二十一章 たゆたいの水路 1
どれくらい前のことだっただろう。
もう随分長くここにいるので忘れてしまった。
光といえば天井から零れる僅かな光。水はとても澄んでいて綺麗だけれど、ここは暗い所だ。
彼女はまどろみながら、昔のことを思い出す。
赤い髪をした人間の王様。城のすぐ側にある銀鏡湖で、明るい日差しの中、笑っていたあの人。
――お前の髪と目は、日の光のようだね。
そう言ってくれる彼が大好きだったから、ここのお役目を引き受けたのだ。
懐かしい湖。
帰りたいなあ。彼女は小さく呟く。
もう彼はいない。人間だから、寿命が尽きて死んでしまった。
彼がいないのだから、帰ったって良いはず。
帰りたいなあと、また呟く。すると言葉は泡になって水面に浮かび、空気に触れて弾けて消えた。
彼女は水路の奥を睨みつけた。
あんなのが棲みついたせいだ。帰れないのは。
彼女は頬を膨らませ、奥にいるだろうあの魔物に負の念を送った。
* * *
「……というわけで、僕は不老になってしまって。母ときたら、そのせいでやたらと家から厄介払いしようとするんだよ。今回だってそうなんだ。あなたのお陰で疑いが晴れたから手伝えと言っているのは建前で、本音は僕を追い出したいだけなんだから。本当に困った人だよね」
「はあ」
フォウナン=トーエ出発後、昼食時の休憩で、焚き火を起こしてその横に座ってパンを食べている流衣の前に座って、先刻からぺらぺらと事情と母親への文句を連ねていたエルナーに、流衣は気のない声を出して頷いた。
どうしてここにエルナーがいるかというと、朝から今までのことを説明した方が早い。
フォウナン=トーエを出発する時、〈霧の魔女〉の言いつけでネルソフ対策にと送り込まれたらしいエルナーも同行することになった。劇団の人達は同行を渋っていたが、杖連盟の証明書まで見せられて渋々了解したようだった。
エルナーは荷物を積んだロバを引いて、一人てくてくとついてきていたが、流石に昼食になると一人は嫌だったようで流衣達の方にやって来て座ったわけである。
そして、前にネルソフから呪いをかけられそうになり、その際に抵抗したせいで「成長の止まる呪い」というものがかかってしまい、見た目は十六歳だけれど実は二十一歳だという話を披露して、そして最終的に母親への文句に繋がったわけだった。今は呪いを解く方法を探している最中らしい。あまりに呪いが強すぎて神官でも解くのは難しいので、呪いを弱めてから神官に頼もうとしているのだとか。
不老なんて夢のような呪いであるが、エルナーからすれば、見た目がすでに異端児なのに、不老なんて化け物にまではなりたくないんだそうだ。しかも、事故で元ある呪いからこのような形に変化した呪いなので、呪いのかけ方は存在せず、解く方法も存在しないので大変らしい。――そうだろう、不老の呪いなんてものがあるのなら、不老を望む者によって、そこら中、不老だらけになってもおかしくはない。
「ええと、じゃあ、ナターシャさんもその呪いに?」
どう見たって三十代にしか見えなかったナターシャを思い出し、流衣は問いかける。エルナーが二十一なら、ナターシャは四十代くらいということになるからだ。
エルナーは虚を突かれた顔をして、まさかと首を振る。
「あれは、母の努力と根性と、美容にかけたお金によるものだよ。呪いでもないのにあそこまで若作りだと、逆に化け物みたいだよね」
そして、エルナーは邪気のない笑みを浮かべ、にこりと言い切った。
穏やかな笑みとともに吐かれた容赦のない毒に、流衣は頬を引きつらせる。
とても静かで優しそうな人だと勝手に思っていたが、流石はあのさばさばとした女性の息子だけあって毒舌でもあるらしい。それとも、母親に対してのみの容赦の無さなのだろうか?
「ううーむ、女性の美容へのこだわりは物凄いからな。私の姉上もそうだから、分からないこともない」
ディルは軽く唸り、何を思い出したのか少し身震いしてからそう言った。
「ふうん、そんなもんなのか。女の知り合いはそんなにいねえから、よく分かんねー」
もそもそとパンを頬張り、もごもごと言うリド。エルナーはそんな二人を穏やかな笑みとともに見つめ、話を続ける。
「まあ、僕個人としては嬉しくないけれど、呪いを受けて良かったこともあるんだよ。この呪い、あんまり強すぎて、他の呪いが効かない体質になってしまってね。お陰でネルソフ対策によく回されるんだ。今回もそうだね。――ま、探しているネルソフメンバーがいるから、ある意味ちょうど良いんだけど」
エルナーは小さく溜め息をついて、静かに三人を見た。
「あなた達は聞いたことがない? 〈蛇使い〉って呼ばれてるネルソフの老人を」
「僕はないなあ。二人は?」
流衣が話を振ると、それぞれ首を振る。
「いや、俺もねえや」
「私もない」
「そっかあ。そうそう見つかるわけないか……」
ふうと息を吐くエルナー。
「その爺さんがどうしたわけ?」
「僕に呪いをかけた人でね。その人を見つけて血の一滴でも奪えれば、呪いを弱めることが出来るんだよ。一番手っ取り早いからずっと探してるんだ」
リドの問いにそう答え、術者が死ねば呪いも解けるのだが、もし命を奪おうものならネルソフからの報復が待っているので、そっちは御免らしい。折角呪いが解けても、他のメンバーに呪われたのでは堪らないからだ。
「蛇使いかあ……」
流衣はパンを頬張り、咀嚼しながらそう呟く。
ふと、あのネルソフの老人の影の蛇を思い出し、まさかねと首を軽く振るのだった。
エルナーが加わった後の旅は普通に平凡で平和で、フォウナン=トーエの次の町を過ぎた。流衣達はその町を抜け、王都手前の町ブレイメンに向けてガロガロと車輪の音を鳴らして進んでいた。
「ここ数日、この辺は盗賊が多く出ているそうだぞ」
食堂のテーブルについている流衣に、向かいに座ったディルがそう言った。調理場はすっかりルディーに占拠されており、流衣はここの所、暇を持て余している。ついでに言えばレシピ本も取られたまんまだ。でも返してくれなんてルディーの剣幕が怖くて言い出せない。
また買えばいいやと内心しょげかえりつつ、流衣はディルに視線を向けた。ディルもまた暇を持て余しているうちの一人だ。移動中はあまり手伝うことはないらしい。リドも暇過ぎて屋根で昼寝をしていることだろう。
「盗賊?」
「うむ。まあ普段から王都の手前は盗賊が出没しやすいが、どうも組織だって動いているようだぞ」
ふーんと返しながら、流衣はカザエ村を襲ってきた盗賊団を思い出した。
「それって、レッディエータ? だったかな、あの盗賊団みたいな感じ?」
「そうだ。しかし意外だな、西部では有名な盗賊団なのに知っているのか?」
流衣はこくりと頷いた。
「リドの住んでる村を襲撃してきてさ、リドがほとんど一人で追い払ったんだ」
「まあ確かに雑魚は倒したが、親玉はこいつがやっつけたんだぜ」
今日はこの荷馬車の屋根で昼寝をしていたのか、話が聞こえたらしくリドが窓から顔を出した。足を屋根に引っ掛けているのか、逆さまになっている。
流衣はそれを唖然と見て、すぐに顔色を青くする。
「ちょっ、リド! 幾らなんでもそれは危ないよ!」
わたわたと両手を振り、かといってどうすればいいやらでその場で慌てていると、リドは一度窓から姿を消し、次に足が見えたと思ったら窓から滑り込んできた。
「平気だって、俺、身軽だしな」
「そういう問題!?」
裏返った声を上げる流衣。リドはそれが面白かったらしく、けらけらと笑い、窓枠に座ってディルを見た。少し声を小さくして言う。
「ちなみに、俺、昔はその盗賊団にいたんだ。前にも話した通り、誘拐されて。十三の時に逃げ出したんだけどな、まさかあいつらが東部の辺境にまで来るとは思わなかったぜ」
「……実戦がどうとか言ってたのはそのせいか?」
ディルは軽く目を見張って、思い出したように問う。
「まあな。あいつら追い払えたし、親玉は辺境警備隊に捕まったし、言う事なしだ。騎士様にゃ問題あるかもしれねえけどな」
そうしてリドは飄々と言いながら、僅かに琥珀色の目に物騒な光をたたえ、どこか面白そうに笑みの形にする。
ピンと見えない糸が張られたように、空気に緊張感が生まれた。
流衣は思わず息を呑んだ。はらはらと二人を交互に見る。
ディルは目を眇め、面白くなさそうに眉を寄せる。
「……なんだ、それは私を試しているのか? 君がケリを付けたのなら、それをとやかく言う権利などあるまい。盗賊稼業は確かに良いことではないが、被害者だと自分でも言っただろう」
途端にリドは物騒な気配を引っ込め、にっと歯を見せて笑う。
「さっすが~、話分かるじゃねえか」
対するディルはますます不愉快そうに眉間に皺を刻む。
「こういう問いかけはやめてくれ。私は駆け引きは苦手なんだ」
「そうかい? 俺はなかなか好きだけど」
更に楽しげに笑みを浮かべるのを見て、ディルは軽く溜め息を漏らす。流衣も息をついた。
「僕もそういうの苦手だよ。心臓に悪いなあ、もう。喧嘩なんて始まっても、僕、止められないからね!」
流衣がへたれ感満載でそう言うと、リドは片眉を跳ね上げる。
「うーん、さっきのは別に喧嘩するつもりだったわけじゃないんだが。まあいっか、お子様には分かんねえよな!」
「おこ、お子様!? 僕が? だからもう十五だって言ってるでしょ!」
気持ち良いくらいにすっぱり言い切られ、流衣は必死で言い募る。
「はいはい」
リドはどうでも良さそうに右手を軽くひらつかせた。必死で言い張る子供を大人が適当に宥めるみたいな態度で返されて、流衣はがくっと肩を落とす。完全に子供扱い……。そこまで子供に見えるのだろうか?
と、その時、突然馬車の振動が止まった。
何だ、と訝しく思った瞬間、何か丸い物が窓から放り込まれた。
「えっ!」
石か何かかとそれを凝視した時、パァンと玉が弾け、煙がぶわりと立ち込めた。