第四章 黒剣の覚醒
森は深い静寂に包まれ、朝の霧が地を這うように漂っていた。木々の間からこぼれる淡い光が、白く揺らめく霧に溶け込み、世界の輪郭を曖昧にしている。
朝露をまとった草葉が微かに震え、光を受けて宝石のように輝いた。遠くで小鳥の囀りが霧を震わせるように響き、その音は夢幻の彼方へ消えていく。まるで、この森はまだ目覚めきっていない世界の狭間にあるかのようだった。霧が晴れれば、すべてが消えてしまう――そんな儚さと幻想的な美しさを併せ持っていた。
その幻想の中に、ゆらりと立つ影が一つ。
幽鬼のごとく、現実と夢の狭間に佇むそれは、一人の青年だった。
灰色の道着に、黒いワイドパンツ。ゆったりとした風貌。だが、その衣の下に隠された肉体は、鍛錬によって磨き抜かれた鋼のようなしなやかさを秘めている。背は高く、以前よりも引き締まり、無駄な肉のない肉体が、その存在をより際立たせていた。
木漏れ日が青年の白い肌を静かに照らしていた。緩く開かれた襟元から覗く鎖骨は、なめらかな曲線を描き、ほのかな陰影がその輪郭を際立たせる。喉がわずかに動くたび、細い首筋が緊張し、肌の下で流れる血の鼓動さえも感じられそうだった。
その肌を触れれば、驚くほど滑らかで、それでいて内に熱を秘めていることがわかるだろう。
朝の穏やかな風を受けて、青年の白髪がなびく。
鋭刃のような切れ長の眼が、笑ったように光る。
あの頃少年だった男は成長していた。
少年の面影をわずかに残しながらも、そこにあるのは洗練された強者の風格。
青年の名は――アンチィ・シー。
かつて奴隷だった少年は、己の力を磨き続け、今、完成へと近づいていた。
『誰だ、あいつは』
森の奥で微かに光る金属の影を、アンチィは見逃さなかった。
影はライフルを構え、息を殺している。迷いのない動き、獲物を狙う目つき。明らかに密猟者だ。
一角熊の角は薬の原料になる。それを狙ってここまで来たのだろう。だが、この森はアンチィたちの暮らしの場だ。ロウガは今、街に降りている。この状況をどうにかできるのはアンチィ一人だけだ。
本来なら、密猟者をどうこう言うつもりはない。自分たちだって、この森に勝手に住み着いているの立場である。だが、危険な輩を野放しにすれば、いずれ自分たちの生活が脅かされる。
『まあ、ほおっておく必要はないよな』アンチィは決断した。
静かに足を踏み出し、密猟者へと向かう。音はないが、堂々とした歩み。敵意を隠さず、むしろ挑発するような薄い笑みを浮かべながら、真正面から迫る。
「よお」それは宣戦布告の他ならない。
「なんだ、お前は!」密猟者は驚き、ライフルを構えた。
焦燥の滲む声。銃口がこちらを狙う。しかし、アンチィは笑みを崩さずに言い放つ。
「名乗る必要はない」その瞬間、アンチィの姿が掻き消えた。
次に密猟者が気づいた時には、目の前に拳があった。
ドガァッ!!
衝撃音とともに、密猟者の身体が吹き飛び、木々の間を転がる。ライフルが手から滑り落ち、顔面は地面に叩きつけられていた。意識を刈り取られた密猟者は、微動だにしない。
アンチィはゆっくりと息を吐く。
『これで終わり、か……』だが、そう思った刹那。
「何をしている!」鋭い声とともに、森の奥から二つの影が現れた。
アンチィはすぐに気配を読み取り、顔をしかめる。
二人の男――そして、その腰には禍々しい光を放つ剣が下げられているのだ。
その剣はあらゆる兵器の頂点に君臨する魔物を呼び出せる剣。召喚剣だ。輝く半透明の刃が微かに脈動しているように見える。血を啜り、力を喰らい、いかれる巨人を呼び出すことができる。
真実恐ろしい剣である。
「俺たちの邪魔をするつもりか?」倒れた密猟者を見下ろしながら、男たちはアンチィを睨みつける。その目は獲物を見つけた肉食獣のようだった。
――相手はNFライダーだ。アンチィは死を直感した。
目の前にいるのは、ただの密猟者ではない。最強兵器を駆るNFライダーなのだ。
二人のもつ召喚剣が僅かに光った。
森の静寂を裂くように、アンチィの鼓動が、ひどく大きく響く。
「てめえも俺たちと同じ密猟者か? だが随分と綺麗な顔立ちだな……」
一人が下劣な表情を隠そうともせずに、こちらに近づいてくる。
「リゴン! うかつに近づくな、少なくともそいつはライフルを持った人間を倒しているんだぞ!」
「大丈夫だよ、バルク…… 凄い上玉だ」仲間の忠告を無視してリゴンはアンチィに眼前まで来た。
リゴンはニヤついた笑みを浮かべながらアンチィを見つめていた。その目には、明らかな欲望が滲んでいる。伸びた鼻に、口元からは涎が零れ落ち、下種な人間特有悪臭すら身に着けていた。
「なあ、おい、生き延びたければ何をすればいいか分かってるんだろうな?」リゴンは言った。
アンチィを舐めまわすようにみている。こういうことを繰り返してきたような眼である。
『こういう奴は活かしておけない』かっとアンチィの魂が鋭い形に変わった、
死よりも恐ろしいことがある。
それは尊厳を踏みにじられることである。
尊厳という言葉の意味をアンチィは知らない。だがその本質は知っている。
絶対に踏みにじってはならない魂の本質である。生命の権利である。積み立ててきた個人の歴史である。それは時空を超えて祖先や子孫まで超越して引き継がれていくものである。
だから絶対に踏み越えてはならないのである。大切なものである。例えその大切なものが、自分とは異なるものであってもそんなことは関係ない。だから互いに理解し尊重せねばならない。そのことを奪われる側だったアンチィは誰よりも理解して重んじて生きてきた。
だが目の前の下種はどうだ? 欲望のままにいき、今自分の体に無許可に触れようとしている。
これが初めてではないだろう、何人もの人間がこの男に泣かされてきたのだろう。
泣く程度なら許されるのか? 命があれば泣き寝入りしておけばいいのか?
それは違う、断じて違う。アンチィはそのことを痛いほどに理解している。
生死の問題ではない。魂の問題である。尊厳を傷つけるというのは、人の根幹を害するということである。それは死よりも恐ろしいことだ。
傷をもったまま、それでも生きねばならないのは、死を超越した苦痛だ。
アンチィは母を殺されている。殺される様すら見ている。それでも彼は生き続けている。
生きるために、己を押し殺し、耐えてき」た。
死んだ方がまし? いやそんなことでは死ねない。だが欠損した魂は戻ることはない。
いびつなまま生きねばならない。それは苦行だ。
それを己の欲望のままに押しつける。アイツのような人種はなんだ? 人か? いや獣だ。
獣以下の忌まわしきものだ。ならば倒さねばならない。死よりも恐ろしいもの作り出す魔物は、殺さねばならない。だから鍛えたのだ。
逃げずに立ち向かえるように、魔物と正対し、尊厳を守るために力をつけたのだ。
溢れ出す闘争心で体は熱くなる。
真実恐怖すべきことは死ではない。尊厳を、魂そのものを蹂躙されることだ。
あるいはそれが他者の魂であっても、傷つけられる様を見せつけられることだ。
それは嫌だ、絶対に嫌だ。そんなものを見せつけられるくらいなら死んだ方がマシだ。
ならば戦え! 分かっている、戦う! これは殺し合いではない。守るための戦いだ。
その結果として生死が伴うだけだ。
アンチィは心の奥底から込み上げる怒りを感じた。だがそれは信念から直結した怒気だ。
アンチィの視界が研ぎ澄まされる。恐怖はない。血が沸騰するような怒りが、全身を駆け巡っていた。だからぶれない、迷わない。呼吸をするようにやるべきことを成す。
リゴンが下品な手つきで頭を撫でようとした。その指先がわずかに動いた瞬間、
「やめろ、リゴン!」バルクが制止しようとしたが、時すでに遅い。
アンチィは瞬時に飛びつき両足でリゴンの腕を絡め取る。飛びつき逆十字固めである。そして関節を決めると同時に力を込め――ボキィッ!!
鈍い音が森に響いた。
リゴンの悲鳴が上がる前に、アンチィは彼の腰に下げられた召喚剣を奪い取った。
「て、てめえ……!!」倒れた仲間を眼端にとらえながら、バルクが即座に召喚剣を構える。
アンチィもまた、手にした剣を静かに持ち上げた。
二振りの召喚剣が宙を裂き、対峙する。
それは、巨人兵器《NF》による戦いの幕開けを告げる合図。
本来逃げるという選択肢はあるのかもしれない。
召喚剣を奪った。これで十分であるという考え方もある。NFは最強兵器であるが継戦能力は低い。召喚してからの稼働時間は三十分ほどだ。一度剣に戻れば数時間のインターバルが必要となる。
残った敵、バルクはこちらの総戦力を知っているわけではない。
ならば無用に戦ってNFが戦闘できなくなった後に、伏兵が現れたらどうするか? それは考えているはずだ。情報のない中で、戦いは避けたいはずだ。
俺だってバルクたちに他に仲間がいるかどうかなんて知らない。だが密猟に来たとして、そんなにNFを用意するだろうか? 既に敵は二本の召喚剣を所持している。三本目まで用意する必要があるか? 理屈に合わない。恐らくはこれで他に仲間はいないはずだ。
それにバルクには倒された身動きが取れなくなった仲間が二人いる。ライフルを持った男と、下種なリゴンという男だ。こいつらは逃げる手段がない。NF戦になったら間違いなく巻き込まれる。
バルクからすれば仲間の救出を優先するかもしれない。そうすれば俺は簡単に逃げられる。
ここは五年間も暮らしてきた森だ。地の利はこちらにある。
だが……。“はずだ”とか“かもしれない”とかという曖昧な情報で物事を決めてよいのか? 不確定な情報に頼って良いのか? 俺は逃げるための言い訳を必死に考えているだけではないのか?
『戦って勝てば解決するのに、なんでわざわざ逃げようとするんだ』
アンチィの中の獣が吠えている。
『逃げてもまた追ってくるぞ。そしてまた奪われるぞ。大切なものを穢されるぞ』
獣は真実を告げてくる。
『逃げた先で巻き込まれて、ロウガが死んだらどうする? 逃げれると思ったからと言い訳をするのか? 死人に言い訳をして、それでは仕方がなかったと、慰めてもらうのか?』
「煩い!」アンチィは吠えた。そんなことをするわけはないと、内に秘めたる獣に吠えた。
「やってやると」アンチィは、闇に覗く妖刀のような笑みを浮かべていた。
やってやる。それは自分に言っているのと同時に、バルクにも言っている。
もう後には引けない。
「俺は修羅焔団の人間だ。どうなるか分かっているんだろうな」バルクの瞳孔は開き、
「てめえ生まれ来たことを後悔させてやる……お前らの身内全員血祭だ」怖いことを言う。
『シュラエンダン? 聞いたことがあったか?』その疑問に回答はない。どちらにせよ敵、それ以上の詮索は必要ない。重要なのは勝てるかどうかだ。敵の正体は、その後で調べればよいことだ。
じれったくなってきた。
思考することがである。やると決めたのだ。であれば後は刃を交えるだけでいい。
アンチィとバルクが互いに召喚剣を掲げるとその刀身が脈動した。次の瞬間、無数の光の断片が刃先から弾け飛び、空間に散らばる。それらは瞬時に引かれ合い、ぶつかり合いながら形を成す。
噴き上がる光と轟音。その向こうに二騎のNFが現れた。
アンチィのNFは漆黒、バルクのものは深い青。どちらもシミットと呼ばれる軽量型の騎体であり、装甲の各部は丸みを帯びながらも薄く、しなやかな動きを可能にする。
しかし、そのディテールは召喚者の意志を映し、明確な違いを生んでいた。
バルクのNFは均整の取れた体躯に、安定した防御を重視したデザイン。
対照的に、アンチィのNFはより細身で鋭利なシルエット。まるで暗闇に溶け込む黒き刃のよう。
召喚者の性質を映すかのように、黒きシミットは獲物を狩る獣のごとく身を沈め、攻撃の機を伺う。一方の青きシミットは、王道の騎士然とした佇まいで、大地に足をしっかりと据えている。
二騎のNFが、対峙する。
黒いシミットのコクピットにアンチィは座している。両手で操縦桿を握る。乗り心地は悪くはない。
NFに乗ることで、巨人の力を得ることができる。見下ろした世界は思ったよりも小さい。
冷めた顔で敵騎を見つめている。『どちらが上か、決めるだけだ』ただそれだけのことであった。
シミットという騎体は初めて乗るわけではなかった。
NFでの戦闘訓練はロウガと早い段階で行っていた。ロウガのエクセや、珍しい所では雷帝ウルミを駆ったこともある。だが最も多く操ったのはこのシミットであった。辺境でも使用者の多いこのNFは乗れる機会も必然的に多かったのである。
訓練は多様である。ロウガの知り合いを相手にすることもあれば、犯罪者相手の実戦だってあった。一対一での戦いだ。死線を潜り抜けたことだって何度だってある。
そういう意味ではこの戦いだって初めての状況ではない。ロウガがいなことを除いては。
だがこういうモノだろうと思う。独り立ちというのは何時だって突然やってくるのだ。
ロウガと共に暮らし始めたのだって前置きはなかったのだ。
青いシミットが剣を抜いた。相手は戦い慣れしているのか? その挙動からはちょっと分からない。
アンチィは操縦桿を握り直す。
微かな振動が指先に伝わる。NFが、呼吸をするように己に応じているのが分かった。
「……行くぞ」黒き巨人が、膝を屈めた。次の瞬間――地を蹴り、戦場へ躍り出た。
バルク騎は抜いた剣を振るう間がなかった。
黒きNF、アンチィ騎の動きが、あまりにも速すぎたのだ。疾風のごとくバルク騎の懐に入り込む。
巨体とは思えぬほど無駄のない軌道。アンチィは剣を抜かなかった。
漆黒の巨人は、そのまま全身の勢いを乗せて体当たりを仕掛けた。
「ぐっ……!」バルクは呻いた。轟音。
巨体がぶつかり合い、バルク騎が後方へ傾ぐ。青き装甲が軋み、巨躯が大きく揺らいだ。
「殺すぜ」アンチィがこの期を逃すはずがない。「オラァッ!!」
黒き巨人の拳が振り抜かれた。
バルク騎の顔面に、衝撃が突き刺さる。
NFの拳、それは質量を伴った鋼鉄の塊。打ち込まれた瞬間、バルク騎の全身が大きくのけぞり――後頭部から、地へと叩きつけられた。
大地が震え、砂煙が舞い上がる。だが、これで終わりではない。
倒れ込んだバルク騎の上に、黒きNFが馬乗りになった。
その衝撃で巨木は倒れ、小動物は逃げ出していく。
そして――
「まだだ」黒いシミットが拳を振り上げた。
「まだだ!!」――鉄拳が青き機体を殴りつける。
NFは全てが硬質。剣を抜かずとも、一撃一撃が必殺の破壊力を持つ。
青い装甲が凹み、歪み、衝撃が内部へと伝わる。バルク騎の操縦桿が軋み、警告音が鳴り響く。
しかし、アンチィは止まらない。拳が、連打される。一撃、また一撃。
敵の剣を奪う必要すらない。全てを粉砕するまで、拳を振るい続けるだけだった。
「はは、言いざまだ」アンチィは殴りながら笑っていた。
「俺はお前よりも強いんだ!」アンチィは自騎に攻撃を仕掛けさせるごとに高鳴っていた。
青いシミットからバルクの悲鳴が伝わってくる。
それがさらにアンチィを昂ぶらせた。
こういう悪党は強者のふりをして様々な人々の思いを奪ってきた。しかしそれがこのざまだ。
より強い脅威の前には、無抵抗に暴力を受け入れるしかない。
今まで弱者を利用して、使い捨てて、見下して、侮辱してきたのだろう?
俺は泣いてきた人々の代弁者にならなければならない。
俺は巨人をかり、奪われてきた人々の代わりに叫ばねばならない。
そして思い知らせてやる。お前らはどれほどのことをしてきたのかを後悔させてやる。
アンチィは力を得ることで、暗黒に染まっていた。そしてそのことに気づいていなかった。
ただ振るわれる暴力は正確にバルク騎にダメージを与えている。青い装甲はすでに無残なほど凹み、破壊されている。それでもアンチィは殴り続けた。執拗に。狂ったように。
敵を痛めつけることが目的になっていた。
奴隷だった過去が彼をこうさせたのか。それとも、力を得たことで、何かが壊れてしまったのか。
だが、そんなことはどうでもよかった。「壊れるまで、殴る」アンチィはそう決めた。
バルクが生きているかどうかなんて、どうでもよかった。
戦いは一方的に続くかに思えた。が、
下になっているバルク騎の胸部が突如発光し、魔力による強烈な斥力が炸裂した。
衝撃波が奔り、黒いシミットは弾き飛ばされる。
アンチィの反射神経は流石だ。横転しながらも、自騎を回転しつつ即座に立ち上がらせた。だが、その衝撃は周囲の森林を巻き込み、膨大な破壊をもたらした。巨木が次々と弾け、根こそぎ吹き飛ばされる。大地は裂け、岩が崩れ、森の一角が抉り取られたかのように地形が変貌する。
その光景は、まるで神々の戦場だった。
踊り場のようになったその場所に立ちながら、アンチィは思い出した。
『NFは魔力による産物だ。だからどの部位からでも魔力を放出できる。見える手足、剣以外も全てに武器があると思え』ロウガの言葉が脳裏を駆ける。
アンチィは口の端を吊り上げた。笑いがこみ上げる。
「なるほど、こういうことか……!」
知識として教えられたことと、実際に体験したこと。それが結びつき、確かな学びへと変わった。
その事実が、アンチィを底知れぬ喜びへと誘う。
アンチィはまだ理を知らない。だからこそあらゆるものを吸収できる。
黒いシミットの装甲には、魔力弾の直撃による微かな傷が刻まれていた。だが、それだけだった。致命傷には程遠い。アンチィは知っている。NFの装甲を破壊するには、同じ強度の装甲で殴るか蹴るか、もしくはより鋭い実剣で破壊するしかない。魔力による攻撃は、仕切り直し程度の意味しか持たない。
「面白くなってきた……!」アンチィの中で、抑え難い衝動が膨れ上がる。俺はNFの力を知らなければならない。だから殴るだけでは終わらない。この戦いは、もっともっと楽しめる。
もっと、自分の力を試さなければならない。
もはやこの戦いは弱者の反逆ではない。強者の修業の場だ。
アンチィはNFの手を動かした。黒いシミットが、ゆっくりと腰から剣を抜き取る。
刃が陽光を浴びて鈍く輝いた。斜め下に構える。
シミットはこちらの意のままに戦ってくれている。戦慄するほどの快楽が走る。
『試すんだ……俺の力を。NFの力を……全てを』
アンチィの笑みは、少年時代の彼を知る者ならば背筋を凍らせるほどのものだった。
巨大な兵器を振るう強者の愉悦。戦いは、もはや正義でも復讐でもない。
ただ、暴力そのものだった。
立ち上がったバルク騎が一歩後ずさる。青い装甲が微かに揺れ、膝が僅かに折れた。
『逃げる気か?』アンチィは、その一瞬の動きだけで相手の心理を読み取った。
『もったいない』狩人が獲物を追う時のような、昂揚とした気持ちが込み上げる。獲物が逃げるなら、それを狩るのが筋だ。そうだ、ただの狩りだ。ならば結論はひとつ。
――逃がすかものか。
黒いシミットが疾駆する。間合いを詰める。剣を持つ右腕がわずかに震えていた。
『まずは足から斬ろう』一度斬れば、もう逃げられない。次は手だ。逃げ場を奪い、剣を握る力すら失わせる。次は――首か? それとも胸部か? 胸部にはNFライダーが入っている!
――いや、それは最後にしよう。最も重要な場所を先に狙うのは、凡庸な剣士のすることだ。こんなに貴重な機会を、そんな単純な勝利で終わらせてよいのか?
『ギリギリまで試し斬りをしないと』アンチィの思考は、まるで拷問者のそれだった。
バルク騎が視界いっぱいに広がる。狙いは定まっていた。
黒い刃が赤い軌跡を描くように振り上げられ――
「遊ぶな!」
怒声が響いた。
ビクリと、アンチィの指がわずかに震えた。
――ロウガの声?
錯覚か、幻聴か。それとも本当にロウガが叫んだのか。分からない。
しかし、アンチィの胸の奥底に冷たいものが差し込まれる。
『裁かれる』まるで、罪人になった気分だった。自分が今、何をしようとしていたのか。その本質を、ロウガに見透かされたような気がした。醜悪かつ残忍、最も忌むべき行為をしようとしていた。
『やめろ』
ロウガが言ったのではない。アンチィ自身の中にいる、かつての“彼”がそう言った。
「クソ……!」呪詛のように吐き捨てる。
狙いを変える。足ではない。腕でもない。今すぐ終わらせる。
黒いシミットの刃が軌道を変え、コクピットへと一直線に向かう。
瞬間、バルク騎の青い装甲が裂けた。左腰から右肩へと、滑らかに斬線が走る。
バルク騎は硬直した。そして――
――砕けた。
まるでガラス細工が砕け散るように、青い巨体は光の欠片となって弾け飛んだ。
何も残らない。
戦いは終わった。森の静寂が戻る。だが、アンチィの心の内には、黒い影が焼きついていた。
彼は、剣をゆっくりと下ろした。
『俺は何をしていた?』
刹那、ロウガの顔が脳裏をよぎる。
戦いが終わったのに、なぜか安堵ではなく、黒く重い罪悪感だけがそこに残っていた。
戦闘を終えた黒いシミットの装甲に、無数のヒビが走る。その裂け目から淡い光が漏れ、不安定な輝きを放つ。そして――その巨体は、ゆっくりと砕けた。
光の断片となり霧散する黒いNF。その足元には、四つ這いになったアンチィの姿があった。肩を震わせ、苦しげな嗚咽を漏らす。喉が詰まり、込み上げてくるものを抑えきれなかった。
「……げほっ……!」
胃液が喉を焼く。熱く、苦い。全身が粟立ち、皮膚の裏側から何かが這い出してくるような感覚。震える指先が、土を掴んだ。
――戦いに酔ったのか、自身の醜悪さに耐えきれなくなったのか、気持ち悪い。だが、それが戦いによる疲労のせいなのか、それとも後悔によるものなのか――若いアンチィには、まだ分からなかった。
その時、森の隙間を縫って、重い足音が近づいてきた。
「よお、初陣はどんな気持ちだい?」静かに、しかし確かな響きをもって、男の声が降ってきた。
アンチィは嗚咽の合間に、霞む視界をゆっくりと持ち上げた。
カーキ色のシャツに、灰色のローブ。髭面に、白髪交じりの髪を束ねた総髪の男。五年前よりもさらに厚みを増した肉体は、鍛え抜かれた筋肉にわずかばかり脂肪が乗り、より一層巨岩のような迫力を帯びていた。以前よりも貫禄が増し、堂々たる風格を身に纏っている。
だが――その瞳だけは、変わらない。
純粋で、優しく、そして何より温かい。
ロウガ・ロードである。
「……最悪だよ」アンチィは、ひきつったように笑った。
ロウガが目の前にいる。
逃げ場のない安堵感。
心の奥底に沈んでいた罪悪感が、不意に表層へと浮かび上がる。
見透かされているような気がして、息苦しくなる。
「だろうな」ロウガは微笑んだ。まるで、全てを知っているかのように。
クソ……アンチィは息を呑んだ。どうして、この男はいつもこうなのだ。
自分の暗い部分を、まるごと包み込むような、そんな眼で。
立ち上がる気力もなく、アンチィはただ、地面に突っ伏したままロウガを見上げた。
森の隙間から差し込む朝陽が、ロウガの背後を染めていた。
揺るぎない存在として、彼はそこに立っていた。
大地は無惨に抉れ、幾百もの木々が根こそぎ吹き飛ばされている。戦いの余波に晒された森は、その生命力を失い、命が芽吹くようになるまで何年かかるのか、見通しはつかなかった。
そんな荒廃の中心に、アンチィは膝をついていた。吐き気はようやく落ち着いていたが、胸の奥に残る嫌悪感は拭えない。自分が何に対して「最悪だ」と感じているのか、それが分からない。
「NFは人のエゴを肥大化させる。だからうかつに使えば、そのエゴに食われることになる」
ロウガの声が、まるで森にこだまするように響いた。
アンチィは即座に反論する。
「それが悪いことか? 俺は強かった。敵は弱かった。倒す権利は俺にあった。やらなければやられていた」それは本心ではない。自分を納得させるための、安っぽい言い訳だった。
だがロウガは、否定しなかった。ただ、ゆっくりと、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「お前がそれでいいなら、俺は一緒に喜んでやるよ」
アンチィの肩がぴくりと揺れる。
「でもお前は、そんな自分が嫌なんだろう?」
「……嫌じゃない」
アンチィは顔を背けた。だが、視線の先に広がるのは、破壊し尽くされた森だけ。
「強者は俺の望んだ姿だ」ポツリとそう言った。
ロウガは困ったように眉を寄せると、ため息混じりに言った。
「じゃあ、なんで吐いた?」
アンチィの呼吸が浅くなる。
「なんで俺の目を、真っ直ぐ見られない?」
胸の奥で何かが締めつけられる。
「アンチィ、後ろめたい生き方だけはするな……善悪の話じゃない。自分に背くな。お前は感情の赴くままに生きる人間じゃない。大切な人を失っても、生きる術を探したじゃないか? それが、お前の本質だと思うぜ」ロウガは静かに続ける。
「だから、NFになんて溺れるな。使いこなせ。それはお前の才だ」
アンチィは、自分が気持ち悪くなった本当の理由を悟った。
──ロウガに、見られた。闇に染まり、暴力に陶酔する自分を、ロウガに。
それが耐えられなかった。
「……分かった」アンチィは、感情をコントロールすると誓った。
ロウガが手を差し伸べる。分厚く暖かい手だった。子供が見る親の手のようだった。
アンチィはその手を握り返した。
ロウガは、心底嬉しそうに笑った。
「良かったじゃねえか」
アンチィは顔をしかめる。「……何が」
ロウガは肩をすくめる。「お前は勝った。もとよりお前は強い。だから課題なんてすぐになくなってしまう。だが、お前は今回の戦いで向かい合うべき己と出会った。それは収穫だ。財産だろう?」
アンチィはロウガの顔を見上げる。相変わらず、楽観的な男だ。
「随分と気楽な考え方だな」
「辛いだけより、幾分マシだろうが」ロウガは豪快に笑った。
アンチィは、目を細めた。
──まあ、確かに。
辺りを見渡せば、破壊された森の中に、一筋の光が差し込んでいた。
「……今日がいい日かどうかは分からんが」そう言って、アンチィはわずかに口角を上げた。
ロウガは言った。
「お前はでかい財産を得たじゃないか」
アンチィは訝しげに眉をひそめた。ロウガの視線はアンチィの足元へと向けられている。
朝日を受けて――それはきらりと光った。
アンチィの背筋に冷たい感覚が走る。
『俺は……本当に乗りこなせるのか?』
息を飲む。
足元にあるのは、一振りの召喚剣だった。
先ほどまで自らが操っていたNF、シミットの召喚剣。それが今、そこに静かに横たわっている。
逃げるという選択肢も頭をよぎる。こんなものを捨てることもできるだろう。
だが、捨ててどうする? どうなる? この辺境で生きていくために、力が必要なのは明白だった。
『逃げるわけにはいかない』
ロウガは言ったばかりだ。己と向き合えと。
アンチィは震える手を伸ばし、ゆっくりと召喚剣を掴む。その半透明の刀身に意識が吸い込まれそうになる。光が刀身の奥でゆらめき、まるで意思を持つかのように彼を誘っていた。
「お前には、もっといいNFを与えるつもりだったがな……」
ロウガの声が何か言っている。
「シミットも悪くない。しばらく、それで鍛えろ」
だが、アンチィにはその言葉が遠くに聞こえた。
ただ、剣の輝きだけを見つめ、手のひらに伝わる感触に意識を奪われていた。
「行くぞ」ロウガの大きな手がアンチィの肩を叩いた。その衝撃に、アンチィはハッと我に返る。
ロウガは真剣な眼差しを向けながら、「まずは家に帰って飯だ。それから、今日戦った奴のことを教えろ。NFを二騎も所有する敵だ。それなりの勢力かもしれん」
そう言いながら、ロウガはどこか嬉しそうだった。
アンチィは目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
物語が大きく動き出す。
そして、その中心にいるのは、確かに自分自身だった。
隠れ家に戻り、飯をかき込んでいるロウガは、箸を止めずにアンチィの話を聞いていた。森での戦闘、密猟者とのやり取り、そして最後に出てきた単語――修羅焔団。
「そうか、修羅焔団か……これもまた因縁か……」
ロウガの低い呟きに、アンチィは箸を止める。
「因縁?」アンチィはきょとんとした顔である。まるで分かっていないらしく、
「なあ、それ、何?」
「お前……アシュラを知らんのか?」ロウガが信じられないとばかりに眉を上げる。
「食べ物の名前ではなさそうだな?」アンチィは、冗談ともつかない調子で言った。
「お前な……」ロウガは呆れ果てたように頭を掻く。
「新聞くらいは読めるんじゃなかったのか?」
「ああ、読めるぜ。でもな、読めるのと読んでるのは別の話だろ」
そう言ってアンチィはふんぞり返り、堂々とした態度をとる。
ロウガは顔をしかめ「いいか、お前の宿敵だったロマノフ家を一夜にして壊滅させたのがアシュラだ。そのアシュラがロマノフ家の私財を引き継いで組織したのが修羅焔団。僅か五年で四大貴族も簡単に手を出せない勢力に成長してきたヤバい奴らさ」
「へえ……」アンチィは興味なさそうに
「ならば礼でも言いに行くか。代わりに仇を討ってくれてありがとう、ってな」と言った。
茶化したように言うアンチィに、ロウガは大げさに首を振ってため息をついた。
「まったく、お前ってやつは……。本当に知らなかったのか」
「ま、世の中、自分の知らないことのほうが多いんだよ」
アンチィはロウガの隣にすり寄るように座る。まるで猫のように気まぐれな仕草だ。
ロウガが苦笑しながら飯を食っていると、アンチィは彼の皿に手を伸ばした。
「……おい、それ俺のだぞ」
「知らねえな」アンチィは素早く一口奪い、もぐもぐと咀嚼する。
その様子にロウガはため息をつきながらも、笑ってしまう。
アンチィの口は減らない。ロウガの食事に手を伸ばしながら「戦った後は腹が減るもんだろう?」
「そういう問題じゃねえ!」ロウガはアンチィの額を軽く弾いた。
アンチィは「ちぇっ」と舌打ちしながら、笑いをこぼし
「ったく……それで、そのアシュラが何なんだ?」
「お前、今までの話聞いてたか?」
「適当に」
ロウガはのんきな調子でアンチィを煽る。「修羅焔団は厄介な連中だ。それを敵に回したんだ。お前が倒したNFライダーが帰ってこないことに気づけば必ず調査に来る。そしてNF同士が争った形跡を見れば、俺たちまでたどり着く。どうだ? 怖いか? いっそ逃げてしまうか?」
「嫌だね」アンチィに迷いはない。そもそも逃げるという選択肢がない。逃げるということは、すなわち自由を侵されることだ。それは死ぬこと以上の嫌悪することであった。
「来るなら倒す」
無造作にそう言い放つアンチィに、ロウガは愉快そうに笑い。
「一大勢力になった修羅焔団と戦うってか? いいね、それ」その声音には興味と期待が入り混じっていた。そしてロウガは、ふと真剣な顔になり、静かに言った。「実はな、俺のところに刀狩りの連中から秘密裏の依頼が入ってるんだ。修羅焔団の総帥、アシュラの討伐だ」
アンチィの目が細められる。その眼光は鞘から抜かれた刃に似て鋭い。
「刀狩りは召喚剣の回収が主な任務だろう? なぜ新興勢力に攻撃を仕掛ける?」
アンチィの疑問は当然である。
ロウガは薄く笑い、口元に指を当てた。
「それはアシュラの持つ召喚剣がムラマサだからだ」
「ムラマサ……?」アンチィは冷たく目を細めた。
「そうだ。ムラマサは“あるお方”がその刃を研ぐためにヤパンって村に預けていたんだ。ヤパンは召喚剣、つまりNFを整備する達人であるシュミートを多く抱えていた村だった。ムラマサは曰くつきのNFではあったが、それでも整備の依頼は受けていたらしい。だが、ヤパンは一夜にして壊滅し、ムラマサもどこかに消えた……」
話を聞いたアンチィは、冷静に言葉を繋ぐ。「そのムラマサをアシュラが持っている。ならば、ヤパンの村を襲ったのがアシュラ、というわけか」
「恐らくな」ロウガは肩をすくめ、
「で、その“あるお方”ってのが、問題でな」
「……誰だ?」
「ヤパンにムラマサの整備を依頼したのは――帝国のトップ、皇帝その人さ」
アンチィの目が大きく見開かれる。
「つまり、アシュラは皇帝のNFを奪ったことになるわけか?」
「そういうことだ」ロウガは鼻息を荒くしながら言う。
「今回の依頼は、皇帝からの秘密裏の命令だ。アシュラを討ち、ムラマサを奪還し、皇帝に返上する。それが任務ってわけだ」
「なるほどな……」
アンチィは腕を組み、考え込むような仕草をした。そして、心にわだかまる疑問を吐き出し。
「帝国にも聖騎士団がいるだろう? そいつらは動かないのか?」
「動けないのさ」ロウガは唇を吊り上げ、
「ムラマサは、人の魂に害をなすとして、完全封印されていたはずだった。その封印を解いたのは皇帝だ。しかも、皇帝の一存でな。しかもそれが原因でヤパンは滅んだ。これがバレれば大スキャンダルになる。だから、聖騎士団のような大っぴらな戦力は使えないってわけだ」
アンチィの笑みがさらに深まり、まるで悪魔の表情で、
「だったら、ムラマサを奪還できれば、皇帝の弱みを握れるってことか」と言った。
「その通りだ」ロウガは満足げに頷く。
二人は視線を交わし、闇の奥で顔は暗黒に染まる。
アンチィは静かに笑った。その笑みは闇に染まった黒い花のようで、妖しくも美しいが、どこか冷たいものを孕んでいる。「面白いな……修羅焔団との決着もつけなければならんが、こんな辺境で皇帝の首の根を掴めるとはな」声が震えるほどの歓喜。貴族たちが持つ“権力”という力こそが、アンチィにとって最も憎むべきものであった。その構造を利用し、人を虐げる貴族たちへの怒りは、帝都にも、皇帝にすら及んでいる。
「これは吉報……か」
その言葉を呟いたアンチィに、ロウガは興奮していらしく、前のめりになって聞く。
「やるのか?」
「やる」
「いいぜ」
二人の会話は単刀。
ロウガの言葉に、アンチィの瞳が鋭さを増した。その反応を見て、ロウガはニヤリと笑う。
「さて、ついでに教えておくか。ムラマサの“人の魂に害をなす”ってのが、どういうことかをな」
アンチィは興味深そうにロウガを見た。
「そもそも召喚剣、つまりNFってのは、乗り手の精神に少なからず影響を与えるもんだ。お前も前の戦いでそれを体験しただろ?」
アンチィの脳裏に蘇る、己が獣と化した瞬間。
「……だろうな」曖昧に返す。闇に染まりかけた自分を認めたくはなかった。
「分かっていればいいさ」
アンチィの弱みをロウガは追及しなかった。そういうところには妙に気が回る男だった。
「普通のNFなら、せいぜい気分が高揚するとか、ちょっと攻撃的になる程度だ。だがな、ムラマサは違う。あれは、触れるだけで、いや、感じるだけで、その影響下に入る」
「感じるだけで?」
「そうだ。強圧的に乗り手の精神を侵食し、人格すらも変容させる。NFライダーが我を忘れて、一つの街を滅ぼしたなんて噂は何度も聞いた」
ロウガの言葉には、その戦場を見てきた者の実感が滲んでいた。
「つまり、魂を害するってのは、単純に影響を与えるってレベルじゃないってことだ」
そう言ってロウガは話をまとめるのだ。
アンチィは黙り込む。あの時、シミットに乗った時、己の中の獣が呼応するのを感じていた。ムラマサに乗れば、自分はどうなる? 獣以上になるのか? あの時俺は間違いなく感情に支配されていた。それは醜いことだ。それでも……強くなれるのなら? 人はそれを求めるものなのか?
「なんでそんなもんを作ったんだ?」
呟くようにアンチィが問いかけると、ロウガは首を振った。
「俺にも分からん。そもそも召喚剣ってのは、古代人の遺物をシュミートたちが研いで使えるようにしてるだけだからな。古代人の思いなんて、俺には理解できん」
ロウガはそこで一拍置き、少し真剣な顔になった。
「だがな……そんな“呪い”みたいな力を持ってるせいか、ムラマサの戦闘力は圧倒的だ。戦闘力も、継戦時間も、通常のNFの倍以上……まさに“最強”のNFだよ」
アンチィはロウガの言葉を反芻しながら、半透明の刀身を持つ自身の召喚剣を見つめた。
「最強……か」その力の部分に、確かに惹かれている自分がいた。
『今度はもっと上手くやれるかもしれない』アンチィは魅了されていた。
『怒りを制してNFを我が物とできるかもしれない』アンチィは力の誘惑にいざなわれている。
『であれば俺の方がムラマサに相応しい』アンチィは闇に染まる己に無自覚であった。
力――圧倒的な力。それこそがすべてを凌駕し、すべてを支配する唯一の絶対の方法。
アンチィの脳裏に、戦いの瞬間がよみがえる。
拳を振るう快楽。剣を振り抜く興奮。敵が自分よりも弱いと確信した瞬間の昂揚。
――そして、喉を焼くような嫌悪感。
それでも、もしも、すべてを意のままに操ることができたなら。
『あのとき、もっと上手くやれたら』
『そうすれば、何もかもが思い通りに――』
「おい……」ロウガの低い声が、その思考を断ち切った。
「またあっちにいってたろ」
ギロリとした目つきで睨まれる。アンチィは虚を突かれたように瞳を揺らした。
「分かっているよ」そう言うしかなかった。
ロウガは溜め息をつき、「まだお前は若い。」道を踏み外しそうになるのも分かるさ。だがな……」
ロウガは暖かな笑みと視線を向けて「せめて踏み外す前に、俺に相談しろよ?」
アンチィは優しい目をしていた。敵意などなく、どこか安心したような色を帯びている。
闇に沈みかけた自分を、迷わず引き戻してくれる存在がいる。
その確かさに、無意識に身を預けたくもなる。そして弾むように
アンチィは冗談交じりに「相談したら止めるだろ?」と言った。
「当然だ。俺はお前の親代わりだからな」
ロウガがふんぞり返ると、アンチィはわざとらしくため息をついた。
「そうかもな。お前の育て方は最悪だ」
「その成果で体だけはデカくなっただろうが」
ロウガは豪快に笑い、アンチィもそれにつられるように、わずかに口元を緩めた。
――闇に飲まれそうになっても。――この男がいる限り、自分はまだ人間でいられる。
アンチィは、そう思いたかった。
「……じゃあ、今のムラマサの持ち主であるアシュラは飲まれていないのか?」アンチィは腕を組みながら、ロウガを見つめた、白い前髪をわずかに揺れる様は女性のように見える。
「それは分からん」ロウガは大きな手で顎を撫でた。その仕草は慎重な思考の現れでもあり、どこか飄々とした余裕を感じさせる。「確かに、あちこちの町や対抗勢力に攻め込むあの攻撃性は、ムラマサに呑まれた奴の典型的な症状かもしれん。だが、修羅焔団の勢力は拡大し続けている。それを考えると、自意識はしっかりと保っているとも言えるな」
アンチィは小さく鼻を鳴らした。
「まあ、そうでなければ敵味方構わず破滅させるのがムラマサだもんな」
「その通りだ」ロウガは重々しくうなずくと、組んだ腕の筋肉を動かした。
「アシュラは仮面を被っているらしいが、その仮面でムラマサの力を抑えているのかもしれん」
「仮面?」アンチィはわずかに眉を上げた後、口元を歪めて笑った。覗く白い歯はどこか蠱惑的である。「はは、それはまた安っぽいな。正体不明の悪党気取りかよ」口も減らない男である。
「お前な……」
ロウガは呆れたように額を掻いた。その分厚い指が、額の皺を深く刻む。
「お前の仇を討った奴なんだぞ、アシュラは。それくらい知っとけ」
「今日知ったから十分だろ?」くくく、アンチィは堪えられず声を出して笑っていた。
その声には微塵も執着が感じられない。ロウガは肩を落とし、大きく息をついた。
「……しかし、仮面で正体を隠しているとなると、暗殺が難しくなるな。他に手がいる」
アンチィは何気なく呟く。だが、その響きは妙に鋭く、言葉に刺があった。
ロウガは一瞬固まったが、すぐに吹き出した。「おいおい、怖いことを言うなよ。まあ、確かに修羅焔団を攻略するには何か策を考えないといけねぇな……」そう言って巨体を揺らしながら考え込む。その姿は威圧的でありながら、どこか抜けた愛嬌もある。
アンチィはそんなロウガを見て、楽しげに笑う。
『こういうところが、アイツの良さだ』ロ
ウガの圧倒的な強さを知っているからこそ、その鈍重にも見える仕草の裏に潜む深慮を、アンチィはよく理解していた。
「……俺に、一つ考えがある」そう言って、アンチィは頬を搔いた。その指先は細くしなやかでありながら、刃物のような鋭さを秘めている。
「ほう、聞かせてもらおうか」ロウガはその様子を眺めながら、興味ありげに言った。
アンチィは唇の端を持ち上げ、静かに笑った。その笑みの奥には愉悦が滲んでいる。
「俺と修羅焔団には今、縁ができている。俺は修羅焔団のNFライダーを倒し、そのシミットを強奪しているという素敵な縁だ」アンチィは指先でテーブルの縁をなぞりながら、ゆっくりとロウガを見た。その仕草はまるで猫のような気まぐれな優雅さを孕んでいた。
「これを利用できるだろう?」
ロウガは短く息を吐く。森での戦いが修羅焔団との衝突を避けられないものにしたのは確かだった。しかし、それすらも利用しようというアンチィの発想に、彼の表情がわずかに綻んだ。
「どう利用する?」
アンチィは首を傾げ、片頬に手を添えながら囁くように言った。
「一度、俺は修羅焔団に投降する。森で偶然出会って戦い、勝ったと正直に言う」
ロウガは鼻を鳴らし「殺されるぜ?」その言葉に否定的な響きはなかった。
ロウガは待っている。アンチィがどう言い返すのかを。
「どうかな? 修羅焔団が勢力を拡大しているなら、NFライダーも腐るほど必要なんじゃないか? それも優秀なやつは喉から手が出るほど欲しいはずだ」
ロウガの腕がわずかに動く。アンチィはさらに続ける。
「最終的には処刑もありえるが、事実確認もあるならすぐには手も出さん。上手く行けばアシュラに会えるかもしれんぞ」
ロウガは呻いた。確かに、修羅焔団がNFライダーをスカウトしているという噂はある。刀狩りに所属する人間ですら、勧誘された例があったほどだ。であれば、アンチィの手は荒唐無稽ではない。
「確かに、アシュラに近づける……」しかし、ロウガは首を振る。
「駄目だ。危険すぎる」
アンチィはつんとした表情でロウガを見上げる。
「じゃあ代案を出せ」
ロウガは黙る。アンチィはテーブルの上に肘をつき、わずかに体を傾けながら囁く。
「なあ、どの道いつ修羅焔団が迫ってくるかも分からないんだ。待っていても危険なら、攻勢に出た方がいいに決まっている。この理屈は分かるだろう?」
「それはそうだが……」
ロウガの視線が揺らぐ。それでも、敵の懐に一人で飛び込むというのは了承できないようだった。
「大丈夫だ」
アンチィは悪戯っぽく微笑んだ。薄く開いた唇の奥で、歯と歯の間に粘液が淫靡に交差する。
「俺のピンチにはヒーローが駆けつける」
「……ヒーロー?」ロウガは言葉の意味を分かりかねているらしい。
「ロウガ・ロード様。貴方なら、必ず駆けつけるでしょう?」
アンチィは、頬杖をついたまま、ロウガを見つめた。
ロウガは数瞬沈黙した後、「分かったよ。まったく、お前には敵わないな。なら俺もヒーローらしくなれるように、お前のピンチに駆けつけられるようにしておくさ」と言った。
そして二人は作戦を開始するのだった。




