十九章 奇策
「闇魔法使いがついているとは思っていたけれど、まさか襲撃者全員がそうだなんて。……ですがそれなら殿下の部下の方達が皆殺しにされたのにも納得がいきますわ」
リドの話を聞くと、しばらく黙り込んで考え込んだアンジェラは、厳しい顔になり冷静な声で言った。
ヴィンスの部下は戦闘経験も豊富な、いわば精鋭も混じっていたのだ。それなのに突然の襲撃程度で全滅したから、何かおかしいと思っていた。
一瞬、仲の良かった部下のことを思い出して沈痛な表情になったヴィンスであるが、すぐにその表情を消して不可解さに眉を寄せる。
「ネルソフを雇ってまでして、一体何故私を狙うのです……?」
自分が王子の時ならともかく、今は臣下に下った身である。確かに王弟という意味では尊ばれてはいるが……。それにしたって解せない。
「これは噂に過ぎないのですが、ヴィンセント様」
アンジェラは言うべきか逡巡した後、意を決して口を開く。
「一部の反女王派が反乱を起こすかもしれないらしいのです。まだ明確な確証までは得ておりませんが……」
「反乱……!?」
ヴィンスは目を丸くした。寝耳に水とは、まさにこのことだ。
「何故です? 姉上が二年前に王座に就かれ、徐々に力も増しつつある今にですか?」
「今だから、だと思います。完全に力をつける前に叩こうとしているのでは? あくまで確証はないので推測ですが……」
ヴィンスは秀麗な眉をひそめ、顎に手を当てて思案する。
「推測で構いません。その、反乱分子に心当たりは?」
アンジェラは曇った表情で答える。
「西から南の貴族です。中には女王派もおりましょうが」
「その可能性はどれくらい確かなのです?」
「……限りなく黒に近い灰色、といったところです」
ヴィンスは沈黙し、嘆かわしそうに溜め息をつく。
「なるほど、そういうことですか。叔父上が関係しているのですね……」
「恐れながら、おっしゃる通りかと」
アンジェラもまた居たたまれない思いである。
前国王陛下の弟君であり、現女王陛下と王弟殿下の叔父にあたるその人は、西の一帯を治める強力な力を持つ領主である。女王が継ぐに当たって、色々と反対していた人でもあった。
「反乱分子がヴィンセント様の御身を拘束する気なのか、命を奪うのか、わたくしには分かりかねますが、このアンジェラ・リーベル率いる一隊で、必ずや王都までお連れ致します」
左胸の前で右手の拳を握る敬礼をし、アンジェラは誓いを述べる。
「ありがとうございます」
ヴィンスは感銘を受けて軽く目を瞠り、それから静かに目を閉じる。アンジェラや、アンジェラを寄越したリシャウスの忠誠の気持ちが胸に響いた。
一枚の絵のような光景に、流衣は感動していた。
これが中世のありようなのかもしれない。実際に目にするとこんなに深く胸を突かれるのだなと、安堵にも似た息を漏らす。
(けど、まさか反乱か……。ということはそのうち内乱が起きるってこと?)
今一それがどういう事態になるのか深刻さが分からないのだが、折角戦争のない平和な時代に来たと喜んでいたのにという残念な気分になる。
「それで一体、どのように対応されるおつもりです?」
全く空気を読まないオルクスの一言が、場の穏やかな雰囲気を吹き飛ばした。
少しは気を遣えよとリドは目を眇め、ディルもまた苦笑している。流衣もほぼ似たような複雑な表情になる。
「町まで来ているとなれば、あの馬車を使えばばれてしまうこと請け合いですね。もしかすると町の門で待ち伏せされているかもしれません」
アンジェラはぶつぶつと呟き、考えを巡らせる。
「かといって徒歩で進めば容易く追いつかれましょう。先輩は何か良い案はございません?」
エドガーは急に話を振られて面食らう。
「急に言われてもな……」
皆、それぞれ唸って考え出した。
「リドやディルの髪の色や服装は見られているし、変装した方がいいってことだよね。うーん、変装、変装かあ……」
流衣はぶつぶつと呟き、ふと、食堂にいた吟遊詩人を思い出した。
「あ、変装っていえば、移動劇団が明日出発だって言ってたな……」
変装といえば衣装、衣装といえば劇。そんな連想の果て、流衣はぽつりと小さく呟いた。
「それだ!」
エドガーがいきなり声を上げた。いきなり近くで叫ばれ、流衣はびくりと肩を揺らす。
「それがとは……?」
アンジェラは眉を寄せ、エドガーを一瞥する。
「だから、移動劇団だよ! そこに団員として紛れ込むんだ。馬車も細工して、ついでに俺らの衣装も全部変えちまえば良い。髪色がばれている奴は染めればいいし」
その提案に、アンジェラの顔が喜色に輝く。
「確かにとても良い案だわ。ようは、ヴィンセント様がヴィンセント様だとばれなければいい。つまり男に見えないで、女に見えれば良いということね!」
『へ?』
激しい論理の飛躍に、部屋にいた男性陣は揃って固まった。一番石化したのは、名指しされたヴィンスである。
「……あ、あのうアンジェラ? それはどういう……」
「大丈夫ですよ、ヴィンセント様! 貴方様のような美しい顔立ちなら化粧と髪型次第で女の子に見えます! 大人でなくて良かったですわ!」
アンジェラは一人舞い上がり、両手を組んで、うふふふと花を舞い散らす。
「じょ、冗談ですよね?」
ヒクヒクと頬を引きつらせ、ヴィンスが嘘であってくれと言わんばかりに恐る恐る問いかける。
「嫌ですわ、大真面目に決まっているではありませんか! 素敵ですわ、なんて楽しそうなんですの。ああ、腕が鳴ります~」
完全に乙女モードに移行してしまったアンジェラは、浮き浮きと袖をまくり始める。
それから、にこにことエドガーを振り返る。
「ヴィンセント様のことは私にお任せ下さい。先輩は移動劇団の所まで行って、話を付けてきて下さい。報酬はあなたの采配で決めて頂いて結構です」
「は、はあ。じゃあ行ってくるよ」
エドガーはヴィンスに若干同情の目を向け、それから微笑みを撒き散らしているアンジェラを不気味そうに見てから部屋を出て行った。
「うふふ、まずは衣装を揃えなくてはね。どうしようかしら、町娘風で良いかしら。ああ、でもきっと貴族の令嬢にしか見えないのでしょうね」
ぽわわんとアンジェラは夢見がちに呟く。
内容さえ無視すれば、とても可愛らしく目に映る。そう、内容さえ無視すれば。
「じゃあ俺らも髪染めの染料を探しに行くか。あと、ディルも衣装買う必要あるな。大剣も目立つし、布か何か探して包めよ」
「うむ、そうだな。しかし面白いな、変装とは初めてするぞ」
「僕もした方が良いのかなあ」
流衣達は互いにそう言い合って、そそくさと部屋を後にする。
「ちょっ、酷いです、一人にしないで下さい!」
まな板の上の鯉な状態に陥っているヴィンスは必死で呼び止めようとしたが、余計な飛び火が来るのを恐れた少年達の行動は早く、間に合わなかった。
残ったのは、戦々恐々と長椅子で顔を青くするヴィンスと、夢見がちに微笑み続ける護衛のリーダーたる妙齢の女性の二人。
はっきり言って、かなり不気味な光景だった。
* * *
かくして、奇策は実現し、ヴィンスとその護衛一行は移動劇団スカイフローラに紛れ込むことに成功した。
花形のヒロイン役を演ずる吟遊詩人リメランがアンジェラの友人であったことと――判明した時は互いに驚いていた――、団長のクレメンスがヴィンスに同情したことにより、すんなり決まった。
劇団の裏方と共に馬車も見た目を改造し、舞台セットの一部でついてきているように見える物にまでなった。質素な緑色の馬車がピンク色に塗られているので、何となく、近付くのに抵抗を覚えてしまう程の変わり様だ。凄い。何がって、そりゃあ勿論ピンクで塗ってしまうそのセンスがだ。
ヴィンスは勿論、護衛一行は皆、それぞれ服装や髪色を変えて変装している。
流衣もまたそうだ。マントを脱いで若草色の厚めの上着を着、頭に青色のバンダナを巻いただけではあるがパッと見では同一人物か分からないだろう。勿論、杖も手にしていない。魔法使いという印象を取り除いた結果だ。
リドは鮮やかな赤色の髪が目立っていたので、髪を焦げ茶色に染めた。それだけで、何だか品の良いお坊ちゃんに見えて驚いた。飄々とした態度で隠れてしまうが、顔の素地は良い方なのだ。服装は緑色のロングニットの上着と、白い長袖のTシャツ、あとは元の通りの灰色のズボンとブーツである。額に巻いていた鉢巻を外し、代わりに白色のキャップ型のニット帽を被って、前髪を目元まで引き下げている。どこから見ても別の人間にしか見えない。二本付けていたダガーは一本に減らし、腰の横ではなく後ろに来るように吊る念の入れようだ。
それから、ディルはというと、銀髪を黒く染め、楕円形の銀色フレームをしたダテ眼鏡をかけ、生成り色のシャツと臙脂色の布製ベスト、黄土色のズボン、黒い革靴という、いかにも学生さんといった感じの服装で纏めている。本人も、学者志望の学生をコンセプトにしたと言っていた。何だかとても楽しそうだった。一般人の服は着やすいのだなと感心していて、やっぱり貴族のお坊ちゃんだと思ったりもした。
流衣達の格好を見て、一人だけ女装させられたヴィンスが物凄く怨念を一杯にこめた視線を向けてくるのを、流衣達は見ない振りをしていた。茶色い女物の鬘を被り、町娘のようなエプロンドレスに身を包んだ姿はどう見ても美少女だ。だから睨まれても別に怖くはないが、いつとばっちりがきて女装の憂き目に遭うか知れないので、極力目を合わせないように心がけている。
まあそれはともかくとして、流衣は劇団の食事当番を手伝っている。理由は、元々捨て子を拾ったりして結成している劇団らしく、料理がまともな味をしていなかったせいだ。唯一まともな食事を作れそうな団長は味覚オンチだし、女性であるリメランならどうかと思えば、ゆるゆるな空気が手伝ってか料理する以前に辺りを散らかして作業が進まない。それで見かねた子供達が作っていたわけである。
味がするようなしないような、おいしくもまずくもない、そんな妙な味のするご飯を一食食べて、これは料理ではないと憤然としたアンジェラが改善に乗り出した。流衣も助っ人で引っ張り込まれ、三日経った今では何故かほぼ一人で担当している。でも、劇団の子供達が野菜の皮むきを手伝ってくれるのでとても助かっている。子供達は子供達で、これを機にまともな料理を覚えるつもりらしい。
「ルー兄。今日の夕ご飯なぁに~?」
まだ六歳の女の子、茶色い髪を二つ結びにしたジェシカが緑色の目をキラキラさせて訊いてきた。ジェシカはルイという発音が上手く出来ないようで、ルーと流して呼ぶ。
「んー、まだ決めてないな。ジェシカは何が食べたい?」
「味のしないご飯以外なら何でもいいよ!」
にこにこにこにこ。
あんまり無邪気な笑顔で言い切るものだから、不意打ちのせいで流衣は目頭が熱くなった。
なんて不憫なんだ。思わず、目蓋を押さえて天井を仰ぐ。
そんな流衣を見て、ジェシカはきょとんとする。
「どうしたの?」
「ううん、ちょっと目にゴミが入っただけ……」
流衣はジェシカの頭を撫でながら、苦い笑みを浮かべる。小さい子がこんなことをさらりと言ってしまうから、余計に料理に気合が入ってしまう。
「じゃあミートボール入りのトマトスープと、グリニ草のキッシュにしようかな」
「わあ、おいしそう!」
グリニ草というのは、ほうれん草みたいな味のする野菜だ。
ジェシカは目を輝かせる。
流衣の作る料理は元いた世界の物ということもあり、食べたことのないものも多いみたいで割りと好評だ。
移動劇団は細長い箱型をしたステージに車輪がついていて、それを牛が引っ張って旅をして回るので、割とゆっくりめで移動する。他にも居住スペースらしき箱が二つあり、その内の一つの裏口の所にこの手狭な調理場はある。移動しながらも料理できるが、大体が休憩で馬車を止めた時に料理をするので、あまり意味はない。それに、外で簡易炉――煉瓦を適当に積んだだけのもの――で調理した方が随分楽だ。
じゃあスープの前にキッシュを作るかなと考えを巡らす。
昨日の昼間にシャノン公爵領から王領への入口となる門を抜けたので、今いるのは王領の端っこの方の森の中だ。あと四日も進めば森はなくなり、草原に出るらしい。まあ草原というか、平野部分はほとんど王の財産となる穀物類を育てる畑らしいが。
今はちょうど三時くらいだろうか。森の中を流れる小川を見つけたので、そこで移動を止めた。今日はここで一泊するのだそうだ。
「あれ、薪切れてる」
竈に火を入れようとして、薪のストックが無いことに気付いた。
こういう場合、どうしたら良いのだろう。ジェシカに訊こうと振り返ったところで、調理場に、金髪灰色目の少年と、黒茶の髪を伸ばして後ろで一つにまとめた、緑色の目をした少年が駆け込んできた。
「ルイー、今日のおやつは~?」
金髪の方であるランスが間延びした声で訊く。ランスはとても活発そうな外見をしていて、将来、この劇団の主役になりそうな感じだ。見目も悪くない。
「駄目だよ、ランス。ルイさん、年上なんだから呼び捨てにしちゃ」
反対に、もう一人の少年――サジエは物静かで、頭が良さそうな顔をしている。ただちょっとばかり痩せぎすで、ちゃんと食べているのか確認したくなる感じだ。
サジエの小言を聞いて、ランスがフンと鼻を鳴らす。
「どう見たって同い歳だから敬語使う気しねーの」
「ハ、ハハ……」
流衣は苦笑したまま、頬の筋肉をヒクヒクと引きつらせる。
ランスの言う通り、十二歳というランスは、流衣とそんなに身長が変わらない。成長良すぎだろう、詐欺だ。
サジエもランスと同じ歳のはずだが、ランス程身長はなく、小さい方だ。140センチくらいか? 日本でならまあ普通くらいか。流衣の記憶が正しければ、高くて165センチくらいだったはずだ。小学生なら、女子の方が身長はあったような気がする。
「こぉら二人とも、失礼なこと言わないっ!」
まっすぐな薄紫色の髪を肩口で揃え、リボンのついた黒いカチューシャをした利発そうな少女が現れ、ランスとサジエの襟首を掴んだ。淡い青色の目は大きめだが僅かに吊っていて、気の強そうな感じの少女だ。着ている質素なワンピースも薄紫色をしている。
「放せよ、馬鹿力! ほんとのことだろ!」
「ひどいよルディー姉さん! 俺は悪いこと言ってないのに!」
ランスとサジエはじたばた暴れる。しかしルディーはどこ吹く風で、しかもびくともしない。ランスの言う通り、ルディーは少々怪力だ。
そんな彼女は、流衣より一つ上だ。団長やリメラン、他の大人に代わり、元孤児であるせいで作り方を教わったことすらない料理に挑戦して、味のない料理を作っていた張本人である。町の食堂で食べた物の見た目をそのまま真似てみたらしい。他にも、他の子供も手伝っていたみたいだ。
「ランスって今日もバカだね」
ジェシカがおませな口をきき、ランスが眉を吊り上げる。
「んだと、ジェシカ。つーか、兄ちゃんって呼べって言ってるだろ!」
「ランス、らんぼうだしガサツだし、ソンケーできないもん」
「なんだって!?」
正直にジェシカが口にした言葉に、ますます怒るランス。が、ルディーに首根っこを押さえ込まれているので、さっぱり迫力は無い。しかし剣幕だけは伝わり、ジェシカがキャアと声を上げ、流衣の後ろに隠れる。
「くぉら、小さい子を怖がらせないの!」
ポカリとルディーがランスの頭に拳骨を落とし、ランスは頭を抱えて「理不尽だ」と呟く。
「ねえねえルー兄、今日のおやつって何~?」
ジェシカはそれを見て満足したのか、流衣の服にしがみついたまま、上を見上げて問うてくる。
「今日はアップルパイを作ってみたよ」
この国のお菓子というと、クッキーやマドレーヌみたいな焼き菓子とゼリーのことを指すらしく、ケーキやプリンやパイクッキーは存在しないらしい。シチューに入れる用に生クリームはあってもお菓子に使うことはなく、それと同じでパイに野菜を入れることはしても果物を入れることはないらしい。不思議な話だ。
だからだろうか、流衣の料理よりお菓子の方が評判が良い。
そもそも、料理だけで手一杯だった劇団の調理場でお菓子が作られたことはなく、何となく気分転換に作ったら評判が良かったのでおやつに出すようにしているだけだ。
流衣は夕飯の支度の前に、おやつを出しておくかと考えを切り替え、ルディーに頼む。
「ルディーさん、運ぶのを手伝って貰ってもいいですか?」
「勿論よ」
ルディーは少年達からあっさり手を放し、袖まくりをしながら流衣の方にやって来る。
流衣はというと、調理台の方で冷ましていた大きなアップルパイを示し、一つを流衣が抱え、もう一つをルディーが運ぶ。
「ランス、あんた、テーブルを拭いてきて。サジエとジェシカは取り皿とフォークを運んでちょうだい」
「「「はーい」」」
ルディーの指示に、子供達の声が重なる。途端、ルディーの眉が吊りあがった。
「返事はハイでしょ! もう一度!」
「「「はいっ!!」」」
……完璧に母親だ。
ルディーには出来るだけ逆らわないようにしよう。流衣は目の前の光景に感心しつつ、そっと心に誓った。
アップルパイを切り分け、団員やヴィンスや神官達に出すと流衣はすぐさま調理場に引っ込んだ。
気分転換に菓子作りをするのは好きだが、食べる方にはあまり執着はない。たまに甘味を食べたくなることはあっても、普段は朝昼晩にご飯をしっかり食べられればそれで十分満足だ。それに味見で少し食べているから、おやつの時間まで食べる気にならないのもある。
「リドー、おやつ作ったんだけど食べるー?」
調理場を抜け、裏口から外に出、箱型のステージや住居の屋根を見上げて目当ての人物を見つけると、流衣は口の両側に手を当てて叫んだ。
ディルは社交的な性格らしく、大勢でわいわいと食べるのが好きみたいだが、リドはそういう所が苦手なようで、気が付くと一人で離れてしまっている。移動劇団では大体において屋根の上で昼寝している。気が向いた時だけ出てきたりと、まるっきり猫みたいだ。
案の定、住居の一つの屋根で白いニットのキャップを顔に被せて昼寝をしていたリドは、眠そうに目をこすりながら半身を起こす。
「なんだぁ?」
流衣はもう一度、同じ内容を繰り返した。
「ああ、もうそんな時間か。いつの間に止まったんだ?」
昼食で一度移動を止めた後に屋根に上り、それからずっと寝ていたらしい。移動を止めたのにも気付いていなかったようだ。
リドは一度大きく伸びをしてから、高さなど物ともせず、パッと屋根から地面へ飛び降りる。
流衣が布に包んだアップルパイを渡すと、リドは不思議そうにパイを見て、その場で噛り付いた。
「おっ、美味いなこれ。へえ、林檎入れてんのか。変な食感だな」
「そういうものだよ。シナモンは入れてないけど」
流衣はシナモンがどうしても苦手で、アップルパイには入れないことにしている。
そしてそう言いながら、はたと気付く。
「ああ、しまった! 今日の晩御飯をキッシュにするんなら、おやつにパイはまずかったかな」
別物とはいえ、丸いグラタン皿に入れて焼くのだから見た目が少し似ている気がする。
「別に平気だろ、ここの奴らは食える物なら何でも歓迎だろうさ。というかキッシュって何だ?」
サクサクとパイを頬張りながら、リドはそんなことを言う。
「うー、食べられる物なら何でも良いなんて張り合いないなあ」
任されたからにはおいしい物を作ろうと頑張っているのが虚しくなるではないか。
だが、事実そうだろう。ジェシカが、味のしない料理以外なら何でも良いと言っていたのを思い出し、確信する。
流衣は軽く頭を振り、簡単にキッシュの作り方を説明した。
「へえ、美味そうじゃん。聞いた感じじゃ、パイと全然違うと思うが」
「一度にたくさん作れるし、おいしいし、人数多いから便利かと思うんだけど。うーん、そっか、違うように思うんなら大丈夫かな」
出来るだけ、朝昼晩で見た目の違う物を出せるように努力はしている。
だが、団員は十五人と大所帯だし、そこにヴィンスと護衛が加わっているのだから二十三人になるわけで、とてもじゃないがいっぺんに作れる程の腕がなくて四苦八苦しているのだ。せいぜい作っても四人前の生活をしてきたのだ、こっちは。お陰でスープ率が高いのだが、それくらいは許して欲しい。
神官やリドもときどき手伝ってくれているとはいえ(ディルは手つきが危なっかしくて怪我しそうで怖いので丁重にお断りしている)、そもそもレパートリーがそんなに無い。ここはこの国の人に料理を教わるしかないのかもしれない。
「頑張ってんなあ。適当にほどほどにすりゃあいいのに。それだと疲れっだろ」
真面目に悩んでいると、リドが呆れたように言った。
「手の抜き方が分からないんだよ。まあ、リドみたいに昼寝ばっかしてたら疲れないと思うけど」
少し皮肉を混ぜてみたが、さらりと笑みとともにかわされる。
「そう見せかけて、屋根の上から見張りしてんだよ。働き者だろ、俺」
「……さっき爆睡しといてよく言う」
流衣がリドの肩を小突くと、リドはけらけらと声を立てて笑う。そして、最後の一口を口に放り込む。
「ごっそさん。寝起きに小腹空いてて助かったぜ」
「中で皆と食べれば良いのに」
リドがおやつは皿ごと持って出て外で食べるものだから、諦めて最初から手渡しするようにしてみたが、そういうのは自分から壁を作っているように見えてどうだろうと思う流衣である。
「食事なら中で食べてるだろ? 菓子まで中で食う必要ねえだろ」
流衣は諦めて溜め息をついた。
本当にマイペースというか自由というか。
リリエラの占いは大当たりだ。確かに、この調子なら人とすぐに打ち解けるのは難しいかもしれない。本人がそれで困っていないようなので良いのだろうけれど。
「あ、そうだ。薪切れてるんだけど、そういうのってどうすればいいのか分かる?」
「そういうのは大概、出入り口に丸太が置いてあるはず……」
折角だし、リドも暇そうだし、訊いてみる。今一、ここの調理場は勝手が違うのでどこに何があるのか分からない。他人の台所だからというのもあるが、作りが少し違うのだ。
リドはすたすたと裏口から調理場に入り、入って右手の木箱の蓋を開けた。言った通り、丸太が何本か入っている。
「一応、使っていいか確認してくるか。こっちは任せとけ」
「うん、よろしく」
リドは調理場の奥にある食堂に行き、確認してから斧や台や丸太を持ち出し、鼻歌混じりに薪を作り始めた。
(そうなんだよなあ、リドって木こりなんだよね)
旅していると忘れそうになるが、リドは木こりを生業にしているのだ。
軽快に丸太を薪に変えているのを見ながら、真面目に考える。
――あれくらいしていたら、体力もついて背も伸びるのだろうか。
ランスの言ったことを無意識に気にしていたのか、そんなことを思った自分を笑い、流衣は根菜類の皮むきをしようと水場の方を振り返った。