小さな助けを求めた声
放課後のチャイムが鳴ったあと、
白川澪は誰よりも遅くまで教室に残っていた。
というより──
残されていた、のほうが正しい。
黒板の下に置かれた雑巾の山。
使い終わった清掃用バケツ。
なぜか澪の机の上に置かれたままのプリント束。
(……これ、私の当番じゃないのに……)
それでも、澪は黙って手を動かした。
誰かが忘れたのかもしれない。
忙しかったから置きっぱなしになったのかもしれない。
そう思い込むことで、
自分の気持ちが乱れないようにしていた。
プリントをまとめて戻し、
雑巾を絞り、
黒板の下を拭いていく。
しかし、胸の奥の痛みは消えなかった。
(……あの子たち、今日も私を呼ばなかった……
私が邪魔だから……だよね……)
そんな考えが勝手に湧き上がってくる。
「……はぁ……」
小さくため息がこぼれた。
自分でも驚くほど弱い声だった。
教室に誰もいなくなる頃、
澪はようやく鞄を肩にかけた。
窓の外はもう夕暮れで、
廊下の蛍光灯がちらちら点滅し始めている。
(帰らなきゃ……
お母さんに心配かけちゃう……)
そう思いながら帰り支度をしていると──
「白川さん」
静かな声が響いた。
振り返ると、佐久間遥斗が廊下に立っていた。
教科書を抱えたまま、澪の姿をじっと見つめている。
「まだいたんだ……。もう六時だよ」
澪は驚いて笑おうとした。
「う、うん……片付けをしてたら遅くなっちゃって……」
「片付けって、今日のは白川さんの仕事じゃないよね?」
澪は一瞬だけ沈黙した。
すぐに笑顔に戻す。
「きっと、みんな忘れてたんだと思う……
だから、私がやったほうが早いかなって……」
遥斗は小さな声でつぶやいた。
「……白川さん、ほんとにそれでいいの?」
澪の表情が強ばる。
「え……?」
「最近ずっと……ひとりで残ってるよね。
頼まれてなくても、全部やってる。
でも──そのせいで、逆に疲れてるように見える」
澪は心臓がぎゅっと縮むのを感じた。
こんなふうに自分の“限界”を見抜かれたのは初めてだった。
だからこそ、怖かった。
「だ、大丈夫。私、平気だから……
やりたくてやってるだけ……
みんなに迷惑かけたくないから……」
「迷惑なんて──」
遥斗は言おうとしたが、途中で口を閉じた。
“これ以上何を言っても、澪が追い詰められてしまう”
そんな迷いが瞳に浮かんでいた。
ただのクラスメイト。
でも、誰よりも澪の異変に近い場所にいるのが遥斗だった。
彼は静かに言った。
「……無理しないでね」
澪は、頷くふりしかできなかった。
本当はもう、無理をしていた。
外に出る頃には、空はすっかり藍色に染まり、
街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
カバンの重さが腕に食い込む。
歩くたび、胸の奥で何かが沈んでいく。
(疲れた……
でも、言ったらダメ……)
“弱音”は迷惑だと思っていた。
だから、誰にも言えない。
角を曲がったとき──
「澪」
暗がりの中から、声がした。
神谷空だった。
彼は学校の前の路地に、
ずっと立っていたらしい。
「今日、すごく遅かったね」
その言葉に、澪の肩がびくっと跳ねた。
「そ、そら……どうして……?」
「迎えに来たんだよ。
澪、最近帰りが遅いから……心配で」
その声は優しい。
だが、澪にはその優しさが刺すように重かった。
空は澪の顔を覗き込む。
「学校で何かあった?
澪、泣きそうな顔してるよ」
澪の胸がぐらっと揺れた。
泣きそうだったのは、
自分でも気づいていなかった。
でも。
「な、なんでもないよ。
本当に……なんでも……」
笑おうとした瞬間、
声が震え、喉が詰まった。
自分でも驚くほど小さく、かすれた声だった。
空はその震えを見逃さなかった。
そして、少しだけ距離を詰める。
「……澪。
困ってるときは、言っていいんだよ?」
優しい声。
でも、その優しさは重すぎる。
澪は一歩下がり、
小さく首を振った。
「だ、大丈夫……私……迷惑かけたくないから……」
空はしばらく澪を見つめ──
ゆっくり微笑んだ。
「澪は、ほんとに……強い子だね」
違う。
澪は強いんじゃない。
ただ、自分の傷より
他人の気持ちのほうを優先してしまうほど
優しすぎるだけ。
その優しさは、
彼女を守ってはくれない。
今の澪はもう、
助けを求める声すら出せないほど疲れていた。




