い光の中、
彼の瞳だけが柔らかく光っている。
「今日も……大変だったね」
澪はびくっとして振り返る。
「そ、そら……? どうして……」
空は一歩進み、
澪の手元の教科書の汚れに目を落とした。
「その汚れ……今日の騒ぎのやつだよね」
澪は慌てて隠す。
「ち、ちがう……! 私が悪いの……」
空は微笑む。
その笑顔は、
優しいはずなのに恐ろしいほど深かった。
「澪は……自分の罪じゃないのに
全部背負う癖があるよね」
胸が跳ねる。
「そんなの、見ていられないよ」
空の声は甘く、
でもどこか──
閉じ込めるような響き。
澪は一歩下がった。
逃げたいのに、足が動かない。
空は静かに言った。
「……澪を苦しめるものなら、
僕が全部消してあげる」
その言葉はあまりに優しく、
そして、あまりに危うかった。
澪はまだ知らない。
この“ゆがんだ優しさ”が、
後に彼女を深い闇に引きずり込むことを。




