二十一章 たゆたいの水路 4
――そうだった。たゆたいの水路の意味だったよね? 教えてあげる、王様の末裔。
皆が水路を歩き出そうとしたところで、ふいにティレナは表情を明るくして笑った。そして目を閉じ、胸の前で両手を組み、短く息を吸い込む。
――それは歌というより音だった。澄んだ鐘の音のような、色で表すなら極彩色の。ティレナの声は高く柔らかく、空気を震わせる。
すると水路の中を声が反響し、両側の壁の中心に、光が点々と灯った。その光はラインをえがいて暗闇に沈んでいた水路を明るく照らし出した。
ティレナはすでに口を閉じていたが、音と水と光は確かにまだ水路の中にたゆたっていた。光が消えることはなく、不思議と清らかで満ち足りた気配が場を占めている。
皆、気付けば泣いていた。勿論、ティレナを除いて。
「……これが、人魚の『天上の歌』」
夢の中にいるように呆然としながら、ビィがぽつりと呟く。
――最上級の褒め言葉をありがとう、亜人の娘。
ティレナはにこりと可愛らしく微笑んだ。
――わたしの……いいえ、わたし達人魚の歌を聞くと、人間は皆そうなるわ。いつもは魂をレシアンテ様にお届けする時にしか歌わないの。でも、ここでは王様と約束しているから、特別なのよ。それに、とても久しぶりに人間に会えたのだもの! 歌ったっていいわ!
晴れ晴れと、本当に喜んでいるティレナに、流衣は何年もこんな所にいた寂しさはどんなものなのだろうと思った。
そこで初めて自分の頬が湿っているのに気付き、慌てて袖で涙を拭う。その動作で他の者もティレナの言葉の意味にようやく気付き、それぞれさりげない動作で涙を拭いた。互いに泣いているところを見られたせいで、微妙に居心地の悪い空気が漂ったが、皆それには気付かない振りをすることに徹する。
ティレナはそんな流衣達を面白そうに見つめ、クスリと小さく笑ってから、先に進むように促した。
* * *
グドナーの放った黒い雷を避け、シーリーの飛ばしてきた木の葉のナイフを結界で弾く。その合間を縫うようにして〈蛇使い〉が呪いを投げ、それをエルナーが手の平で受け止めて霧散させた。
「なかなかやりおる」
〈蛇使い〉は低く唸るように呟いた。声が少し不機嫌そうだ。
アンジェラはそんな老人の行動を注意深く見守る。一番得体の知れない者はこの〈蛇使い〉という老人だと悟っていた。
「――遊んでる場合ではなさそうですね。私が追います」
シーリーは仕方なさそうに言う。それに対し、グドナーが反発する。
「俺の獲物を横取りする気か!」
「あなたが行ったら、殺しかねないでしょう? 宜しいですね、〈蛇使い〉殿」
シーリーは冷ややかにグドナーをいなし、リーダーたる老人に指示を仰ぐ。
「ああ、お主なら平気じゃろう。――行け」
〈蛇使い〉の許しが出るや、シーリーは素早く呪文を唱える。
「負の腕より呼び出すは刃。宙を舞い、敵を滅せ」
シーリーは右手を横へ広げる。影のナイフがシーリーの周囲をぐるりと取り囲むように展開し、シーリーが右の人差し指を前方に突き出した瞬間、ナイフが宙を舞った。
それをアンジェラ達は光属性の結界を呼び出して対応する。闇属性の魔法を防げるのは、光属性の魔法だけだ。木の葉のナイフのような、特殊属性の植物のものならば防ぐのは楽だが、闇属性ではそうはいかない。調整を間違えば、簡単に結界を貫く。
「失礼」
ナイフの嵐をしのいでいるアンジェラ達三人の横を通り抜けざま、シーリーは嫌味っぽく呟いた。
「あっ、この野郎、待て!」
咄嗟にエドガーが火の柱を魔法で起こして邪魔しようとしたが、それをヒラリとかわし、シーリーは雑木林の中へと消えていった。
ちっと舌打ちし、エドガーは他の二人を止めることに専念しようと頭を切り替える。
「しっかりして下さいよ、先輩」
ひやりとした声でアンジェラが言い、エドガーは頬を引きつらせる。
「君、俺が一つ年上ってだけで、何でも後輩より上手くこなせるって本気で信じてるのか?」
「まさか。現に私が隊長をしてますし、総合能力なら私の方が優秀です」
「…………」
「ですが、先輩の方が魔法の腕も良いですし、聖法も解呪に長けているという稀有な能力の持ち主です。才能だけを見れば先輩の方が優秀なはずです。経験だって私より一年多いですし。ただし、判断能力は私より劣っていますが」
エドガーはどういった返事をすべきか、困惑気味にアンジェラを横目で見る。感情の無い声で淡々と言うので、褒めているのかけなしているのか判断出来なかったせいだ。
「一応、褒め言葉として受け取っておこうかな。ありがとう」
「褒めてもけなしてもいません、ただの分析です」
「あ、り、が、と、う!」
無理矢理話を締めくくるエドガー。少しくらい譲歩してくれたっていいのに、この後輩は……。
アンジェラは褒めたことになったのが嫌だったのか、非常に煩わしそうな目でエドガーを一瞥し、またネルソフに視線を戻した。
「まあいいです。冥土の土産にとっといて下さい」
「は!? 俺が死ぬこと決定か!? それともアンジェラにとどめを刺される予定なのか?」
「安心して下さい。今でなくてもいつか必ず私がとどめを……」
「怖いこと言わないでくれ、頼むから!」
ネルソフの攻撃を防いだり弾いたりかわしたりしながら言い合いをしていると、エルナーがほとほと呆れた目を二人に向けた。
「戦いに集中して。本当に冥土行きだよ」
エルナーがそう注意した瞬間、〈蛇使い〉の足元の影が突然膨れ上がった。蛇が一匹飛び出てきたのだ。そして影の蛇は三人の真ん前の地面に激突した。
瞬間、白い閃光とともに轟音が巻き起こった。
* * *
爆発の影響で、土埃と白煙で視界が閉ざされている中、〈蛇使い〉は感慨も何も含まない声で傍らを見た。
「……ワシは先に行く。グドナー、ここは任せたぞ」
「生死は?」
「問わぬ」
〈蛇使い〉の返答に、グドナーは口元をにやりと歪めた。
それを返事と取り、〈蛇使い〉は悠々とした足取りで雑木林の奥へと去っていった。
「へん、どうせ生きてやしねえだろうがな。一応、死に顔だけは拝んでおくか」
土埃と白煙とが風に流されて消え、ようやく周囲の状況が見えた。
グドナーは敵がいた所をぐるりと見渡す。
茶色い髪の女が頭から血を流して倒れており、そこから少し離れた場所には、キザったらしい印象の茶色い髪の男が同様に倒れていた。グドナーは更に周りを見て、眉間に皺を刻む。
「―― 一人足りねえ。一体どこに……」
あの爆発で遠くまで吹き飛ばされたのか、それとも木っ端微塵に消し飛んだか、そのどちらかだろう。探しに行くのが面倒だと思った時、背後から声がした。
「ここだよ」
凪のように静かな声。微笑みを浮かべる様さえ脳裏に浮かぶ、穏やかな声だったが、そうと気付いた瞬間、全身に衝撃が走った。風で吹き飛ばされ、近くの木に激突する。そこでグドナーの意識は闇へと落ちた。
* * *
「やれやれ、術に引っかかってくれて助かったよ」
エルナーは溜め息混じりに呟き、植物を魔法で呼び出して気絶しているグドナーを縛り上げ、猿轡まで噛ませると、ほっと息をついた。魔法使いは術に長けても体力が無い者が多く、直接的な攻撃――つまり打撃に弱い傾向がある。だから木にぶつかった程度でも大ダメージを受けるのだ。そして、『精霊の子』と呼ばれる者達と異なり、呪文さえ唱えられなければただ人と同じである。
エルナーは右手の指をパチンと鳴らす。すると、地面に倒れていたアンジェラとエドガーの姿がスッと空気に溶けるように掻き消えた。
「投影の術ってこういう使い方もあるんだな」
実際にある光景を違う場所に映し出す、あまり使いどころのない光属性の術だ。
奥の茂みから左腕を押さえてよろよろと出てくるエドガー。その後ろには額から血を流しているアンジェラもいた。爆発は結界でしのいだものの、防ぎきれずに吹き飛ばされ、アンジェラは頭を打ち、エドガーは左腕を骨折したのだった。が、生きているだけ儲け物だ。
エルナーの方は爆発を完璧に防いだので無傷だ。直後、二人の姿を映し出してグドナーを陥れることが出来た程である。
「敵の錯覚を引き起こすには便利だよ。ほとんど子供騙しなんだけどね」
肩をすくめるエルナーに、アンジェラは首を振る。
「その子供騙しにこいつは引っかかったわ。ざまを見ろって感じね」
清清しく微笑むアンジェラ。ネルソフの三人の中で、一番虫が好かないタイプだったからいい気味だと思う。
「止められたのが一人だけというのは痛いな。公爵様達が危ない。……つっ」
エドガーはそこで顔をしかめた。左手首と肘の間が折れており、その骨を元の位置に戻したので痛みが走ったのだ。
「先輩、無理に触らないで下さい。悪化しますよ」
アンジェラが痛そうに顔をしかめ、エドガーの側に慌てて駆け寄る。
「大丈夫、治療なら慣れてる。ちょっと荒療治なだけだ」
「変な治り方をしたらどうするんですか。全くもう」
アンジェラはその辺に落ちていた木の枝を拾い、それを接ぎ木代わりにして、ハンカチで結んで固定する。
アンジェラがエドガーの手当てをしている横で、エルナーは空を見上げた。鷹が一羽、周囲を旋回している。エルナーが右手を軽く振ると、鷹はスッと舞い降りて、エルナーの右腕に止まった。
「王都の杖連盟に応援を頼むことにするよ。ネルソフを一人捕まえたって聞けば、喜んで引き取りに来ると思う」
「レ・ストネルムの奴らか?」
杖連盟にある特殊な部、闇属性魔法使用の魔法使い対策部の正式名を口にして、エドガーは首を傾げる。
「あの人達、本当にネルソフが嫌いよね。ネルソフ退治を皆嫌がるのに、あそこだけは嬉々として請け負うんだから不思議だわ」
ハンカチをぎゅっと結び、終わったと告げ、アンジェラは自分の額の血を乱暴に袖で拭った。少し切っただけだが、袖口にべったりと血がついて辟易する。見た目は派手だが、額は血が出やすいだけでそこまで酷い怪我にはなりにくい。
「アンジェラ、ほんとたまに男っぽいな。俺の怪我より、自分の怪我を手当てしたらどうだ」
「我が力、糧とし、癒しの光、ここに顕れよ」
呆れた視線を向けてくるエドガーをさらりと無視し、アンジェラは聖法の術五・癒しで怪我を治す。
「これでいいですか、先輩」
「……何で怒るんだい」
「先輩に心配される程、私は柔じゃありませんもの」
ふわっと微笑みつつ、余計なお世話だこの野郎と睨みつけられ、エドガーは首を竦める。どうもこの後輩、心配されるのが大嫌いな節がある。それも何故かエドガー限定で。前にビィから教えてもらったことでは、どうやら馬鹿にされているように思うらしいのだが、とんだ被害妄想だと思う。
二人を困ったように見てから、エルナーは話を戻す。
「さっきの話の続きだけど、レ・ストネルムにいる魔法使いの多くはネルソフに家族を殺されたり、呪いをかけられて人生が滅茶苦茶になったりした被害者なんだよ。闇の魔法を憎んでるのさ。でも、審査があるから、個人的な恨みでネルソフを殺めるような人間は入れないけどね。あくまで法で裁くのが目的」
「ああ、そういうこと。それなら確かに楽しいでしょうね」
納得、という口調でアンジェラは頷く。
「僕はこのまま追跡するよ。エドガーさん、あなたの怪我では無理があるからここで待機して貰っていい?」
「了解。こいつをレ・ストネルムに引き渡して、君達が進んだ方に案内すればいいんだな?」
「話が早くて助かるよ」
エルナーはにこりと静かに微笑み、用件を書いたメモ用紙を鷹の足に結わえ付け、何事か言い付けてから、鷹を空へ放した。