二十章 霧の徘徊する町 3
「ぎゃーっ! すみません! 何したか知りませんけどごめんなさい! だから迷わず成仏して下さいぃぃっ!!」
「うわああん、ルー兄、怖いよぉっ」
引きずりこまれて地面に放り出されるや否や、流衣はすぐさま謝り倒した。パニックに陥ったジェシカが泣き出し、ますます力を込めて首にしがみついてきて、流衣は幽霊よりも逼迫した身の危険を覚えて声を漏らす。
「ぐっ、苦しいジェシカっ。死ぬ……っ、首絞めないで……!」
「ふええぇぇ」
「大丈夫だよ、おチビちゃん。怖くないからね」
てっきり女の人かと思っていたが、予想外にも男の声だった。しかも声の感じだと子供のような感じだ。
それでジェシカの恐慌が収まり、流衣も解放されて激しく咳き込んだ。
――ほ、ほんとに死ぬかと思ったっ。
喉に手を当ててゲホゲホ咳き込みながら、命の危機を脱したことに安堵する。
「……お、お兄ちゃん、ユーレーじゃない……?」
緑色の目の縁に涙を浮かべ、流衣にしがみついたまま恐る恐る問いかけるジェシカ。流衣の聞きたいことも概ね同じだったので、流衣も無言で少年を見上げた。
少年は流衣とそう年が変わらないように見えた。白い髪は短く切られ、紅茶みたいな綺麗な赤色の目をしている。着ている服は白い簡素な麻のシャツと、ふくらはぎまでのかっちりした黒いズボンで、裾には金属のボタン飾りが付いている。そして黒い布製のペタンとした靴を履いている。室内履きにも見えた。
今までピンク色の髪や青みがかった黒髪というものを見たので、変わってるなあくらいの認識で少年を見た。総合理科の資料集に載っていた、アルビノのトカゲや金魚が頭に浮かぶ。
「違うよ。もう大丈夫、よくここまで逃げ切ったね」
見た目が優しげな少年は、落ち着いたトーンの声で呟くように言った。よく聞かないと聞き漏らしそうな小さな声なのに、不思議とよく響く。
少年の声がすとんと胸に落ちて、流衣は肩の力が抜けた。そこで初めて周囲を見回す余裕が生まれる。
「ここは……?」
灰色の石造りの部屋だった。というか部屋、なのだろうか? 流衣とジェシカの真後ろには分厚い木の扉があり、二人から見て右手の奥から上へと階段が伸びていて、一度踊り場で九十度に曲がって更に上へ続き、その先に部屋があるのか四角い穴がある。今いる一階部分には、食器棚やクロスのかかった四人がけの四角いテーブルや椅子、調理場がある。一番奥には別室があるのか扉があった。
テーブルのある所にだけ広い赤色の絨毯が敷かれている。ランプなどは見当たらないのに、何故か明るい。
「時計塔だよ。僕はエルナー・フォーン。〈霧の魔女〉の息子、といえば分かるかい?」
やんわりと名乗られて、流衣とジェシカは再度震え上がった。
「霧の魔女! ぎゃーっ、すいません、ほんと成仏して下さい!」
「うわああんっ」
「うるさいガキどもだねえ。誰が成仏だって?」
二階から、長い金髪を複雑に編みこんだ三十代くらいの女性が降りてきた。カツカツと黒いハイヒールを鳴らし、黒いレースで縁取りをした青紫色のドレスの裾を揺らしながら。お世辞ではなく、正真正銘の美女だ。
「あ、あれ?」
流衣は混乱した。さっきの女の人は金茶色の髪をしていたし、喪服みたいな黒いドレスだった。
「お前も勘違いをしている人間の一人のようだね。先に言っておくけどね、あたしは人攫いの霧とは何の関係もないよ。確かに水の魔法は得意だし、霧を出すのも容易だが、あの霧と私の霧とではそもそもの質が違うのさ」
淡い緑色の切れ長の目に少し物騒な光をたたえ、魔女は言った。
「まあそこにお座り、お若いの。それからお嬢ちゃんも」
魔女に促されるまま、座り込んでいた床から立ち上がってテーブルの方に行く。流衣は困惑していたが、ジェシカは大丈夫だと分かるや好奇心いっぱいに部屋を見回している。小さい子って怖いもの知らずで良いなあ。
「あたしはナターシャ・フォーン。通り名は〈霧の魔女〉だ。お二人さんは?」
「ルイ・オリベです」
「ジェシカ・スクレドニだよ」
ジェシカがにこりとはにかんで名乗る。
「あと、こっちはオルクスといいます。……って、あれ?」
流衣は今になって初めてオルクスが肩にいないのに気付いて、辺りをきょろきょろと見回した。そういえば、ジェシカが首にしがみついてきた時も静かだった。
「オルクス?」
「僕の使い魔で、オウムの姿をしてるんです。おかしいな、霧に飲まれる前はいたんだけど」
「霧の中ではぐれたのではないか? あれはただの幻影の術ではなく、転移も少し織り込まれているものみたいだからね。霧の中ではぐれたのなら、今頃は町のどこかに放り出されているだろうよ」
「あ、だから時計塔に?」
ナターシャの言葉に、流衣はパッと閃く。
「まあそういうことになるか。あたしはあんた達が逃げているのに気付いて、この子に術に干渉させただけだよ。時計塔周辺はあたしのテリトリーだからね」
「へえ……?」
よく分からないが、テリトリーの中のことは手に取るように分かるとかそういう話なのだろうか?
ジェシカと揃って目をしばたたかせていると、エルナーが紅茶を淹れたティーカップを四人分並べた。お茶菓子のクッキーも籠ごと真ん中に置き、ナターシャの隣の席に座る。
ナターシャは紅茶をおいしそうに一口飲んでから、出し抜けに訊いた。
「――で?」
流衣もお茶を飲んでいたので、飲み込んでから聞き返す。
「で、とは?」
「どっちが狙われたの?」
ナターシャの問いに、流衣は迷わず答える。
「ジェシカの方です。僕はたまたま側にいて、女の人がジェシカに触ろうとしてたのと、あと、不気味だったんでジェシカを抱えて逃げて……」
ジェシカもこくこく頷く。クッキーを頬張っているので口を開けないみたいだ。
「女か。どんな奴だった?」
流衣はあったことを隠さず話した。
一通り話を聞きだすと、ナターシャは大笑いしだした。
「あははは、なるほど! それで『成仏して下さい』ね! それは勘違いするわ、お気の毒様!」
きゃらきゃらと、女の人特有の甲高い笑い声を上げて笑う。やがて落ち着いてくると、目尻に浮いた涙を拭ってから、ふうと息をついた。
「こんなに笑ったのは久しぶりだよ。ああもう、お腹が痛い。別にそいつは幽霊じゃないよ。恐らく、子供か、もしくは対象にだけにしか見えないようにしてたんだろう。生きてる術者さ」
「そうなんですか! 良かったぁ」
「うん……でも怖かった……」
ジェシカがぽつりと呟く。
「僕も怖かった。幽霊じゃないのを抜いても不気味だったし。仮面といい、真っ黒いドレスといい」
「闇属性の魔法を使う魔法使いっていうのは確かだけどね。あたしや杖連盟も調査してるってのに、なかなか尻尾を出さなくて困ってたところだよ。あんた達のお陰でだいぶ情報を得られた。ありがとう」
にっこりと満足げに微笑むナターシャ。
その様はとても綺麗なものではあったが、礼を言われた中身については複雑な心境だ。
「あの、子供か対象にだけにしか見えないなら、どうして僕は見えたんです?」
「術者より魔力が大きいこと、目が良いこと、そのどちらかが条件になる。あとは解呪の得意な神官ってところだが……」
ナターシャはじろじろと流衣を観察し、断言する。
「どう見たって神官には見えないから違うんだろう。どうだい?」
「はい、合ってます。僕はまだ成り立てですけど、一応魔法使いですから……」
ここでジェシカがきょとんと目を瞬いた。
「え、そうだったの? あっ、でもさっきお婆ちゃんがそんなこと言ってたね」
「うん、でも他の人には秘密だよ」
流衣が口元に人差し指を当てて言うと、ジェシカは頷いた。
「大丈夫だよ。お父さんとの約束だもん。それにジェシカは口がかたいんだよ」
にこっと可愛らしく笑うジェシカ。
ナターシャは柳眉を片方、僅かに持ち上げた。
「訳ありかい?」
「いえ、今、ある人の護衛をしてるんです。といっても、僕は単についていってるだけな感じで、ほとんど友達がしてるんですけど。それで途中で、その、襲ってきたのがネルソフだって分かって」
「ネルソフねえ。十分、厄介事の匂いがするよ」
テーブルの上に両肘を乗せ、指を組んで、気に食わなさそうに嘆息するナターシャ。それだけで一枚の絵のようで、流衣はどぎまぎした。こっちの人は、流衣にとっては外国人だからか皆綺麗に見えるのだが、この人は取り分け美人に見える。
その彼女の息子もまた、見た目は変わっているが綺麗な顔をしている。静かに淡く微笑んでいるが、流衣みたいに気弱な印象はなく、まるで夜の月の光を連想させる澄んだ空気を持っていた。母親が太陽なら、息子は月というところか。
「ところで、あの仮面の人はどうして人を攫ってるんですか?」
「知るわけないだろう、そんなこと。知ってるのは、子供ばっかり狙うってことだけだ。それも丁度その子と同じ年頃の子ばっかり」
「わたしみたいな子?」
ジェシカは不思議そうに、大きな目をしばたたかせる。
ナターシャはジェシカをじっと見つめ、急に席を立つと二階へ行き、またすぐに戻ってきた。
「折角逃げおおせたんだ。これをあげよう、お嬢ちゃん」
ナターシャはミサンガのような紐で編んだ腕飾りを、ジェシカの左手首に巻きつける。
「身を飾りし者を、魔から遠ざけ、固き守りあれ」
そして紐を結びながら呪文を呟いた。
結び目が出来た一瞬だけ、ミサンガに青い光で呪文が浮かんだのが流衣には見えた。
「これって魔法道具ですか?」
「ああ、そうだ。魔除けのお守りさ。お嬢ちゃん、この町を出るまではずっとつけておくんだ。守れるかい?」
ジェシカの目を覗き込み、ナターシャは大真面目に言う。ジェシカはこくりと頷いた。
「うん、ジェシカ、ずっと付けてる。ありがとう、魔女さん」
「良い子だ」
にっと笑い、ナターシャはジェシカの頭を撫でる。意外に子供好きなのかもしれない。
「さて、そろそろお帰り、お二人さん。お仲間が騒ぎ始めてるかもしれないからね」
「はい。助けてくれてありがとうございました。それと、お茶、ご馳走様です」
流衣は丁寧に頭を下げる。ジェシカもそれを見て、真似して頭を下げた。
「ありがとう」
ナターシャはふふっと微笑み、エルナーに言い付ける。
「エルナー、念の為だ、送っていっておやり」
「分かりました。では行って来ます」
エルナーはフードのついた白色の外套を取ってくると、それを着てフードを目深に引き下ろし、流衣達とともに外へ出た。
「お兄ちゃん、どうしてお顔隠しちゃうの?」
流衣と手を繋いで歩きながら、ジェシカがとても不思議そうに訊いた。
「僕にとって、外は優しい所ではないから」
エルナーは僅かに眉尻を下げ、淡く微笑んだ。フードの下の顔は、頭の位置がエルナーよりずっと下にあるジェシカにはよく見える。ジェシカにはエルナーが悲しそうな顔をしているように見えた。
「泣いちゃ駄目だよ、ジェシカも悲しい」
「泣いていないよ?」
「でも、お顔が悲しそう」
エルナーはまた微笑んだ。
「ジェシカは優しいんだね、ありがとう」
そんな二人の遣り取りに心温まる思いがしながら、流衣は首を僅かに傾げる。
「やっぱりアルビノだと紫外線に弱いの?」
「――え」
エルナーがびっくりしたような声を出した。
それで流衣は幾らなんでも不躾過ぎたかもしれないと慌てる。もしそのことでハンデを抱えている人だったらあまりにも失礼だろう。
「あ! その、ごめんっ。悪気はなかったんだ。ただ、そうかなって思って……」
エルナーは首を振る。
「そうじゃないんだ……、確かに僕は日の光には弱い。あまり浴びすぎると肌が火傷するし、目だって視力が落ちてしまう……。けど、そうじゃなくて」
そう言いながら、戸惑ったようにこちらを見るエルナー。
「?」
流衣は首を傾げる。エルナーが何を言いたいのか、察したくても分からなかった。
「もしかして本当に知らないのかい? 異端児のこと……」
「異端児?」
何となく不穏な響きのする言葉だ。流衣は繰り返して呟きながら、やっぱり分からなくて首をひねる。
「異端児っていうのは、僕みたいな、生まれつき色素が薄く生まれた子供のことをいうんだ。失くした色の代わりに、膨大な魔力を宿して生まれてくる。――でも、大きすぎる力は歓迎されないのと見た目の不気味さから、忌まれるんだよ」
「……ごっごめんっ、嫌なこと言わせちゃって」
良心がしくしくと痛んだ。言いたくないだろうことを説明させてしまったらしい。それも本人の口から。
霧の魔女の子供が災厄であると占い師が言い、それで屋敷を母子ともに追い出されたという話を思い出した。
「僕、アルビノっていうのは突然変異っていう認識しかなくて……。人で見たのって初めてだったけど、ここの人って色んな人がいるから、そういう人なんだと思ってた。大変……だよね。大変なんてものじゃないかもしれないけど」
エルナーは優しく微笑んだ。
「小さい子は知らないからともかく、あなたみたいな歳の人に訊かれて驚いただけだよ。だから気にしなくていいんだ」
「……ありがとう」
エルナーは何て優しいんだろう。流衣が無知なばかりに、不躾で失礼なことを聞いてしまったようなのに、気にしなくていいとまで言ってのけるなんて。
感心しきりでいると、急に、えへへへ、とジェシカがはにかんだ。
「お兄ちゃん、ルー兄となんだか似てる」
流衣は首を傾げた。
「ジェシカ、全然似てないよ。僕はこんなに綺麗な顔してないよ?」
「違うよルー兄。見た目じゃないの。そりゃあお兄ちゃんはキレーだけど、そういうんじゃないの」
「…………」
二人から綺麗綺麗と連呼され、エルナーは複雑そうに口を閉ざす。
男の子への“綺麗”は褒め言葉ではないのだろうか?
「あのね……」
ジェシカが笑顔満面で付け足そうとした時、空の上から黄緑色の塊が飛来し、突撃してきた。
「うわっ!」
びっくりして受け止めたものの、何となくその正体にすぐに気付く。
「……オルクス? ああ、良かった! 今から劇団に戻るところだったんだけど、どこではぐれたか分からなかったから……」
『全く、不届き千万な霧です! 明確な悪意を感じます! 使い魔であるわてを引き離し、一体どうするつもりだったのやら!』
オルクスはカンカンに怒っていた。
「引き離しっていうか、うーん、単にはぐれただけじゃ……」
流衣がそろーっと言ってみるが、頭に血が上っているオウム殿には通用しなかった。
『いいえっ、あれは悪意です! そうに決まってます! ああ、最近、とんとお側でお守りすることが出来ず、わての勘が鈍っていたのやもしれませんっ』
「……オルクス? オーイ」
『かくなる上はあの術者、絶対にひっ捕らえてふんじばって王国警備隊に突き出してやらねば!』
「術者って、……見たの?」
流衣はびっくりした。思わずオルクスを両手で目の高さまで持ち上げる。
『見ましたとも! その後、いきなり振り飛ばされて地面に落ちてしまいましたが……。むむむ、あの術者め、やりおりますっ』
いや、それは普通に自分が振り落としてしまっただけだから。
そうか。ジェシカを抱えた時にオルクスが落ちたのか。あの時は必死だったからなあ、さっぱり気づかなかった。
いつの間にか立ち止まっていたらしい。オルクス相手に唸っていたら、ジェシカとエルナーがじっとこっちを見ているのに気付く。
はっ、そうだった。劇団員にはオルクスは使い魔とは言っていないのだ。変に思われたのかも。
「ルー兄、オウムさんと仲良しなんだね」
「……うん、まあ」
良かった、ここにいるのがジェシカで。ジェシカは、仲良くしていればそれで満足というところがあるのだ。
「確かにそうだね。相性が良くないと心を通わせることは出来ないから」
何と、とは言わず、エルナーも微笑ましげに呟いた。
(そうなんだ)
新事実に驚く流衣。流石は魔女の息子だけあって、使い魔事情にも詳しいらしい。
『坊ちゃん、あの術者ですが、なにやら血の匂いがしていましたよ。とっちめてやりたいのは山々ですが、坊ちゃんは近付かない方が宜しいかと。わての制約を解除して頂ければ、一人で駆逐に参りますが?』
物騒な声で物騒なことを言いだすオルクスを、流衣はまじまじと凝視した。ちょっと言葉に詰まってから、何とかひねり出す。
「駆逐って、君、虫じゃないんだから……」
『霧に乗じて人をさらい、しかも血の匂いをさせている者が害虫でないと?』
「…………」
きつい返しに、流衣は黙り込んだ。どうやらオルクスは相当ご立腹みたいだ。意趣返しをしないとおさまらないのだろう。……ほとんど勘違いで怒っているのに。
「あの人を捕まえて、王国警備隊に連れて行くこともできるってこと?」
『坊ちゃんがそうお望みなら。ですが、あれは王国警備隊では荷が重すぎましょう。杖連盟に突き出した方が賢明かもしれませんね』
流衣は数秒悩み、結局は頷いた。
「うん、分かった。劇団に着いたらにしよう」
『畏まりました』
意が通り、満足して恭しげに返すオルクス。
怪訝の目を向けてくるエルナーには、劇団に着いてから、杖連盟に連絡してもらうように頼んだ。
結論から言えば、連続誘拐事件の犯人である術者は杖連盟に拘束された。
術者の家である屋敷にいる所を、不意をついたオルクスが強制的に一緒に転移し、杖連盟に送られた結果だ。
術者の女性は、町外れの屋敷に一人で住んでいる未亡人との話だった。
杖連盟から派遣された魔法使いと王国警備隊の隊員が屋敷を調査した所、彼女の屋敷の庭には幾つもの墓があった。それは、死んだ子供を蘇らせるべく、闇の魔法に手を染めた結果だった。さらった子供の命と引き換えに使う術だったらしい。
あと少しで蘇生が上手くいったのに。術者の女はそう泣き叫んでいたという。
昨日の一騒動でフォウナン=トーエから憂いは消え去り、出歩くのを忌避していた町の者が出てきたのもあり、翌日の劇は大盛況だった。
何となく、腹の辺りに感じる居座りの悪さを除けば、とても平和で楽しい光景である。
「……はあ」
舞台袖から劇の様子を眺めながら、一人重っ苦しい溜め息をつく流衣。
なんだか、微妙な気分だ。何でだろうと考えれば、何てことはない、嫌な事件の現場にオルクスだけ行かせて片付けてもらったのがつっかえているのだった。
『坊ちゃん、気になさらなくて宜しいのですよ。主人に代わり仕事を果たすことこそ使い魔の本分です』
「でも、それ以前にオルクスは僕の友達でしょ? 友達に嫌な仕事押し付けたみたいで、やっぱり嫌だな」
何となく偽善みたいで、そんなことを言う自分に吐き気がする。でもやっぱり口から零れてくる言葉は止まらない。
「……ごめん」
『……坊ちゃん、わてはあそこに坊ちゃんを連れて行かずに済んで良かったと思っていますよ。大体予想はしていましたが、酷いものでした。
それにわては魔物です、人間とは違うのです。あれが何であれ、わてには命の枠を終えたモノでしかありません。あそこには魂すら残っていなかった。あとはレシアンテ様の領域です』
オルクスはちょこんと流衣の膝に止まり、流衣を覗き込むように見上げてそう諭した。
「レシアンテ様って?」
『運命と生命を司る女神様です。人は死すればその魂はレシアンテ様の御許にいき、かの方の花園で浄化という名の安息を得、かの方の手によりまた生を得る。尊いお方です』
「……そっか」
遠回しにではあるが、慰められた心地がした。
墓の主はレシアンテという女神のもとに行ったのだと、そう言われたような、そんな気がして。
「駄目だなあ、なかなか慣れなくて」
物騒さ加減にも、死が身近に感じられるという事態にも、何もかもに慣れない。
『こういうことに慣れる必要はありませんよ。トラブルや魔物に注意することだけは慣れて欲しいですが』
ここぞと押し込まれた言い分に、流衣はふっと笑みを零す。
「そうだね」
流衣が小さく頷いた時、舞台が一つ幕を閉じたのか、客達の盛大な拍手が鳴り響いた。その音は晴れた青空に吸い込まれ、穏やかな昼下がりに彩りを添えた。