第七章 黒炎の決戦
「アンチィ、イロハ。外に出ろ!」それはロウガの叫びだった。
咄嗟に顔を見合わせた二人の耳に、鉱山の奥底で魔力が爆ぜる音が響いた。
ムラマサだ。異形の炎が地を焼き、空気を撓ませている。
「……何をするつもりだ、ロウガ!」振り返りざまにアンチィが叫ぶ。
だがロウガは召喚剣を構え魔力を送り込んでいた。NFを召喚しようというのである。
「説明している暇はない。俺を信じろ!」ロウガの声音には一切の迷いがなかった。
「そして俺が“成すこと”に、合わせろ!」質問を許さぬ決意がそこにはあった。
アンチィは理解できなかった。だが体は反応していた。
頭ではなく、本能が判断したのだ。
──この男が信じろと言うなら、信じていい。
──この男が合わせろと言うなら、合わせるだけでいい。
「走れ!」アンチィは声を張り上げると、イロハの手を引いて、鉱山の出口へと駆け出した。
脚が勝手に動いている。ロウガの声が、背中を強く押してくれているようだった。
「どうするつもりなの……!」イロハが並走しながら問う。声には焦燥が混じっていた。
「分からねぇ。でもな──合わせればいいのさ」
アンチィの顔には、妙な確信と、少年のような笑みが浮かんでいた。
それは、ロウガという男に寄りかかるのではない。
彼の“未来を見据えた力”を、完全に信じ抜いている証だった。
俺ならばいくらでも合わせられる。そういう自信もある。
走り抜けた先、重たい扉が開かれる。外に出るのだ。
濁った夜の空が広がっているはずだった。──否、それは“燃え盛る空”だった。
地面は裂け、山羊の角を持つ巨人が天を仰いで咆哮していた。
顕現したムラマサ。
眼窩から赤黒い光を噴き上げ、口元は裂けて笑っているように見えた。
赤い装甲は炎の揺らぎのように波打ち、全身から紅蓮の火焔が噴き出していた。
それは意志を持った呪いの炎であり、世界そのものを呪いの坩堝へと変える前兆だった。
圧倒的な“力”が、空気を焼いて支配していた。
「……暴走してる……」イロハが呟く。声がかすれるほどに、赤い悪魔は異常だった。
「でも……」アンチィが言った。
「ロウガが……来る」その瞬間、ムラマサの前に光の柱が突き上がる。それは、無数の粒子の集合体だった。きらめく光片が次々に衝突し、閃き、弾け、そして――融合する。
爆ぜるたびに生まれる轟音。その中心で、灰色の巨大な影が形を成していった。光の残滓がはらはらと舞う中、ひときわ重厚なシルエットが姿を現す。
それが、ロウガ・ロードのNF――エクセキューショナーソード。
エクセは異様な雰囲気を纏っていた。他のNFたちが美しさや機能美を宿すのに対し、これはまるで「処刑」を行うために作られた生きた鉄塊。戦うための兵器ではない。
NFを狩るための化身だ。
その頭部は、兜というよりフード。頭部を覆う装甲、顔は角度によっては完全に隠れる。
フードの奥の瞳が時折、凛と光って、その強い意志を示す。
腰から脚部にかけて広がる板状の装甲は、古の処刑人が身に纏っていた衣を思わせる。
その姿は死を背負った静けさと威圧感を持っていた。
歩み一つ、姿勢一つで、対象に死期が違いことを悟らせるのである。
その死神の手には、鈍く灰光を帯びた長剣。斬撃性能を極限まで高めた剣だ。
ただ対NFを斬るそのためにだけに特化した兵装であった。
装甲の厚みは見るからに桁違いで、まさに“動く要塞”と形容すべき存在だった。
そのエクセはムラマサを前にしても、剣を抜かない。ただゆっくりと、前屈みに身を落とすだけだ。
その動きは、威嚇ではなかった。畏れでもない。
純粋な“間合いの測定”。
膂力に全てを賭ける破壊の機構が、斬るためではなく。何か目的の達成のために動いている。
ムラマサの装甲の各所からは、紅蓮の業火が噴き出していた。
大気まで灼熱化する高温で、エクセの装甲もまた燃えているのだ。
それでもエクセは動かない。いや、ロウガが動かさない。
「……始める気か」アンチィが低く呟く。
イロハも小さく頷いた。
エクセの膝が、わずかに揺れた。この怪物は、今まさに“飛びかかる前の獣”と化す。
「!」エクセが前傾するその姿勢を見て、アンチィの身体は走り出していた。
「アンチィ!」
背後でイロハの叫ぶ声が響いたが、アンチィの耳には届かない。
名を呼ぶその声は、いまや遠く、かすかだった。走りながら、アンチィは剣を引き抜き、魔力を注ぎ込む。柄の奥から脈動が立ち上る。それは明らかに――NFを召喚する準備段階。
「どうするっていうんだ!」イロハはただ見送るしかない。状況が掴めない。
「ロウガはやるつもりだ!」アンチィだけは理解していた。
あの前傾姿勢――あれはロウガが自らを犠牲にする決意を込めた動きだ。
エクセが地面を蹴る。鉄を歪ませるほどの咆哮を生みながら、まるで重力という概念を拒絶するように、巨体が疾走。一直線にムラマサへと突進。ただ、叩き潰すための暴力。
ムラマサが動く前に、肩口から激突した。
爆ぜる音と共に、紅の装甲が裂け、黒煙と火花が爆裂する。そして地鳴りのような衝撃。
ムラマサの胸部が割れた。炎が吹き出し、怒声のような咆哮を放つ。
エクセの装甲もただでは済まなかった。
処刑人の装甲が地獄の熱に焼かれ、その表面が黒く爛れ、焦げ、悲鳴をあげるように軋む。
まだムラマサを倒してはいない。だが、ロウガの意図は破壊ではなかった。
ムラマサを――投げることにあった。
エクセの太い足が軋みを上げ、ムラマサを蹴り上げた。
そしてバランスを崩した深紅の巨人を、エクセはそのまま右腕で掴み上げ、まるで怒りの女神が槍を放つように、大空へと向かって投げ放った。
ムラマサの巨体が宙を飛び、鉱山の外へ、居住区の遥か彼方へと放り出されていく。その飛翔は彗星のごとく、赤く、長く、尾を引いて――地平線に消える。
だが、投げ出せる瞬間、ムラマサの手が動いていた。
吹き飛ばされる刹那、赤い剣が引き抜かれ、地獄の叫びと共に、剣閃が走っていたのだ。
その刃は、エクセの肩口を、真一文字に斬り裂いた。
直後、エクセの全身に亀裂が走り、ひび割れたガラスのように、その身を包む装甲が震え、そして――砕けた。粉々になって、光の粒へと変わり、空に散った。
「ロウガ!!」アンチィの叫びが、熱を帯びて響く。その声には、絶望が混じっていた。
剣を抜き放ち、魔力を注ぎながらも、胸の奥を何かに締めつけられる。
ロウガの命が――ロウガのNFが、消えた。
アンチィには見えないが、イロハは何かに気づいたような顔をしていた。あの飛散の仕方に、わずかに違和感を覚えたのかもしれない。しかしそれをアンチィに伝える余裕はない。
アンチィは剣を握り締めた。魔力の流れは止まらない。
ロウガが命を賭して作った一手。ならばその続きは――
「俺が……やる!」恐怖はある。だが、迷いはない。かつて何もできず、ただ怯えていた日々があった。泣いている誰かに手を差し伸べられなかった自分がいた。
だが今は違う。今の自分は――自由だ。
自らの意志で剣を握り、誰かを救うために踏み込むことができる。
アンチィの目が燃えている。まるでその黒い炎が、ムラマサの紅を打ち消すかのように。
ロウガの一撃が戦場を変え、居住区に暮らす人々の窮地を救った。無論それは一時の延命に過ぎない。ムラマサを倒さなければ、いずれここは死の海になるのである。
ムラマサの巨躯が叩きつけられる。地を割るような衝撃。周囲の岩が爆ぜ、粉塵が激しく舞い上がった。その煙の向こうへ、アンチィは駆けていた。足を止めることはなかった。
握られた召喚剣に魔力が注がれ続けている。そしてアンチィから、黒い光現れ天へと上った。
その柱から、闇夜を引き裂くようにして出てきたのは、漆黒の巨人。シミット。
シミットのコクピットにはアンチィが座している。
黒い巨人は、呼び出された瞬間から、走っている。まるでアンチィ自身が巨大化したような滑らかな駆動。脚の運びも、肩の沈みも、空気の裂け方までも本人と寸分違わぬ挙動だ。
粉塵を割って見えたムラマサは、膝をつきながらも起き上がろうとしていた。
その隙を見逃せるはずがない。
シミットが剣を抜いた。その所作は鋭い。
――速攻。勝機はここしかない。敵が態勢を整える前にやるしかない。
相手は魔剣ムラマサなのだ。
シミットが弧を描いて跳びかかる。
ムラマサの左腕が迫る。
アンチィはその腕を断ち切る選択をした。
黒い剣が唸り、紅の装甲を斜めに裂いた。
火花と血のような炎がほとばしる。ムラマサの左腕が切断された。
その断面からは煙と、うねる怨念の熱が吹き出す。
ムラマサはよろめくことなく、右足に重心を預け、脚力だけで跳躍した。
空を貫く飛翔。大地がひび割れる音を残して、着地したその姿は、なおも恐ろしく健在だった。
そして炎の闘争心は些かも衰えないようで、右手には紅蓮の剣を握っていた。赤い刀身が脈動する。まるで心臓のように脈打つそれは、生きている。剣というより、悪意の塊だ。
正面に立つだけで皮膚が焼かれるような感覚。
アンチィは、自然と喉を鳴らしていた。唾を飲み込む音だけが、戦場の沈黙に混じった。
ここから先は一瞬の判断が生死を分ける。そう直感した。
全神経を張り詰める。
黒と赤、二つの巨人が睨み合う。
ここには俺とムラマサしかいない。
夜。黒い視界の中、アンチィの思考は妙に静かだった。ざわついた気配も、喧噪も、もう届かない。
ただ、目の前の赤い巨影と自分だけが、確かにこの空間に存在していた。
アシュラ、お前はどこへ行った。
腕を斬ったときに気づいた。あの刹那、刃の手応えの中に、お前の意思はなかった。感じたのは、煮え滾る怨念だけ。お前はもういないのか? 呆気ないな。帝国を滅ぼすなどと、あれほどの夢を語っていたくせに、俺ごときに負けて消えるのか?
それとも……そこにいるのか。ムラマサの奥底で、何かに縋るように隠れているだけなのか。
赤い巨人が迫ってきた。
ムラマサの剣が、横薙ぎに迫る。紅の軌跡が空間をえぐり、熱の余波が岩盤を揺らす。
アンチィはわずかに自騎を引かせた。回避する必要はある、しかし下がり過ぎてもダメなのだ。
後ろに下がりすぎれば間合いから離れ、攻撃の機会を失う。それでは勝機はない。
ギリギリで避ける。ムラマサの刃が通り過ぎた直後、剣を振りかざして斬り込む。
しかし刃は――届かない。
空間が裂けている。あの紅の剣が通った所は、断絶し、そこから血のように炎が噴き出していた。
黒いシミットのセンサーが歪む。焼けた匂いがコクピットの中まで入り込んできた。あの炎は、ただの熱ではない。絡みつく。粘つく。死者の指が掴むように。呪いだ。絶対に、これは――
まとわりつく炎でシミットが思うように動かせない。
足がもつれる。追撃できない。
ムラマサが踏み込んでくる。続けざまの斬撃。
シミットの剣で受け止める。衝突の瞬間、関節がきしむ。腕のジョイントが軋み、赤い警告が踊る。
押されている。明らかにパワーで劣っている。ムラマサは整備もされず、連戦の疲労を引きずっているはずなのに、左腕を斬られたばかりだというのに、その一撃一撃は、なおも獣じみた力を保っている。深紅の巨人に限界はないのか、畳みかけるように、さらに一撃。
刃が振るわれるたびに、空気が爆ぜ、音が歪む。防ぐ。逸らす。受け流す。が、それも限界。
黒いシミットの剣が、弾かれた。
黒剣が空を舞い、地に突き刺さる。次の瞬間、シミットの装甲が裂けた。腹部から肩口にかけて、大きく傷が走る。内側から火花。装甲の断面が焼け爛れて、煙を上げる。
騎体に乗るアンチィの体に、衝撃が走る。呼吸が浅くなる。視界が霞む。コクピットの中、汗が首筋を流れ、操縦桿が震えている。脳が、戦いを拒否し始めていた。
それでも、アンチィの眼差しは死んでいない。
意識は剣になっていた。肉体の疲労も、炎の熱気も、彼の戦意には届かない。限界などとっくに越えていた。それでも、斬る。ただそれだけを考えていた。
ムラマサが構えを取る。地面が震える。
この戦いは、まだ終わらない。アンチィの呼吸が一つ深くなった。
今、この場にいるのは――黒の狂気と、血の魔剣だけだった。
その瞬間、空が裂けた。
天へと伸びる五本の光の柱。地平の果てまで染め上げるほどの強烈な輝きが、戦場を真っ白に包む。アンチィは揺れる視界の中でそれを見た。光の中から姿を現す、五騎のシミット。機体色はそれぞれ異なるが、真っ先に地を蹴って現れたのは――
桃色のシミットだった。その滑らかな駆け足、バランスの取れた重心移動、何よりもあの独特のブレ――アンチィはそのシミットに乗るNFライダーをすぐに察した。
ソフィアだ。騎体の装甲が光を浴びてきらめく。彼女のシミットがムラマサの前へ立ちはだかった。
「やめてください――!」
コクピットから響いたその声は、決して指揮官の怒声ではなかった。泣いていた。ソフィアは泣いていた。彼女のシミットが両腕を広げる。紅蓮の巨神の前に立ちはだかる。
「これ以上、ここを壊してしまったら……! 召喚剣の鉱脈も、採掘場も、何もかも……灰になってしまいます!」ソフィアの声は震えていたが、決して退かなかった。
「あなたは……アシュラ様は……こんなことをなさる方じゃなかった……!」
続けて四騎のシミットが現れる。各騎はそれぞれ違う色をまといながらも、隊列を崩さずにソフィアの背後に陣取った。だが誰もすぐには動かなかった。先陣を切ったソフィアの動きに戸惑っていた。あるいは、その勇気に、畏れを抱いたのかもしれない。
ソフィアは叫ぶ。
「お願いです、戻ってきてください……アシュラ様……!」
その声は、泣きじゃくる恋人のそれに似ていた。忠義と愛情がないまぜになった声。「仮面の奥にあるあなたの顔が好きでした」「熱に浮かされたように語っていた未来が好きでした」アシュラという絶対者に傾倒し、救われ、そして恋した――ソフィアの全てを懸けた哀願だった。
「私には……あなた以外、なにも……ないのですから……!」
その瞬間、ムラマサの双眸が濡れた。赤く光るその目に、一瞬だけ、なにか人間のような揺らぎが宿ったかに見えた。しかし次の瞬間、それは一気に乾ききる。
カン、と金属を叩くような音。ムラマサの右手がわずかに動く。ゆっくりと、しかし確実に、紅の剣が上がった。そして――振り下ろされた。
眼を襲ったのは刃ではなく、光だった。血のような赤い光。
刃が通った筋に沿って空間が裂け、赤い奔流が溢れ出す。それは斬撃の残滓ではない。怒りの奔流。怨念の奔流。決壊した地獄の扉。
赤い業火が、ソフィアたち五騎のシミットを呑み込む。
「ソフィア……!」アンチィの喉が裂けた。
恋慕も、忠誠も、涙も、何も通じない。
ムラマサは、完全に“神”になりつつあった。血と怒りの神へと。
凄まじきはソフィアの反射神経だ。空間を裂いて吐き出された灼熱の奔流、赤い汚泥のようなそれを、彼女の操るピンクのシミットは迷いなく断ち切った。刀身が通った軌跡に、地獄の炎が揺らめく。だが断てたのは一部に過ぎず、残された炎は後続の四騎へとまとわりつき、瞬く間にその装甲を蝕んでいく。逃げようともがくシミットたちは、まるで濁流に溺れる者のように足を取られた。
だがソフィアの騎体は止まらなかった。焦げつく桃色の装甲が黒ずみ、背から噴き上がる推進器が悲鳴を上げても、前へ、ただ前へと飛び込んでいく。
「アシュラ様……!」その叫びには、剥き出しの感情が乗っていた。恐怖、焦燥、そしてそれ以上の──純粋な愛慕があった。
アンチィはその声を聞いていた。疲弊しきったコクピットの中で、潰れかけた肺から重い呼吸を繰り返しながら、ただソフィアを見つめていた。あの女は、何も分かっていないと思っていた。ただの狂信者。目を背けた馬鹿者。だが違ったのかもしれない。ソフィアは、知っていた。ムラマサの異常性も、アシュラが変わってしまったことも、それでもなお手を伸ばしていたのだ。見ぬふりではなかった。目を見開いたまま、狂気に寄り添い続けたのだ。
「……強ぇな」アンチィはかすかに唇を震わせた。侮っていた自分が恥ずかしい。謝罪したいと思った。だがそれは──今ではない。
桃色のシミットは炎を抜け、ムラマサの眼前までたどり着いた。ソフィアの騎体は剣を捨て、両手を差し伸べる。ムラマサの紅の瞳が、かすかに揺れた。
そして、ムラマサも右手を差し出した。
二騎のNFが男と女に見えた。その光景は、あまりにも人間的。互いの指が触れ合えば、かつての主従が戻ってくるような、幻の一瞬。
「アシュラ様──!」ソフィアの声は潤んでいた。仮面の奥にいた男を、信じていたのだ。焼き尽くされようと、手を伸ばさずにはいられなかった。
だが彼女の思いは、炎の悪魔に阻まれる。
「逃げろッ!!」アンチィの絶叫が飛ぶ。
ムラマサの右掌が開かれた。そこに宿るのは慈愛ではない。煮えたぎる呪詛の塊。
掌から吐き出された火球が、ピンクのシミットの胴体に直撃した。衝撃が空間を揺らし、炎が爆ぜ、ソフィアのシミットを地表へと吹き飛ばした。
赤い爆炎が夜を焦がす。
黒いシミットは、何も言わなかった。静かに、立ち尽くすだけだった。
ソフィアのシミットが大地に墜ちた瞬間、その装甲が砕け散った。硬質な悲鳴を上げながら、ピンクの鋼が割れ、破片が夜の闇に飛沫のように飛ぶ。まるでガラスだ。いや、あれはあまりにも脆すぎる。まさか戦車砲を弾き返すはずのNFの装甲が、こんなにも容易く。
火球が穿ったのは鋼鉄ではない。意志だ。執着だ。忠誠だ。
ソフィアの夢が、桃色の騎体と共に崩れ落ちる。
他の四騎も同じだった。赤黒い業火に焼かれ、膝を突いた騎体が、一つ、また一つと飛散する。甲高い破砕音とともに、シミットの残骸が空へと舞う。それは死んだ兵士の断末魔のようであり、NFではなく魂が焼かれたように見えた。
残されたのは、アンチィただ一騎。
夜の闇に赤が染み、焦げた大地が呻く。ムラマサが静かに立つ。頭部の角から滴る紅蓮の光。
まるでこの世の審判者だ。
これがムラマサ……。
五騎。たったの五騎ではない。全て、NF。国家すら滅ぼせる力を持つ騎体たち。
それが──何もできずに沈んだ。
絶望とは、静寂だ。何も響かない、呼吸すら重い空間。
アンチィの膝が震えた。言葉にならない嘆息が喉を駆け上がり、次に聞こえたのは声だった。
『俺を手に取れ……』
耳ではない。心に響いた。深淵から、ゆっくりと這い上がってくるような低音。
『俺の主となれば……この世の覇者となれる』赤が世界を満たす。瞳の奥が灼けるようだ。これは炎ではない。誘惑だ。呪いだ。焔にまぎれて甘く囁く声。
『お前の方が“アレ”よりも……俺の主に相応しい』
アレとはアシュラのことか?
ムラマサはアシュラを嘲笑していた。その壊れた器を蔑むように。
アンチィの中で、何かが軋んだ。
「……いやだね」声が出た。喉を焼かれたような声。だが、それはたしかに拒絶だった。
ムラマサが右掌をこちらへ向けた。何かが来ると察した瞬間、ムラマサの声が聞こえた。
『その黒い鎧……邪魔だな』
火球が放たれた。世界が赤に染まった。逃げる間もない。ただ目を閉じるしかなかった。
直撃。
漆黒のシミットが爆ぜる。黒い装甲が裂け、爆音と炎が空間を切り裂く。
その轟音すら、どこか美しく思えた。
心地よさが広がる。まるで魂が、薄く、薄く──解き放たれていく。
アンチィの意識は、火の海のなかへと溶け落ちていった。
アンチィは敗れた。
全滅……。絶望だけが、そこにあった。
イロハは走っていた。敗北したアンチィを見て、燃え盛る鉱山の中を一心に駆けていたのだ。だが、逃げているのではない。彼女は、生きているはずの男のもとへと向かっていた。
あの時、ムラマサを投げ飛ばした後のエクセの砕け方は異常だった。ただの破壊ではない。NFが自壊する時とは違う、あの綻び。あれは……召喚解除。それも、緊急の。シュミートであるイロハだけが気づいていた。あれはロウガの意志でやったのだ。彼は負けていない。エクセはまだ生きている。
暗黒に覆われた道を、彼女は駆け抜ける。焼けた瓦礫が転がり、赤黒い煙が視界を満たす。地獄だった。まるで現世に顕現した冥府。熱と硝煙と鉄の匂いが混ざる中を、美しい少女が駆ける。黒髪が揺れる。焦げたスカートの裾が翻る。白い肌に煤がついても、イロハの走りは止まらない。
「ロウガ……」その名を胸で繰り返しながら、彼女は必死に波動を探っていた。エクセの残した魔力の残響が、かすかに空間を震わせている。それを辿る。足元が崩れようとも、前だけを見て。
――見つけた。
炭化した柱の影。崩れかけた鉄骨の下で、ロウガは項垂れて座っていた。右腕は焼け爛れ、服の一部が焦げ落ちている。全身は傷だらけで、唇から血を垂らしていた。
それでも彼の瞳には、まだ生気が宿っているのだ。
「ロウガ!」イロハが叫ぶ。駆け寄って、その大きな背に手を添える。彼はゆっくりと顔を上げた。
「……来たのか、イロハ」掠れた声。それでも笑っていた。
この男は、生きていた。ムラマサの攻撃を真正面から受け止めたのに、彼は確かに生きている。
「エクセは……回収済みだ」その言葉を聞いた瞬間、イロハの眼が潤んだ。
「やっぱり……エクセはまだ戦えるのね」
イロハの声には安堵よりも、張り詰めた緊張が浮かんでいた。
「ギリギリだったけどな」ロウガが、掠れた声で笑った。
だがイロハは笑えなかった。
「なぜ……エクセの召喚を解除したの?」
その声音は鋭かった。息を整えぬまま詰め寄る。胸が大きく上下し、指先まで震えている。
「なんで召喚を解除したの! まだ、戦えたはずよ……! あの時、エクセは、まだ──!」
「アンチィは倒されたんだぞ!」吐き出すように、言葉が重なった。今にも泣き出しそうな瞳。ロウガを非難していた。ロウガさえいれば、勝てたかもしれない。そんな思いが胸を裂く。
ロウガはゆっくりと首を振る。揺れる銀髪が血と煤に濡れていた。
「……あの時、エクセはもう限界だった。外装の中にある基本フレームが、ムラマサの炎で溶けちまってた。もう、ただの鉄塊だった」
「それでも──っ!」
「もう一撃、くらってたら……今ここに俺はいなかった。それだけさ」
「そんなの……分からないじゃない!」イロハの叫びが、鉱山の焼け野原に反響する。
「勝てたかもしれないのに! 私たちは、あれを倒すために──!」
その声には、激情があった。復讐のために生きてきた少女の怒り。愛した村を奪われ、家族を焼かれ、ずっとずっと耐えてきた。やっと届きそうだった。なのにまた届かない。
「私たちは……負けたんだぞ……」言葉の最後は、嗚咽に変わっていた。
ロウガはふっと、口角を上げた。
「それこそ、まだ分からんぞ」
「……なに?」
ロウガは黙って、手にしていたものをイロハに投げた。半透明の、霧を閉じ込めたような美しい形状。それはエクセの召喚剣。
「希望は……残したつもりさ」ロウガの声は低く、優しかった。
イロハの小さな手が、その刃を受け取る。揺れる瞳が煌めいた。
希望は潰えていなかった。
彼の手で、未来はまだ、繋がっていた。
「破壊される前に、剣に戻した。だからこそまだ戦える。そうだろう?」
ロウガは血に塗れた身体で、それでもなお力強く言い切った。
「召喚時に消費したエネルギーや、多少の傷なら……シュミートのお前なら、すぐに修復できるはずだ」その声音には一片の迷いもなかった。あの炎に焼かれ、腕を焦がされながらもなお、ロウガは前を見ている。絶望の淵を、どれほど覗こうが、この男は諦めない。
「ムラマサを倒すには、あの炎を掻い潜る防御力と、一撃で倒す破壊力が必要だ。シミットじゃ足りない。だがエクセなら、それができる」
声に宿る熱が、荒廃した空気を押し返していく。
心が打たれるのをイロハは感じていた。命をかけてなお、この男は前を向くのだ。
「まだ……俺たちは負けちゃいねえ」そう、確信をもってロウガは言う。
「ムラマサだって限界のはずだ。あれだけ暴れりゃ、エネルギーも残っちゃいねえ。ここからは根競べだ。戦い続けたやつが……勝つ」
その声に、イロハの心は揺さぶられていた。
これがアンチィの見た景色なのだと、ようやく理解できた。
無鉄砲で、情に厚くて、でも不思議と安心させてくれる。ロウガ・ロードという男の強さ。
だけど、イロハは口を開いた。
「でも……シミットは敗れた。アンチィだって、もう……」
「アンチィは生きてる!」ロウガの声が鋭く走った。
「アシュラは死に体だ。あいつを斬った俺が一番分かってる。であれば、ムラマサは……?」
ロウガの問いかけに、イロハは息を飲む。
そしてロウガはまだなおも問いを続ける。
「ムラマサは、魔剣とはいえ、NF……宿主を失えば、その力を十分に発揮できない。なら次の適合者は誰だ?」
沈黙のなかで、イロハの口が動いた。
「アンチィ……」
「そうだ」ロウガは頷いた。
「ムラマサはアンチィを殺さない。利用しようとする。洗脳して、新たな主にしようとするだろう」
ロウガの仮説は、正しいように思えた。
イロハは拳を握りしめた。アンチィが敵に落ちるという恐ろしい予感に胸を締めつけられる。
「でも、アンチィはすぐには屈しねぇよ」
「どうして?」
問いをぶつけると、ロウガは空を見上げた。
焦げた大地、焦げた空。けれど、その先に光があるとでも言うように、ロウガは穏やかに笑った。
「アイツはな……誰よりも強いんだよ」
それは、師として、仲間として、そして戦士として心から信じている言葉だった。
イロハは黙って頷くと、膝をつき、砥石を取り出した。エクセの召喚剣。その刃に砥石を当てると、かすかに火花が散った。まだ終わっていない。諦めるには早すぎる。
最後の希望は、彼の手に託すしかない。
イロハは砥石を滑らせながら、静かに祈った。
――間に合って……アンチィ。
暖かい。ただ、それだけがすべてだった。
何も考えず、何も感じず、まどろむような光に包まれている。
身体はそこにない。ただ精神だけが漂っていた。自分が眠っていることすら意識にない。
『力が欲しかろう』
誰かの声が響く。男か女か、人間かすらも分からない。なのに、その響きは心の奥深くに届いた。
力とは何か? アンチィは考えようとする。しかし輪郭が掴めない。
欲しいのか、欲しくないのか。それも分からない。
『もう誰にも奪わせない。そのためには力が必要だ』
言葉は正しいように思えた。
そうだ、奪われるのは嫌だ。母を、自由を、命を……。
だが、力を持つ自分の姿に、どこかで嫌悪感があった。
それでも手放したくはない。力がなければ、何も守れない。
二つの思いが駆け巡る。矛盾していた。その矛盾は、アンチィ自身だった。
『力があればすべてを手にできる。奪えるのだ。王になれる。俺とお前ならば、この世界を征服できる』その声は熱を帯びていた。
焼けるような誘惑が心を包む。だが、何かが違った。
王になどなりたくない。誰かを従えるより、守る方がいい。
目を閉じたまま、誰かの顔が浮かんだ。
あの少女。泥だらけの顔で、一輪の花を差し出した。
父と手を取り合っていた、つつましい笑顔。
それだ。それが欲しい。
奪う力では得られない。
燃やし、踏み躙る力では、決して手に入らない。
「……ああ」声にならない声が、心から漏れた。
だから、おれは……。だから、おれはこいつの力が嫌いなんだ。
こいつの力じゃ、なにも守れない。
ロウガの姿が思い浮かぶ。
圧倒的な力を持ちながら、それを掲げるのではなく、与えるために使う男。
ああなりたい。あれが「強さ」だ。あれが求めるべき力なのだ。
『ならば否定するのか。覇の力を。絶対の支配を』
ああ――否定する。迷いはなかった。
アンチィの意識が、熱をはらんで立ち上がる。
このぬるま湯を蹴飛ばして、現実へと返っていく。
「……ムラマサ」覚醒の声と共に、アンチィのまぶたが開いた。
現実がそこにあった。
崩落した鉱山。焼けた鉄骨。黒く煤けた空。
仰向けに横たわるアンチィの眼前に、膝をついてこちらを見下ろす赤い巨体があった。
ムラマサ。赤い巨人、その紅の瞳が、彼を見据えていた。
取り込もうとしていたのだ。精神を支配し、意志を奪おうとしていた。
だが、アンチィはそれに勝った。刃のような瞳で、ムラマサを睨み返す。
「悪いがな。おれはそっちじゃない」はっきりとそう言った。
ムラマサが、僅かに反応する。だが感情は読めない。
アンチィは立ち上がろうとした。その身体は、限界に近かった。
だが――その心は、限界を超えていた。
アンチィ!
裂けるようなイロハの叫びが、崩れた瓦礫の空間を貫いた。
それを使え!
光の軌跡を描いて、一本の剣が放り投げられる。
エクセ。ロウガ・ロードの召喚剣だった。
「お前は誰よりも強いんだろう?」イロハの声が重なる。
「ロウガは生きている! そしてそう言ってたぞ! だったらムラマサくらい、倒してみせろ!」
その言葉に、アンチィは笑みを零した。
「……無茶を言う」笑いながらも、眼差しは真剣だった。
剣を見つめる。そこにロウガの姿を感じていた。心強い。あの背中に支えられているようだった。
「俺が欲しい力は、これさ」アンチィはつぶやいた。
「この力で、お前を倒す。俺は自由になる!」
掲げた剣が、空間を貫いた。
半透明の刀身が眩いプリズムを放ち、次の瞬間、天を貫く光の柱が走る。
地を揺らす轟音。光が空を裂く。
顕現する巨影――NFエクセキューショナーソード。
だが、現れた姿は以前と違っていた。
外套のような装甲、処刑人を想わせるフード型の兜はそのままに、全体のフォルムは鋭く、細く、洗練されていた。まるで精密に鍛え上げられた刃。
山のような重厚さを持つロウガ版とは違う。
これは――アンチィのエクセだ。
黒一色に染まったボディ。
長剣は鋭く、先端は丸く、まさに“斬る”ことに特化したデザイン。
刃の一本一本が意志を持つようにうねり、装甲の継ぎ目から蒼白い魔力の燐光が漏れていた。
そしてその中心、コクピットにはアンチィ。白髪を逆立て、鋭い眼が敵を睨んでいる。
黒いエクセが長剣を構えた。
その剣は“処刑の剣”。炎の魔神を断つために振るわれる刃。
ムラマサが、それを見て動いた。血に飢えた炎が咆哮する。
対するエクセは、静かに構える。まるで決闘の開始を告げるゴングのように、大地が震える。
自由の名を御旗にして、黒き処刑人が、刃を振るう。
静かに、だが確実に心を昂らせる旋律。
血が滾る。鼓動が速まる。
ムラマサよ。地に伏せ。
アンチィ・シーが、お前を斬るために立ち上がったのだ。
ここに、最終決戦が始まる。
エクセに向かって掌を向け、火球を発射するムラマサ。
エクセは横に飛んでそれをかわした。着地した同時に蹴りだし、重心の移動を馴染に利用しながらの加速。亜光速の速さで、ムラマサに迫りかかる。
ムラマサは虚空に刃を振るって、紅い流烟のつばさを生み出す。
しかしエクセも虚空を切りつけ、剣風で、火射を吹き飛ばした。
激しく、力強い、エクセ。その性能に、アンチィは胸の底から感動を覚えた。
「負けない」
アンチィは磨り上げられた力をぶつける。ムラマサの性能は何もかも上回っている。だが勝てる。
エクセの刃はムラマサの刃に耐えられる。力は拮抗しているのだ。
両巨人の刃が重なり合う。
一撃。流れる火花。
互いに切り続ける。ただただ直接な黒と赤の対決。
火焼きになる大地、揺れる空気、空間を破裂させるような轟音。
「負けられない!」アンチィはそう叫んだ。
ただの戦士ならばとっくに敗北している。だが、アンチィは倒れなかった。
その背には、ロウガの揺るがぬ強さがある。どんな敵にも立ち向かい、誰かの盾となることを恐れぬ、あの不屈の生き様が焼きついている。
その胸には、イロハのまっすぐな決意がある。怒りや迷いを抱えながらも、正しい道を選び続けようとする強さが、確かに息づいている。
そしてその魂には、母のあたたかい愛がある。顔すら曖昧な記憶のなかで、それでもいつも抱きしめてくれた腕のぬくもりだけは、痛みのように焼きついている。
すべてが今、彼を支えている。
だからこそ、アンチィは前に出る。
この世界を、未来を、そして「自由」を切り開くために。
ムラマサは強い。
ただ、それでも負けないと思える。
その思いが、エクセを支えている。
ムラマサと暗黒のエクセが正面からぶつかる。怒りと怒り、呪いと愛が火花を散らすように、刀身をぶつけ合った。だが――エクセの剣が、ついに折れた。
修復されたばかりの召喚だ。完全ではなかった。ついにムラマサの凶刃がそれを上回ったのだ。
だが、アンチィの闘志は折れない。
操縦桿を握る手に、ほんのわずかな揺れすらない。
ムラマサは、大地に紅の剣を突き立てる。
その瞬間――大地が、爆ぜた。
地の底から炎が逆巻き、まるで地獄そのものが開いたかのように世界を焼き尽くす。煉獄の叫びが大地を割り、炎が空を突き抜ける。ムラマサが最後の力を振り絞って放った、極大の炎獄。
だが炎の頭上に向かって、黒きエクセが跳んだ。
逆巻く火柱をすり抜けて、天へ飛翔し、宙でくるりと一回転――頭が下、脚が上。
巨人が宙返りをしたのだ。
天地が反転する中、折れた剣を突き出す。
イロハは思う。無茶だ。届くはずがない。剣は折れている。
だが、
「こういうことだってできる。諦めなければ」
アンチィが言い放った瞬間、折れた剣の刃先が光を帯びた。
光が波のように刃を伸ばしていく。まるで、意志を持つ刃が自ら主の願いに応えるかのよう。
「剣を……再召喚した……」
イロハが目を見開き、震えるように言った。
「あいつ、戦闘中にそんなことを……なんて奴……」
伸びた刃が、ムラマサの頭部に突き刺さる。
凄まじい断末魔の如き轟音とともに、紅の装甲が割れる。
エクセはそのまま、剣をなぞるようにムラマサの頭から右肩、そして腰を斬り裂いた。
赤き巨躯が斜めに切り裂かれる。断面から、煉獄の残滓のような光が溢れ出た。
そして――ムラマサは、砕けた。
その破裂音は、戦場の空気すら変えた。
断末魔に混じって、響いたのは無数の声。
悲鳴ではない。歓声だった。
喜びのように、安堵のように、どこからともなく降ってくる。
それはムラマサに取り込まれた無数の魂たちの、解放の歌。
ムラマサの破片が大気に溶けていく。
そして最後の煌めきが空に溶けると同時に、戦場には静寂が訪れるのだ。
エクセが、ゆっくりと地に降りる。
黒い騎体の中に、アンチィ・シーがいた。
誰よりも疲弊し、誰よりも戦い抜き、誰よりも自由を求めた男が、最後まで立っていた。
勝ったのは、希望だった。
倒れたのは、呪いだった。
そして――物語は、ついに、ひとつの決着を迎えた。




