第六章 仮面の裏側
夜の静寂が、鉱山の岩肌を撫でながら沈んでいた。
重苦しくそして血の匂いのする闇が沈黙しているのである。
人工灯がぼんやりと照らす中、アンチィはかつて自分が奴隷として採掘に関わっていた場所を歩いていた。視線の先には、崩れかけた木製の支柱。トロッコの残骸。削れた岩肌。五年前、彼の手に付着していたのは血ではなく土だった。あの頃を思い出すと、わずかに口元が緩む。
楽しかった記憶など一つもない。ただ遠き日の思い出である。
「何をしている」その声は、乾いた岩肌を割って突き刺すように響いた。背後。声の主は分かっていた。アシュラ。黒衣に身を包み、漆黒の仮面をつけた男がそこにいた。
驚いた顔はしない。だが背を取られたことには内心で息を呑む。まるで影そのもののように気配がなかった。仮に剣を振られたとしても、背中に痛みが走るまで、気づかなかったかもしれない。それほどまでに、アシュラはこの暗黒の夜に溶け込んでいたのだ。
「見て分からんのか、金目のものでも探してんだよ」アンチィは軽口を返す。
アシュラはゆっくりと一歩、距離を詰め、「俺たちのことが嫌いか?」と言った。
「……なんのことだよ?」
「我々修羅焔団のことだ。お前は、俺たちがやっていることに反発を感じているように見える」
静かに、しかし芯のある声だった。
「かつて奴隷だった俺たちが、今や権力者として別の弱者を支配している。暴力と恐怖で組織を成り立たせ、かつてと同じ支配構造を再現しているように見えるはずだ。それを、お前はどう思う?」アシュラの声音には、皮肉や怒りではなく、わずかに自嘲の色が混ざっていた。
「見るはず? 本当は違うのかい?」アンチィは皮肉な笑みを浮かべる。
「違わないさ」アシュラは即座に応じた。「少なくとも今は、な」
仮面の奥にある目が、わずかに揺れたような気がした。
「俺たちはまだ力を蓄えている段階だ。そのためには、支配者の型をなぞるしかなかった。階級を設け、恐怖を敷く。軍備を整えるには奴隷も必要だった」
「それをいつまで続ける気だ」アンチィの声は鋭利な刃のようだった。
アシュラの沈黙。その後に続いた言葉は、静かながら破滅的だった。
「帝国を滅ぼす」
アンチィの脳内で何かが止まった。
帝国──それはこの世界の枠組みそのものだった。辺境に生まれた者たちが、決して越えられない境界。血筋、財産、権威、全てを持つ者たちの楽園。
「できるのか?」唾を飲み込みながら、ようやく言葉が出た。
「俺とムラマサ、そしてイロハ、そして──お前がいれば」
「馬鹿な」アンチィは呟いた。狂気すら感じた。個人が、いや一組織が、この世界の根幹に戦いを挑むという。勇敢とは思えない。ただ破滅願望に染まった異常者がそこに戯言を言っているようにしか聞こえなかった。たがそう発言しているのはアシュラだ。修羅焔団の総帥だ。
であれば、達成かできるかどうかは別にしても、この時代に狂乱が起きることは間違いない。
仮に本気で言っているとすれば、これほど怖いことはない。
「できるわけがない」諫めるようにアンチィはそう続けた。
「できるさ」アシュラの言葉に、迷いは微塵もなかった。
「強き者が手を組めば、それは形になる。帝国を打倒すれば、真の自由と平等を築ける。皇帝の私財を解放すれば、飢えも争いも消える。生まれによって人生が決まる時代を終わらせられる」
アンチィの眉が僅かに動く。
「皇帝を殺しても、その椅子を巡る争いになるだけだろ」
「ならば俺が玉座に座ろう」
「何だって?」
「俺は何もしない。ただ座るだけだ。恐怖の象徴としてな」
それまで淡々とした口調だったアシュラの声音に、僅かに熱が宿っていた。
「人々が恐れ、争う気力を失うほどの恐怖。俺はそれを担う」
「……ムラマサだけでそんなことができると思ってんのか」
アシュラはゆっくりと近づき、アンチィの白髪に指を伸ばした。指先が触れ、なぞる。
「美しい髪だ。生まれつきか?」
「たぶんな」アンチィはその手を払った。
闇の中、互いの影が交差する。
白髪を撫でた手を払われても、アシュラは動かなかった。むしろ、その瞬間を名残惜しむように、わずかに息を吐く。黒衣の男の声音が、深く、低く、静寂を揺らした。
「かつて放浪の民がいた」
アンチィは眼を見開いた。アシュラからただならぬ熱を感じたのだ。
アシュラはよどみなく続ける。
「その民は呪われた一族と呼ばれた。彼らは強大な魔力を持ち、王をも超える力を秘めていた。誇り高く、自由を愛し、そして隣人を愛した。だが、恐れた者たちもいた。支配の座に胡座をかく愚かな貴族どもは、一族を捉え、根絶やしにしようとした。だが……その一族は決して滅びなかった。奴隷として、乞食として、身をやつしながらも、血筋を残し、世に紛れた」
仮面の下の目が、アンチィに鋭く向けられていた。
「その血を最も色濃く受け継ぐ者は、生まれながらの白髪を持ち、世界に災いをもたらす運命にあると、そう言われている」
『何を言っている?』アンチィの喉が、微かに鳴った。脚がわずかに強張った。
「お前も……奴隷だったのではないか?」アシュラの物言いは断定的だ。
「関係ない」アンチィは短く吐き捨てた。「そんな一族など知らないし、興味もない」
言いながらも、自分の声に力がこもっていないのを感じた。白髪は、生まれつき。そして自分の過去は、まぎれもない奴隷。
アシュラの言っている一族に該当はしている。偶然だと否定できる根拠はなかった。
『お前は……俺のことを本当はどこまで知っている?』アンチィの艶めいた黒い眼が、じわりとアシュラを見る。まるで底知れぬ井戸のように、その奥には揺れるものがあった。
アシュラは一歩前に出た。淡く消える火の粉のような沈黙ののち、断言する。
「お前もカインの一族だ」
アシュラの燃える眼が、鉱山の空気を変えた。
「それが、お前の血だ。お前は、世界を平定する定めを背負わされた、選ばれし者だ」
その声は、呪文のようであり、断罪のようでもあった。
「……ふざけるなよ」アンチィは力なく吐く。「俺はただの……」
「だからだ」アシュラは重ねる。「お前に立ってほしい。今の俺ではなく、未来の俺と共に、世界そのものに立ち向かってほしい」その言葉は、求愛のようだった。
その奥にある感情は、尋常ならざる本気と、焦燥と、確信に満ちていた。
「世界を、相手に……?」
アンチィは吐き捨てるように言ったが、心臓が妙にざわついていた。確かに自分は奴隷だった。母親は貴族に蹂躙され、それを見ているしかなかった。怒りも、無力も、すべてが体に刻まれていた。
世界を憎んでいないかと問われれば、「そうだ」と答えるかもしれない。
世界を変える? そんなことが、自分にできるのか?
「考えておくよ」アンチィは静かに言った。
動揺を悟られぬように言った。そしてこの場から逃げねばならいと直感する。
見の前の黒衣の男が、黒い炎に思えた。辺境を焼き尽くす地獄の業火、それに取り込まれれば自分も灰になる。アンチィはアシュラに心底恐怖していたのだ。
ただ背を向けたとき、ふと心の奥から、あの男の名が漏れそうになった。
──ロウガ。父のように慕っていた男の顔が、脳裏に浮かぶ。迷いのない手。優しい眼差し。あの男なら、今の自分にどう言っただろう。
ロウガ……俺は、どうすればいい? その言葉を喉奥で押し殺しながら、アンチィは再び歩き出した。足音が、岩肌に冷たく吸い込まれていく。
アンチィは最後まで感じていた。アシュラの裂くような視線と、ムラマサの鼓動を。
アンチィは鉱山の通路をふらつくように歩いていた。足取りは重く、身体よりも心がぐらついていた。腰に下げた召喚剣が、歩くたびにチラチラと揺れ、その鈍い反射が岩壁に小さな光の軌跡を描く。まるで自分の心の迷いを映すかのようだった。
アシュラの言葉が脳裏に焼きついて離れなかった。仮面の奥に見えた熱、それが確かな本心だった。
飲み込まれる。自分の形を保てなくなる。恐ろしかった。
足が止まった。いつの間にか居住区に来ていた。古びたドアが並び、どれも傷だらけで色褪せていた。天井の明かりは弱く、鉄の柱に縋るように灯っている。頼りないその光の下で、人々がすし詰めのように暮らしていた。ここは下層階級の人間たちの住処。
過去、アンチィが暮らしていた場所だった。
ドアのひとつが軋んだ音を立てて開いた。中から飛び出してきたのは、小さな女の子だった。
「あっ……お兄ちゃんだ!」
その声に、アンチィは足を止めた。
最初は誰かわからなかった。しかしすぐに、後ろから現れた痩せた男の姿を見て、すべてが繋がった。戦いの前、鉱山の道すがら出会った親子。あのとき、父を守ろうと泣きじゃくっていた少女。
アンチィは何も言わず、俯いてその場を離れようとする。だが、その背に声が追いかけた。
「あの……ありがとうございました」
妙に畏まった声。少女は、ぼろぼろのポケットからしわくちゃの小さな花を取り出す。それは、通路の隅にひっそり咲く雑草のような花。
ほっぺたを真っ赤にして、鼻水を垂らし、薄汚れた服のまま、少女は真剣な眼差しを向けてくる。
まっすぐに差し出されたその小さな花を、アンチィはただ見つめた。
『俺は……お前のために戦ったわけじゃない』そう思った。
だが、少女の顔には嘘がなかった。あの目は、心から誰かを信じ、尊敬する者の目だった。
アンチィは膝を折り、膝をついて、少女の目線に合わせた。間近で見れば、細い手足が震えていた。栄養の足りていないその体は、まるで昔の自分を見ているようで、胸の奥が締めつけられる。
「お兄ちゃん、かっこよかったよ。正義の味方です! 本当にありがとう」
少女は小さな手にぎゅっと握っていた花を渡してくる。その手の中には花だけでなく、無垢で、まっすぐな感謝の思いが詰まっていた。
アンチィはそっとその花を受け取った。心がざわついた。だが、そのざわめきはどこか温かかった。
「……ありがとう」それだけを、ようやくの思いで口にした。
「ありがとうございます」父親も、深く頭を下げた。
アンチィは泣きたくなった。情けなさと感動がない交ぜとなって心の整理がつかなかった。
だが涙は見せたくなかった。
「いや……礼を言いたいのは、こっちの方さ」
それだけ言って、背を向けた。頬を伝うなにかを見られたくなかった。
歩き出しながら、アンチィは思った。自分は正義の味方ではない。ただの力に飢えた、あさましい人間だ。それでも、少女の思いを踏みにじることだけは、できなかった。
アンチィは歩を速めた。向かう場所は、もう決まっていた。あの小さな花が、背中を押していた。
アンチィは黙然と歩いていた。目指すのは、かつて幼いころ「近づいてはいけない」とされていた場所。
鉱山で働いていた時代、奴隷たちはそれを“裏口”と呼び、目も向けぬようにしていた。
そこに近づくこと、それ自体が禁忌だった。一度入れば、二度と出られない。日夜、悲鳴が響き渡り、壁の向こうで何かがひたすらに行われている。そんな噂が子どもたちの間に流布していた。
だが今、アンチィにはその意味が分かる。あれはただの噂などではなかった。反抗した者たちを封じる、文字通りの“収容所”。だからこそ、奴隷たちは言葉すら交わすことを恐れたのだ。
「残光の牙が閉じ込められているとしたら、ここだろうな……」低く呟きながら、アンチィは扉の前で足を止める。錆びた鉄扉の先に、忌まわしき場所があるはずだった。
最初の扉は押せば開いた。次の扉は手をかけると不穏な軋み音を立てた。最後の扉には、太く無骨な錠がかかっていた。無言で腰の召喚剣に手を伸ばす。鞘から刃が滑り出す音は、岩盤によく響いた。
一閃。鈍い火花とともに錠は裂け、落ちた。
扉の奥には、暗く冷たい空気とともに、下へと続く階段が口を開けていた。
数歩足を踏み入れた瞬間、アンチィの鼻腔を異臭が突いた。
ひどい……。
言葉に出せばすべてが崩れ落ちそうな、そんな匂いだった。濃密で、皮膚の裏側にまで染み込むような悪臭。それは腐敗と汚穢と血とが混ざり合った、まさに「人間の限界」の匂いだった。
鼻をつまむでもなく、アンチィはそのまま階段を下った。目を細め、ただ前だけを見ていた。
降りた先。そこにあったのは、並んだ鉄格子。囚われ人の収容室だった。
無数の目がこちらを向いた。だが、視線には光がなかった。飢え、渇き、痛みに苛まれた眼窩からのぞくその目は、もはや生きているのかも判然としなかった。
人影はざっと十ほど。男も女も、子どもと思しき影すらあった。肌は土色にくすみ、衣服というよりは布きれをまとっているにすぎない姿だった。床には汚物が散らばっていた。排泄のための設備などあるはずもなく、格子の内側は濃密な悪臭の温床となっていた。
それでも、立っている者がいた。微かに立ち上がろうとするものもいる。ふらついた足元。その中のひとつの影が、確かにアンチィに向かって手を伸ばそうとしていた。
アンチィの心に、鋭い痛みが走った。
怒りか、嫌悪か、それとも自分が起こしてしまったことの後悔か。それは分からなかった。
ただ、この地の底に染みついた哀しみと屈辱が、肌にまとわりついて離れなかった。
手を伸ばしてきたのは、知っている男だった。
「貴様ッ……!」怒声が鉄格子を割らんばかりに響いた。格子に縋りつき、鬼のような形相で叫んだのは、男は、あの戦闘服の――残光の牙のNFライダーだった。彼の片目は腫れ上がり、唇の端には血が滲んでいる。だが、痛みを堪える様子はない。
傷の痛みを遥かに凌駕する怒りに心身は燃えているようであった。そして火を吐くように、
「貴様が……貴様が俺の母を殺した……! 一体何しに来やがったッ!」と言った。
アンチィは男の激情を無視した。しかし顔は蒼白。必死に内なる激情を抑え込んでいるのだ。
切れ長の瞳が静かに格子の向こうを見据えた。
「……牢にいるのは、十人か。広場にいた数より多いな」
まるで独り言のように、あるいは男の言葉を無視するかのように呟く。
その声音はあまりに冷静で、逆に怒りを逆撫でするような響きすらあった。
「こいつらもアシュラに逆らった連中だな。修羅焔団に敵対する勢力もいれば、かつて仲間だった奴もいる。奴は……逆らう者に必ず加虐を与える。」
アンチィは視線を右に滑らせ、「……あれをなんだ」そして目を大きく開き、息を飲んだ。
そこにあったものは、人とは呼べない何かだ。
皮膚を剥がされ、肉を裂かれ、無残な姿で折り重なる複数の屍。部位さえ判別できないその存在。悪臭の真なる元凶がそこにはあった。
アンチィの喉がひくりと痙攣する。
冷淡さで塗り固められたはずの彼の精神が、いまにも崩れそうになる。
思い出されたのは、あの少女の顔だった。汚れた服の裾を握りしめ、目を潤ませながら差し出した一輪の花。誇りと希望を失っていない小さな命の輝き。
そんな少女が、この地獄の惨状と隣り合っている現実。
この悪夢が少女の方まで広がることにアンチィは恐怖を覚えた。
そしてもう一つ過去の忌まわしい記憶が蘇る。傷つけられた母親の顔。
――アシュラは、理想を語っていた。平等と自由と、解放の世界を。
だが、これはどうだ。恐怖で支配される牢獄。詭弁の下で行われる拷問と処刑。
「クソ野郎が……」アンチィの白髪が微かに揺れた。
「だから……俺たちは鉄槌を下すんだ! 残光の牙の正義で!」
男が叫んだその時だった。アンチィの姿が霞のように揺れる。そして剣が抜かれ、光が走った。
鉄の錠が何の抵抗もなく斬り落とされ、地面に転がる。音の余韻が残るうちに、格子の扉が開かれていた。
「……行け」アンチィは、せり上がった吐物を抑え込むようにして言い、
「資源運搬用のトラックが一台……鉱区の裏通りに停めてある。鍵はつけたままだ。……全員運が良けりゃ、逃げ切れる」と続けた。
カタカタと震えている。アンチィは自身に渦巻くエネルギーを必死に抑え込んでいる。
「……それを信じろってのか?」男が目を見開いた。
『それはそうだろう』アンチィは思う。『信じられるわけがないだろう』当たり前の話である。
つい先ほどまで命を懸けあった相手である。そいつから助けると言われて、納得するものなどそうはない。俺だってそうだ。本当に助けるかどうか、迷っていたんだ。
でもどうだ? こんな悲惨な現状をみて、そのまま帰るなんてことができるわけがない。
だってそうだろう? 俺は、お前の……を殺したんだ。
「……すまなかった」アンチィがポロりと本音を零した。ずっと眼を背けていた思いであった。しかしそれでも滲み出てしまう悔恨。だから贖罪が必要であった。
アンチィは静かに口を開く。
「お前の母を……殺したのは俺だ」
男が言葉を失う。怒りが、悲しみが、衝撃とともに沈黙に変わる。
「回復したら来い。その時は、正式に仇討ちとして受けて立つ。……だが、今は生きろ。それだけだ」その言葉に偽りはなかった。アンチィは立ち去ろうとする。
「お前は……それを伝えに来たのか?」男が問う。
アンチィは背を向けたまま、言葉を返さなかった。そうかもしれない。違うかもしれない。答えがあるのかも分からない問いだった。ただ、彼は剣を抜いた。ならばもう後戻りはできない。
「逃げるぞ! 急げ!」
男の叫びが響き、牢の中から人々が雪崩のように飛び出した。
誰もが混乱し、恐れながらも、一縷の希望を見出して走り出す。
アンチィは後ろから追いかけた。闇に溶けるその白い髪は僅かに光を帯びていた。
静かな、誓いの灯火のように。その誓いの意味は、アンチィにすら分からなかった。
警報が鳴り響いた。耳を裂くようなサイレンの音が、鉱山中に響き渡る。赤い警戒ランプが廊下を染め、まるで血の川が流れるかのように壁を照らしていた。
警報。非常事態を知らせるアラートの中を、ひときわ鮮烈な存在が走る。金髪を乱し、真紅のジャケットを風になびかせるのはソフィアだ。その瞳は獅子のような迫力があり、唇は肉食獣のように吊り上がっていた。美少女だが、しかし間違いなく、獰猛な狩人なのだ。
「捕虜が脱走? 問題ないわ。狩りが始まっただけよ」
絶対なる自信。彼女の背後には修羅焔団の戦闘員たちが次々と列を成し、彼女の勢いに引き寄せられるように走っていた。ソフィアの豊かな胸元が、力強い足取りに合わせて揺れる。
「すぐに終わらせるわよ……」唇をぺろりと舐め、彼女は曲がり角に飛び込んだ。
そこで遭遇したのは、まさに逃げ出した残光の牙の一団だった。
その中に、あのNFライダーの男もいた。「ほらね……」ソフィアは愉悦に歪む笑顔を浮かべ、勢いそのままに飛び掛かった。しかしその刹那、白い影が視界を裂いた。
シャイン。剣が空気を削るこぎみの良い音。
刃が弧を描き、ソフィアの前に躍り出た。アンチィだった。彼の剣が唸りを上げて迫る。
ソフィアは驚くよりも早く反応し、腰から剣を抜き、アンチィの一撃を受け止めた。
「やはりお前は裏切り者だ……最初から分かっていたわ」
ソフィアの剣とアンチィの剣がぶつかり合い、火花が飛び散る。
高熱の金属同士が軋む音が耳を劈く。
「裏切りも何も……俺は一度も味方になった覚えはないぞ?」アンチィの声音は冷たい。まるで氷のように澄んで、容赦なく刺さる。
ソフィアの顔が紅潮し、怒りに染まった。
「そんなこと、分かってるわよ! 私はなんだって分かってるのよッ!」
彼女の剣が唸りを上げて振り下ろされる。重い斬撃。その軌道に洗練さはないが、一打一打が凶器のような破壊力を持っていた。しかし悔しいが、その切っ先はアンチィの命まで届かない。
アンチィはそれをいなし、かわし、時に受け止めるのだ。
その白い髪が宙を泳ぐたびに、彼の鋭い眼差しがソフィアを射抜く。
早く決着をつけなければならない。今も捕虜たちは逃げていく。
『こんなやつNFを召喚できればすぐに決着がつくのに!』ソフィアの心は火がついたように騒いだ。
召喚剣同士の戦い。しかしNFは現れない。
アンチィにはその理由が分かっていた。イロハからもらったシミットは先の戦いで召喚士ばかりだ。まだ顕現させるには十分な魔力は蓄えられていない。
今、無理に召喚しようとすれば、自壊する危険すらある。
そしてソフィアもまた出さない。いや出せない。当たり前である。ここは修羅焔団の命脈たる鉱山。その内部で巨躯のNFを顕現させれば、周囲の構造物はひとたまりもない。
だからこそ、これは剣だけの戦いだ。共に早期決着を望みながらも決定が出せないのだ。
アンチィの刃が、ソフィアの肩をかすめる。ソフィアの剣が、アンチィの頬を浅く裂く。
互いの吐息が熱く混じる距離で、火花と気迫が交錯する。
「遊びはここまでよッ!」ソフィアが一歩踏み込んだ。その踏み込みに、スカートの裾が舞い、彼女の脚線美が一瞬だけ露わになった。そして半透明な刃がアンチィに迫る。
アンチィはその一撃を受け止めながら、唇の端を吊り上げた。
「だったら……本気を見せてもらおうか」
刃が火を撒き散らしながら再び交錯した。血と汗と、戦意だけがその場を支配していた。
「私には分かっているのよ……! もうあの時の奴隷じゃないんだ」
火花が飛び散る。ソフィアの剣とアンチィの刃は噛み合ったまま横に流れる。
「ほう、それは心強いな。だったら訊こうか、何でも知ってるんだろ。地下で何が行われているのかも含めて、あんたは全部承知の上でアシュラを支持しているわけだ」
アンチィの声には怒気が混じりはじめていた。刃の重なりが強くなり、金属が軋む。
「捕虜の行き先? そんなの、私が知る必要ないでしょう! 私は戦う。それが私の役目。アシュラ様が必要とするのは、忠誠であって捕虜たちの居場所なんて知る必要なんてないんだ!」
何の迷いもなく高らかにソフィアは言った。
『話すだけ無駄だ』狂信としか言いようのない答えにアンチィの魂は一気に燃え上がった。
アンチィの切れ長の眼に火が燈る。その眼には怒りというより、もはや呆れすら含んでいた。
「……ああ、そうか。何も知らずに、盲目で、誰かの影にすがっているだけの奴が、剣を振るっていたのか」剣を引く。身を翻す。アンチィは横に飛んだ。その動きは風のように滑らかで、流星のように鋭い。壁を蹴って跳ね上がり、さらに反対側の壁を踏み、ソフィアの背後に回った。
ソフィアが「なっ…」と振り向こうとした刹那、背後に着地したアンチィの足が閃いた。
「お前のような馬鹿など、殺す価値もない!」
言葉が落ちるより速く、アンチィの回し蹴りがソフィアの顎を正確に捉える。まるでスイッチを切られたかのように、彼女の身体がぐらりと揺れて、床に崩れ落ちた。
美しい金髪が弾け、赤いジャケットが乱れ、白い脚が無防備に投げ出される。その姿に色気はあっても、戦士としての誇りは地に墜ちていた。
アンチィは表情一つ変えずに、すぐ背後にいた修羅焔団の戦闘員へと向き直る。
銃火が咆哮する。
無数の弾が廊下を舐めるように走る。だが、アンチィの姿はもうそこになかった。
壁を蹴り、天井を蹴り、縦横無尽に跳ね回る。残像が爆ぜ、弾丸が空を切る。
「邪魔だ、どけ!」怒声が廊下に響く。アンチィの刃が戦闘員の銃を叩き落とす。柄を喉元に打ち込む。鮮血が飛ぶよりも早く、捕虜たちに向けて叫んだ。
「逃げろ! 生き延びろ! 身を隠せ、お前らの戦いは俺が引き継ぐ!」
怒り、苦しみ、罪。全てを背負ったアンチィの声が、逃げ行く残光の牙の背中を押した。
呻くように誰かが呟いた。「ありがとう……」
だがアンチィは振り返らない。
戦闘員の数が膨れ上がっていた。次から次へと兵士が廊下を満たし、まるで人の波のように押し寄せてくる。
アンチィは床を滑り、刃を翻して応戦していたが、疲労は確実に蓄積していた。
呼吸が浅くなる。額には玉のような汗。服には血が滲んでい。
一人では限界がある。しかも味方は、いない。
その時だった。廊下の一角──石造りの壁が、爆音と共に崩れた。
「……!」
兵士たちが振り返る。粉塵が舞う中、現れたのはたった一人の少女だった。
黒い長髪がゆるく波打ち、どんぐりのように大きな瞳が、粉塵の向こうから真っ直ぐに前方を射抜く。透き通った白肌に、ツンと上向いた鼻、淡い唇がわずかに笑う。
まるで陶器でできた人形。しかしその身体から漂うのは、圧倒的な自信と、破壊の前兆だった。
「イロハ・カエデ……!」アンチィは剣を構えた。
修羅焔団の主任シュミート──最強の技師にして格闘家。その存在を知らぬ者はいない。
アンチィもまた彼女の洗礼を受けた一人だ。
アシュラを除けば、最大級に警戒すべき相手である。
兵士たちはから安堵の吐息が零れる。
「主任が来てくれたぞ!」「これで勝った!」浮かれる声が次々と上がる。
イロハは何も言わず、懐から取り出した宝石を手のひらに掲げた。
それは澄んだ青色をしていた。けれど、次の瞬間──それが砕ける。
「……っ!」眩い閃光が空間を呑んだ。視界は一瞬で白に染まり、すべての輪郭が溶け落ちていく。
「な、なんだ……!?」「目が、見え……っ!」
錯乱。混乱。誰もがその場で立ち尽くし、手探りで周囲を探ろうとした。
だが──次の瞬間にはすべてが変わっていた。
光が収まった時、そこにイロハの姿はなかった。
そして、アンチィも。
広がるのは静寂。殺気と銃声が充満していた空間に、ただ戦闘員たちの困惑だけが残った。
「あれ……?」「どこいった?」「主任……?」
誰かが呟く。だが答える声はなかった。さっきまで確かにいたはずの二人が、幻のように掻き消えた。その場に残ったのは、破片となった宝石の欠片と、空気に残る微かな魔力の余韻だけだった。
──彼女は味方ではない。
ようやく誰かがその事実に気づいた時には、既に遅かった。
イロハがアンチィの手を引きながら廊下を駆けていた。ほっそりとした体躯に似合わぬ脚力。靴が床を叩くたび、床板が震えるほどの加速力だったが、アンチィもまた、それに並んでいた。
「前がぼやけてる……」アンチィは何度も目をこすった。さっきの閃光の余波が視界に残っている。
イロハは無言で角を曲がり、古びたドアをひとつ開けると、勢いよく中に押し入った。
「とりあえずここに隠れる。……まあ、すぐ見つかるだろうがな」
彼女の口元に浮かぶのは、自嘲とも悪戯ともつかぬ笑みだった。
薄暗い倉庫のような部屋。機材の残骸や解体途中のトロッコが転がっている。
イロハはアンチィの腰から無造作に召喚剣を引き抜いたかと思うと、ポケットから平たい石を取り出し、その場にしゃがみ込んだ。そして石を刃に押し当てると、その石で刃を削り始めた。
しゃり、しゃりと規則的な音が室内に響く。
「……何のつもりだ」アンチィは訝しむように問うた。
「砥いでるんだよ」イロハは淡々と答える。
「こうして砥げば、また魔力が刃に通る。シミットは呼び戻せる。戦力は、必要だろう?」
だがその声は、やけに平坦で、冷えていた。
「そ・・れ・に・だ!」の瞬間、イロハは勢いよく立ち上がった。研ぎ石を地面に叩きつける。
「……なんのつもりだはこっちのセリフだ!」
叫びがこだました。
「捕虜を逃がし、ソフィアと斬り結ぶ! お前、完全にアシュラを敵に回したんだぞ!」
その瞳が、怒りと焦燥で潤んでいた。
「お前だって……目的があって、ここに来たんじゃないのか……!」イロハは項垂れながら言った。
「事情が変わった」アンチィの声は冷たく、鋼のように固い。
「どんな事情だっていうんだよ……!」イロハの語尾が震える。
だが、アンチィは一歩前に出て、静かに問いかけた。
「お前なら知っているはずだ。あの地下で、何が行われているか。見ていないわけがない。主任シュミートの職務にあって、知らなかったなんて通るはずがない」
その言葉に、イロハの肩がびくりと跳ねた。
「あの……遺体のことか……」彼女の声がか細くなり、
「私は……私は、見た。だけど……」言葉が喉で詰まる。
「私は、ここに来た目的があるの。……それを果たすまでは、できないことだってある!」
「金か?」アンチィが詰め寄り、「名誉か? それとも、シュミートとしての評価か? ……それらのために、お前は人の命を見捨ててきたのか?」詰問を続けた。
違う!
イロハが叫んだ。
「私はそんなものは……求めてない!」
眼を逸らしながらも、震える拳を握り締めている。
「私は、ただ……!」
その先の言葉は、轟音と壁が崩れ落ちる音にかき消された。
粉塵が舞う。爆風が吹き込み、部屋の温度が数度上がる。
開いた穴の向こうに、数人の兵士が構えていた。ひとりはバズーカを抱え、他の者はライフルをこちらに向けている。油断のない目つき。みなぎる殺意が熱なって部屋を満たす。
だが、それよりも異様だったのは、その後方に立つひとりの男。
漆黒のコートを身に纏い、仮面で素顔を覆い、ただそこに立つだけで場の空気を焼く。
「アシュラ……!」イロハが絶句する。
空間の中心にいる彼は、まるで闇を切り抜いて形を与えたかのような存在感だ。
仮面の奥の視線が、まっすぐアンチィを捉えていた。
その視線が、まるでこう告げているようだった。
──君は、逃げられない。
まるで合図でもあったかのように、アンチィとイロハの体が同時に動いた。
互いに言葉は交わしていない。目配せもしていない。ただ、ごく自然に、一瞬の呼吸の重なりだけで、それぞれの身体が決断したのだ。戦場でのみ成立する、研ぎ澄まされた直感の一致。信頼とは違う。親しみとも遠い。だがそれは、二本の刃が放つ火花のように、美しく、正確だった。
敵が発砲してきた。無数の弾丸が迫る。
イロハは床に転がっていたトロッコの破片の板を拾い上げ、銃弾の嵐をその一枚で受け流す。
鋭く跳ねた銃火は、木の板に突き刺さる。彼女は文字通り盾となったのだ。
「うち続けろ! そうすれば……」
戦闘員の誰かが言い切る前に、アンチィが突っ込んだ。まるで戦場切り裂く風だ。銀の髪が暗闇に閃き、妖しく、鋭い瞳が標的を射抜く。数人の兵士が間を詰める前に、剣で薙ぎ払い、斬り伏せていく。無駄な動きは一切なかった。ただ斬る。ただ、進む。
倒すべき敵は眼の前だ。
仮面の下から、灼けるような気配が漏れ出している。赤い長剣を腰から抜いたアシュラが、堂々と立ちはだかっていた。抜き放たれたのはムラマサ。だがそれは、剣としての状態。今、NFを顕現するには至っていない。当然であろう。ムラマサにしても数時間前に召喚されたばかりなのだ。
ギィン――!
アンチィの刃と、アシュラの剣が激突する。
音が空気を震わせ、残響が鉄骨に反射して、あたりを満たす。
『NFを召喚するか?』一瞬、アンチィは迷った。構えた刃は。さきほどイロハが砥いでくれたばかりだ。魔力は通る。ならばNFは呼び出せるはず。
ムラマサは先の戦いで呼び出したばかりだから、まだ召喚できないはずだ。
一方的にNFで戦るのであれば、勝機はある――!
だが。脳裏に蘇る声があった。
『お兄ちゃん、かっこよかったよ』あのときの少女の笑顔が、ふっと浮かぶ。握られた小さな花、真っ赤なほっぺ、汚れた服。それでもまっすぐ向けられた純粋な想い。
ここで、NFを呼ぶことは――その日常を壊すということだ。
この場所に暮らす人々。逃げる者たち。少女とその父親。
シミットを呼だせば、恐るべきNFの力で全てを破壊するだろう。そうなれば、少女たちを守ることはできない。自分が敵を倒しても、それは勝利ではなく、ただの破壊にしかならない。
なんのための戦いだ? 自問する。ムラマサを手に入れる戦いだったか? アシュラを倒す戦いだったか? そうだったかもしれない。最初はそれが目的だったかもしれない。だが今は違う。
アンチィは歯を食いしばった。
ならば、いい。やってやる。
この剣一本で、決着をつけてやる――!
「来いよ、アシュラ……!」気迫とともに、アンチィは刃を構え直す。
血のようなムラマサの輝きが、非常灯の光を飲み込んでいた。
それでも、恐れはない。正義も、使命も、復讐も。今はどうでもいい。
ただ、ここにある命を壊したくない――その一心。
そのための力だ。欲するは破壊の力ではない。アンチィの中で、何かができ上がりつつあった。
それは他ならぬアンチィ・シーという人間の在り方かもしれなかった。
アシュラの仮面が微かに動く。笑われた気がした。
二人の剣士が、ぶつかり合う。運命の歯車が軋みを上げて回り出す。
振るわれた紅の刃、ムラマサは、夜気を割って赤い残光を引きずり、アンチィの剣を易々と弾いた。
耳鳴りのような音が残る中で、アンチィは瞬時に後方へ跳躍し、着地と同時に膝をついた。刃の衝撃ではない。アシュラの“怒気”が体の奥に食い込んだように錯覚がしたのだ。
「なぜNFを召喚しない。何か守りたいものでもあるのか?」
アシュラは薄く笑い、ひとつ息をついて、
「随分甘い考えだ。それでは世界は取れん。ならば鍛え直してやる」
まるで宣告のように言い放ち、静かに歩を進める。
その瞬間――。
トロッコの破片が三つ、疾風のように飛来する。砲弾の如き速度。空気が圧縮され、金属の唸りが走る。
アシュラは迷わず、ムラマサを振り上げた。紅の刃が閃き、破片の一つを正確に切り裂く。
残り二つの破片が、戦闘員を押しつぶした。気づけば修羅焔団側はアシュラのみとなっていた。
「後はお前だけだ!」鋼の宣言が空気を切る。飛び込んできたのはイロハ・カエデだ。
黒髪を振り乱し、黒い瞳は強い光を宿していた。スカートが翻るたび、その下に隠された白い脚が覗く。愛らしい見た目とは裏腹に、魔力で硬化された拳が空気を裂いた。
「たぁっ!」
叫びと共に、拳、肘、膝、踵――連撃。剣に頼らぬ、身体そのものを武器とした猛攻が炸裂する。
アシュラはそのすべてを紙一重でかわしていく。ムラマサを斜めに構え、必要最低限の動きで対処していた。その表情に焦りはない。鋭い仮面の奥からは、むしろ余裕すら感じられた。
だが、その瞬間をアンチィは逃さなかった。
壁を蹴って跳躍し、さらに空中で反転。アシュラの背後にアンチィの気配が迫る。
イロハの猛攻でアシュラの動きが止まっている間に、アンチィが背後から必殺の一撃を与えようというのだ。暗黙の了解の如き連携。戦士としての、純粋な“合致”がそこにはあった。
アンチィは剣を振り下ろす。殺到する一閃。
しかしアシュラは、まるで読んでいたかのように体をひねり、ムラマサを握り直すと、大ぶりな一閃を見舞った。赤い月を描くような、広がる横薙ぎの一撃。
「ちっ……!」
イロハが一歩引いた。アンチィもバックステップでかわす。だが、それで終わりではなかった。
アシュラはくるりと回転した。
刃が描いた弧が、もう一度、今度は完全な円を成す。
その時ムラマサが光った。それは攻撃的でそして圧倒的な波動だった。
赤い閃光が、爆ぜるように世界を染め上げる。
ムラマサから溢れ出すそれは、もはや“剣撃”ではなかった。むしろ内在する魔力の決壊。地獄の釜の蓋が開いたかのような熱と圧が奔流となって二人を襲う。
「うぐっ……!」イロハの体は浮いて、壁に叩きつけられた。
アンチィも剣を構えたまま吹き飛ばされ、背を地に強かに打ちつけた。
耳元で、悲鳴が木霊している。それは誰かの声ではない。
それは現実の声ですらない。
死の底から這い上がるような、怨嗟の叫び。
痛みと恐怖に歪んだ、拷問の果ての絶叫。
ムラマサに刻まれた者たちの魂が、炎となって、今なお刃に宿っているのだ。
「どうした、倒れたか?」
アシュラが静かに歩を進めてくる。仮面の奥、赤い瞳が妖しく揺れていた。
アンチィとイロハは壁にもたれかかりながら、なんとかその足で立ち上がった。肺の奥が焼けるように痛む。肩から腕、脚の感覚は鈍い。特に肋骨あたりには、きしむような痛みが広がっていた。咳をすれば、血が滲みそうだった。
だがアンチィは剣を前に構える。その刃先に、いささかの揺らぎもない。
アシュラはわずかに目を細め、イロハを見た。
「お前も裏切るのか」その声音はどこか残念そうだったが、深刻さのかけらもなかった。まるで優れた道具を失うかもしれないことを惜しむ、職人のような口ぶりだった。
「お前ほどの才は、できれば斬りたくはないのだがな」
イロハの眉が跳ね上がる。そのどんぐり眼に憎しみの火が宿る。
「……お前は、私の生まれ故郷を焼き払った」その声には怒りよりも、悔しさが混じっていた。
「生き残った人は、みんなさらわれた。小さな子供も、大人も……泣きながら、叫びながら、死んでいった……!」
アシュラはその言葉を遮ることなく、黙って聞いていた。
そしてふっと、仮面の奥から笑みの気配を滲ませる。
「知っていたよ」
イロハの全身が凍りつく。
アシュラはイロハの反応を楽しみながら続ける。「ヤパンの出身だろう? 俺がムラマサを手に入れた村だ。そして、俺が“アシュラ”となった場所でもある」あきらかに声が笑っていた。
その瞬間、イロハの体が小さく震えた。歯が軋む音が聞こえるほどに、感情が沸騰していた。
「……知っていて、私を生かしていた……?」愕然とした口ぶりである。
「そうだ」アシュラは即答した。
「お前の眼、肌、髪、すべてがヤパンの血を示していた。いつでも殺せた。だが……お前には才がある。命を狙われたとしても、それに見合う価値があった」
そこに躊躇はなかった。ただ冷徹な評価と、合理的な判断。それこそがアシュラだった。
「だから今も言おう。お前は俺の元に戻るべきだ。共に歩めば、お前は世界を変える力になれる」
「ふざけるな……!」イロハの眼から、ついに涙があふれ出す。
だがその顔は、怒りと悲しみがないまぜになった、戦う者の表情だった。
「私の村を焼いた張本人が、何を言うの……? みんなの叫び声を聞きながら、才があるから生かしておいた? だから共に来い? お前……本当に、狂ってる!」
声が震えながらも、止まらない。
「私は、ただ“生き残った”んじゃない! “選ばれて生かされた”んじゃない! お前の都合で、生かされたくなんかないんだよ!」イロハは一歩前へ出た。
彼女の白い膝が震えていた。けれど、それでも前へ出る。
「私がここにいるのは、自分で選んだ道だ! お前に拾われたからでも、評価されたからでもない!」その叫びは、悲しみの奥にある誇りを吐き出すようだった。
「私は、私の意思で、お前を殺す!!」
その瞬間、アンチィが隣でふっと笑った。かすれた声だ。だが確かに、嬉しそうだった。
「そういうの、嫌いじゃないぜ」
ふたりの前で、アシュラは一瞬、目を細めた。
しかしその赤い双眸は、なおも揺るぎないままだった。
赤い刀身が、鈍く光る。ムラマサの魔力が、再び息をし始める。
その時だった。
カン――カン――カン――
何かを叩く音が、遠くの通路の鉄柱から響く。
その音を聞いて、イロハは石を投げつけていた。
イロハの投げた石が閃光を放つ。パァンと空気を裂くように光が弾け、辺りが白に包まれる。
しかし、アシュラには通じなかった。仮面の奥から、冷たい視線が光の中を射抜く。「きかんよ」アシュラの声が響いた。確かな自信と軽蔑を滲ませた声だった。
それでもイロハは止まらない。跳ね上げられた右足が、しなやかな曲線を描きながら宙を切る。その足先はまるで踊るかのように美しく、狙いは確かだった。アシュラの仮面に向けて、まっすぐに。
「終わらせてやる……!」イロハの会心の一撃である。
刃が閃いた。アシュラの剣がイロハの足を止めようと上がる――が、その時。
ガシリ、と乾いた音が響く。アシュラの右腕を、誰かの手が掴んでいた。その腕は太い。
「――!」アシュラの顔が仮面越しでわずかに揺らいだ。
掴んだ手は分厚く、ゴツゴツと節くれ立っていた。力強く、確実に剣を封じる手。
次の瞬間、イロハの蹴りが炸裂した。仮面に音を立ててぶつかり、アシュラの身体が宙を舞う。
漆黒の外套が翻り、暗黒の悪魔が廊下の奥へと弾き飛ばされる。
閃光は晴れた。
イロハのすぐそばで立っていたのは、圧倒的な存在感を放つ男だった。
少年のような瞳には曇りひとつなく、深い湖のような安らぎを湛えている。総髪の髪を後ろに束ね、鍛え抜かれた体躯はまるで戦の神のようでありながら、どこか慈愛すら感じさせた。彼の胸元は開いていて、隆々とした筋肉が浮かび上がっている。だが、暴力の匂いはしない。ただ、そこに在るだけで人を守ってくれそうな温もりを感じさせる。
その目がアンチィをとらえた。
「……!」アンチィの胸が一気に跳ね上がる。張り詰めた緊張が音を立てて緩み、口元が綻ぶ。
「ロウガ……!」あふれるように名前が漏れた。声が勝手に出ていた。抑えきれない嬉しさがこみ上げてくる。今この瞬間、世界で一番頼れる人がここにいる。
ロウガ・ロードがニヤリと笑いながら立っていたのである。
「ヒーロー登場ってか?」ロウガはおどけた口調で言った。
口元には笑みを浮かべていたが、その眼には確かな意志と、全てを守り通す覚悟が宿っていた。
アンチィは心の奥で、もう一度戦うための炎がともるのを感じていた。
「どうしてここに──」
アンチィは言い切る前に、ロウガの隣に立つイロハの姿を見て、全てを悟った。
「……お前が、ロウガと内通していたんだな。イロハ」
イロハは一瞬だけ視線を伏せ、すぐに挑むような目でアンチィを見返す。
だが彼女が答えるよりも早く、ロウガが朗らかに笑った。
「即座に見抜いたか、さすがは俺が目をかけた男だな」
分かって当然だろうと言わんばかりに、アンチィは鼻を鳴らす。
「イロハの目的がアシュラへの復讐なら、修羅焔団の敵対勢力と繋がってたっておかしくはない。それにお前の登場のタイミングが良すぎる。俺の動き、最初から全部リモートしてたな?」
「ご名答」ロウガは頷き、イロハに目をやる。「ただな……まさかお前が一日も経たずに大暴れするとは思ってなかったよ。イロハがこっそり教えてくれなかったら、とっくに間に合わなかった」
「俺のせいじゃない」アンチィはロウガの隣にすっと歩み寄ると、剣を肩に担ぎながら言った。「ここが居心地悪いんだ。アシュラのせいでな」
「そうかい」ロウガはにやりと笑い、腰から剣を引き抜いた。「じゃあ、元凶を──ぶっ潰すか」
ロウガとアンチィ。まるで正反対の二人が揃った。
一方は粗野で力強く、鋼のような信頼感を纏う男。
もう一方は、白銀の髪と妖艶な瞳、研ぎ澄まされた刃のような美しさを宿す少年。
しかし二人が並んだ時、その対比は奇跡のような調和を生んだ。
荒ぶる獣と冷徹な剣士。この組み合わせは、絵になるほどに完璧だった。
アンチィが横に来る。ただそれだけで、互いに欠けた部分を補完しているように見える。二人とも何が足りなくて、どこを補えば良いのか正確に把握しているようであった。
お互いを信頼している。しかして、緩んではいない。絶妙な緊張感もある。そっと動くだけで分かる長年の付き合いを感じさせる振る舞い。
そんな二人の関係性を知ってか知らずか、
「まだアシュラは死んでいない」
イロハの声が鋭く割って入る。目を細め、握った拳を小さく震わせながら、
「手ごたえが浅かった。まだ、生きてる」と言った。
「手ごたえじゃなくて……蹴りごたえだろ?」アンチィが冗談めかして言った。
その唇には、今しがたまで見せていなかった余裕が戻っている。
ここは敵の本拠地。だが今、アシュラは一人。
こちらは三人。それも、最強の剣士、猛獣のような男、そして天才シュミート。
黒い影に満ちていたこの鉱山に、微かな希望の光が差したかのようだった。
瓦礫の向こうで、何かが蠢いた。そこは無論修羅焔団の総帥がいる場所であった。
煤けた煙と塵の中から、黒い影がゆらりと立ち上がる。その動きは滑らかとは言い難い。糸で吊られた操り人形のように、ぎこちなく、しかし確実に──それは歩を進めた。
「アシュラ……」アンチィの声が低く唸る。
その姿は戦士というより亡霊だった。強靭さよりも、恐怖がにじむ。力尽きながらもなお動く異様さが、ただの敗者のものではないことを語っている。
アシュラの右手には、あの赤い剣──ムラマサ。
その刃が、ふと揺れる。一瞬の閃光が視界を走ったかと思うと、世界が深紅に染まった。
アンチィの背筋が粟立つ。「また幻覚か……!」
剣を構える。剣を逆手に握りしめ、身を沈める。
ロウガもイロハもすぐに気配を察知して、臨戦態勢を取っていた。
三者三様の構え。それぞれが即応できる構えを選ぶ。
完璧な布陣──それに対してアシュラは、一歩も動かない。
その姿は、まるで心ここにないようであった。ムラマサを斜めに垂らし、無防備とすら映る立ち姿。
しかし、そこに油断などは一片もなかった。
むしろ、その異様な静けさこそが、凄まじい不安を掻き立てる。
「……なんだ、あれは……?」アンチィの眉間に皺が寄る。
その時だった。
アシュラの仮面に、音もなくヒビが入った。
一本、二本、三本──暗黒のマスクに亀裂が走っていく。
「ああ……」感情のない声がこぼれた。それは仮面の隙間から零れた吐息だ。
パリン──乾いた音。仮面は砕け、ゆっくりとその破片が床に落ちていく。
露わになった顔を見た瞬間、三人の動きが止まった。
空気が、凍りつく。
仮面から零れたのは白髪。
それはアンチィと同じ色だった。
照明に照らされたその髪は銀に近く、角度によっては、青白くすら見えた。
目元は切れ長、だがその奥にあるのは冷たく干からびた怒りと、底知れぬ虚無。
頬はうっすらとこけ、輪郭は研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
年は壮年であろうが、皮膚はたるんでいない。美しさと気品の両方を持った顔であった。
硬く刻まれた皴には、幾度もの修羅場を潜ったものだけがもつ静かな殺気がある。
しかし、その目つきは、生気を持たぬ彫像のようで──
人間というより、それらしく作った機械のような不気味さを孕んでいた。
「……お前は……」アンチィの声が掠れた。
アシュラの視線が、ゆっくりと三人に向く。
その瞳は赤かった。血のような色ではない。もっと暗く、澱みきった赤。
まるで“何かを喰らい続けて”燃え残った、火のような眼差しだった。
白髪。美しくも不気味な顔立ち。
それはアンチィと同じ“何か”を孕んでいた。だが──血の繋がりでは説明できない。
まるで、同じ“呪い”を背負っている者のようだった。
「さあ……」アシュラが小さく、口を開き、「……続きをしようか」
その声に、全員の血が凍った。
アシュラの淡々とした口調はまるで、ムラマサの意志を代弁しているようであった。
戦いは、終わっていなかった。むしろ今、始まったばかりだった。
「あれはお前の親せきかい?」ロウガの声は冗談めいていたが、その目は真剣だ。
視線の先には、仮面を失ったアシュラ──白い髪を揺らす不気味な人間がいるのである。
そしてその姿は余りにもアンチィと共通点があるのだ。
「……いいや。たぶん違う」アンチィはゆっくりと首を振った。
だがすぐに、目を細める。「でも……見たことがあるんだ」
ロウガが小さく眉を上げる。
アンチィはわずかに顔を俯けて言葉を紡いだ。
「ここで……奴隷として働いてたころさ。まだ子供だったけど、強い奴がいるって前に話しただろ? 喧嘩の仲裁に入って、刃物を持った奴を素手で黙らせたとか。白髪だった……あいつも」
「じゃあ、アシュラもお前と同じく──奴隷ってことか?」
「たぶんな」アンチィは確信を持てなかった。「居住区が違えば会話すら禁止だった。奴隷同士が団結しないようにって、管理側が徹底してた。俺から見たあいつは、ただの“遠くにいる白い化け物”だった」つまりアンチィは良く分からないと言うしかなかった。
ロウガは「ああ、そうかい」と息を吐いた。
だがロウガの優しい瞳はアンチィから離れない。
「……それでも、髪の色だけじゃねえよ。空気が似てるんだ。背負っているものが同じに見える」
その言葉に、アンチィは一瞬だけ目を伏せた。脳裏に浮かぶのは、アシュラの低く淡々とした言葉。
──呪われた一族。
──カインの血筋。
──世界を平定する力。
自分が知らずに生まれながらに背負っていた何か。
仮にアシュラの言うことが真実だとしたら、親せきでなくても、血筋は近いことになる。
であればアシュラと面影が似ているのは道理。
だが、あいつが言ったことが。本当かどうか──分からない。
確かめるためには、証拠もなければ時間も足りない。
「くだらねえ……」アンチィは小さく吐き捨てるように笑った。
『全部、あいつの妄想かもしれない。そんな御伽噺より、今は一つ、はっきりしてることがある』
アンチィは決意をより強固にして、「斬れば終いだ」そう言った。
「ハッ、違いないな」ロウガは納得したように頷いた。
「……アンチィ。来るよ」イロハの声。張り詰めた空気が、一気に戦場の温度を上げていく。
前方。アシュラが剣を構えていた。その動きは明らかに異常だった。
人間らしい滑らかさではなく、あくまで“機械”のようなぎこちなさ。
まるで何かに操られているように、心なく、体だけが動いている。
「……操り人形みたいだな」ロウガが呟く。
「だったら、糸が切れるまで、斬るだけさ」アンチィの切っ先はアシュラに向き続けている。
たとえ真実がどうあれ、血の色が同じでも、歩んだ過去が似ていたとしても。
あいつはもう、壊すべき存在だ。──斬る。それが、答えだった。
うごおおおおおおおお……! アシュラが吠えた。
喉の奥から絞り出されるような、獣とも人ともつかぬ咆哮が、石造りの通路を満たした。
耳の奥を直接掴まれるような叫び声に、空気が震える。
アシュラの足元から、赤黒い魔力の奔流が溢れ出す。
炎にも似たそれは、熱ではなく“怨念”で形作られていた。
うねる魔力が床を焼き焦がし、天井をなぞり、空間すら赤く染め変えていく。
その中に混じる声。
叫び、嘆き、呻き。男の声、女の声、子供の声。
その声の正体をアンチィにはすぐに理解する。
それらは全て、ムラマサの業火に焼かれ、命を奪われた者たちのものだ。
アシュラの絶叫と重なり合い、不協和音のように響き渡る。
一つの肉体に、幾千もの亡霊が宿ったかのような、不気味な合唱。
ロウガが低く呻いた。「やっぱり……仮面がムラマサの、呪いの封印だったんだな」
彼の目に映るアシュラは、もはや“人”の枠を逸脱していた。
暴走する力。呻くようにゆらめく魔力。人智の外にある凶器。
「仮面が砕けた今、ムラマサの本性がアイツを呑み込んだってわけか……」
「完全に一段階、ヤバくなってるな。誰のせいやら」アンチィは唇を歪めて言った。
「うるさいな……あれで決めるつもりだったんだぞ」イロハが小さく舌打ちする。
顔面を、つまり仮面を蹴り壊してことを後悔しているようであった。
「お前らよさないか」ロウガは大人の貫禄である。
ふっ、互いに笑うと三人の視線が揃ってアシュラに向く。
その瞬間だった。ズドン、と耳を裂く衝撃音と共に、アシュラが突進してきた。
「速い──!」アンチィは剣を盾とするように動かす。
速さの正体は火柱だ。
アシュラの背中から放たれた魔炎が地を蹴る推進力となり、巨体が凄まじい速さで迫ってくる。
その突撃には“加速”という常識がなかった。踏み込みから刃が届くまで、一切の隙がない。
「っ、くそ……!」アンチィはギリギリで剣を構え、赤の刃を受け止めた。
だが、腕が痺れる。一撃だけで骨が軋む。ムラマサの剣を受けた時、衝撃が走った。
ロウガも剣を抜いて援護に入ろうとしたが容易には近づけない。
アシュラを包む炎で、やはり間合いに入れない猛烈な火力が皮膚を焼く。
「どけぇ!」その時、黒髪が閃いた。
イロハが跳び出す。白い太腿が炎の波を蹴裂き、魔力で強化された肘をアシュラの胸に叩き込む。
ゴン、という鈍い衝撃音。アシュラの巨体がわずかに吹き飛び、アンチィから距離をとらされる。
「ナイスだ、イロハ」体制を立て直すためアンチィは後方に飛んだ。
アンチィたち三人にアシュラは包囲されている。
最早仮面を失った男は、今にも倒れそうな足取りで、自分の頭を押さえた。
その手は、まるで頭の奥に巣食う何かを抑えつけようとするようだった。
「……よせ……もう終わりだ」小さな声だった。それでも必死に絞り出した小さい叫びだった。
「もうやめるんだ。……いつまで続けるんだ」
誰に言わされたわけではない。アシュラ自身の意志。
「これ以上は……アンチィにまで手を出して……アレはあの人の……」
さらには、三人に対してではなく、自身に言い聞かせているようであった。
何かに、必至に抗っているようであった。
ムラマサに侵されていない理性──わずかに残る“人”の声が何かと争っている。
その姿は、痛々しいほどに哀しかった。
「戦っている……」イロハが呟いた。
「ムラマサと……自分の中で……」だが、その丸い瞳は恐怖を宿していた。
誰もがこの戦いが、そう長くは持たないことを理解していた。
アンチィは剣を構え直した。ロウガも、イロハも、続く。
またもアシュラの足元から炎が吹き上がった。先ほどよりも熱あり、重く、そしてあらぶっていた。
『ムラマサが本気で怒っている……』アンチィにはそう思えてならない。
最早黒衣ではなく、炎を身に纏ったアシュラはただ一人を睨みながら口を開く。
「アンチィ、俺と共に来い」
燃えさかる魔炎の中心で、言い放つ。砕けた仮面は耐えられず灰となっていた。
「内にあるムラマサと、俺は戦っている。だが……お前がいれば、抑え込める。俺たちの血は、偉大なのだ。二人でなら、世界を取れる……! 皇帝すらも打倒し真なる平等が実現できる」
その言葉は誰の言葉か分からない。アシュラの真意か、ムラマサの嘘か、
しかしどちらにせよ詭弁だ。それは分る。
「嫌だね」アンチィの返答は冷ややかだ。白銀の髪を揺らし、黒い瞳が鋭く細められる。
「お前は今、ムラマサを御しきれていない。それはつまり──俺にとって好機ということだ。大人しく死ねよ」その言葉は冷たい刃にも似ていた。
だがアシュラは引かない。紅蓮の瞳が、なおも説得を諦めていないことを示していた。
「思い出せ、アンチィ……俺たちが奴隷だった時代の屈辱を。人間としての権利を剥奪され、生まれた時から奪われ続けた日々を……」その声には、確かな実感があった。
「愛するものを奪われ、それすら守れず、何も変えられなかった絶望を……!」
アシュラの足元から、再び赤い魔力が吹き上がる。
「だからこそ! 力を得るしかなかった。ムラマサこそが、その力なんだ……! 俺と共に来い!」
その炎は、もはや建物を溶かすような勢いだ。
アンチィの胸に響くものがある。借り物の言葉ではない、だから魂を焦げつかせすらする。
だとしたらあれは、ムラマサではなく、アシュラの本音なのだろう。
だとしても、アンチィは怯まない。「……違うな」ゆっくりと剣を持ち直す。
アシュラの本心だとしてそれはまがい物だと断言せねばならない。だから言う、
「お前は“暴力への渇望”を、“世直し”って言葉にすり替えているだけだ。本音すら仮面に隠して生きて来たのか? そんな欺瞞についていく気は、俺にはない!」
突き出した刃のようなアンチィの叫びは確かにアシュラの臓腑を抉るだろう。
アシュラの顔に、怒りが走った。炎が爆ぜる。
「お前だって母親を殺されたんだろうが……ッ!!」
一瞬、アンチィの顔が凍りついた。その瞳が揺れる。
「……何だと」低く、くぐもった声が漏れた。「……そこまで知っているのか……」
決して安易に触れてはならない記憶。その思いが吐物のように零れた瞬間──
「──勧誘に、親の死を出すとは……」
低く、だが場を切り裂くような声が響いた。
「さすがに、品がねぇぜ」アンチィとアシュラの間に、進み出た巨躯の男。
ロウガ・ロード。太い手が召喚剣を握り、太い腕が刀身を振り上げていた。
そしてその剣は、まるで世界そのものを断ち切らんばかりである。
「……お前のせいで、どれだけの人間が壊れてきたと思っているんだ」
アシュラの周囲を、炎のカーテンが覆っていた。
ムラマサの呪詛が形を成し、剣をも焼き、魔力すら撥ね返す障壁。
「くだらない戯言は聞き飽きた。そんなものに翻弄される生などあってはならねえ」
だが、ロウガは一歩も退かない。重心を低く落とし、両の脚を踏ん張る。
「──だったら、俺が断ち切る」その声とともに、空気が震えた。
剣を振りかぶり、地を砕くように踏み込み、
「おおおおおおおおおおおッ!!!!」
乾坤一擲。渾身の一撃。
振り下ろされたその刃は、ただ剣ではない。
稲妻だった。断罪だった。
炎の障壁が砕ける。
音を置き去りにして、アシュラの肉に到達する。
ロウガの怒りが、黒いコートを裂き、信念すらも断ち切った。
「ぐっ……が……ッ!!」アシュラの身体がぐらりと傾いた。
その口から赤い血が零れ、刃を持つ手が震える。
ロウガは息一つ切らないまま、剣を肩に担ぎ、呟いた。
「悪いな。こう見えて俺、“正義の味方”なんでね」
背後に立つアンチィの口元が僅かに綻んだ。
「おいおい……お前には向いてないぜ」だがその目には、確かな信頼が宿る。
アンチィの笑みを受けて、ロウガは黙って肩をすくめてみせるのだ。
アシュラは半身を斬り裂かれながら血を吐いていた。
黒衣は裂け、腹部から半身にかけて、深々と斬り裂かれた所から、赤黒い血が脈打つように流れ出している。皮膚の下からは筋が、筋の奥からは骨が、痛ましく覗いている。
破損した体が、命の終わりを訴えるように微かに痙攣しているのだ。
「……終わった」アンチィは息を呑み、剣先を下げる。
終局の予感がした。だが──違和感が走った。
アシュラの右手が、まだ剣を握っていたのだ。
あの剣──ムラマサ。その柄を、指が血に濡れながらも離していない。
刹那、刀身がきらりと揺れた。
それは光ではなかった。炎でもなかった。ただ、そこに込められた“意志”が笑ったのだ。
──生きている。呪われた剣が、宿主の命の終焉すら意に介さず、なおも蠢いているのだと、アンチィは本能で悟った。
「──逃げろ!!」アンチィのその叫びが爆音のように響いた。
ロウガは一瞬も迷わず身体を反転させ、巨躯に似合わぬ瞬発力で跳躍した。
アンチィも同時に飛ぶ。
イロハだけが、迷った。
その一瞬のためらいを補ったのはロウガだった。
「来いよ、お嬢!!」その豪腕がイロハを抱え、跳ね飛ぶ。
直後、アシュラの体から──いや、ムラマサの刀身から、光が爆ぜた。
それは炎。それは斬撃。それは呪詛。
地獄の底から噴き上がる、憎悪の奔流だった。
「──ッッ!!」
アンチィは目を伏せる。地を貫いた柱状の光が、一直線に天井を突き抜けた。
轟音と共に鉱山の天井が吹き飛び、夜空へと赤い火柱が昇る。
それは爆発ではなかった。間違いなく“召喚”だった。
──ムラマサ。
巨人の姿が、炎の中から生まれ出ようとしている。
「アシュラのやつ……修羅焔団の最重要拠点で、NFを呼び出す気かよ!!」
ロウガが顔をしかめ、声を張り上げる。
この鉱山は、修羅焔団の資源供給の要。破壊されれば、その打撃は計り知れない。
「違う……」アンチィは、ゆっくりと立ち上がりながら呟いた。
その瞳は、アシュラではなく、炎の中心──形を形成していくムラマサを見ていた。
「違う。もうアシュラじゃない……」
確信とともに吐き出されたその言葉に、ロウガもイロハも言葉を失った。
「──あれは、ムラマサの意志だ」
憎悪の具現。世界を呪う魔剣。選ばれし者を喰らい、より強き依代を求める魔性──
それが、“ムラマサ”。紅蓮の炎が咆哮する。
鉱山の奥底から、生きた災厄が立ち上がろうとしていた。
アンチィは息を吸った。「倒すべき敵は……あいつだ」
ムラマサ。それは今、意思を持ってこの世界に現れようとしている。
すべてを焼き尽くすために。
──崩れる。
最初は微かな揺れだった。だが、それが連続する音とともに明確な振動に変わり、瞬く間に鉱山全体がきしみを上げ始めた。轟音が鳴る。足元の岩盤がひび割れ、天井から赤熱した破片が雨のように降ってくる。
「……! これは……! 本当に召喚できるのか!」イロハが目を見開いた。
火柱から発せられる呪気が天井を焼き、支柱を焦がし、鉱山そのものを焼く。
巨獣の胎動のように、ムラマサはこの大地を喰らいながら、その姿が形成されていく。
「ムラマサは……残光の牙と戦ったばかりだ! 召喚するには魔力が、時間が……!」
イロハの声は震えていた。認めたくないのだ。己の理屈が、知識が、信じていた常識が、あの呪われた存在には通用しないということを。
「お前の常識なんて通用しねぇよ、あんなもんに……」
アンチィが低く唸るように言った。額には汗が滲み、瞳には理屈を越えた理解が浮かんでいた。
「呪われたNFだ……道理も、法則も……あいつには関係ない……」
それは理性ではなく、本能が告げる真実だった。
「……やるしかねぇな」ロウガが召喚剣を握り直す。
その手から、魔力の震えが滲み出す。
「出すぞ、アンチィ。今ここで仕留めなきゃ、誰も生き残れねぇ!」
火柱から吹き出す波動は、肌を裂くような熱と、精神を削るほどの殺気を伴っていた。
こんな相手に、剣を向けることすら、もはや狂気に近かった。
「駄目だ……!」アンチィの声が、苛烈さをもって鋭く飛んだ。
ロウガが目を細める。「何だと?」
「ここは……居住区に近すぎる。トロッコの線路の先、あの薄汚れた通路の奥には……」
言葉は続かない。だが、アンチィの脳裏には──あの少女の笑顔が焼きついていた。
『お兄ちゃん、かっこよかったよ! 正義の味方です!』
……彼女の声が、今も胸に残っていた。
「巻き添えなんて考えるな! 今ここでムラマサを倒さなきゃ、全員死ぬんだぞ!」ロウガは吠えた。苛立ちと焦燥が混ざったその叫びは、いつもの彼にはない感情だった。
「それでも……!」
アンチィは一歩も引かない。その瞳には怒りと苦悩、そして確かな光が宿っていた。
「それでも……俺は、あの子たちを見捨てられない」
言いながら、アンチィはかすかに肩を震わせていた。
「俺は自由を求めている。誰にも従わず、誰にも支配されず、好きに生きる……そんな自由を」
拳を握る。その手の内にあるのは、己の誇りと──
「でもな……俺の欲しい自由は、生きている人間に手を差し伸べる、そんな自由だ」
ふと、視線が揺れる。
「……俺はあの時の俺に戻らない」
名も無き奴隷だった、あの頃。泣き叫ぶ声を耳にしながら、何もできなかったあの日々。
ただ、じっと見ているしかなかった、あの母の姿──それを、もう二度と繰り返したくはなかった。
そして叶うならば、なりたいものがある。それは今も夢に見る憧れ。最良の情景。
目指すべき指針。
弱き人のために立ち、代わりに怒ってくれる、情に満ちた最良の男。
だから分かって欲しかった。この男には俺の意地を理解して欲しかった。
ムラマサとの最終局面。死となりの合わせの中で、伝えたかった思いがこぼれ出る。
「俺は……お前みたいになりたいんだ、ロウガ」
ロウガが目を見開いた。
「あの洞窟で、俺を救ってくれたお前みたいに、誰かの命を、真っすぐ守れる男になりたいんだよ」
アンチィは泣いていた。極限状態の中で、堪えていたものがせきを切った。
ロウガは大きく息を吐くと、口元をゆるめて言った。
「……最高の殺し文句だな。くそったれが」ごつい指が、アンチィの額をはじく。
「気に入ったぜ、お前の自由」彼はその言葉を贈る。
「じゃあ……場所を変えて、決着をつけに行くか」
三人の視線の先には、未だ咆哮し続ける火柱と、覚醒しつつあるムラマサがいた。




