ゆがめられた“優しさ”
翌日の朝。
教室に入ると、空気が少しざわついていた。
美桜たちが数人で集まり、
なにかを楽しげに話している。
澪はいつものように
そっと席につこうとした──その瞬間だった。
「あ、白川さん!」
梓の明るすぎる声が響いた。
澪は立ち止まる。
「え、えっと……?」
美桜が振り返って、
意味深な笑みを浮かべた。
「この前のテストのプリントさ、
私たち渡し忘れててさぁ。
ほら、返しておくね」
目の前に差し出されたのは──
ぐちゃっと折れた、
角が破けたプリント。
澪の手が震える。
(……あ……
これ……探してたのに……)
昨日どれだけ探しても見つからなかった。
それが「忘れてた」の一言で戻ってきた。
梓は続けて小声で言う。
「ごめんね〜。
白川さん、いつもいろいろ持ってかれやすいから、
てっきり落としたのかと思ってた」
周囲の女子がクスクス笑う。
「ドジなんだよね、ほんと」
「でも可愛いから許されてる感じ〜?」
澪は心臓が痛むのを隠すように、
強く笑顔を作った。
「ううん……私がちゃんと管理できてなかったから……
返してくれてありがとう……!」
美桜の目が細くなる。
その“従順さ”が、
好都合でたまらないという目だった。
休み時間。
澪が席に着いてプリントを直していると、
ふと横から影が落ちた。
佐久間遥斗だ。
「……白川さん」
「え……あ、遥斗くん……」
彼は皺だらけのプリントを見て、
眉をひそめた。
「これ……どうしたの?」
澪は慌てて笑う。
「だ、大したことないよ。
私が……ちょっと……管理が甘くて……」
「嘘だ」
遥斗は静かに言った。
澪の胸が跳ねる。
「昨日必死に探してたよね。
今日急に“渡される”のおかしいよ」
澪は困ったように目を伏せた。
「……でも、
私が落としたかもしれないし──」
「違うって、言ってる」
いつも穏やかな遥斗の声に
珍しく鋭さが混じった。
聞いている澪のほうがびくっとなる。
「白川さん……
“自分が悪い”って言えば、
全部丸く収まると思ってない?」
その言葉が
胸の奥深くに刺さった。
図星すぎて、
痛くて、
苦しくて、
でも否定したくて。
澪は震え声で言った。
「……だって……
私が悪くなかったら……
誰かが……悪くなるんだよ……?」
遥斗の目が揺れた。
それは、
“この子は本当に危ないところにいる”
と気づいた人間の目だった。
彼は何か言いかけたが、
澪の表情が怯えているのを見て、
そっと口を閉じた。
無理に押したら、
澪が壊れそうだった。
放課後。
澪が帰ろうと下駄箱へ向かうと──
そこに、神谷空が待っていた。
「澪」
優しい声。
しかし、その優しさはどこか濁っていた。
「今日は早かったんだね。
いつもは遅くまで残ってるのに」
澪はぎこちなく笑った。
「う、うん……
今日は……大丈夫だったから……」
空は澪の表情をじっと見る。
「学校……楽しい?」
澪の心臓が強く跳ねた。
なぜ急にそんなことを。
「え……あ、うん……
楽しいよ。みんなやさしいし……」
言ってから、自分で胸が痛くなる。
その“やさしい”は、
どこにも存在しない幻想だとわかっていても。
空は薄く笑った。
それが、底の見えない笑みだった。
「澪は、“やさしい”って言えば
全部いい方向に聞こえると思ってるんだよね」
澪の喉がつまる。
空は一歩近づき、
背後の夕焼けが彼の輪郭を赤く染める。
「世界はそんなに単純じゃないよ。
澪は、もう少し……疑っていいんだよ?」
その声には、
甘さと、
束縛のような温度が混じっていた。
澪は何か答えようとしたが、
言葉が出なかった。
胸が痛くて、
呼吸が苦しくて、
でも誰も悪者にしたくなくて。
その優しさは、
もう澪自身を守れるものではなかった。




