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海の音を聞いていた少女

潮の匂いが混じる朝の空気は、どこか少し冷たかった。


鎌倉・由比ヶ浜。

まだ観光客の姿もまばらな砂浜で、ひとりの少女がスケッチブックを抱えて座っていた。


白川澪しらかわ みお

十二歳の、細い影。


風が吹くたびに、彼女の髪が揺れ、めくれたページがぱらぱらと海へ向かって捲れていく。

澪は慌てて手で押さえたが、表情には焦りも怒りもない。

ただ、静かに、淡々と。


海を描こうとしている。

けれど、描けているのは“形”だけ。

色も、光も、波の動きも、

心の中にあるはずの景色が、紙の上には落ちてこなかった。


──音が、聞こえない。


彼女はそう思った。

本来なら好きだったはずの海の音が、今は遠くぼんやりとしている。

まるで自分の耳の奥に、厚い膜が張られたかのように。


「澪、こんな朝から何してるの?」


背後からかかった声に、澪は小さく肩を震わせた。


振り返ると、

近所に住む年上の少年──**神谷空かみや そら**が立っていた。


爽やかな笑顔。

けれど澪はどこか距離を置くように、スケッチブックをぎゅっと抱きしめる。


「……別に。絵を描いてただけ」


「そっか。やっぱ澪の描く海って好きだな」


「……まだ、描けてないよ」


「描けてないから好きなんだよ。完成してない絵って、未来を残してるみたいでさ」


空は軽い調子で笑ったが、澪の表情は動かない。


彼女は分かっている。

空が優しい言葉をかけてくれるのは、単純な“善意”だけじゃないことを。


それでも──拒絶するほどの力も、今の澪にはなかった。


「……帰る」


短く言って立ち上がろうとしたそのとき。


空がふいに、澪の足元に転がった消しゴムを拾い上げ、手渡した。


「忘れ物」


「……ありがとう」


「どういたしまして。気をつけてね、澪」


その言葉は、優しさと、どこか得体の知れない重さを含んでいた。


澪は海へ背を向け、砂浜を歩き出す。


遠ざかる波音。

うねる風。

そのすべてが、どこか現実ではないような感覚。


──家に帰りたくない。


その一言が、彼女の胸の奥に沈んでいた。


重く、暗く、誰にも気づかれないまま。


やがて澪は、ゆっくりとつぶやく。


「……今日も、学校行きたくないな」


まだ誰にも届かない、

小さな、小さな SOS。


それが、澪の物語の始まりだった。

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