表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

第八章 夜明けの剣

朝日が昇っていた。

瓦礫と灰の散る大地に、じんわりと金の光が差し込んでくる。

焦げた空気を洗うように、穏やかな風が吹いた。

それは、戦いの終わりを告げる風でもあり、何かが変わったあとの静けさだった。

黒いエクセの全身に、亀裂が走る。黒き救世主は全力を出し切ったのである。

鋼が砕ける音とともに、その姿は砂塵のように舞い上がって消えていった。

残されたのは、ひとりの男だった。

煙の向こうから現れたその姿は、どこか影を帯びていた。

白い髪が風にたなびき、刃のような眼が朝日にわずかに細められる。

アンチィ・シー。

その歩みはゆっくりと、しかし迷いなく進んでいた。

彼の前にあるのは、ふたつ。

地に突き立てられた赤い剣――ムラマサ。

そして、そのすぐそばで崩れるように横たわる人影。

全身を焼かれ、服も皮膚も焼け焦げて、それが誰か判別するのも難しい。

それでも、アンチィには分かった。アシュラだ。

「生きてたかよ」自然と口をついた声だった。

憐れみでも、嘲りでもない。そこにあるのは、ただの真実だった。

アシュラの口元が微かに動く。

声にはならないが、確かに言葉を発しようとしていた。

アンチィは膝をついて、彼の傍に顔を近づける。

焼け焦げたその顔は、表情も読めないほどに変わっていたが、唇だけがわずかに笑んでいた。

目は、どこを見ているのか分からなかった。だが、アンチィはそれでも、彼の視線が自分を捉えている気がした。

「聞こえてるか?」

声に力はない。ただ、それでも言わなければならない気がした。

「ムラマサは……倒した。お前を冒すものはもう……何もない」

目を伏せる。静かに息を吐く。

「ただ、あんたが本気で世界を変えようとしてたのは、伝わったよ……それでも」

アンチィはそれ以上何も言えなかった。

言ってしまえば、何かが終わってしまう。

アシュラの呼吸は浅く、時間の中で消え入りそうだった。

それでも、まだ、生きていた。

焼けた喉が震え、何かを訴えようとしていた。

アンチィは黙って、それを聞こうとした。

言葉にならない言葉を、目の奥に焼きつける。

朝日が、ふたりを包んでいた。

瓦礫に染まった世界が、黄金の光に照らされていく。

そこにあったのは、勝者でも敗者でもなかった。

ただ、ひとつの夜明けと、まだ消えない命の灯火。

「どうしたい?」

アンチィの声は低く、優しかった。

それは、戦いの中で交わす問いではなく、戦いを終えた者だけに許された問いだった。

生きるか、死ぬか。

それ以上でも以下でもない。

戦士としての最後の意志を問う言葉だった。

目の前に横たわる男は、全身を焼かれ、命の灯火も今や風前のものとなっていた。

アシュラ――否、もう「アシュラ」と呼ぶべきでないかもしれない。

かつては恐怖と力で帝国を覆そうとした暴君、だが今は、焼け爛れた皮膚に包まれ、呼吸すらままならない、ただの死にかけの男だ。

かつてアンチィは、この男に怒りを抱いていた。

だがそれは、もう消えていた。

戦いを終えた今、アンチィの瞳にはただの哀しみが残っていた。

「……」アシュラの口が微かに動いた。

それが何を意味するのかは、アンチィにしか聞こえない。

「それでいいのか?」確認するように訊く。

その声音には、同情も軽蔑もない。

ただ、最後の選択を尊重する声音だった。

「…………」

今度は、やや長く言葉を紡ぐように、アシュラの口が震えた。

その言葉を、アンチィは静かに受け止める。

それが「頼み」であることは、彼の表情が語っていた。

「分かった。だが……俺でいいのか?」

少年のように、少しだけ寂しげに、アンチィは微笑を浮かべた。

その笑みにも、もう怒りはない。

「……」

再びアシュラは何かを囁いた。

「分かったよ。俺がやる……。そのなんだ、最後に名前を教えてくれないか?」

「……」

アシュラは答えた。その口元にはあまりに優しすぎる笑みが宿っていた。

「そうかい。いい名前だな」

アンチィはゆっくりと、腰の剣を抜いた。

その刃先は、これまで幾度も人を斬り伏せてきたが、今ほど静かに構えられたことはない。

「さらばだ、ハルマ・ナス」

彼は、そう呼んだ。

それは敵の名ではなかった。

一人の戦士の名だった。

あるいは、かつての奴隷だった人間の名だった。

刃が音もなく、ハルマの咽喉元を貫く。

ほんの一瞬、血飛沫が舞い、アンチィの頬を赤く濡らす。

そして、その命は――終わった。

アンチィの瞳に、涙が浮かんでいた。

声も上げない。震えもしない。

ただ、頬を伝う涙が、彼の若さを物語っていた。まだ二十歳にも届かぬ少年の顔には、無理に背伸びした男の強さと、幼き頃に抱いた優しさが同居していた。

その瞳は、あまりに澄んでいた。

ただ真っ直ぐに、終わった命を見つめていた。

太陽は、眩いほどに空を焼いていた。

ムラマサの炎とは違う、静かで優しい熱だった。

アンチィは空を見上げた。

ムラマサの炎は恐怖だった。

だがこの太陽には、確かに何か――祝福のようなものがあった。

燃えるのではなく、照らしていた。

それは、世界を呑み込む炎ではなく、命を見送る光だった。

一人の皇が死んだ朝。

辺境の少年は、その命に刃を向けながらも、確かに敬意を抱いていた。


朝の光が差し込んでいた。

その光は戦場の傷跡さえも洗い流すように降り注ぎ、遠く霞んだ空にかけて広がる。

柔らかい風が吹き抜けた。

風に煽られて、金の髪が揺れた。ソフィア・アヴァロンの髪だった。

女は座り込み、拳を膝に埋め、肩を震わせていた。

「……アシュラ様は……死んでしまわれた……」

震える声が、溢れた。誰に向けた言葉でもない。

涙はこぼれて止まらなかった。

猫のような瞳は紅く腫れ、その中で大粒の涙が何度も何度も零れ落ちていく。

あまりに情けなく、あまりに美しい涙だった。

「……殺そうと、した……我らを……あの方が……私たちを……」

膝に置いた手が震える。

崩れ落ちる声に、自分でも耐えられなくなったのか、ソフィアは顔を伏せた。

その金色の髪がふわりと顔を隠し、濡れた睫毛と共に、悲壮な色気を帯びて揺れる。

「お終いだ……もう、我らはお終いだ……」

呪詛のように、あるいは許しを請うように、何度も何度も繰り返す。

ソフィアの肩に、そっと触れる手があった。そして、何も言わずにそこに留まる。

「……」ソフィアは顔を上げる。

見下ろす黒い髪、繊細な鎖骨、そして顔にはどんぐりのような瞳。

イロハ・カエデだった。その目もまた、涙に濡れていた。

同じように座り込んでいた。

強がることもできず、ただ横にいることしかできなかった。

「……わたしも、怖かったよ……」

イロハがぽつりと呟いた。

それは風に乗って、朝の光に溶けていく。

「だけど……」イロハの声は震えていた。

それでも、どこかに灯る意志があった。

戦いのあとの静けさの中で、少女の決意は確かに揺れていた

「私はまだ、誰かのために強くなりたいって思ってる……ソフィア、あなたもそうでしょ……?」

ソフィアは何も言わなかった。

けれど、震える手をそっと伸ばして、イロハの手に触れた。

柔らかくて、どこか寂しい、でも確かに温かい触れ合いだった。

朝日が二人を包み込んでいた。

金髪が陽光を弾いて揺れていた。

ソフィア・アヴァロンは土の上に座り込んでいた。

猫のような瞳は涙でいっぱいに潤み、もう何を支えに立てばよいのか分からなかった。

「……お終いではないよ」

隣に腰を下ろしていたイロハ・カエデが、泣きそうな声で言った。

その柔らかな響きに、ソフィアの肩がぴくりと震えた。

「何を言っている!」

キッと睨み返して、ソフィアは叫ぶ。

「修羅焔団の総帥たるアシュラ様は死んだのだ! 鉱山はめちゃくちゃ……我らに残されたものなど、何もない! それに……それに……アシュラ様は私を殺そうとされたんだ! 私は……尊敬していたのに……私は……私はどうしたら……!」

声にならぬ嗚咽が口から溢れ、ソフィアは泣き崩れた。

その華奢な体が細かく震えた。

イロハはそっと彼女を抱きしめた。何も言わずに、ただ抱きしめた。

「そんなことはないよ」

イロハは静かに言った。

「アシュラはお前たちを殺そうとしたんじゃない」

ソフィアは首を横に振った。

否定しているのか、受け入れたくないだけなのか、自分でも分からなかった。

「ムラマサが本気を出せば、シミットの装甲なんて簡単に貫けた」

イロハは諭すように、優しく言った。

「けど、お前は生き残った。あれだけの直撃を受けたのに、お前のコクピットは無事だった。それが何を意味するか、分かるか?」

ソフィアは涙に濡れた目で、イロハの顔を見つめた。

「アシュラは、ムラマサを止めたんだ。完璧にはいかなくても、それでも抑えた。お前を守ろうとしたんだよ」

そしてイロハは、ふいに顔を上げる。

「見てみろ」

視線の先、瓦礫の影から、次々と人々が這い出してくる

それは、ムラマサに焼かれたはずの修羅焔団の仲間たちだった。

彼らは、確かに生きていた。

ソフィアの瞳に、はっとしたような光が宿る。

「アシュラ様が……助けた……?」

「そうだ。お前たちが、修羅焔団が、これからも生きていけるように……守ったんだ」

イロハの言葉に、ソフィアは何度もうなずいた。

彼女の中で壊れていた何かが、静かに繋がりはじめていた。

「イロハ……わたし、私は……アシュラ様の思いに応えたい」

「なら、お前たちが修羅焔団を引き継げ。私は主任シュミートだ。協力するよ」

イロハの目に光があった。

その中に、アシュラに家族を奪われた者としての怒りはなかった。

あるはずの復讐の炎は、もう静かに灯を落としていた。

「修羅焔団は、かつて奴隷だった人々の集まりだ。あの人たちを、また奴隷に戻すなんて……絶対に許されない。だろう?」イロハは言う。

ソフィアは嗚咽を漏らしながら、うんうんとうなずいた。

目元を涙で濡らしながら、それでも誓うように、力強くうなずいた。

イロハはゆっくりと立ち上がる。

「少し待っていてくれ」

ソフィアは顔を上げた。

「どこへ……?」

「私は……もう一つ、決着をつけなければならない」

イロハの声は凛としていた。

その足取りに、もう迷いはなかった

焦げた大地を踏みしめ、風の中へと歩みを進める。

彼女にはまだ一つ、やり残していることがあったのだ。


赤い剣の前で、アンチィは立ちすくんでいた。

陽光は昇り、薄明のなか、焼けただれた地面が静かに冷えはじめていた。

背後には黒ずんだ肉塊、かつて「アシュラ」と呼ばれた男の亡骸。

戦いは終わった。だが、全てが終わったわけではなかった。

ムラマサは沈黙していた。

エクセによって粉砕された魔剣。しかし、それは「破壊」ではない。

今もなお、剣の内部で修復が進んでいる。

やがて再びこの世界に顕現し、新たな宿主を探すだろう。

その力を手にしたら──。

ムラマサが与えた燃え盛る力は、アシュラを頂点へと押し上げた。

奴隷から総帥へ。

ならば、自分が手にすればどこまで行ける?

この手で皇帝の首筋を掴めるのではないか。

ふと、そんな野心が頭をよぎった。

そのとき、視線の先に人影が立った。

イロハ・カエデ。

紅の剣を挟んで、対峙するように彼女がいた。

焼け焦げた鉱山を背に、黒髪が風に揺れ、どんぐり眼が真剣な光を放つ。

美しい。だがその美しさには、剣よりも鋭い覚悟が宿っていた。

「どうするつもりだ」

彼女の言葉は、まっすぐに突き刺さる。

「どうする?」

アンチィは問い返す。意味は分からなかった。

「ムラマサを、どうするつもりかと聞いてる」

焦りとも怒りともつかぬ感情が、イロハの声音ににじむ。

空気が張り詰める。

その剣を巡って、血が流れるかもしれない。

イロハは、あの炎に村を焼かれた女だ。

アシュラとムラマサが彼女のすべてを奪った。

ならば、ムラマサは復讐の対象そのもの。

しかしムラマサは力そのものだ。

それを手にすれば、世界は変えられるかもしれない。

貴族も、皇帝も、階級も、すべて壊して新しく作れるかもしれない。

イロハの黒髪が風で逆立った。

臨戦態勢。

今ここで、戦う気でいる。

アンチィは悪戯な笑みを浮かべた。

そして、ムラマサの柄をゆっくりと掴んだ。

イロハの瞳が大きく見開かれる。

瞬間、殺気が膨れ上がった。

空気が震える。

だが──アンチィは剣をイロハに向かって投げた。

ゆったりと優雅な放物線を描いて。

「……え?」

戸惑いに満ちた声。

イロハは剣を受け止め、動きを止めた。

その間抜けな顔に、アンチィは思わず笑ってしまった。

「ムラマサはいらない」

アンチィは腰に手をやる。そこにはもう一本の剣。

──ロウガから託された召喚剣。黒のエクセ。

「俺は、もう欲しいものは手に入れている。シュミートのお前ならムラマサくらい封印できるだろ? あとはよろしく頼むよ」

アンチィ言動を聞いて、イロハはしばらく黙っていた。

それから、小さく、本当に小さく少女は微笑んだ。

「じゃあな」

アンチィはイロハに背を向け、砂塵の中へと歩き出した。

もはや一介の奴隷ではない。

復讐に染まることもない。

世界を焼き尽くす力ではなく、大切なものを守る剣を持つ者──

アンチィ・シーは、己が自由を選んだのだ。


巨大な瓦礫を背に、ひとりの男が座っていた。

その肉体はまるで神話の中から抜け出してきたかのように逞しく、それでいてどこか人肌のぬくもりを感じさせる。ロウガ・ロードは、両膝を崩して座り込んでいた。

呼吸は荒く、目元には血の跡が残っている。

しかし、彼は笑っていた。

足音が聞こえる。

ロウガは咄嗟に肩を強張らせたが、その音はどこか懐かしいリズムを刻んでいた。

「来たかよ……」

その一言には、安堵も照れも、全部詰まっていた。

現れたのは、アンチィ・シーだった。

「立てるか?」

ロウガが答えるより早く、アンチィはしゃがみこみ、肩を差し出していた。

重たく身を預けると、なんとか立ち上がることができる。

「……見つかったか?」

ロウガの問いに、アンチィが一瞬だけ目を伏せた。

「何がだ?」

「ムラマサだよ。あの剣だよ」

ロウガの語気が強くなる。

「アレを手に入れるのが今回の仕事だったろ? 皇帝の持ち物だった剣だぞ? アシュラが盗み出して修羅焔団を作った原因でもある。あんなスキャンダルな代物、回収すれば莫大な金が動く。返すもよし、強請るもよし……命を懸ける価値があったろうが!」

……チッ。

アンチィは小さく舌打ちした。

「……そういえばそんな話だったな」

ぼそりと、蚊の鳴くような声で呟いた。ロウガには聞こえない。

「ん? なんか言ったか?」

「いや、別に」アンチィは顔をそらし、

「取りあえず逃げようぜ」と言った。

「逃げるって、お前な……!」

「ここにいても、誰が来るか分からんだろ? 俺たち今、満身創痍だ。無理は禁物だぜ」

「……そうかもしれねえけどよ……。しかし命を懸けても探すべきだろ!」

「だったら、たぶんこっちだ」

アンチィは何食わぬ顔で、まったくムラマサとは反対方向を指差した。

「……ほんとかよ? そっちにある保証なんてあるのか?」

アンチィは無言のまま、笑いもせずに肩を貸し続ける。

ロウガは文句を言いながらも、その肩がなければ立つこともできない。

「……あーもう! 本当に逃げる気だろ、お前!」

「さあな」

朝日が二人の背中を焼いていた。

砂埃の中、アンチィとロウガは言い合いながらも、肩を並べて歩いていく。

疲れた顔で、少しだけ安堵したような顔で。

戦いの火は消え、二人の日常が――ようやく戻ってきたのだ。


黒く焼け焦げた遺体の周囲に、少しずつ人が集まっていた。誰も声を発しない。鉱山の一角、もはや廃墟となった広場の中央に、それは横たわっている。

金色の髪が風に靡いた。ソフィア・アヴァロンが、その一番近くに膝をついていた。

「アシュラ様……」震える声で、彼女は名を呼ぶ。

だが男は何も答えなかった。瞳はすでに閉じられ、身体は黒炭のように焼け爛れていた。

鉱山の半分は破壊され、地平線まで続く荒野と化していた。大地は裂け、建造物は崩れ、鉄と石の匂いが空気を満たしている。

それでも誰も、元凶である彼を責めなかった。

むしろ人々の表情には、喪失の痛みと祈りに似た悲しみが宿っていた。

恐怖の皇。修羅焔団の支配者。虐殺の象徴。だが同時に、彼は彼らにとっての光でもあった。

彼の統治が生んだ秩序と夢。それがいかに歪であっても、混迷する辺境での唯一の道標だった。

そのアシュラは――死んだ。

彼の肉体は、今はただの黒い残骸にすぎない。

しかしその死の向こうに、彼の過去があった。


――五年前。


「ハルマ……ハルマ・ナス! やめろ! やめるんだ!」

誰かが叫んでいた。頭の中で、友の声がこだまする。だがその友も銃弾に撃たれて死んだ。

俺は、ひとりきりで立っていた。

狭い部屋。俺は深紅に染まっていた。

血の色だ。だが、自分のものではない。全ては敵の返り血だ。

そして血のように赤い剣が眼の前にある。俺がこれを手に入れるために来たのだ。


そもそもなぜこんなことになった?

ロマノフ家――高貴を騙るその一族の鉱山で、俺は奴隷として生まれた。名も、自由も、尊厳もない日々。呼吸をするたびに土埃が肺を蝕み、眠るたびに誰かの悲鳴が耳を裂いた。

それでも、俺は強かった。

暴力に屈せず、死にも負けず、ただ耐え続けた。痛みにさえ耐えれば、生きていけた。

この白髪。死んだ母が言っていた。お前は運命の子だと。俺たちは「カイン」の血を継いでいると。世界を正す資格があるのだと。

迷信に過ぎないのかもしれない。だが、確かに俺は強かった。

この前も、落石を一人で支えた。監視たちはそれを見て目を見張った。怯えていた。いや、違う。あれは「恐れ」ではなかった。

畏敬――そう、俺を神のように見る目だった。

その瞬間だけ、俺は世界に受け入れられた気がした。

だがあの日、地獄が牙を剥いた。

ロマノフの気まぐれで、人間狩りが始まった。以前のような小規模なものではない。数十人の奴隷たちが引きずり出され、円形闘技場へと放り込まれた。

その空間で、笑いながら彼らは銃を撃ち、ナイフを投げ、叫びを嘲った。加虐な拷問だってしていた。そして最後には、巨人――召喚されたNFが現れた。

あれは処刑だった。見せしめだった。虐殺だった。


そしてあの地獄のような闘技場に、見覚えのある姿があった。

血と炎の渦中、土にまみれて倒れているのは――イリナだった。

イリナ。俺の生涯で唯一愛した女。

幼いころ、俺たちは岩棚の上によく登った。

鉱山の赤土と煤に霞む空の下、ただ無言で並んで空を見上げた。

「この雲の向こうに、本当の空があるんだって、いつか見られるかな」

あの子はそう言って笑った。夢みたいな話を、まるで本当みたいに語るのがイリナだった。

ある日、イリナは小さな紙切れを見せた。

青空の絵――拙くて、だが懸命に描かれた青がそこにあった。

「いつか、空の下でまた会おう。約束だよ」

それが最後の言葉だった。住む場所が変わるというのである。

奴隷同士でも、居住区が違えば交流は禁止。それが貴族たちの分断政策。俺は何も言えず、ただ見送ることしかできなかった。

それ以来、俺はあの空の絵だけを持ち続けてきた。

そして今、あの約束の少女が、血塗られた地面の上で殴られ、蹴られ、命を賭けた見世物にされていた。

――許せるはずがなかった。

次の瞬間には、もう俺は動いていた。

目の前にいた監視兵の喉を潰し、銃を持つ手をへし折り、顔を蹴り砕いた。怒りの火は止まらなかった。誰が敵で、誰が味方かも分からず、ただすべてを破壊した。

気づけば、俺は闘技場の門を開けていた。

奴隷たちが逃げ出す。

その中に、イリナがいたかどうかは分からない。

振り返ることはできなかった。

だが、あの時、俺の中で何かが確かに壊れ、そして生まれた。

この世界には、青空なんて最初からなかった。

なら、俺が作ってやる――。俺は自分を止められなかった。友の制止も届かなかった。

もう駄目だ。

俺は監視を殺した。奴隷を脱走させた。

俺も奴隷だ。主に逆らって生きていけるわけがない。

だから逃げた。ロマノフ家から逃げた。

当てはない。野垂れ死ぬか、ロマノフの追手に殺されるだけの人生だ。

夜は冷たく、風は肌を裂いた。岩山に足を取られ、膝を擦りむいた。呼吸は荒く、意識も遠のきかけていた。

そのとき、声がした。

耳ではない。

魂に届く、暗く熱い声だった。

『力が欲しいか……』

問いかけだった。

それは地獄の炎のような声だった。妖しく、そして甘美だった。

欲しかった。

力が欲しかった。

俺は強かった。誰よりも。

落石を受け止めた。監視も怯えた。

だが足りなかった。

ただ強いだけでは奴隷を抜け出せなかった。

だから俺は逃げている。だから俺は今、地べたを這っている。

もっと、もっと――力が必要だ。

「欲しい!」

俺は叫んでいた。胸の底から絞り出した。

『ならばこい!』

遠くに、炎が灯った。

山の裂け目の向こう、黒い森を越えた先。

燃え盛る火柱のような光。あそこに求めるものがあるのか?

俺は走った。

足が裂けようが、肺が焼けようが、構わなかった。

その力に辿り着けるならば、それだけでいいと思った。

やがて、たどり着いた。

小さな村だった。

ヤパン――そう呼ばれていたはずだ。

そして、あの炎に導かれるように家に入り、この部屋に入った。

そうやって俺は今、ここにいるのだ。

そこにいたのは、仮面の男と、一振りの剣だった。

剣は赤かった。ただの剣ではない。召喚剣。NFを呼び出す剣だ。

火のように赤く、血のように紅い――狂気の色だった。

こいつが俺を呼んだんだ。

この赤い剣が、俺の魂を呼んだのだ。

「よせ!」男が立ちふさがる。

「君はムラマサに魅入られている。取り込まれるぞ!」

何を言っている?

俺が? 取り込まれる? この剣、ムラマサに取り込まれる?

分からない。分かりたくもない。

欲しいのは、力だ。

ムラマサはただの剣じゃない。召喚剣だ。

ならば、最強だ。ロマノフを、世界を打ち倒せる力だ。

邪魔だ。

男を殴った。

殴った瞬間、何かが壊れる音がした。それは物質ではない。己の中のたがだ。

男は吹き飛び、血を吐き、沈黙した。

その男が被っていた仮面が、地面を転がって俺の足元に止まる。

――ピクリ、と剣が震えた。

赤い刀身が、微かに唸ったように思えた。

ムラマサが、仮面を嫌っていた。

「……せめて、それを被れ……その仮面は……ムラマサの浸食を……抑えてくれる……それが……なければ……お前は……たちまち……自我を……食われる……」

血を吐きながら、男はどんぐりのような瞳で睨んでくる。

その声音には真実があった。冗談でも脅しでもない。

仮面は、ムラマサの瘴気を――その意思を――遮断するためにあるのだ。

やはり俺は魅入られているかもしれない。

その証拠に、目の前の赤い剣は、あまりに美しく、あまりに禍々しい。

魅了されていた。

逃げられなかった。

そうだ。俺はもう、逃げられない。

力がなければ、イリナを守れない。

力がなければ、会いにいくこともできない。

力がなければ、誰にも、何にも、届かない。

俺たちはカインの一族だ。

かつて世界を平定した偉大なる血統。

それが今では、鉱山の底で石を掘り、痛みに喘ぎ、誰にも気づかれず死んでいく。

――そんな人生を、認めてたまるか。

ムラマサが囁いてくる。

『俺を手にすれば、世界は変えられる』

その声に、全てが引きずられていく。

俺は仮面を拾った。

ゆっくりと被る。

確かに、少し楽になった。

ムラマサの囁きが、心から一歩引いた気がした。

だが、それでも――俺は抗えなかった。

仮面の下でも、誘惑は消えない。

消えたのは恐怖だ。

力を手に入れるという実感だけが残った。

この剣を握れば、俺は変われる。

いや、俺は――変わるべきなんだ。

ムラマサの柄に、手を伸ばす。

触れた瞬間、全身を貫く。

鮮烈な力。

焼けつくような魔力。

血管が燃え上がり、骨が赤熱していく。

この感覚――まるで、俺の中にマグマが生まれたかのようだ。

これが、ムラマサの力。

これが、最強の召喚剣。

『……滅ぼせ』

マスク越しに、ムラマサの意志が響く。

何を? 誰を? その答えはなかった。

だが、なんでもいい。

俺は賛成だ。

滅ぼしてやる。

この腐った世界を。

この惨めな人生を。

この名もなき奴隷の運命を――全部滅ぼしてやる。

まずはこの村からだ。

ヤパンの村。この村を炎で染め上げる。

次はロマノフだ。

鉱山を奪い、拷問と支配のシステムを塗り替える。

鉱脈の構造も、奴隷の配置も、全て把握している。

掌握は容易い。

そこから組織を作る。

かつての皇が築いたような階級ではなく、力を信奉する集団だ。

世界を蹂躙する軍団だ。

そして――俺は、皇になる。

この世の頂点に立つ者になる。

もうハルマではいられない。

奴隷として呼ばれたその名は、今ここで捨てる。

名乗るべきは――アシュラ。

終焉をもたらす名。

悪夢の具現。

破壊と再生の預言者。

誰よりも高貴で、誰よりも血に飢えた存在。

それが、アシュラという存在なのだ。

俺は魔力をムラマサに注ぐ。

――イリナ……済まなかった……。

叫びもなく、ただ全身から流し込む。

目の前の赤い剣が、咆哮のように光を放つ。

赤い巨人が形を成す。

灼熱の装甲、煉獄の炎。

ヤパンの空が赤く染まる。


気づけば、俺は村を――

ヤパンの村を、炎で塗り潰していた。

誰の声も聞こえなかった。

叫びも、嘆きも、届かなかった。

これが力だ。

これが――アシュラの始まりだ。

ここからが、地獄の本番だ。


アシュラを倒してから数か月の月日が流れた。


森の奥、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ場所があった。風が葉を揺らし、光が舞い落ちる。まるで天からこぼれた祈りの欠片のように、静かで温かい空間。

その中心に、ひとりの男が膝をついていた。

少年とも青年とも思える面差し。切れ長の目は閉じられ、穏やかな祈りが全身に宿っていた。

白い髪が、森を吹き抜ける風にやわらかく揺れている。

彼の前には、静かに立つ、ひとつの墓標があった。

花が一輪、根を張るように寄り添っている。飾られたものではない。自然に、しかしまるでそこに咲くことを選んだように、凛と咲いていた。

やがて男は、そっと瞼を開いた。

その眼差しには哀しみも怒りもなかった。あるのはただ、静かな感謝と、深い慈しみ。長く続いた時間の果てに、ようやくたどり着いた者だけが持ち得る優しい光だった。

彼は微笑む。

その笑みは誰に向けたものでもなく、それでも確かに、今という瞬間に満たされていた。

そして立ち上がると、音もなくその場を後にする。

彼の姿は森の奥へと溶けていく。まるで風に乗って去っていくようであった。

墓標に刻まれた名前が、静かに陽光に照らされている。それは男の母の名前であるらしかった。

――イリナ・シー。

それは、愛され、祈られ、そして静かに見送くる者の名前だった。


感想を聞かせてください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ