第八章 夜明けの剣
朝日が昇っていた。
瓦礫と灰の散る大地に、じんわりと金の光が差し込んでくる。
焦げた空気を洗うように、穏やかな風が吹いた。
それは、戦いの終わりを告げる風でもあり、何かが変わったあとの静けさだった。
黒いエクセの全身に、亀裂が走る。黒き救世主は全力を出し切ったのである。
鋼が砕ける音とともに、その姿は砂塵のように舞い上がって消えていった。
残されたのは、ひとりの男だった。
煙の向こうから現れたその姿は、どこか影を帯びていた。
白い髪が風にたなびき、刃のような眼が朝日にわずかに細められる。
アンチィ・シー。
その歩みはゆっくりと、しかし迷いなく進んでいた。
彼の前にあるのは、ふたつ。
地に突き立てられた赤い剣――ムラマサ。
そして、そのすぐそばで崩れるように横たわる人影。
全身を焼かれ、服も皮膚も焼け焦げて、それが誰か判別するのも難しい。
それでも、アンチィには分かった。アシュラだ。
「生きてたかよ」自然と口をついた声だった。
憐れみでも、嘲りでもない。そこにあるのは、ただの真実だった。
アシュラの口元が微かに動く。
声にはならないが、確かに言葉を発しようとしていた。
アンチィは膝をついて、彼の傍に顔を近づける。
焼け焦げたその顔は、表情も読めないほどに変わっていたが、唇だけがわずかに笑んでいた。
目は、どこを見ているのか分からなかった。だが、アンチィはそれでも、彼の視線が自分を捉えている気がした。
「聞こえてるか?」
声に力はない。ただ、それでも言わなければならない気がした。
「ムラマサは……倒した。お前を冒すものはもう……何もない」
目を伏せる。静かに息を吐く。
「ただ、あんたが本気で世界を変えようとしてたのは、伝わったよ……それでも」
アンチィはそれ以上何も言えなかった。
言ってしまえば、何かが終わってしまう。
アシュラの呼吸は浅く、時間の中で消え入りそうだった。
それでも、まだ、生きていた。
焼けた喉が震え、何かを訴えようとしていた。
アンチィは黙って、それを聞こうとした。
言葉にならない言葉を、目の奥に焼きつける。
朝日が、ふたりを包んでいた。
瓦礫に染まった世界が、黄金の光に照らされていく。
そこにあったのは、勝者でも敗者でもなかった。
ただ、ひとつの夜明けと、まだ消えない命の灯火。
「どうしたい?」
アンチィの声は低く、優しかった。
それは、戦いの中で交わす問いではなく、戦いを終えた者だけに許された問いだった。
生きるか、死ぬか。
それ以上でも以下でもない。
戦士としての最後の意志を問う言葉だった。
目の前に横たわる男は、全身を焼かれ、命の灯火も今や風前のものとなっていた。
アシュラ――否、もう「アシュラ」と呼ぶべきでないかもしれない。
かつては恐怖と力で帝国を覆そうとした暴君、だが今は、焼け爛れた皮膚に包まれ、呼吸すらままならない、ただの死にかけの男だ。
かつてアンチィは、この男に怒りを抱いていた。
だがそれは、もう消えていた。
戦いを終えた今、アンチィの瞳にはただの哀しみが残っていた。
「……」アシュラの口が微かに動いた。
それが何を意味するのかは、アンチィにしか聞こえない。
「それでいいのか?」確認するように訊く。
その声音には、同情も軽蔑もない。
ただ、最後の選択を尊重する声音だった。
「…………」
今度は、やや長く言葉を紡ぐように、アシュラの口が震えた。
その言葉を、アンチィは静かに受け止める。
それが「頼み」であることは、彼の表情が語っていた。
「分かった。だが……俺でいいのか?」
少年のように、少しだけ寂しげに、アンチィは微笑を浮かべた。
その笑みにも、もう怒りはない。
「……」
再びアシュラは何かを囁いた。
「分かったよ。俺がやる……。そのなんだ、最後に名前を教えてくれないか?」
「……」
アシュラは答えた。その口元にはあまりに優しすぎる笑みが宿っていた。
「そうかい。いい名前だな」
アンチィはゆっくりと、腰の剣を抜いた。
その刃先は、これまで幾度も人を斬り伏せてきたが、今ほど静かに構えられたことはない。
「さらばだ、ハルマ・ナス」
彼は、そう呼んだ。
それは敵の名ではなかった。
一人の戦士の名だった。
あるいは、かつての奴隷だった人間の名だった。
刃が音もなく、ハルマの咽喉元を貫く。
ほんの一瞬、血飛沫が舞い、アンチィの頬を赤く濡らす。
そして、その命は――終わった。
アンチィの瞳に、涙が浮かんでいた。
声も上げない。震えもしない。
ただ、頬を伝う涙が、彼の若さを物語っていた。まだ二十歳にも届かぬ少年の顔には、無理に背伸びした男の強さと、幼き頃に抱いた優しさが同居していた。
その瞳は、あまりに澄んでいた。
ただ真っ直ぐに、終わった命を見つめていた。
太陽は、眩いほどに空を焼いていた。
ムラマサの炎とは違う、静かで優しい熱だった。
アンチィは空を見上げた。
ムラマサの炎は恐怖だった。
だがこの太陽には、確かに何か――祝福のようなものがあった。
燃えるのではなく、照らしていた。
それは、世界を呑み込む炎ではなく、命を見送る光だった。
一人の皇が死んだ朝。
辺境の少年は、その命に刃を向けながらも、確かに敬意を抱いていた。
朝の光が差し込んでいた。
その光は戦場の傷跡さえも洗い流すように降り注ぎ、遠く霞んだ空にかけて広がる。
柔らかい風が吹き抜けた。
風に煽られて、金の髪が揺れた。ソフィア・アヴァロンの髪だった。
女は座り込み、拳を膝に埋め、肩を震わせていた。
「……アシュラ様は……死んでしまわれた……」
震える声が、溢れた。誰に向けた言葉でもない。
涙はこぼれて止まらなかった。
猫のような瞳は紅く腫れ、その中で大粒の涙が何度も何度も零れ落ちていく。
あまりに情けなく、あまりに美しい涙だった。
「……殺そうと、した……我らを……あの方が……私たちを……」
膝に置いた手が震える。
崩れ落ちる声に、自分でも耐えられなくなったのか、ソフィアは顔を伏せた。
その金色の髪がふわりと顔を隠し、濡れた睫毛と共に、悲壮な色気を帯びて揺れる。
「お終いだ……もう、我らはお終いだ……」
呪詛のように、あるいは許しを請うように、何度も何度も繰り返す。
ソフィアの肩に、そっと触れる手があった。そして、何も言わずにそこに留まる。
「……」ソフィアは顔を上げる。
見下ろす黒い髪、繊細な鎖骨、そして顔にはどんぐりのような瞳。
イロハ・カエデだった。その目もまた、涙に濡れていた。
同じように座り込んでいた。
強がることもできず、ただ横にいることしかできなかった。
「……わたしも、怖かったよ……」
イロハがぽつりと呟いた。
それは風に乗って、朝の光に溶けていく。
「だけど……」イロハの声は震えていた。
それでも、どこかに灯る意志があった。
戦いのあとの静けさの中で、少女の決意は確かに揺れていた
「私はまだ、誰かのために強くなりたいって思ってる……ソフィア、あなたもそうでしょ……?」
ソフィアは何も言わなかった。
けれど、震える手をそっと伸ばして、イロハの手に触れた。
柔らかくて、どこか寂しい、でも確かに温かい触れ合いだった。
朝日が二人を包み込んでいた。
金髪が陽光を弾いて揺れていた。
ソフィア・アヴァロンは土の上に座り込んでいた。
猫のような瞳は涙でいっぱいに潤み、もう何を支えに立てばよいのか分からなかった。
「……お終いではないよ」
隣に腰を下ろしていたイロハ・カエデが、泣きそうな声で言った。
その柔らかな響きに、ソフィアの肩がぴくりと震えた。
「何を言っている!」
キッと睨み返して、ソフィアは叫ぶ。
「修羅焔団の総帥たるアシュラ様は死んだのだ! 鉱山はめちゃくちゃ……我らに残されたものなど、何もない! それに……それに……アシュラ様は私を殺そうとされたんだ! 私は……尊敬していたのに……私は……私はどうしたら……!」
声にならぬ嗚咽が口から溢れ、ソフィアは泣き崩れた。
その華奢な体が細かく震えた。
イロハはそっと彼女を抱きしめた。何も言わずに、ただ抱きしめた。
「そんなことはないよ」
イロハは静かに言った。
「アシュラはお前たちを殺そうとしたんじゃない」
ソフィアは首を横に振った。
否定しているのか、受け入れたくないだけなのか、自分でも分からなかった。
「ムラマサが本気を出せば、シミットの装甲なんて簡単に貫けた」
イロハは諭すように、優しく言った。
「けど、お前は生き残った。あれだけの直撃を受けたのに、お前のコクピットは無事だった。それが何を意味するか、分かるか?」
ソフィアは涙に濡れた目で、イロハの顔を見つめた。
「アシュラは、ムラマサを止めたんだ。完璧にはいかなくても、それでも抑えた。お前を守ろうとしたんだよ」
そしてイロハは、ふいに顔を上げる。
「見てみろ」
視線の先、瓦礫の影から、次々と人々が這い出してくる
それは、ムラマサに焼かれたはずの修羅焔団の仲間たちだった。
彼らは、確かに生きていた。
ソフィアの瞳に、はっとしたような光が宿る。
「アシュラ様が……助けた……?」
「そうだ。お前たちが、修羅焔団が、これからも生きていけるように……守ったんだ」
イロハの言葉に、ソフィアは何度もうなずいた。
彼女の中で壊れていた何かが、静かに繋がりはじめていた。
「イロハ……わたし、私は……アシュラ様の思いに応えたい」
「なら、お前たちが修羅焔団を引き継げ。私は主任シュミートだ。協力するよ」
イロハの目に光があった。
その中に、アシュラに家族を奪われた者としての怒りはなかった。
あるはずの復讐の炎は、もう静かに灯を落としていた。
「修羅焔団は、かつて奴隷だった人々の集まりだ。あの人たちを、また奴隷に戻すなんて……絶対に許されない。だろう?」イロハは言う。
ソフィアは嗚咽を漏らしながら、うんうんとうなずいた。
目元を涙で濡らしながら、それでも誓うように、力強くうなずいた。
イロハはゆっくりと立ち上がる。
「少し待っていてくれ」
ソフィアは顔を上げた。
「どこへ……?」
「私は……もう一つ、決着をつけなければならない」
イロハの声は凛としていた。
その足取りに、もう迷いはなかった
焦げた大地を踏みしめ、風の中へと歩みを進める。
彼女にはまだ一つ、やり残していることがあったのだ。
赤い剣の前で、アンチィは立ちすくんでいた。
陽光は昇り、薄明のなか、焼けただれた地面が静かに冷えはじめていた。
背後には黒ずんだ肉塊、かつて「アシュラ」と呼ばれた男の亡骸。
戦いは終わった。だが、全てが終わったわけではなかった。
ムラマサは沈黙していた。
エクセによって粉砕された魔剣。しかし、それは「破壊」ではない。
今もなお、剣の内部で修復が進んでいる。
やがて再びこの世界に顕現し、新たな宿主を探すだろう。
その力を手にしたら──。
ムラマサが与えた燃え盛る力は、アシュラを頂点へと押し上げた。
奴隷から総帥へ。
ならば、自分が手にすればどこまで行ける?
この手で皇帝の首筋を掴めるのではないか。
ふと、そんな野心が頭をよぎった。
そのとき、視線の先に人影が立った。
イロハ・カエデ。
紅の剣を挟んで、対峙するように彼女がいた。
焼け焦げた鉱山を背に、黒髪が風に揺れ、どんぐり眼が真剣な光を放つ。
美しい。だがその美しさには、剣よりも鋭い覚悟が宿っていた。
「どうするつもりだ」
彼女の言葉は、まっすぐに突き刺さる。
「どうする?」
アンチィは問い返す。意味は分からなかった。
「ムラマサを、どうするつもりかと聞いてる」
焦りとも怒りともつかぬ感情が、イロハの声音ににじむ。
空気が張り詰める。
その剣を巡って、血が流れるかもしれない。
イロハは、あの炎に村を焼かれた女だ。
アシュラとムラマサが彼女のすべてを奪った。
ならば、ムラマサは復讐の対象そのもの。
しかしムラマサは力そのものだ。
それを手にすれば、世界は変えられるかもしれない。
貴族も、皇帝も、階級も、すべて壊して新しく作れるかもしれない。
イロハの黒髪が風で逆立った。
臨戦態勢。
今ここで、戦う気でいる。
アンチィは悪戯な笑みを浮かべた。
そして、ムラマサの柄をゆっくりと掴んだ。
イロハの瞳が大きく見開かれる。
瞬間、殺気が膨れ上がった。
空気が震える。
だが──アンチィは剣をイロハに向かって投げた。
ゆったりと優雅な放物線を描いて。
「……え?」
戸惑いに満ちた声。
イロハは剣を受け止め、動きを止めた。
その間抜けな顔に、アンチィは思わず笑ってしまった。
「ムラマサはいらない」
アンチィは腰に手をやる。そこにはもう一本の剣。
──ロウガから託された召喚剣。黒のエクセ。
「俺は、もう欲しいものは手に入れている。シュミートのお前ならムラマサくらい封印できるだろ? あとはよろしく頼むよ」
アンチィ言動を聞いて、イロハはしばらく黙っていた。
それから、小さく、本当に小さく少女は微笑んだ。
「じゃあな」
アンチィはイロハに背を向け、砂塵の中へと歩き出した。
もはや一介の奴隷ではない。
復讐に染まることもない。
世界を焼き尽くす力ではなく、大切なものを守る剣を持つ者──
アンチィ・シーは、己が自由を選んだのだ。
巨大な瓦礫を背に、ひとりの男が座っていた。
その肉体はまるで神話の中から抜け出してきたかのように逞しく、それでいてどこか人肌のぬくもりを感じさせる。ロウガ・ロードは、両膝を崩して座り込んでいた。
呼吸は荒く、目元には血の跡が残っている。
しかし、彼は笑っていた。
足音が聞こえる。
ロウガは咄嗟に肩を強張らせたが、その音はどこか懐かしいリズムを刻んでいた。
「来たかよ……」
その一言には、安堵も照れも、全部詰まっていた。
現れたのは、アンチィ・シーだった。
「立てるか?」
ロウガが答えるより早く、アンチィはしゃがみこみ、肩を差し出していた。
重たく身を預けると、なんとか立ち上がることができる。
「……見つかったか?」
ロウガの問いに、アンチィが一瞬だけ目を伏せた。
「何がだ?」
「ムラマサだよ。あの剣だよ」
ロウガの語気が強くなる。
「アレを手に入れるのが今回の仕事だったろ? 皇帝の持ち物だった剣だぞ? アシュラが盗み出して修羅焔団を作った原因でもある。あんなスキャンダルな代物、回収すれば莫大な金が動く。返すもよし、強請るもよし……命を懸ける価値があったろうが!」
……チッ。
アンチィは小さく舌打ちした。
「……そういえばそんな話だったな」
ぼそりと、蚊の鳴くような声で呟いた。ロウガには聞こえない。
「ん? なんか言ったか?」
「いや、別に」アンチィは顔をそらし、
「取りあえず逃げようぜ」と言った。
「逃げるって、お前な……!」
「ここにいても、誰が来るか分からんだろ? 俺たち今、満身創痍だ。無理は禁物だぜ」
「……そうかもしれねえけどよ……。しかし命を懸けても探すべきだろ!」
「だったら、たぶんこっちだ」
アンチィは何食わぬ顔で、まったくムラマサとは反対方向を指差した。
「……ほんとかよ? そっちにある保証なんてあるのか?」
アンチィは無言のまま、笑いもせずに肩を貸し続ける。
ロウガは文句を言いながらも、その肩がなければ立つこともできない。
「……あーもう! 本当に逃げる気だろ、お前!」
「さあな」
朝日が二人の背中を焼いていた。
砂埃の中、アンチィとロウガは言い合いながらも、肩を並べて歩いていく。
疲れた顔で、少しだけ安堵したような顔で。
戦いの火は消え、二人の日常が――ようやく戻ってきたのだ。
黒く焼け焦げた遺体の周囲に、少しずつ人が集まっていた。誰も声を発しない。鉱山の一角、もはや廃墟となった広場の中央に、それは横たわっている。
金色の髪が風に靡いた。ソフィア・アヴァロンが、その一番近くに膝をついていた。
「アシュラ様……」震える声で、彼女は名を呼ぶ。
だが男は何も答えなかった。瞳はすでに閉じられ、身体は黒炭のように焼け爛れていた。
鉱山の半分は破壊され、地平線まで続く荒野と化していた。大地は裂け、建造物は崩れ、鉄と石の匂いが空気を満たしている。
それでも誰も、元凶である彼を責めなかった。
むしろ人々の表情には、喪失の痛みと祈りに似た悲しみが宿っていた。
恐怖の皇。修羅焔団の支配者。虐殺の象徴。だが同時に、彼は彼らにとっての光でもあった。
彼の統治が生んだ秩序と夢。それがいかに歪であっても、混迷する辺境での唯一の道標だった。
そのアシュラは――死んだ。
彼の肉体は、今はただの黒い残骸にすぎない。
しかしその死の向こうに、彼の過去があった。
――五年前。
「ハルマ……ハルマ・ナス! やめろ! やめるんだ!」
誰かが叫んでいた。頭の中で、友の声がこだまする。だがその友も銃弾に撃たれて死んだ。
俺は、ひとりきりで立っていた。
狭い部屋。俺は深紅に染まっていた。
血の色だ。だが、自分のものではない。全ては敵の返り血だ。
そして血のように赤い剣が眼の前にある。俺がこれを手に入れるために来たのだ。
そもそもなぜこんなことになった?
ロマノフ家――高貴を騙るその一族の鉱山で、俺は奴隷として生まれた。名も、自由も、尊厳もない日々。呼吸をするたびに土埃が肺を蝕み、眠るたびに誰かの悲鳴が耳を裂いた。
それでも、俺は強かった。
暴力に屈せず、死にも負けず、ただ耐え続けた。痛みにさえ耐えれば、生きていけた。
この白髪。死んだ母が言っていた。お前は運命の子だと。俺たちは「カイン」の血を継いでいると。世界を正す資格があるのだと。
迷信に過ぎないのかもしれない。だが、確かに俺は強かった。
この前も、落石を一人で支えた。監視たちはそれを見て目を見張った。怯えていた。いや、違う。あれは「恐れ」ではなかった。
畏敬――そう、俺を神のように見る目だった。
その瞬間だけ、俺は世界に受け入れられた気がした。
だがあの日、地獄が牙を剥いた。
ロマノフの気まぐれで、人間狩りが始まった。以前のような小規模なものではない。数十人の奴隷たちが引きずり出され、円形闘技場へと放り込まれた。
その空間で、笑いながら彼らは銃を撃ち、ナイフを投げ、叫びを嘲った。加虐な拷問だってしていた。そして最後には、巨人――召喚されたNFが現れた。
あれは処刑だった。見せしめだった。虐殺だった。
そしてあの地獄のような闘技場に、見覚えのある姿があった。
血と炎の渦中、土にまみれて倒れているのは――イリナだった。
イリナ。俺の生涯で唯一愛した女。
幼いころ、俺たちは岩棚の上によく登った。
鉱山の赤土と煤に霞む空の下、ただ無言で並んで空を見上げた。
「この雲の向こうに、本当の空があるんだって、いつか見られるかな」
あの子はそう言って笑った。夢みたいな話を、まるで本当みたいに語るのがイリナだった。
ある日、イリナは小さな紙切れを見せた。
青空の絵――拙くて、だが懸命に描かれた青がそこにあった。
「いつか、空の下でまた会おう。約束だよ」
それが最後の言葉だった。住む場所が変わるというのである。
奴隷同士でも、居住区が違えば交流は禁止。それが貴族たちの分断政策。俺は何も言えず、ただ見送ることしかできなかった。
それ以来、俺はあの空の絵だけを持ち続けてきた。
そして今、あの約束の少女が、血塗られた地面の上で殴られ、蹴られ、命を賭けた見世物にされていた。
――許せるはずがなかった。
次の瞬間には、もう俺は動いていた。
目の前にいた監視兵の喉を潰し、銃を持つ手をへし折り、顔を蹴り砕いた。怒りの火は止まらなかった。誰が敵で、誰が味方かも分からず、ただすべてを破壊した。
気づけば、俺は闘技場の門を開けていた。
奴隷たちが逃げ出す。
その中に、イリナがいたかどうかは分からない。
振り返ることはできなかった。
だが、あの時、俺の中で何かが確かに壊れ、そして生まれた。
この世界には、青空なんて最初からなかった。
なら、俺が作ってやる――。俺は自分を止められなかった。友の制止も届かなかった。
もう駄目だ。
俺は監視を殺した。奴隷を脱走させた。
俺も奴隷だ。主に逆らって生きていけるわけがない。
だから逃げた。ロマノフ家から逃げた。
当てはない。野垂れ死ぬか、ロマノフの追手に殺されるだけの人生だ。
夜は冷たく、風は肌を裂いた。岩山に足を取られ、膝を擦りむいた。呼吸は荒く、意識も遠のきかけていた。
そのとき、声がした。
耳ではない。
魂に届く、暗く熱い声だった。
『力が欲しいか……』
問いかけだった。
それは地獄の炎のような声だった。妖しく、そして甘美だった。
欲しかった。
力が欲しかった。
俺は強かった。誰よりも。
落石を受け止めた。監視も怯えた。
だが足りなかった。
ただ強いだけでは奴隷を抜け出せなかった。
だから俺は逃げている。だから俺は今、地べたを這っている。
もっと、もっと――力が必要だ。
「欲しい!」
俺は叫んでいた。胸の底から絞り出した。
『ならばこい!』
遠くに、炎が灯った。
山の裂け目の向こう、黒い森を越えた先。
燃え盛る火柱のような光。あそこに求めるものがあるのか?
俺は走った。
足が裂けようが、肺が焼けようが、構わなかった。
その力に辿り着けるならば、それだけでいいと思った。
やがて、たどり着いた。
小さな村だった。
ヤパン――そう呼ばれていたはずだ。
そして、あの炎に導かれるように家に入り、この部屋に入った。
そうやって俺は今、ここにいるのだ。
そこにいたのは、仮面の男と、一振りの剣だった。
剣は赤かった。ただの剣ではない。召喚剣。NFを呼び出す剣だ。
火のように赤く、血のように紅い――狂気の色だった。
こいつが俺を呼んだんだ。
この赤い剣が、俺の魂を呼んだのだ。
「よせ!」男が立ちふさがる。
「君はムラマサに魅入られている。取り込まれるぞ!」
何を言っている?
俺が? 取り込まれる? この剣、ムラマサに取り込まれる?
分からない。分かりたくもない。
欲しいのは、力だ。
ムラマサはただの剣じゃない。召喚剣だ。
ならば、最強だ。ロマノフを、世界を打ち倒せる力だ。
邪魔だ。
男を殴った。
殴った瞬間、何かが壊れる音がした。それは物質ではない。己の中のたがだ。
男は吹き飛び、血を吐き、沈黙した。
その男が被っていた仮面が、地面を転がって俺の足元に止まる。
――ピクリ、と剣が震えた。
赤い刀身が、微かに唸ったように思えた。
ムラマサが、仮面を嫌っていた。
「……せめて、それを被れ……その仮面は……ムラマサの浸食を……抑えてくれる……それが……なければ……お前は……たちまち……自我を……食われる……」
血を吐きながら、男はどんぐりのような瞳で睨んでくる。
その声音には真実があった。冗談でも脅しでもない。
仮面は、ムラマサの瘴気を――その意思を――遮断するためにあるのだ。
やはり俺は魅入られているかもしれない。
その証拠に、目の前の赤い剣は、あまりに美しく、あまりに禍々しい。
魅了されていた。
逃げられなかった。
そうだ。俺はもう、逃げられない。
力がなければ、イリナを守れない。
力がなければ、会いにいくこともできない。
力がなければ、誰にも、何にも、届かない。
俺たちはカインの一族だ。
かつて世界を平定した偉大なる血統。
それが今では、鉱山の底で石を掘り、痛みに喘ぎ、誰にも気づかれず死んでいく。
――そんな人生を、認めてたまるか。
ムラマサが囁いてくる。
『俺を手にすれば、世界は変えられる』
その声に、全てが引きずられていく。
俺は仮面を拾った。
ゆっくりと被る。
確かに、少し楽になった。
ムラマサの囁きが、心から一歩引いた気がした。
だが、それでも――俺は抗えなかった。
仮面の下でも、誘惑は消えない。
消えたのは恐怖だ。
力を手に入れるという実感だけが残った。
この剣を握れば、俺は変われる。
いや、俺は――変わるべきなんだ。
ムラマサの柄に、手を伸ばす。
触れた瞬間、全身を貫く。
鮮烈な力。
焼けつくような魔力。
血管が燃え上がり、骨が赤熱していく。
この感覚――まるで、俺の中にマグマが生まれたかのようだ。
これが、ムラマサの力。
これが、最強の召喚剣。
『……滅ぼせ』
マスク越しに、ムラマサの意志が響く。
何を? 誰を? その答えはなかった。
だが、なんでもいい。
俺は賛成だ。
滅ぼしてやる。
この腐った世界を。
この惨めな人生を。
この名もなき奴隷の運命を――全部滅ぼしてやる。
まずはこの村からだ。
ヤパンの村。この村を炎で染め上げる。
次はロマノフだ。
鉱山を奪い、拷問と支配のシステムを塗り替える。
鉱脈の構造も、奴隷の配置も、全て把握している。
掌握は容易い。
そこから組織を作る。
かつての皇が築いたような階級ではなく、力を信奉する集団だ。
世界を蹂躙する軍団だ。
そして――俺は、皇になる。
この世の頂点に立つ者になる。
もうハルマではいられない。
奴隷として呼ばれたその名は、今ここで捨てる。
名乗るべきは――アシュラ。
終焉をもたらす名。
悪夢の具現。
破壊と再生の預言者。
誰よりも高貴で、誰よりも血に飢えた存在。
それが、アシュラという存在なのだ。
俺は魔力をムラマサに注ぐ。
――イリナ……済まなかった……。
叫びもなく、ただ全身から流し込む。
目の前の赤い剣が、咆哮のように光を放つ。
赤い巨人が形を成す。
灼熱の装甲、煉獄の炎。
ヤパンの空が赤く染まる。
気づけば、俺は村を――
ヤパンの村を、炎で塗り潰していた。
誰の声も聞こえなかった。
叫びも、嘆きも、届かなかった。
これが力だ。
これが――アシュラの始まりだ。
ここからが、地獄の本番だ。
アシュラを倒してから数か月の月日が流れた。
森の奥、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ場所があった。風が葉を揺らし、光が舞い落ちる。まるで天からこぼれた祈りの欠片のように、静かで温かい空間。
その中心に、ひとりの男が膝をついていた。
少年とも青年とも思える面差し。切れ長の目は閉じられ、穏やかな祈りが全身に宿っていた。
白い髪が、森を吹き抜ける風にやわらかく揺れている。
彼の前には、静かに立つ、ひとつの墓標があった。
花が一輪、根を張るように寄り添っている。飾られたものではない。自然に、しかしまるでそこに咲くことを選んだように、凛と咲いていた。
やがて男は、そっと瞼を開いた。
その眼差しには哀しみも怒りもなかった。あるのはただ、静かな感謝と、深い慈しみ。長く続いた時間の果てに、ようやくたどり着いた者だけが持ち得る優しい光だった。
彼は微笑む。
その笑みは誰に向けたものでもなく、それでも確かに、今という瞬間に満たされていた。
そして立ち上がると、音もなくその場を後にする。
彼の姿は森の奥へと溶けていく。まるで風に乗って去っていくようであった。
墓標に刻まれた名前が、静かに陽光に照らされている。それは男の母の名前であるらしかった。
――イリナ・シー。
それは、愛され、祈られ、そして静かに見送くる者の名前だった。
感想を聞かせてください!




