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第五章 炎の王

その街の名は、かつて〈イシュヴァルド〉と呼ばれていた。

ロマノフ家が支配していた時代の名だ。

この都市は剣の街として栄えていた。召喚剣の鉱山が近くにあり、ここで発掘された剣は帝国の貴族や軍へと供給され、ロマノフ家の財を潤した。シュミートも集められ、磨き上げられた召喚剣が次々と生まれた。だが、この繁栄は決して万人に等しく降り注ぐものではなかった。街の中心には美しい屋敷が立ち並び、ロマノフ家の貴族たちが贅を尽くして暮らす一方で、都市の外縁には奴隷となった者たちが粗末なバラックに押し込められ、鉱山での過酷な労働に従事していた。

過酷な時代であった。

しかしロマノフ家は、アシュラにより滅ぼされた。

そして今、〈イシュヴァルド〉は〈ヴェルミナス〉へと名を変えた。

呪われた時代はロマノフと共に滅亡し、虐げられた人々は復権を果たしたのだ。

現在のヴェルミナスは、活気に満ちた自由な都市となった。市場には豊富な食糧が並び、職人たちは武具や日用品を作り、酒場では民衆が陽気に杯を交わしている。通りには音楽が響き渡り、芸人や踊り子が芸を披露する光景も珍しくない。ロマノフ家時代よりも平等な社会になったと、人々は口々に語る。

だが、その輝きの裏には深い影があった。

かつての貴族やロマノフ家に仕えていた者たちは、逆に修羅焔団によって虐げられ、見せしめとして奴隷へと落とされた。彼らは日の当たらぬ地下の施設に閉じ込められ、鉱山の奥深くで過酷な労働を強いられている。また、修羅焔団に従わぬ者、逆らう者もまた容赦なく処刑され、その首は街の外壁に並べられた。

かつての力関係がそのまま逆転しているが、そのことを口にできない圧があった。

自由と繁栄の代償として、恐怖と服従が都市を支配しているのだ。

大半の住人は目を背け、自分たちの生活が守られている限り、現状を受け入れた。

そのヴェルミナスの中心にそびえるのが、アシュラ城である。

辺境とは思えぬ壮麗な要塞であり、かつてはロマノフ家の威光を象徴する宮殿だった。今はアシュラの居城となり、修羅焔団の幹部たちがその内部に居を構えている。

幹部たちは彼を敬い、彼の意志を体現する者として仕えていた。

城の最上階、豪奢な装飾が施された一室に、アシュラはいた。

黒い外套をぴっちりと締め、黒いフルフェイスの仮面を被るその姿は、窓から差し込む光を受けて明暗をはっきりと際立たせる。まるで黒いわだかまりのように、そこだけが異質な存在感を放っている。それは辺境の暗部そのものかもしれない。

アシュラは黒く、どこまでも暗い。吐く息すらも黒いような錯覚。だが、その仮面の隙間から覗く双眸だけは、血のように鮮烈な赤だった。その眼は今も全てを恨むように光っている。

アシュラは窓の外を見ていた。街を見ているようにも、空を見ているようにも見える。あるいは、辺境そのものを、いや、この世界の過去と未来を思考しているかのようだった。

腰に下げた赤い半透明の剣――ムラマサが、カタリと揺れる。

刹那、豪華な部屋が赤黒く染まった。

焦げたような嫌な臭い。死者の呻き声が木霊する。亡霊は何を言っているか分からない。だがその声は間違いなく苦痛を内包していた。地獄からの声が、アシュラに何か告げている。

しかし、アシュラは動じなかった。

それは日常であり、当たり前のもの。幻覚だと知っているからこそ、無視することもできる。

コン、コン。

部屋の扉がノックされる。

その瞬間、部屋は元に戻った。もう赤黒い影はない。死者の囁きも消えた。

扉が開かれる。

そこに立っていたのは、金髪の少女だった。

その名はソフィア・アヴァロン。

赤いジャケットに白いシャツ、黒いミニスカート。その装いは大胆でありながらも上品さを失わず、彼女のグラマラスな体つきを一層際立たせていた。特に目を引くのは豊満な胸と、引き締まった腰のラインだ。目元はわずかに吊り上がり、意志の強さを感じさせる。鼻筋はすっと通り、唇はほんのり桜色。美人という言葉を体現したかのような少女だった。

その美貌とは裏腹に、彼女はどこかぎこちない。部屋の主たる男の前に立ち、緊張した面持ちで直立する。その手がかすかに震えているのは、恐れではない。五年前、彼女はこの男――アシュラに救われ、その名を最初に聞いた少女だった。それ以来、彼を信奉し、彼のために戦い続け、今や優秀NFライダーとして成長した。

腰には半透明の召喚剣、NFシミットが揺れている。彼女の手で何人もの敵を斬り伏せてきた剣だ。強い戦士なのだ。それでもこの部屋の空気には慣れない。辺境では考えられないほど豪奢な調度品に囲まれたこの空間、アシュラの私室。その場に立つたび、高揚し平常ではいられないのだ。

「失礼します」張り詰めた声が室内に響いた。明らかに緊張した。まるで新人である。

「どうした?」低い声が返ってきた。

黒いフルフェイスの仮面が、わずかに動く。くぐもった声音には、冷徹さと威圧感が滲む。

「す、すみません……」

ソフィアは一瞬戸惑うが、すぐに真剣な表情を取り戻し、言葉を紡ぐ。

「怪しい者がいたので報告に来ました」

修羅焔団の置かれている状況を考えれば、暗殺者やスパイなど珍しくはない。それでもわざわざ報告する理由があるはずだ。アシュラは黙ったまま、彼女の言葉を待つ。

「召喚剣を持った男が、一人出頭してきました。じ、自分はリゴンとバルクを倒し、彼らの持っていた召喚剣を奪ったと言っておりますです。調べましたところ、男の持ってきた召喚剣は間違いなく我が軍のシミットでしたので」

ソフィアは必死に報告しようとするが、どこかたどたどしい。緊張のせいか、それとも……。

「殺せ」アシュラの声は冷酷、そしてさらに冷たい言葉を吐く、

「実力ある人間は欲しい。だが、危険なやつは仲間にする必要はない」

「分かりました!」ソフィアはすぐに賛同する。迷いはなかった。むしろ、自分の意見がアシュラと一致したことが嬉しいのか、誇らしげに胸を張った。

「私も、その方が良いと思います!目つきが鋭く、しかも白髪。怖い印象がありました」

ソフィアの言っていることは、どこまでも主観的である。

容姿など、本来何の関係もない。それでも、彼女は真剣に根拠として伝えてくるのだ。

だがその珍妙な情報にアシュラは一瞬、ピクリと反応した。

「白髪……?」その言葉に、沈黙が落ちる。

「その男の名は?」静かに、しかし重々しく問いかけた。

「アンチィ……と、名乗っています」

ソフィアがそう答えると、アシュラは数瞬、動きを止めた。

「え……?」

ソフィアは失敗したかと思い、不安そうに眉をひそめる。

アシュラは背を向け、窓の外を見た。そして、低く呟く。

「会ってみる」

「えっ?」もう一度同じ反応をした。

「玉座まで、その男を連れて来い」

「分かりました!」ソフィアは頷く。しかし、アシュラの次の言葉に、顔を曇らせた。

「イロハも連れて来い」

「……あの女も、ですか?」ソフィアの声に、嫉妬の色が滲む。三年前に修羅焔団に加入した天才シュミート、イロハ。アシュラに優遇されている後輩。側近としていつも傍にいる忌々しい女。

ソフィアにとって、決して歓迎できる存在ではなかった。

「アンチィという奴が優秀なNFライダーなら、うちのシュミートも立ち合わせておくのがいい」

「それは……」ソフィアは不服そうに唇を噛む。

「無論、お前も同席だ」アシュラは断言した。

「俺を守ってくれるのは、お前だけだ」黒い言葉には、抱きしめるよう優しさがあった。

その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの顔が一気に赤くなる。

「はいっ!」嬉しさのあまり飛び上がり、咲いたばかりの花のような笑顔を見せる。

少女のその無邪気な表情に、アシュラの冷たい眼差しが微かに揺れた。

ソフィアは踵を返し、勢いよく部屋を飛び出していく。

その背中を見送りながら、アシュラはふたたび窓の外に視線を戻した。

「アンチィ・シー……」アシュラは窓に映った自分の姿を睨む。その表情は、仮面の下で読めない。しかし、彼は確かに報告されていないはずの『アンチィ』の姓を知っていたのである。


両手に手錠、両足には足枷。

重い鎖で繋がれたアンチィは石造りの広間へと引き立てられた。

天井の高いその空間は、かつてのロマノフ家の謁見の間を改修したものであり、今は修羅焔団の支配者アシュラのための“玉座の間”として使われていた。かつて高貴の象徴であったものは、今や革命の象徴となっている。冷たい空気。誰かが吐いた呼気が、白く揺れる。

アンチィの頬には殴打の痕が青く浮かんでいた。まだ出来たばかりの傷である。だがその痛々しさが、かえって彼の持つ、生まれながらの妖艶さを引き立てていた。

暴力の傷と中性的な整った顔立ちが混ざり合い、どこか耽美的な空気を生んでいるのだ。

貴婦人が見れば思わずため息をつきそうなほどの、艶やかな姿であった。

彼の前には、ずらりと並ぶ修羅焔団の幹部たち。いずれも戦いに生きる者たち。中でも先頭に立つのは、金髪の美女ソフィア・アヴァロンだった。赤いジャケット、白のシャツ、黒いミニスカートという挑発的な装いに、凛とした目が、こちらを蔑むように見つめてくる。

女王のような顔つきである。実に板についたものであった。そういう店で働けば、良い給料でももらえるのではないかと思えた。あまりに堂々とした見下し方が、かえって演技めいて見えるのだ。

だからアンチィの口元が緩む。嘲笑というより、滑稽さに耐えきれず漏れた笑み。

「……なにがおかしいっ!」案の定、ソフィアが噛みついてきた。

「どこの馬の骨とも分からぬ者が、我らの誇る召喚剣――シミットを奪った? 我がNFライダーに勝った? そんな話、信じられるものか! どうせ盗んだに決まってる!」

侮蔑の言葉が続く。他の幹部たちも同様に、冷笑やあざけりを向けてきた。

アンチィは肩を震わせる。怒りではなく、吹き出しそうになったのだ。

馬鹿らしい、と思った。そもそもこの修羅焔団が、かつて貴族や権力に虐げられてきた者たちの集合体ではなかったか? 奴隷、労働者、棄民たち。自分と大差ない生まれのはずだ。

それが今、力を得たとたんに、自分と同じ境遇だった者を見下すようになっている。

どこの馬の骨だと? そんなことはお互い様のはずだ。生まれた土地も年も知らぬのが、辺境の民ではないのか? くだらない、重要なのはそんなものではなく、能力であり、力、じゃないのか?

こいつらは、憎んでいた貴族そのものに成り代わっている。醜悪だと断じていた存在に自分たちも成り果てて、その滑稽さに気づかず、ここまで偉そうにしている。これではまるで道化である。

ではそんなピエロどもを見ておかしくならないはずがない。

アハッ、と声を上げて笑ってしまった。

「貴様……ッ!」怒りに駆られたソフィアが、踏み出す。拳が握られ、今にも殴りかかりそうな気配。空気が熱を帯び、大気が軋む。

「やめろ」重い声が響いた。静かに、しかし確実に、場の空気を一変させる圧。

ソフィアとアンチィ、両者の視線がその声の主へと向かう。

ソフィアの頬は緊張と羨望に紅潮していた。まるで恋人に咎められたかのような甘さすら滲んでいる。一方のアンチィは、内心で警鐘を鳴らした。

――来たか。

部屋の奥、漆黒のマスクを被った男――アシュラが、玉座に現れていた。その姿には、言葉以上の重みがある。その黒い姿は、戦意すらも抑え込む、覇気が潜んでいるのだ。

「やめろ」と言って、まだ一言も発していない。だが、漆黒の覇気は確かに告げている。

“それ以上騒ぐな”その場の誰もが、黙り込んだ。

あれがアシュラか、とアンチィは思った。

特徴的な仮面で断定したわけではない。

黒衣の男の腰に下げられた、あの禍々しく赤く輝く召喚剣。あれがムラマサで間違いない。

今も溢れでいる赤い色のオーラ。なんと禍々しいことか。噂に聞くムラマサだと理解できた。

ではその主人である仮面の男は当然アシュラであろう。

「よく来たな」

玉座の間に響いた、静かで重い声。そしてその声の持ち主は、悠然と玉座へと歩を進める。もとはロマノフ家の当主が座っていたであろう椅子。しかし、漆黒の仮面を纏った男がそこに座ると、まるで最初から彼のために造られたかのようにしっくりと馴染んだ。

アシュラには、豪奢な椅子に押し負けぬ気高さと風格があった。

漆黒の皇は飾らない。ただ静かにそこにいるだけで、皇と呼ぶに相応しいさまを見せている。

アンチィは不思議と納得してしまった。これがアシュラ、辺境の皇。

「信じるよ」

再び放たれたその声は、空気を震わせるほどの重みを持っていた。誰もが、その言葉が何を意味するのかを悟る。アンチィが、正面からNFライダーと渡り合い、打ち勝ったという事実。それを、アシュラは認めたのだ。

「そんな……!」ソフィアの顔が絶望に染まる。それはアシュラに失望したわけではない。自分の読み違いと、その結果への屈辱。アシュラと見解が相違している。

彼女にとって、それが何よりも痛かったようだ。

「気にするな、ソフィア」

優しげに、それでいて威厳を保ったまま、アシュラは続けた。「お前はまだ経験が浅い。もう少し実戦を積めば、立ち振る舞いだけで、相手の力を見極められるようになるさ」

まるで傷に優しく手を当てるようなその言葉に、ソフィアの瞳が潤んだ。

『面倒な敵だな』

――人を掌握する術も心得ている。アンチィはその一幕に、アシュラのことを厄介な敵だと改めて認識する。強いだけではない。言葉も、気配も、空気の支配も、すべてが一流だった。

「非礼を許してくれ」アシュラの声は低く、落ち着いていた。頭は下げない。だが、その声音は誠実そのもので、不思議と気を悪くすることはなかった。

「この街は、今あちこちから狙われている。時には、力で押さえつけることも必要になる。このソフィアは、私が最も信頼する部下だ。一生懸命すぎるのだと、どうか理解してもらいたい」

「そんな……アシュラ様が、私の不始末で謝罪など……っ!」ソフィアの悲鳴は本気だった。

アンチィはその様子に、先に感じた皮肉を思い出していた。

奴隷を解放し、自由を掲げた者たちが、結局は貴族のような上下の幻想に飲まれている。

「気にしてないよ」アンチィは毒のように笑い、

「どっちかというと、こっちの鎖の方が気になる」

冗談のように口にしたその一言は、空気を凍らせた。

両手と両足を繋がれた囚人の身で、拘束を解けとは、あまりに無謀な要求。

「外せるわけがないだろう!」

ソフィアが叫んだ、だがその声にかぶせるように、アシュラの声が響いた。

「そうだな」

その声には、わずかに歪んでいた。

だがそれは怒りでも苛立ちからでもない。アンチィは理解した。その正体は愉悦。自分とのやり取りを楽しむかのような、抑えきれぬ高揚。こいつも楽しんでいる! この状況を!

冷たい予感が背筋を走った。それは冷徹な死の予感。絶叫しなかったのはアンチィの意地だ。

そして、次の瞬間だった。

――気づけば、ムラマサが抜かれていた。

気配も、音もなかった。アシュラの手はいつ動いた? いや、そもそも動いたのか?

気づけば真紅の刃が天を指していた。その刀身が、静かに、そして威厳に満ちて光る。

「なんだ……?」

アンチィは混乱した。思考が追いつかない。距離がある。剣の間合いではない。何をするつもり?

パキリ。

乾いた音が空間を裂いた。

「これで君は自由だ。少なくとも、両手と両足はね」

仮面の奥から謎かけのようなその言葉。だがすぐに、答えは明らかになった。

手錠が、足枷が、二つに割れて床へと落ちる。アンチィの身体が自由になっていた。

『一歩も近づいていない。剣を振るう仕草も見えなかった。なのに、斬られていた。』

もし、あの斬撃の軌道が自分の首筋や心臓を通っていたら?

間違いなく、死んでいた。

それは恐怖ではなかった。むしろ、笑みがこみ上げるほどの興奮。

「面白い……」

アンチィはそう思った。仮面の奥にいる、この男――アシュラ。その力、その深さ、その余裕。

間違いなく、異次元だ。そういう人間が目の前にいる。胸が高鳴り弾けそうですらある。

どれほどの強さか? アイツこそ最強なのか? ではそれに勝てば俺が最強になるのか?

ムラマサが誘うように赤く光っている。こちらに来いと誘惑しているようだ。

なぜあのような剣をアシュラが持っているのだ? もっと相応しい人間がいるんじゃないのか?

それは自分なんじゃないのか? アシュラは確かに強い? しかし俺ならやれるんじゃないのか?

俺はまだ全力を出したことがない。ロウガにだってそうだ。仲間には出せる限界がある。

生死を問わずやっていなら、もっと奥の底から出せるものがある。アシュラ、辺境を脅かす敵だ。

こいつにならなんだってやってよいわけだ。勝ったっていいんだ。殺したっていいんだ。それでムラマサを奪えばいいんだ。ムラマサだってそう望んでいるんだ。そうだそのはずだ。

そもそもアシュラが闘争を望んでいるのだ。わざわざ手錠と足かせを破壊して、剣をチラチラ見せてこちらを誘っているじゃないか? それでこちらをその気にさせて、いや違うとは道理が通らない。殺し合いは初めてじゃないんだ。互いに視線があって、その気だと分かれば、やりたくもなる。

本番じゃなくてもいい。少し触れ合うだけでもいいんだ。

アンチィの視野はだんだんと絞られていった。アシュラとその剣ムラマサにだけ焦点は絞られていく。

もうソフィアも他の幹部たちも見えない。意中の相手はただ一人。あの黒衣の皇ただ一人だ。

高鳴る鼓動とともに、アンチィの眼光は吊り上がり、より鋭さを増していた。体を束縛していた鎖は解かれた。いまや自由。飛び出すことも、戦うことも、すべてが可能だった。前傾姿勢になっていることに、自分自身が気づいていない。理性より先に衝動が身体を動かしていた。アシュラと――あの漆黒の仮面の男と、力をぶつけてみたい。その欲求が脳を支配していた。

風が、白い髪を逆立てる。まるで燃えさかる白炎。あるいは深夜に揺れる鬼火のように、不気味に、美しく、禍々しく髪は揺れていた。

アンチィの唇が、自然とつり上がる。

それは笑みだった。けれど、歓喜とも嘲笑とも違う。美しさと狂気を併せ持つ、獣の笑み。

ソフィアが前に出ようとした。

だがアシュラ――漆黒の仮面の男が、静かに言った。

「やめろ」重みある声が空気を震わせる。

「お前でも、ただでは済まない」命令というより警告。

ソフィアは悔しげに顔を歪めた。額から落ちた汗が金髪を濡らす。それは、目の前の空間に命の危険を感じていたからに他ならない。

アンチィは地を蹴る寸前だった。魔力が体内を駆け巡り、骨を軋ませる。四肢の筋肉が膨張し、気迫が放射線のように広がっていく。四足の獣のように、彼の体は大地を睨んでいた。

それに応えるように、アシュラがムラマサを構える。

青眼の構え。静寂のなかにある殺意。

『来るなら、斬る』

一言も発しないのに、構えがすべてを語っていた。

互いに魔力が極限に達する、その瞬間だった。

「遅くなったね」

愛らしい声。

耳元で囁かれたその一言に、アンチィは背筋を凍らせた。

目だけを動かし、視線を向ける。そこには、黒めがちな瞳を持つ少女の顔があった。

次の瞬間――

少女の蹴りが、アンチィの腹部に叩き込まれる。

避けられなかった。

臨戦態勢だったにもかかわらず、その蹴りはあまりにも速すぎた。

まるでバズーカを食らったかのような衝撃。

魔力で身体を強化していなければ、間違いなく体は粉砕されていただろう。

吹き飛ばされたアンチィは、背後の壁に激突し、そのままめり込む。

「クソッタレ……」呻きながら顔を上げる。

そこに立っていた少女の顔は、息をのむほど整っていた。

大きな黒めがちな瞳はどこまでも深く輝き、その神秘性を覗かせる。ツンとした鼻筋。どこかタヌキを思わせる、親しみと愛嬌を併せ持つ顔立ち。がその笑みは常に嘲笑がある。

黒のシャツに、青の制服風ジャケット。紺のひざ丈スカートが揺れる。

まるで清楚系を絵に描いたような姿。

だが、こちらを見つめる上目遣いの暗い瞳は、すべてを見透かすように鋭い。

「いい女だな……」口から血を垂らしながら、アンチィは苦笑混じりに呟いた。

「私はイロハ・カエデ。修羅焔団の主任シュミートをしている」

名乗りとともに、少女――イロハはアンチィの前に歩み寄り、手を差し伸べた。

アンチィもその手をとり、立ち上がる。

イロハは振り返りながら、別の美少女に言葉を放った。

「まったく、ソフィア。招集はいいが、時間を伝えないとはどういう了見だ?」

ソフィアは、ふんと顔を背ける。

「あえて私が来られないようにしたな? 仕事に私情を挟むべきじゃないと思うがな」

皮肉めいた一言のあと、イロハはアシュラを見据えた。

「アシュラ卿。呼んでくれたのはありがたいが、アンチィ君を挑発して傷物にしようとはな」

その瞳は怒りと熱に揺れていた。

「こんな素敵な人間、君以来だ。そんな逸材に剣を向けるとはどういうつもりだ?」

アシュラは仮面の奥で、口角を上げたように感じられた。

「興奮しているようだったのでね」

「挑発したのは君だろう? 君の言葉、そしてムラマサの力。その両方があれば、人を煽るなどたやすいはず」

イロハの言葉に、アンチィは気づく。

――あれは、洗脳に近かったのか。

確かに、判断力を欠いていた。

この場で交戦するのは無謀だったはず。それでも止まらなかったのは、ムラマサとアシュラの力に踊らされていたからか。

「この女、俺を……助けたのか?」アンチィはイロハの意図を読みかねる。

彼女はアンチィを睨み、静かに問う。

「君は、なぜこんな危険な場所に単身で来た? 危険人物と思われても仕方ないぞ」

その問いに、アンチィはふっと笑みを浮かべる。

「自分の力を試したくてな」嘘偽りのない答えだった。

本来の任務は、ムラマサの奪還。皇帝の勅命。だが、それらは言い訳に過ぎない。

――自分は、どこまでやれるのか?

その答えを知りたくて、アシュラという怪物に挑もうとした。

「どこまでやれるか、知りたいんだよ」その言葉に、飾りも虚飾もなかった。魂からの叫びだった。

「では、お前に力を試す場所を与えよう」

イロハ・カエデはくるりと踊りながら言った。艶やかに揺れる黒髪、ぴんと張った背筋。整った顔立ちに浮かぶ微笑みは、どこか人形じみていて、しかしその瞳だけが生々しく生きていた。

「私とともに来い。そうすれば、いくらでも戦場に駆り出してやる」

それを聞いたソフィアが、すぐに声を荒げる。

「勝手に決めるな!」金髪をふるわせて、ソフィアはイロハに詰め寄った。その瞳は焦りと苛立ちに燃えている。自分の知らぬところで物事が進められるのが許せないのだ。

イロハは動じず、むしろ優雅に微笑んだ。黒目がちで、少し潤んだような瞳が、宝石のようにアンチィを見据える。吸い込まれそうな艶やかさ。肌は透き通るように白く、睫毛の影が頬に落ちるたび、清楚さの奥にある毒気のようなものがちらつく。

「主任シュミートの権限は……修羅焔団の総帥と同等のはずだ。それを決めたのはアシュラ卿自身。その決断に納得できないということは、アシュラ卿の命に背くということだが、そのつもりか?」

イロハ柔らかな声に、ソフィアの顔がかっと紅潮する。

アシュラが口を開いた。「よかろう」それだけの同意が、場の空気を決定づけた。

「くっ……」ソフィアが悔しげに歯を食いしばる。

視線を逸らすソフィアの仕草は、どこか子供じみていて、アンチィの目には妙に可愛く映った。

「私が作り上げたシュミットは、通常のそれより三十パーセント出力が上がるはずだが、実際にそれに近い数値を出せているのは、今のところソフィアだけだ」イロハが鼻先で笑うように言った。

「私はね、修羅焔団の練度の低さにがっかりしていたのよ。そんなときに――こんな上物が来た。口説きたくもなるってものだ。それをアシュラ卿は理解されたのだ」

イロハはくるりと振り返り、黒く艶めく瞳をアンチィに向けた。そのまま手を胸元で組み、まるで舞台のプリマのように小さくお辞儀をする。

アンチィはその仕草に、一瞬目を奪われた。『綺麗だ』女に対して初めてそう思えた。

だがその一方で、アシュラに近づく口実ができたことに安堵する。

中枢には入った。あとは信頼を勝ち取り、ムラマサを奪取する機会を狙うだけ。

「で、力を試す場所って……これからどこに行くんだ?」そう尋ねると、イロハがぱちくりと瞬きしてこちらを見つめる。黒くどんぐりのような瞳が、不思議そうに揺れた。

「もちろん、戦場よ」可愛らしく、しかし確信に満ちたその答えに、アンチィの背中を電流のような興奮が駆け抜けた。

「戦いの機会はすぐに訪れる。それまで鉱山でも見て回らないか?」

そう言ってイロハは、まるで散歩でも誘うような軽やかさでアンチィを誘った。

「いいぜ、任せるよ」アンチィは両手を上げて服従の姿勢を示した。

「悪くない。色々と見学すれば、修羅焔団の構造や思想も理解できるだろう」

アシュラは何も否定しない。ただアンチィとイロハやり取りを肯定するだけである。

しかしその余裕すらアンチィは気に入らないのだ。それが演技に見えて、欺瞞に感じられるのだ。

「……別に、団に入ったわけじゃないぜ」アンチィはわざと生意気な態度を崩さず、軽口で返す。

が、その瞬間。アシュラの瞳がすっと鋭くなった気がした。

「それはこちらも同じだ、アンチィ。君が力を示せなければ、仲間にはなれない。いや、それどころか――」彼は静かに言葉を続けた。「君は危険人物として処理される可能性だってある」

……空気が変わった。まるで凍りついたように、皮膚の上にひりつくような緊張が降りる。

「だったら、ここで試せばいいんじゃないか?」

アンチィの声は自然と荒ぶっていた。全身が逆立ち、血が熱を帯びる。

アンチィとアシュラ。視線がぶつかったその瞬間、まるで火花が散ったような錯覚を覚えた。

やはりこの男……ただ者じゃない。あの眼には、どれだけの血と闇を映してきたんだ?

この皇は底が知れない。笑ってもいないのに、殺気が漂っている。狂気じみた信念だけでこの巨大な団を動かしていることが、言葉よりも何より伝わってくる。

それを、イロハは――面白がって見ている。

「ふふっ」まるで気の強い猫がじゃれ合っているのを見るように、イロハは微笑んだ。

それが戦いを止める合図となった。二人の殺気は露に消え、攻撃をするタイミングを失わせた。

「では、行こうか、アンチィ君」イロハの瞳に見つけられれば、言うとおりにするのも悪くはない。

「戦場の前に先に案内したい場所がある。それは召喚剣の眠る鉱山だ。それを見れば、召喚剣……つまり、NFがどこから来て、どこへ行くのかが分かる。それを理解すれば、君はNFライダーとして、より強くなれるだろうよ」自信に満ちた声音。そう言うイロハは自然とアンチィの手を取った。……その手は、やけに小さく、白くて、柔らかい。

「早く行こうよ、アンチィ君」

気づけば、イロハはもう歩き出していた。アンチィの手を引いたまま、迷いもなく、まっすぐに。

その背中が、不思議と頼もしく思えたのは――きっと、疲れているせいだろうと思った。


館から出てアンチとイロハは、鉱山の前に立っていた。

空にはどんよりと重い雲が蓋をしていた。激しい採掘による塵で、ここは万年雲が浮かんでいるのだ。それでも太陽は顔を覗かせることはあったが、青空と言うのは見たことがないというのがアンチィの子供のころの記憶なのである。元気だったころの母親も見たことがないと言っていた気もする。

そして二人は鉱山の中に足を踏み入れた。

坑道を歩く。道幅は広い。壁にはランプが取り付けられ、柔らかな光で薄暗い空間を照らしている。通路の中心にはトロッコのレールが二本走り、一方からはガラガラと音を立てて鉱石を満載したトロッコが戻ってきて、もう一方には空のトロッコが深部へと走っていっていた。

風が通るたび、粉塵が舞い上がり、坑道の空気は重く、鉄と土と汗の匂いが鼻を突く。

イロハが歩きながら語りかけてくる。

「ここは優良な鉱山なんだ。マナ鉱石、ルーン石、龍結晶……魔力を使う装備に必要な素材は、たいてい揃う」彼女の大きな眼が、アンチィを試すように見た。「だけど、目当ては分かるな?」

「召喚剣の化石、だろうな」アンチィは少し間を置いてから、そろりと答えた。

子供でもわかる答えだった。

ロマノフ家の時代から、この鉱山は召喚剣を採掘できる場所として知られていた。遥か古代、人と人を超越した存在が作り上げたとされる召喚剣。戦車や戦闘機といった兵器とはまったく異なる技術体系を持ち、そこから顕現する巨人NFは、現代でもなお最強の兵器とされた。

NFは、現代の技術で一から作ることは不可能。

召喚剣は古代の遺物であり、採掘され、化石状態から研磨されることでしか再生できない。

召喚剣が採れる鉱山を持つということは、それだけで最強兵器の独占を意味する。採掘場は複数あるが、その数はごく少なく、安定した採掘が可能な場所は限られているのだ。資源の確保と、それを研磨する職人――シュミート――の確保が、国家の軍事力を決定づける時代。

ここはまさに、世界の覇権を占う場所といっても言い過ぎではないのである。

アンチィは隣を歩くイロハを見る。可憐な少女にしか見えない。だが、彼女はそのシュミートの一人だという。世界を支配するNFを生み出す貴重な存在のはずであった。しかも先の戦いで、アンチィはイロハの蹴りを避けきれず、壁に吹き飛ばされている。あれはただの少女の蹴りではなかった。

「シュミートってのは、みんな君みたいに強いのか?」

アンチィは腹を摩りながら、嫌味のように聞く。

「魔力の神髄を知るシュミートは、肉体強化くらい朝飯前。兵士なんかよりずっと強いよ」

イロハの整った唇が、さらりと恐ろしいことを言う。

「……気をつけるよ」アンチィは冷や汗をかく。

「それがいい」イロハは小さく笑った。

ふたりは大きな広間に出た。そこはまるで、巨大な劇場のように掘り抜かれた採掘場だった。天井のあちこちに吊るされた魔光灯が淡く明滅し、岩肌に点在する鉱脈が反射して光った。

その周囲では、数十人の作業員たちが動き回っている。男も女も、老人も少年もいる。誰もが灰色の作業服を着て、ヘルメットのランプだけを頼りに掘削と運搬を繰り返している。ツルハシを持って岩を削る者、ドリルを担いで坑道に穴を開ける者、ルーン式のスキャナーを片手に鉱脈を探る者。

汗と粉塵で、誰の顔も土と同じ色をしていた。

その一方で、修羅焔団の監督官たちは高台の足場から現場を見下ろしている。彼らは金属装甲のような制服を身にまとい、冷ややかな目で進捗を記録している。腰には小銃。いざとなれば、労働者など即座に粛清できる立場だ。

壁際では、大型の重機――魔導キャリバーが振動を伴いながら岩を削っていた。そのアームの先端には召喚剣の反応にだけ反応する特殊なセンサーが取り付けられており、ごく小さな反応値にも鋭く反応していた。発見された岩盤はすぐさま囲いが設けられ、別チームによって厳重に採取、格納されていく。

アンチィはその一連の光景を、無言で見つめていた。

良く知っている光景だ。アンチィもまた奴隷時代はここで採掘に関わっていたのである。

最強の兵器は、こんな場所で、こんなふうに、掘り起こされる。

空気はひどく乾いていた。魔力粉塵と鉱石の匂い、油の臭いが鼻腔を刺す。肌はちりちりと焼け、服の隙間から細かい砂粒が入り込んできた。遠くで誰かが咳き込み、別の誰かの怒声が、ドリルの音にかき消されていく。

足元を見れば、十代にも見える少年が一人、ツルハシを杖にして息を吐いていた。骨が浮き出た背中が、ゆっくりと上下している。かつて自分もこのように他者から見られたのであろうか?

過去の苦い記憶。地獄のような日々が思い出された。

足枷の音、罵声、血と汗、そして飢え。

「……クソッタレ」

呟いたアンチィの目が細くなる。心が荒れる。怒りが、混乱が、熱く沸き上がってくる。

自分は変わった。もう奴隷ではない。自由に生きている。それは確信できる。

強くなったのだ。

だが――

あの人たちを解放できるほど、自分は強くはない。

救いたいと思っているわけではない。それほど善人でもない。

でも……救えないことが辛いのだ。仮に救うおうと足掻いたところで、より強力な暴力に負けるだけであろう。自分と、あの人たちに、どれほどの違いがあるというのか? 本当に、自分は強くなったのか? やってみるか? 暴れてみるか? この状況を、ぶち壊してみるか?

アンチィの目が、妖刀のように濡れて光った。

「怖いこと考えるなよ」イロハの声が、ひどく冷静だった。

「……わかっている」アンチィは目を閉じた。

そのとき、広間の奥から歓声が上がった。

「見つかったぞ! 召喚剣が見つかった!」

歓喜と驚愕が混じった叫びだった。作業員たちが集まり、ランプが揺れる。

アンチィの目が自然とその方向へ引き寄せられる。

召喚剣が発掘されたという報せは、鉱山の全員を歓喜させた。その反応は当然だった。召喚剣の遺構が見つかるのは、早くても数か月に一度。本当に貴重な剣なのである。

奴隷時代、アンチィも何度かその発掘に携わったことがあった。地を這うような労働の中で、稀に現れる“奇跡”。だからこそ、今、興奮するのは当然だった。

「よっしゃああああああああ!」イロハは素直すぎるほど叫んだ。

上着をバッと翻し、腕を突き上げてガッツポーズを取るその様子は、まるで子供のようで、しかし、輝かしい才能と若さを感じさせた。

「私のラボに持って来い! 急げ!」勢いそのままにアンチィを指差した。

「アンチィ君も来い! いいものを見せてやる!」

わくわくが伝染するように、アンチィも顔をほころばせる。心臓の奥が熱くなるのを感じた。


イロハのラボは、鉱山の奥に掘り抜かれた天然の洞窟を利用して作られていた。

しかし中に入った途端、天然とは程遠い風景に目を奪われる。

無機質な銀の壁に、滑らかに組み込まれた管と光のライン。浮遊モニター、魔力制御盤、鋼のアームが天井に吊るされ、中央の台座は淡い光を放っていた。

まるで帝都の最新研究棟と見紛うレベルだ。

「……こんなもん、鉱山に作る設備じゃねえ」アンチィは頬を引きつらせている。

「ふふん、当然よ。私の技術を活かすには、これくらい揃えないと。アシュラ卿もそれはよく分かっているのだ」イロハの言葉に、アンチィはようやくこの女がどれほど重用されているのかを理解する。

数人の作業員が、台車に乗せて、岩塊を運び込んできた。見た目はただの茶色い鉱石の塊。しかしその中に、“召喚剣”が眠っているのだ。その奇跡の石は台座にそっと置かれた。

「この中に剣があるのか?」無論アンチィは知っている。だがあえて聞いた。

奴隷時代に、この鉱山にいたことは知られない方がよいと思ったのだ。

「あるわよ。魔道キャリバーが最小限まで粉砕してくれた。ここから先は、私、シュミートの仕事よ」そう言うとイロハは手早く白衣の袖をまくり、操作盤に指を走らせた。

ラボ中央の台座の周囲からアームがせり出す。

アームの先端には透明な水晶球が取り付けられ、その内部に淡く青い光が宿っていた。

「見ててね」イロハが魔力を注ぎ込む。すると、水晶球の輝きが増す。

次の瞬間──球体の中心から、糸のように細く鋭い光の針がスッと伸び、岩塊の表面にそ触れた。シュウゥゥゥ……。乾いた焼き音。

光の針は、まるで彫刻刀のように岩肌を滑り、正確に線を刻んでいく。

「これが“魔力導波ノズル”。私の魔力を通して、眠れる召喚剣と対話してるの。僕はこことに眠っているよと、召喚剣自身が、教えてくれるの」

彼女の魔力が水晶球に伝わるたび、岩の表面剣のような紋様が浮かび上がった。

まるで内側の剣が、自らの姿を幻のように映し出しているかのようだった。

「……見えてるのか。剣の形が」アンチィはその光景に飲まれていた。

「うん、ちゃんと見える。剣はね、選ばれた魔力にしか反応しないの。だから誰でも掘り出せるわけじゃない。シュミートは“剣の記憶”と対話できるのよ」

アンチィは息を飲んだ。

イロハは踊るように両手を動かし、魔力を送り続ける。そのたびに導波ノズルの針が跳ね、舞い、削る──いや、“彫る”。それはもはや工作ではなく、芸術だった。

間違えば召喚剣そのものを砕いてしまうだろう。緊張の作業なのに、イロハの手は一切ぶれない。

「ほら、ここ……見えた」

彼女が指差したかすかに剥がれた岩の隙間から、冷たい金属がのぞいていた。

それは確かに“剣”だった。

天然ではありえない直線。美しい輪郭。眠っていた神話が、いま目覚めようとしている。

アンチィは見惚れていた。

確かにこれは、シュミートにしかできない。世界がこの技術を欲する理由が、痛いほど分かる。

──これも、力だ。

ただ暴れるだけではなく、誰にも真似できない精度で世界を圧倒する。

そうか、「最強」って、こういうことかもしれない。

自由を求めるなら、学ばなければならない。強さとは、暴力だけではない。アンチィは、静かに理解していた。強いとは知る者のことでもある。自分もそうならねばならない。

無知では太刀打ちできない境地があることを悟るのだ。

岩石の殻がはがれるたび、封じられていた輪郭が浮かび上がってくる。

冷たい刃が徐々に姿を現す。ただの剣ではない。永い眠りから目覚める神獣だ。

刃は自身の形を主張し、研ぎ澄まされていく。

イロハの動きは一分の隙もなく、無駄な所作ひとつない。

集中するその姿は、一本の美しい剣そのものだった。

呼吸すらも計算されたかのように整っていて、ただ静かに、研ぎの音がラボに響いた。

ついに柄が、そして刀身の全容が現れた。

半透明に輝く宝石のような刀身。

太古の意志が凝縮されたようなその剣は、まばゆいほどに美しかった。

まるでそれがこの世界に存在すること自体が、間違いなのではと錯覚するほど。

イロハは最後の仕上げに入り、刃に繊細な磨きをかけていく。

微かな粒子が宙に舞い、剣は神秘の輝きを帯びていった。

やがて彼女は工具を置き、額の汗を拭う。

「――終わったわ」その声は疲労の中に高揚が滲んでいた。

アンチィは黙ったまま成り行きを見守るほかない。

その時――

警報が鳴り響いた。赤いランプが回転し、重々しい警告音がラボを揺るがす。

「敵襲、敵襲!《残光の牙》と思しき勢力、鉱山内部に侵入、破壊活動を確認! 召喚されたNFは二騎! NFライダー、至急急行されたし!」

焦った声がスピーカーから飛び出した瞬間、ラボの空気が一変する。

アンチィは拳を握った。NFが出た。最強兵器が出たのだ。ただの襲撃で終わるわけがない。

戦争が始まる合図だ。

イロハは剣を打つような鋭い眼差しをアンチィに向けた。

ぞっとするほど整った美貌が、静かに微笑む。

「力を試す場所を与えるって言ったろ?」

「……どういう意味だ?」

「《残光の牙》は、修羅焔団の敵対勢力だ。だがもうすぐ詰み。アシュラは補給ラインをほぼ潰していた。奴らは玉砕覚悟で戦うしかないんだ。そして次に動くなら、ここしかないって分かっていた」

イロハはロッカーへ向かい、ポケットから鍵を取り出す。

「ここは召喚剣が生まれる場所。奴らが最後に狙うのは当然」

彼女の言葉は、すべてが計算通りというように滑らかだ。

「……とはいえ、俺は丸腰だ」アンチィは両手を開いて見せた。

持ってきたシミットはソフィアにとられたままなのだ。

イロハは無言でロッカーの鍵を開け、一振りの剣を取り出すと、軽く放った。

アンチィがキャッチしたそれはまぎれもなく召喚剣だった。

「それは私が特に力を入れて作ったシミットだよ」

微笑むイロハは、まるでプレゼントを渡すような軽さで続ける。

「負けるなよ」

「……一人でやれってか」

アンチィが剣を構えると、イロハは小悪魔のような笑みを浮かべた。

「修羅焔団のNFライダーが来るのに、最速でも十分はかかる。つまり……その間はあなたの一人舞台ね」踊るようにくるりと回り、スカートをひらめかせる姿は怖いくらいに可憐である。

「……一人でやりたいって意味じゃないんだがな」

剣を持ったアンチィはラボを飛び出す。

その背中を見送るイロハは、軽やかに笑ってアンチィのあとを追った。


アンチィとイロハが鉱山の奥を駆け抜ける。

軌条が二本、薄暗い空間に続いている。トロッコの金属音が反響し、騒がしく道を指し示す。

アンチィの長い脚が床を打ち、疾走する身体が風を切る。切れ長の眼が闇に鋭く光り、前方のわずかな光を捉えていた。

イロハはその背をぴたりと追っている。華奢な体で、追いすがるその走りは、天才シュミートにだけ許された技術だろう。彼女は何も言わない。その沈黙こそが、このルートが正解である証である。

「残光の牙って知ってるか?」走りながらイロハが声を張った。

「名前だけはな」アンチィは嘘を言った。こいつは何も知らないのだ。

「奴らは元ロマノフ家の残党よ。血縁者や家臣が生き延びて、かつての領地を取り戻そうと動いてる。アシュラから逃げきった連中ってことね」

「なるほどな。で、そいつらが今日の客か」

「ええ。今でも昔のコネを使って、あちこちの勢力と手を組んでる。特にアシュラの急成長を面白く思ってない連中からの支援は大きい。その中枢は、アシュラ卿が叩いたのだけれどね」」

アンチィは無言のまま、その話を飲み込む。

暗闇の先に、かすかに外の光が見える

『修羅焔団だってもとは奴隷の集まりだ。それが戦いの果てに自主権を獲得した。逆に残光の牙は住処を追われた人々で、自らの権利を取り戻そうとしている根が深いな……」

彼の目には善悪という尺度はなかった。修羅焔団が奴隷の地位から成り上がったことも、残光の牙が奪われた栄光を求めることも、どちらも理解できた。

どちらも正しく正当だ。

結局、立場が違えば正義も変わる。

では明暗をどうやってつける。決まっている勝利者に光は傾くのだ。

『勝った方は金の食器で飯を食って、敗けた方は泥水を啜る』

吐き捨てるようにそう思った。では勝敗の境目を決めるのは何か? 答えは明白だった。

力。強さ。辺境では、それこそが唯一の法。

アンチィは唇の端をわずかに吊り上げた。

「だから――総取りするのは、俺さ」外から吹く風が髪を煽った。

鉱山は、崩れる寸前の巣穴のように騒然としていた。怒声、泣き声、逃げ惑う足音が錯綜する。無数のトロッコが脱線し、道を塞ぐようにひっくり返っていた。NFの接近を知らせる警報が岩肌にこだまし、空気は張りつめていた。

アンチィたちは乱雑に走る人波の中をすり抜けていく。

前方に倒れた大人と、その胸元に縋るようにしがみつく小さな少女がいた。父と娘にみえる。

父親は顔を青くして、うわ言のように「早く逃げろ」と繰り返しているが、娘は動こうとしない。ただ、しゃくりあげながら泣いていた。

邪魔だ。

アンチィの目が吊り上がる。ここは戦場だ。無力な者に構っていられるような場所ではない。戦えなければ、退け。抗えなければ、沈め。それがこの世界の掟だ。この親子、特に父親は、力を持たなかった報いを受けているに過ぎない。そんなんだから娘一人守れないのだ。

だから走り抜ける。無視をする。そう思った。しかし、少女の叫び声が耳を刺した。

「お父さんっ!」ただ、それだけだった。

だがその一言が、アンチィの背骨を冷や水のように走った。白い髪が揺れ、足が止まる。

……何をしている? 脳裏で理性が問いかける。自分の目的は何だ? アシュラの懐に入ること。ムラマサを奪うこと。余計なことに関わっている暇などない。力なきものなど捨てておけばいいのだ。

だが震える少女の声を聴いて、あの頃の記憶が読みがえる。

憔悴しきった自分を救ってくれた男の姿。ロウガ・ロードの笑み。

俺は何になりたいのだ?

「……ここにいて休んでろ」

思いとは裏腹に出た言葉は労わりであった。

アンチィは召喚剣をわざと抜き出し、鋭く輝く刀身を二人に見せつけた。

剣から放たれる魔力の気配が、まるで盾のように二人を包む。

「逃げる必要はない。ここから先は俺がやる。お前らはじっとしていればいい」

その声に激情はない。冷たさと暖かさのはざま、妙な心地よさがあった。

「……案外、優しいんだな」

イロハの声が後ろから届いた。呆れたような調子だったが、どこかで感心も混じっている。

「これくらいのパフォーマンスをする余裕くらいはある」

冗談めかして言ったその瞬間、アンチィの眼がわずかに揺れた。切れ長の双眸の奥には、たしかな光があった。逃げ遅れた親子のために言ったわけじゃない。善人ぶりたいわけでもない。

ただ、自分の在り方を曲げたくないだけだった。

そして、イロハとともに再び走り出す。

まさに疾走。颯の如く、二人は鉱山の出口へと駆け抜けた。

土の匂いが湿った空気と混ざり合い、視界が開ける。

灰色がかった空の下、砂塵の向こうから巨大な影が迫ってきていた。

二騎のNF。轟音と共に走る巨人たちが、大地を砕きながら接近してくる。

重厚な装甲が鈍く光った。その一歩ごとに振動が地面を這った。

アンチィは口元を吊り上げた。

「いいね。ちょうど、試してみたかったところだ」

左手の召喚剣が、じわりと光を放ち始めていた。


雲の向こうで透けてみる太陽は没しかけていた。

高い鉱山の稜線が赤く染まり、地平線は滲んで揺れている。だがその光景に黄昏の静けさはなかった。二騎の巨人が、大地を割る勢いでこちらへ迫っているのだ。

不意の急襲。ここまでの接近を許した理由は、敵がNFであったからに他ならない。通常であれば、戦車の轍や戦闘機の音紋で接近は即座に探知される。しかしNFは違う。全長八メートルの巨体でありながら、ただの剣へと変化し、人知れず懐へと忍び寄ることができる。

NFの最大の特異性はその殲滅能力ではなく、携帯性なのだ。

瞬間的に召喚されるNFが、一息で距離を詰めてくる。音速を超える動きで攻撃してくるNFに対抗できるのは、同じくNFを用いた防衛しかない。

ここにあるNFは、アンチィの手にある黒い召喚剣だけだ。

視界の先、二騎のNFが土煙を巻き上げながら突進してくる。その輪郭が、鶏冠を思わせる兜と細身の装甲で縁取られているのを見て、アンチィは嗤った。「やはりシミットか……」

残光の牙がもとはロマノフ家の一団だとするなら、有する戦力もロマノフ家の持っていた遺産だろう。あの鉱山から算出されるNFはシミットが基本だ。

であれば、当然、残光の牙がもつNFもシミットが大半を占めるのは道理。

シミットとは戦ったばかりだ。

思い出す。初陣で叩き潰した騎体。あの勝利は確かに自信となった。しかし、あのときは一対一。今は戦えば二対一。数的不利。しかしアンチィはその劣勢に胸を高鳴らせていた。

「面白い……」ぞわりと背筋を撫でる感覚。それは恐怖ではなかった。

むしろ昂ぶり。自らの力を再び試せるという悦び。

握った召喚剣を見た。NFはいつでも生み出せる。であればその大いなる力を存分に振るいたくもなる。二騎というはかえって都合が良かった。“一騎ではすぐに終わってしまう”アンチィの体はカッと熱くなる。やりたい。耐えがたい衝動。その時であった。不意に鉱山地帯で身を寄せ合っているであろう父と娘を思い出した。不思議と爽やかな風が流れた。ああそうだ。戦うばかりじゃない。誇らしい何かがある。それが嬉しかった。こんな自分にも生きる意味があるのだと信じられた。

アンチィには複雑な思いがある。力への渇望、そして家族への愛。

だがそれらは対立してはない。自然に溶け合いアンチィの原動力となっている。

手の中の召喚剣に、魔力を流し込んだ。黒い光が刃から溢れ、空を穿つように伸びていく。光の奔流はやがて柱となり、爆ぜ、癒着し、ひとつの輪郭を形成する。

巨人が生まれた。

三日月を思わせる兜。細くも力強いフレームを漆黒の装甲が包み込む。機動力にたけ、あらゆる力を弾く究極の体。黒い巨人が腰に下げた長剣は、風すら断ちそうな鋭さを孕んでいた。

アンチィの生み出したシミットは、暗黒のいで立ちだ。

黒はすべての色を抱いてなお、黒であり続ける。

それはまるで、どんな思想や権力にも屈せず己を貫く意志の色だった。

アンチィのシミットが顕現する。

イロハはその瞬間、絶句した。「美しい……」呟いた声は震えている。それは紛れもなく、彼女の心からの賞賛だった。彼女の頬はほんのり紅潮し、その瞳は黒いシミットに釘づけだ。

「シュミートなど所詮は、下準備までしかできない。NFの本質はNFライダーの技量なのだ。ソフィアだって、ここまではできない」

イロハの眼差しは、まるで聖堂に置かれた聖剣を見つめるよう。夕陽に照らされて輝く黒い装甲には、細身ながら剛力の気配が宿り、どこにも無駄がない。重厚にして洗練。精霊の意志が鍛え上げたかのような、完璧な均衡。

「行くがいい……」

吐息のように洩れたイロハの言葉。

それに従ったわけではなかったが、アンチィのシミットは既に動き出していた。


敵は大地を揺るがしながら、嵐のように迫ってきている。

アンチィは、わずかに笑った。その瞳が、確信と興奮に鋭く光る。両手で握る二本の操縦桿を楽器のように自在に動かす。だが本質的にはそれすらも形式に過ぎない。NFライダーとNFは、魔力で繋がっている。意識と肉体の延長にあるのがこの巨人──漆黒のシミットだった。

考えるよりも先に動く。感じるよりも先に斬る。それがNF。

切れ長の瞳が前方の敵、二騎のシミットを静かに見据える。そのどちらも深緑の装甲に包まれ、古い軍制の残滓のような威圧感を纏っていた。対するアンチィのシミットは、夜の底を鋳造して作られたかのような黒。その輪郭すら曖昧にする艶をまとい、敵を映さぬ闇を纏っている。

突然、漆黒の巨人が脱力した。重力に引かれるように膝を折り、前のめりに崩れ落ちそうになる。まるで膝をついたかのような虚を見せた──その瞬間、大地が抉れた。黒いシミットが跳ね上がるように弾けた。一切の助走もなく、爆発的な推進力で前方に飛び込む。

速い。尋常ではない。加速の準備も、予備動作すらもなかった。

敵のシミットは目を見張ったようにその場で動きを止める。明らかに混乱している。

アンチィは口の端を上げる。「中途半端に二騎で来るからだ……」

複数で攻撃する。それは単純な戦力の増強であり、圧倒的な優位性の確保である。それは分る。だがいいことばかりではない。複数で戦う以上、それは連携を取らなければならないという呪いを受けることになる。

連携。それは確かに強みであるが、同時に枷ともなる。二騎での攻撃は威力も上がるが、その分自由な判断が取れなくなる。選挙に合わせた臨機応変な戦術が、味方の存在によって制限される。

そこを突くことなど、アンチィには容易なことだった。

黒いシミットは空気を裂く。風が追いつけない速度で突き進み、二騎の間に強引に滑り込む。重厚な装甲同士が擦れ合う音が、岩肌に反響した。僅かな接触、しかしそこには確かな衝撃があった。敵は驚愕に満ちた動きで距離を取ろうとするが、もう遅い。

黒き巨人は、重力の法則を嘲るかのような俊敏さ。一瞬で死角に滑り込んだかと思えば、アンチィのシミットは腰の剣を引き抜いた。抜刀斬りだ。放たれた一閃が空を裂く。

一騎の敵が反応、刃でアンチィの攻撃を受ける。

だがそれはアンチィの罠。

黒い巨人は、敵の剣をいなしたかと思うと、すぐさま相手の膝を蹴りつける。

敵シミットの足関節が簡単に破壊され、その巨体はバランスを崩し、大地へと崩れ落ちた。

その瞬間、もう一騎のシミットが横合いから襲いかかってきた。

アンチィの反射神経は並みではない。

漆黒の剣が、敵の斬撃を受け止める。だがそれだけでは終わらない。

アンチィは猫のようなしなやかさで、敵の脇を回り込む。

黒き巨影は、神速の刃で、敵シミットの腰部を斬り裂いた。

裂けた装甲から火花が散り、緑の巨人がよろめく。

アンチィは騎体を旋回させ、剣を真っ直ぐに突き出す。

そのまま敵の胸部、コクピットを貫くのだ。

刹那、緑のシミットは内部から砕け、光の破片となって四散した。その光は空へ舞い、何もなかったかのように消えていく。

地に伏せたもう一騎が起き上がろうとするが、アンチィに慈悲はない。

速攻で敵の顔面に前蹴りを食らわせ、その頭を吹き飛ばした。

瞬間、首から上を失ったシミットの全身が爆ぜた。

豪華なシャンデリアが砕けるように一瞬にして粉々になったのだ。

凄まじい斬り合いかと思えば、暴力的な蹴りをすらおみまいするアンチィの戦い方は無頼である。

だが残ったのは、漆黒の巨人一騎だけ。つまりどれほど野蛮であっても、勝者は彼なのだ。

アンチィはコクピットの中で深く息を吐いた。狂気の火花が瞳に残る。

「やはり俺は強い」自惚れではない。

剣を振るうごとに彼我の力の差を実感する。俺は他者を圧倒している。それは事実だ!

勝利から生まれる絶対なる自信。それが彼を確固たる個人にする。

殺されかけた幼少期。

もうあの頃の所在もなく怯える奴隷ではないのだ。

戦場には、もう敵の姿はない。ように思えた。

敵の姿が霧散した。が、それはつかの間の勝利。

「ちっ! まだ敵はまだいたか!」アンチィは怒りの言葉を吐いた。

前方で新しい戦いの狼煙が上がっていた。それは煙ではなく。光。

三本の光柱が地を裂いて立ち上がった。その光はまさに召喚剣が目覚め、NFが現界する兆しだ。地面が唸りを上げるように震え、風が逆巻く。

アンチィはめまいを覚えながらも混乱しなかった。

何が起きているのかを理解していた。敵は、もっと奥まで潜り込んでいたのだ。

最初の二騎は囮だった。本陣は、いままさに自分を囲むように姿を現そうとしている。三つの光柱はアンチィを取り囲むようにそびえ立ち、赤く染まりつつある黄昏の空を貫く。

そして、その柱から緑色のシミットが三騎、咆哮と共に飛び出してきた。

「クソッタレ……」アンチィは歯を食いしばり、真ん中、眼前の一騎に猛然と突撃を仕掛けた。

包囲される前に突破口を開かねば、機を逃す。そう判断しての加速であった。

だが、右手から伸びてきた敵の手が漆黒のシミットの右肩を掴む。その動きは予測できていたはずだった。が、先ほどの激戦の疲労が予想以上に体に重くのしかかり、避けられなかった。

「チッ……」アンチィは舌打ちしたのは、掴まれたからではない。さらなる脅威に対してだ。

左から敵の刃が、唸りを上げて斬り込んできたのだ。アンチィは反射的に剣を上げて、攻撃を受け止めようとする。だが、次の瞬間、真正面から三騎目の剣が振り下ろされる。

対応が遅れた。遅れた、と自覚した時にはすでに、黒い腕が宙に弧を描いて飛んでいた。

左肘から先が切断された。剣とともに、だ。

「──ぐっ……!」アンチィは悲鳴を堪えた。

「やってくれるじゃねえか……」

敵に包囲されている。それどころか、三本の切っ先がこちらに向いていた。

まるで刑の執行を待つような構図。三騎のNFの殺意が、真っすぐにアンチィに向かっていた。

逃げ道はない。

それでもアンチィの眼差しは決して濁らなかった。その瞳は、燃え残る灯のように獰猛な光を放つ。「……来いよ。まだ終わってないだろ」決して挑発ではない。

「さあ──見せてみろよ」

かすれているが、それでもその声は研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。


その時、空間が真っ赤に染まったのだ。


爆発にも似た衝撃と、肌を焼くような熱気。突如、地面から立ち上がった火柱は、NFの召喚というよりも、何か禍々しい災厄の顕現に近かった。

轟音と共に上がる炎の柱。その異常な現象に、三騎のシミットが一斉にその方向に視線を向けた。アンチィも本能的に目を向ける。脱出の好機だと理解したが、異質な炎の圧に思わず足が竦んだ。胸が詰まり、呼吸が浅くなる。まるで魂そのものが焼かれるような錯覚。

なんだ……?

アンチィの脳裏に走るのは、恐怖でも混乱でもない。

地獄の蓋が開いた――。

確信に近い直感。視界は赤く染まる。だがそれはただの炎の赤ではない。

アシュラとの戦いで見た、あの忌まわしくも美しい赤。そう、ムラマサの赤だ。

怨嗟の声が地の底から湧き上がる。幾千の死者が地獄から這い出ようと呻いているような声だった。耳ではなく、脳の奥に直接響くような絶叫。

その中を割くようにして現れたのは、深紅の巨人だ。

角を生やした山羊のような頭部。波打つような装甲。滑らかにうねるその姿は、まるで生きた炎。その赤いシルエットには、どこか神性を帯びた"異質さ"があった。

あのNFはムラマサだ。間違いない。

ムラマサ。最強にして、最も忌むべきNF。であればそれに乗り込むはアシュラだ。

その圧倒的な登場に、三騎の緑のシミットは一瞬ひるむ。だが、彼らは決意を持って前進した。

総帥のNF。ここで仕留めれば、歴史が変わる。彼らにとって、ここは正義の場なのだ。

三方向から同時に迫る刃。正面、左、右。その攻撃はまさに必殺。回避不能のはずだった。

アンチィも思わず息を呑む。

圧倒的不利は変わらない。

ムラマサの動きに焦りはない。ただ剣を横に引いただけだ。

その一閃。

引かれた空間が裂けた。決壊したダムのごとく、そこから溢れ出るのは、紅蓮の業火だった。怒りに満ちた神の吐息のように、爆風と共に広がる炎。

NFの硬質な装甲は例えマグマであっても無効にする。何ら問題なく稼働する。しかしどうだ?

眼の前の三騎のシミットは赤い津波に飲まれ身動きが取れないでいるのだ。

ムラマサの生み出す炎は、ただのエネルギーではないようだ。

怨嗟を孕んだそれは、あらゆるものの動きを縛る呪縛でもあった。

アンチィは悟った。ムラマサの炎の本質は、温度ではない。魂そのものに干渉する、絶対的な支配。

濁流のようにうねる炎に翻弄される三騎のNF。数の有利など、無意味だった。

ムラマサはその中を歩いた。泳いだのではない。赤い巨人の進路を炎が避けていくのだ。

赤い悪魔を中心に、灼熱の奔流は流れを変える。地獄の王が帰還したかのように。

そして、最初の斬撃。

一騎のシミットの腰が斬り裂かれ、上半身と下半身が別れた。その間、一切の衝撃音はなかった。

ただ、美しいほどの断裂。切断面から溢れる炎は血の飛沫にも見えた。

次いで跳躍。

手刀一閃。二騎目のコクピットを貫く。敵シミットは即座に爆ぜ、残されたのは炎と瓦礫だけ。

残る一騎。逃げようとするが、絡みつく業火に動きが封じられている。

怯え、震えるシミットに対し、ムラマサは静かに歩を進めた。

最後の一撃は、至近距離での刺突だった。

腹部から背中へ、赤い剣に貫かれた瞬間、シミットは音もなく崩れ落ちた。

瞬間。

炎が拡散し消えた。

空気が静寂を取り戻し、戦場には焦げた鉄と血の匂いだけが残された。

そして、開くコクピット。

現れたのは、あの漆黒の仮面を被った男──アシュラ。

「見ていたよ」

くぐもった声が、アンチィの心の芯に響く。

「君は強い」

その瞳の奥に、確かな熱が灯っていた。

「共に新たなる世界を作ろう」

差し出された黒いグローブの手。

その手は漆黒そのものであったはずなのに、アンチィには血に濡れたような赤にしか見えなかった。


夜が訪れていた。鉱山の広場は人工灯によって白々と照らされ、暗がりを拒絶するような明るさで支配されていた。空には星々が浮かび、そのきらめきは、どこかこの世界の残酷さを嘆いているようにも見える。奴隷、採掘者、監視兵、修羅焔団の兵士たち、鉱山に関わる全ての人間がこの広場に集められていた。

アシュラの命令だった。

そして、壇上に立つその男。黒い外套を纏い、漆黒のフルフェイス仮面をつけたアシュラは、まるで空の闇からそのまま切り取られて作られたように黒い。

アシュラの立ち姿は完璧で、重力にすら敬意を払わせるような威容があった。

黒の衣装が風に揺れる。ただのそれだけでも、息を飲む迫力がある。

「ここに集まってもらったのは他でもない。我々を苦しめてきた残光の牙を一掃できたことを祝してのことである」重く、深く、低い声が響いた。演説の言葉は正確で、まるで儀式のように人々の耳に浸透していく。仮面の奥の赤い双眸が、会場全体を見据えている。

「残光の牙の総戦力を今回で叩くことができた。残りの残党など最早敵ではない。その最大の功労者を紹介しようと思う。来てくれるか――アンチィ」

『面倒だな』舌打ちが先に出た。アンチィは表情を隠すつもりもなく、明らかに不快げに壇上へと向かった。芝居がかった舞台など大嫌いだった。だが、今はそれに乗るしかない。

アシュラに近づくことが、この戦場に来た最大の理由なのだから。

無言で壇に立つと、ほんのわずかに頭を下げた。ぶっきらぼうで、まるで形だけ。会場にいた誰もがその不遜な態度に驚いたが、アシュラは微動だにしなかった。

「このアンチィが最初に迎撃に出てくれた。そうでなければいくら私といえど、間に合わなかっただろう。諸君らの命も救うこともできなかった。アンチィに盛大なる拍手を!」

会場が拍手で満たされる。歓声、口笛、感謝の言葉。

しかしアンチィはその全てを受け流す。

『間に合わなかった? ハッ、笑わせるな』

ムラマサの登場のタイミングは完璧すぎた。残光の牙の三騎が出揃った瞬間、アンチィが致命傷を負う寸前――まるで全てを見計らったかのような登場だった。あれは偶然ではない。アシュラは最初から近くにいた。それも、すべてを見下ろすような位置から、機を伺っていたのだ。

いつでも手を下せたのである。

『命を救う? あんたにとって命なんざ、召喚剣のオマケだろうが』

仮面の奥の赤い光は、拍手を送る人々を冷笑しているようにしか見えなかった。

価値があるのは鉱山と召喚剣。そこから取り出されるNFという力、それだけだ。

アンチィはアシュラの姿を見つめた。異様なカリスマだ。抗いがたい。だからこそ反吐が出る。

一方、壇の脇。群衆の陰に身を隠すように立つ少女が一人いた。

イロハ・カエデ。柔らかな前髪の間からのぞく瞳は、まるで星屑を閉じ込めたかのような深い黒だった。その視線が今、アシュラに向けられている。

彼女の眉の端がわずかに上がり、唇には見えない棘があった。小柄な体で、ピンと張り詰めた姿。

イロハは何かをため込んでいる。あるいは隠している?

彼女の胸中には、いかなるものが秘められているのか、

何か思うところがあるのだろう。それでも、イロハは何も言わない。

ただ、その瞳の奥にある小さな拒絶を、アンチィは確かに見た気がした。

『お前はいったい何を考えている。イロハ』それはアンチィの雑念。

今集中すべきはアシュラであるべきなのだ。

「だが、ゲストは残っている」

アシュラは言った。その声音には、血が凍るような冷徹さと支配者の傲慢が混じっていた。

「我々に今宵の余興の機会を与えてくれた愚か者どもだ。残光の牙の生き残りを連れて来い」

その命に応じ、広場の隅から人影が現れる。

先頭を歩いていたのは、赤いジャケットに身を包んだ一人の美女。ブロンドの髪が揺れ、猫のような愛らしい目には、誇りと忠誠心に満ちていた。ソフィア・アヴァロン。アシュラに最も心酔し、直下のNFライダーとして名を馳せる彼女の姿が、ライトの下で浮かび上がる。

細身のジャケットが豊満な胸元を際立たせ、露わになった太腿は、艶かしく、輝いていた。

その背後には、拷問の痕跡を顔に残した五人の捕虜たちがついてくる。彼らの顔面は腫れ上がり、動きは不自然。肩を庇うように引きずる者、足を引きずる者、視線を定められない者。

誰が見ても、苛烈な暴力を受けていることは疑いようがなかった。

アンチィは、舞台の上からその光景を見つめていた。切れ長の瞳の奥に、鋭く妖しい光が宿っていた。舞台上の光と陰のコントラストが、彼の白髪を照らしていた。

気になったのは、一人──戦闘服に身を包んだ男がいたことだ。アンチィはその姿を一瞥しただけで察した。

こいつが生き残りか。

戦場で最後まで残っていた一騎。そのNFライダーだろう。

あのシミットは頭部を破壊されたが、胴体は残っていた。

それならばパイロットが生き残っていても不思議ではなかった。

他のNFはコクピットを破壊されるか、ムラマサによって灰にされているのだ。

中のNFライダーが生き残ることは不可能であった。

アシュラは、まるで答え合わせをするように、静かに口を開いた。

「我々を襲ったNFライダーと、その手引きをした者たちだ。真実の悪、それが……残光の牙」

その声音には、玩具を手に入れた子供のような残酷さが滲んでいた。

殺しやる!

叫んだのは、戦闘服の男だ。

残光の牙に所属するNFライダー。身体は傷に覆われ、それでも声は太く、怒りに燃えていた。

「もともと貴様ら修羅焔団が、我々から住む場所も資産も奪ったのではないか! だから俺たちは、それを取り戻すために戦っているんだ! 真実の悪は、お前らの方だ!」

その叫びに、広場の空気が一瞬緊張に包まれる。しかし、アシュラは一歩も退かぬ。仮面の奥から響く声は、黒鉄のように重く、冷たく、揺るがなかった。

「もとより、俺たちは奴隷だった。生まれながらにして、幸せに生きる権利を奪われていた。愛する者を、当然のように傷つけられ、狩りの獲物として扱われてきた……」

その言葉には、どこか血を流したような苦味が混じっていた。

記憶の深淵から絞り出したような熱が、仮面越しに伝わってくる。

「俺たちこそ、人生を取り戻すために戦っただけだ。真実の悪とは、自らの罪に気づかず、被害者面で正義を語る、貴様らのような存在だよ」

アシュラの言葉は、夜の闇のなかに沈み、そして広場に重く響いた。

「愛するものを奪われたのは……俺の方だッ!」

男は喉を焼き切るように叫んだ。「シミットには、俺の母も乗っていた! それを、そこの黒いシミット……アンチィとかいう男が殺したんだ……ッ!」

その名が呼ばれた瞬間、アンチィの眉が微かに動く。明らかな動揺。しかしすぐに平静に戻る。

アンチィの視線が冷気をまとう。まるで仄暗い美しさを宿した刃物のようだ。

男はまだ何かを言おうと口を開いたが、ソフィアの容赦ない声が割り込んだ。

「捕虜に喋る権利はない! 攻めてきたのはお前たちでしょうが!」

そのまま一気に踏み込む。鮮やかに翻る赤いジャケットの裾と、ミニスカートから伸びる白くしなやかな脚線美が、広場の照明で光る。美しさと激しさの同居。

ソフィアの回し蹴りが男の顔面に命中した。乾いた音が響き、男は呻き声を残して崩れ落ちる。

「予定通り、今宵処刑を!」ソフィアは、威風堂々とアシュラを振り返った。胸元を包む赤いジャケットが、彼女の昂る感情を押し留めるように張り詰めている。

残された捕虜たちは震えている。目を伏せ、膝をつき、ただ逃れられぬ運命を察していた。

「よかろう」アシュラはゆっくりと頷いた。

その声に、一歩、アンチィが前に出て、

「ちょっと待て」と言った。

その言葉だけで、全ての視線が彼に向く。

アンチィは薄く笑みを浮かべ、

「NFライダーは気絶している。そんな状態で処刑しても、恐れも不安もないだろう? それに夜じゃなくて、昼にやった方が見やすくていい。せっかくの余興なんだ。もっと良い時間にやろうぜ」

ソフィアが何か言いかけるが、アンチィはもう壇上を降りていた。手を軽くひらひらと振り、まるで舞台のカーテンコールを終えた俳優のように、群衆の間を縫って歩き出す。

「俺もいろいろあって、眠いしな」

闇に溶けていくその背中を、アシュラはじっと見つめていた。

「……お前が言うなら、そうしよう。今回の主役は、お前なのだからな」


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