二十二章 vs 蛙
たゆたいの水路を奥へ進んで三十分ほどした頃、流衣達は崩落地点に辿り着いた。
――ここをもう少し進むと、水路の幅が広がっている所があるわ。あの蛙はそこに棲みついてる。
ティレナが瓦礫と土砂で埋まっている水路の向こうを見て、そう説明した。
「瓦礫の下は通れると言ってたよな? 距離はどれくらいなんだ?」
リドがティレナに問うと、ティレナは一度潜ってすぐに顔を出した。
――少し潜る程度よ。皆痩せてるから、すぐ通れるわ。
つまりこの中では、年上だけあって一番がたいが良く見えるリッツでも、楽に通れるくらいの幅なようだ。
「――しかし困った」
ディルが重苦しい口調で唸るように呟いた。上着の隙間から顔を出したノエルが、ギュピ? と不思議そうにディルを見上げる。ノエルの他の者も疑問をこめてディルを注視する。
「何が?」
流衣の問いに、ディルは言いづらそうにもごもごと口を開く。
「君は忘れているようだが、私は泳げぬのだ。どうすればいい?」
場がシーンと静まり返った。皆、何とも言えない視線をディルに向ける。やがてリッツがその目をそのままヴィンスに向けた。
「ヴィンセント様、失礼を承知でお伺いします。……泳げますか?」
貴族は屋敷にいるばかりで泳いだことのない者が多い。田舎の領地に住んでいる者や、活発的な者はともかく、ヴィンスのような大人しそうな者が泳げるとは思えない。
リッツが緊張感満載で問うと、意外にもヴィンスは頷いた。
「ええ、湖程度でしたら。避難訓練の一環として城の裏で泳いだことがあります。流石に海は無理ですが」
その答えに、リッツとビィは揃って安堵の表情になる。
そうだ。王城の真裏には銀鏡湖があり、そこから堀に水を引いているのだ。城から避難するなら、確かに湖を使う方が良い。
「じゃあ問題はその真っ白小僧だけ。ティレナ様、引っ張っていって貰っても?」
ビィの問いにティレナが頷くと、ビィは問答無用でディルを水路に蹴り落とした。
「ぐはっ!?」
ばしゃーんと水柱が上がった。軽装の鎧を付けているのも手伝い、泳げないという本人の申告通り、泳ぐ気配はなく沈んでいく。そんなディルの後ろ襟を掴むと、ティレナはすいーっと崩落地点の向こうへ泳いでいった。
やがて、すぐにティレナは戻ってきた。
――ちゃんと陸に上げておいたわ。死にそうな顔してた。水の中で息が出来ないなんて、人間って大変ね。
そう言って、ティレナは楽しげに笑う。それから、にこりと微笑んだ。
――でも、水で死んだら、水底の魂をわたしみたいな人魚が回収して、レシアンテ様にお届けするのよ。だから彷徨うことはないの。ね、安心でしょ?
「そ、ソウデスネ」
流衣は片言で返す。素敵な笑顔でなんて恐ろしいことを言うんだ、この人。
思わずぶるりと身震いしてしまう。他の面々も見事に凍り付いている。
そこでふと、流衣は肩にとまっているオルクスを見やる。
「オルクスはどうするの? 濡れるの嫌なんでしょ?」
『…………』
オルクスは押し黙り、やがてひどく申し訳なさそうに申し出た。
『……血と魔力を頂いても?』
そこまで鳥の姿で濡れるのが嫌なのか。
流衣は若干苦く笑い、了承の言葉を呟いた。
水路の崩落地点を抜けると、皆それぞれ濡れた服を絞った。荷物も水に浸けてしまったから、着替えも濡れているだろう。
それでも、リュックの中ならまだ濡れていないと踏み、リュックから羽竜の青灰色のマントを引っ張り出す。思った通り、今着ている服よりマシだ。濡れて重くなった上着を脱ぎ、リュックに押し込もうとして、ふとビィが寒さに弱いことを思い出した。
そっとビィの方を見ると、彼女は青い顔で小刻みに震えていた。物凄く忌々しそうに下唇を噛んでいる。
「えっと、ホルテンスさんだったかな。これ、使って下さい」
「………」
「そんなに濡れてませんから」
差し出したマントを、何故か親の敵を見るような目でビィが睨みつけてくるので、流衣はビクつきながら付け足した。
「……濡れる」
「それなら乾かせばいいです。これ、暖かいので」
ビィはしばらく何かと葛藤しているかのように無言でマントを見ていたが、やがて渋々といった体で受け取った。
「後で返す。……ありがと」
「いえ」
流衣はそう返事し、やっぱり上着は濡れていて重たいからとリュックに押し込む。上は白いシャツと皮製のベストだけになった。流衣の変装は上着とバンダナだけだから。髪が頬にはりついて気持ち悪いので、バンダナの方はそのままにしておく。
「あいつのあの態度、悪く思わないでくれな。他人に貸し作るのが嫌いな性分ってだけだから。……助かったよ、あいにく俺は貸せる上着がないからな」
リッツが小声でビィのフォローをする。相変わらず、目は細すぎてほとんど閉じているようだが苦笑しているのは分かった。
「はあ、でも別に気にしてませんから」
無視をされないだけマシだ。流衣はあっさり返す。
それから、横で物凄く不機嫌な顔をしているオルクスを見上げる。黄色い髪から雫をボタボタと垂らしながら、しかめ面で服をぎゅーっと力いっぱい絞っている。
流衣はそれを苦笑混じりに見つつ、とりあえず何も言わないことにした。今話しかけたら、どんな皮肉が返ってくるか分からない。
「人型をとっている使い魔は初めて見ました。竜が人に化けた姿なら、何度か見たことがありますが」
オルクスが人の姿をしているのに感動したらしく、ヴィンスは目を輝かせて言った。ヴィンスの傍らにいるリッツとビィもまた、オルクスを興味深げに見ている。
「わてのような動物型が化けているのはともかく、元より人の姿をしている使い魔を呼べば別ですよ。そちらを見たことはないのですか?」
「ありません。宮廷付き魔法使いでも、そんな大魔法を使う機会などありませんし。ここ数日が物騒なだけで、以前はとても平和でしたから」
ヴィンスの返答に、オルクスはふむと首肯する。
「確かに公爵の言う通りですね。平和な時代に、彼らを召喚する必要はありません。たまに好奇心で呼び出したり、物騒な理由で呼び出したりする傍迷惑な連中が存在する程度です」
二人の話に耳を傾けていた流衣は、人型の魔物はそんなに強力なのかと思い、流衣は訊いてみた。
オルクスは頷く。
「そうです、魔力消費は半端ありませんが、その対価を払うだけの仕事はします。大抵は兵器代わりとなるような攻撃系統で、数は少ないですが、知識を司る者や治癒に長けた者もいます。難病を抱えた者が呼び出すケースもあります」
「そんなに強いんじゃあ、戦争にならないんじゃない?」
流衣が怪訝な顔をすると、オルクスは首を振る。
「強力な攻撃ですが、防ぐことも出来ます。とはいえ、戦いが起きた場合、魔法使いの数か、もしくは良質な魔法道具の数で勝敗が決まるというのは否めませんが」
「なるほど~」
感心して頻りに頷く流衣。ヴィンスは真面目な顔で言う。
「しかし、戦というのはそんな単純なものではないようですよ。地の利、作戦、罠、そんな物でころりと立場が逆転することもあるのだとか。兵法の教本の指南程度の知識ですけれど」
「ヴィンス君、兵法なんて習ってるの? 凄いなあ、本当に同じ歳?」
「貴族の一般教養です。歴史学よりは面白いですよ」
「うん、確かに。歴史って眠いよね。僕は数学の方が好きだな」
公式さえ覚えていればどうにか応用すればいいので、数学の方が好きだ。歴史は暗記物が多すぎる。
――のんびり話をするのもいいけど、そろそろ着くわよ。
場の空気が緩んできたところで、ティレナが口を挟んだ。そして、水路の中でぴたっと動きを止める。
――わたしはこの辺で待ってる。よろしくね、王様の末裔。
そしてティレナは魅力的な笑みを浮かべた。
* * *
「この辺りは滑る、気を付けろよ」
「うん、ありがと」
ありがたくもリドから念押しのような注意を受け、流衣は素直に頷いた。
ティレナが側にいないのにも関わらず、通路の壁には光が灯っているから明るい。だから足元はよく見えるのだが、石畳の通路には長年湿った空気にさらされていたせいでカビやコケが生えており、滑りやすくなっていた。
「ルイも不安だけど、ディルはもっと気を付けろ。落ちたら面倒だ」
思い出したようにリドは後ろを振り返る。最後尾からついてきていたディルは、憮然とした表情をする。
「……ありがたい忠告、いたみいる」
口では皮肉っぽく返すが、さっき水路に蹴り落とされたのが堪えているようで、さりげなく壁際に寄った。服が湿っていて嫌なのか、ノエルはいつの間にかディルの肩に陣取っている。好奇心いっぱいに辺りを見回しているが、大人しくしている。
そして、一行は通路が広がる地点に着いた。
他の支流との合流地点のようで、円形の小さな広場くらいの広さがある。今まで歩いてきた通路に比べ、光の数が少なく薄暗い。
そこに一歩踏み込んだ瞬間、流衣の背筋がぞくりと粟立った。
何もこんな時に来なくてもいいと思う、不幸の前触れだ。
「蛙なんて見当たらないな」
壁に沿ってカーブをえがく通路を足音を殺して歩きながら、小さな声でリッツは呟いた。一番先頭で、槍を持って警戒している。
そのすぐ後ろについているビィも警戒しているらしく、黒い獣耳がピクピクと忙しなく動いている。きっと些細な音すらも聞き逃すまいとしているのだと思う。
流衣もまた杖を握り締め、水路の真ん中辺りの暗がりを見つめて身構える。そんな風に遠くに気を取られていたせいだ、足元が留守になったのは。
右足首を何かに掴まれたと思った瞬間、力いっぱい水の中に引きずり込まれる。
「ルイ!」
すぐ後ろにいたリドが仰天したような声で叫んだのと、耳元で水が鳴る激しい音が同時に聞こえた。
水底は暗く、冷たかった。
流衣は驚いたものの杖は手放さず、水面に上がろうと上を見て目を開けた。が、やはり足に何かが絡み付いていて動かない。
(何……?)
まさか水草だろうかとそれを見て、初めはロープかと思った。が、真正面にいるものを見て、蛙の舌だと気付く。
ゴボッ!?
驚いた拍子に口から空気が思い切り零れた。慌てて両手で口を押さえる。泡が目の前を上っていき、そうと認めたら急に息苦しくなった。
蛙は確かに蛙だった。黄色い色をしていて、腹は白い。真正面で向き合っているからよく分からないが、蝦蟇に似ている気もする。ずんぐりむっくりした、目が黒い蛙。
その頬に黒い星みたいなシミがあるのを見つけた。魔物!
蛙は流衣と同じくらいの高さがあった。大きい。大きいが……、まさか餌になんてしないよね?
嫌な予感がした瞬間、まるで狙ったみたいに獲物のかかった舌を引き戻し始める蛙。
慌てて反対方向に泳ごうとするものの、掴まる所などないのであっさり引っ張られる。
(嘘だろ? こんなとんでも世界での死に方、蛙に喰われました? 間抜けすぎてゴシップで笑われるよ!)
混乱のあまり突拍子のないことを考え、じたばたもがいていたら、ふいに肩を掴まれ、視界が転じる。
水の感じがなくなった代わりに、今度は腹部に負荷がかかって、流衣は若干飲んでいた水を吐いて咳き込んだ。
「もう大丈夫ですよ、坊ちゃん」
どうやらオルクスが転移して助けてくれたらしい。ついでに言えば、腹に圧迫を覚えるのは小脇に抱えられているせいだ。まるで荷物みたいな扱いである。
「……オルクス、下ろしてくれるとありがたいんだけど」
「下ろしたらまた水の中ですよ?」
言われてみれば、オルクスが立っているのは通路ではなく水面の上だった。
「どうやって立ってるのっ?」
びっくりだ。すごい。水面を歩くなんて、地球じゃ聖人か忍者にしか出来ないことだとされていたから尚更。
「ただの浮遊の術です。――というか、真っ先に気にするのはそこなんですか」
じと目で睨まれた。うっ、オウムと違って青年姿だと迫力があって怖い。流衣は首を竦めるが、同時に水面下に影を見つけた。
「蛙が下に来てる!」
「分かってます。すみませんが餌にさせて頂きました!」
嬉しくないことを事後報告してくるオルクス。なるほど、それなら水面に浮いているのも納得。
――って、そんな納得してる場合じゃない!
水面が円形に盛り上がって蛙が頭を出す寸前、オルクスは水路の奥へとジャンプして、また水面に着地した。軽く水がはねる。
「ぐへっ、な、何で僕が餌?」
また腹に圧力がかかって潰れた声を出しつつ、流衣は疑問を口にする。
「これはただの推測ですが……」
「うん?」
「一番弱そうな者を選んだのではないかと」
「…………」
自分は人間だけでなく魔物にまでひ弱に見えるらしい。
流衣は情けなくなり、数年すればきっと背も伸びてマシになるはずだと将来に希望をかけた。今は無理だ。せいぜい、体力をつけるのが関の山。
大蛙はオルクスと流衣の方を向き、口をがばっと開けた。ツララが口から飛んで来る。
「わーっ!」
思わず悲鳴を上げて目を閉じる。が、頬に風を感じただけでツララが命中することはなかった。またオルクスが横へ跳び、ツララをかわしたのだ。
ほんとに氷を吐いたよ、この蛙。
かわしてしまうオルクスも凄いが、蛙も凄い。ゾッとした。
「こんなのがゴロゴロしてるなんて……。ラーザイナは恐ろしい所だね……」
「人気の無い場所くらいですよ、こんなのがゴロゴロしているのは」
オルクスはあいている右手を上に向け、火で出来た輪を呼び出した。
それを蛙に投げつけるが、蛙は水に潜ってあっさりそれをかわす。ジュッという音がして、炎が水にかき消された。
「ちっ、焼き蛙にして差し上げようと思いましたのに」
舌打ちし、黒い表情でぼそりとオルクスは呟く。
側で聞いてしまった流衣は内心震え上がった。
怖っ。口調は丁寧なのが余計に怖い!
* * *
「わては水相手だと分が悪いのです」
蛙の潜った水面下をじっと見つめたまま、オルクスが渋い声で呟いた。
「え?」
流衣も杖を抱えて水面の影を目で追いながら、思わず聞き返す。オルクスはとても強い使い魔であるのに、弱点もあるのか。
「使い魔には得意な領域が存在します。わては転移を含む飛翔能力と治癒と火と風と光属性がそうなのです。水は完全に領域外です」
言われてみれば、確かにオルクスが使う攻撃系の魔法は火属性か光属性しか見たことがない。煙を吹き飛ばす程度なら、風も使っていた。
「だったら水から出せば良かろう。お三方は氷の魔法は使えるだろうか?」
話を聞いていたディルは良いことを思いついたらしく、ビィとリッツとヴィンスの方に問いかける。
ビィとリッツは首を振り、ヴィンスは頷いた。
「私は割りと得意な方です。どうされるのです?」
「一部を残して、表面を凍らせるんです。蛙はそのうち空気を求めて穴から出てきますから……」
「そこを狙うというわけですね。なるほど!」
感心して頷くヴィンスに、ディルは、中央部だけ残すと告げ、呪文を唱え始めた。
何をしでかす気か気付いたオルクスは、パッと転移し、通路の方に着地する。ようやく地面に下りれた流衣は、腹の圧迫感が消えてほっと息をつく。それとほぼ同時に魔法が完成した。ディルとヴィンスはそれぞれ片手を水面に付ける。
ペキパキペキペキ! 軋む音があちこちから聞こえ、冷気が立ち込める。音が止むと、目の前にはスケートリンクのような氷が出来ていた。真ん中だけ大穴があいていて、まるで釣堀のようだ。
しばらく様子を見守る七人。蛙は水面に浮上しようとして天井に頭をぶつけたのか、ゴツと鈍い音がした。
しばしの沈黙。
奥の方の氷面に、突如として炎の柱が立ち上った。
「!」
ディルとヴィンスの二人は目を丸くした。
蛙が口から炎を吹き、氷の板を溶かしたのだ。
「……そういえば火も吹くんでしたね」
冷や汗混じりにヴィンスは呟く。
蛙はぴょんと氷の板の上に飛び乗り、流衣達の方を見た。口をぱかっと開ける。
「うわわわわ!」
氷の塊が幾つも飛んで来た。
流衣は慌てた声を上げ、皆も急いで通路の奥へと逃げる。氷の塊はどかどかと水路の壁に当たり、通路にゴトリと転がった。その衝撃で、天井からパラパラと土埃が落ちてくる。
「――まずい。あまり酷いと、崩落する」
ビィが苦虫を噛み潰したみたいに顔をひそめ、可能性を口にする。
「困ったな、意外に手間取るぞ、これは」
リッツは、蛙を横目に見て言う。
が、折りよくもそこに新たな闖入者が現れた。
「見つけましたよ!」
さっきのネルソフの三人のうちの一人だ。シーリーと呼ばれていた、中肉中背の男。黒いフードを目深に被っていて、顔は見えない。
シーリーの声を聞き、蛙はそちらに目標を変えたようだった。口をばかりと開け、再度氷の礫を発射する。
シーリーがぎょっと立ち止まったのが分かった。
ビィは口元を引き上げる。
「素敵なおとり。どうやらあいつが倒してくれるみたい。私達は行こう」
ざまを見ろと言わんばかりなビィの言葉に、流衣達は反論もなく頷いた。