十八章 襲撃者 5
*この話中、戦闘表現があります。
急に悪寒を覚え、流衣は身を震わせた。
風邪でも拾ったのだろうかと首をひねりつつ、店の主人であるおばさんに代金を渡す。
「どうしたの、お客さん。風邪かい? もう随分寒くなってきたからね」
おばさんは代金を受け取り、金を確認して「銅貨四枚ちょうどだね、まいど」と呟く。
「そうですね、朝方冷え込み始めましたもんね」
流衣が微苦笑気味に答えると、屋台で野菜や果物を売っているおばさんは品物を一瞥し、一つ手渡してきた。
「風邪ならこれがいいよ。刻んで、お茶に混ぜてお飲み」
おばさんが勧めてくれたのは生姜だった。
「ありがとうございます、ええと、お幾らですか?」
「おまけだよ、おまけ! お大事にね!」
快活に笑っておばさんは言った。この人の笑い声だけで風邪が吹き飛びそうな感じだ。
「ありがとうございます。おばさんも、風邪には気を付けて下さい」
人の良い笑みにつられるように流衣も笑い返し、大事に生姜を鞄にしまいこんだ。
ディルは物凄い光景を目撃し、単純に感心していた。
野菜屋――果物屋か?――から出た流衣を見ながら、主人であるおばさんが可愛いと呟いて表情を緩ませ、その近隣の店の店員らしき女性が揃って微笑ましい顔になったり、手にしていた物を落としてぽかんとしていたりした。皆、どれもこれも大人の女性で、可愛いと零している。
揃いも揃っての可愛い呼ばわりに男として同情を覚えるが、当の本人だけは気付いていないのがある意味滑稽だ。というかなんだ、流衣は年上キラーか?
そう思っている間に、流衣は別の店の商品に気を取られてふらふらとそっちに行ってしまう。
(なんだか、リドが心配して怒るのも頷けるな……)
ただでさえ見た目が頼りないというのに、好奇心でうろうろしているのだから、なかなか不安要素が多い。古来から生半可な好奇心は身を滅ぼすと云うが、これはそういうことなんだろうか。
故事を脳裏に覚えながら、さりげなく見守る立ち位置まで行く。
これはいい訓練になるかもしれない。護衛相手に気を遣わせずに護衛する修行。
リドは自作ブレンドティーのストックが切れたと、薬草や野草、ハーブを買いに市場を走り回っていてここにはいないので、ディルは流衣と行動を共にしていた。どう考えても、リドと流衣なら流衣の方にいないと危ないだろう。さっきだって、通りを横切ろうとして誰かにぶつかっていた。
それはともかくとして、リドが鞄から取り出していた茶が、リドのブレンドとは知らなかったので驚いた。聞けば、一人暮らしをしていたのもあって家事も一通りこなせるのだとか。
ディルはどうしても料理が下手だから、一人旅になったら、食堂の無い所ではパンや干し肉や乾燥芋で凌ぐしかないので、流衣もリドも料理が出来て羨ましいと思った。美味くはなくとも、せめて口に入っても大丈夫なものを作れるようにくらいはなりたい。何故、魚が黒くならないのだろう? 今日も焼き魚を見ていて不思議に思った。
貴族であるから普段は料理をする必要がないとはいえ、騎士になり士官すれば野営の仕事もあるだろうし、実力主義の我が国の王国警備隊や近衛騎士団では、下っ端は料理当番をさせられると聞いている。誰かに教わりながらなら、見た目は悪けれど普通のものは作れるのに、一人で作るとどうして駄目なのだろう。大いなる謎である。
「ディル?」
延々と答えの無い問いを繰り返していると流衣に名を呼ばれ、ハッと我に返る。
いかん。本気で悩んでしまった。
「どうした?」
「それはこっちの台詞だよ。どうしたの、難しい顔しちゃってさ」
手にいつの間にか買ったらしい香辛料や調味料の入った瓶を抱え、流衣がとても不思議そうに見上げていた。肩に乗ったオルクスも、僅かに首を傾げている。
「いや、他愛のないことだ。忘れてくれ」
「そう?」
流衣はやっぱり不思議そうにしつつ、思い出したように言う。
「ああ、そうだ。ディルって防寒着とかって買わないの? 幾ら騎士でも厚着くらいするんでしょ?」
「勿論だ。体調管理も仕事の一つだからな」
だがこの騎士服には熱遮断の魔法効果がかけてあるから、マントでも着れば十分だ。
そう返すと、流衣は元々大きい目を更に丸くした。
「そうなんだ! リドの外套もそういうのかけてあったっけ。便利だね」
「で、それがどうした?」
「さっき白い毛糸のマフラー見かけたから、何となく似合いそうだと思っただけだよ。ディルって真っ白けだし」
「ふむ、確かにその通りだ。師匠にな、弟子になるからには白で統一しろと指示された結果だ」
白を基調とした衣装を身に纏っていたリリエノーラを脳裏に思い浮かべる。
「リリエノーラさんも白い衣装だったね、そういえば。何か意味あるの?」
「清廉さと高潔さの象徴のようなものらしいぞ。ここまで白ければ人目にも付くし、それにより自分を律するのだとか。師匠の師匠からの受け売りだそうだ」
「難しいこと考えるんだね」
今一よく分からない様子で、ふうんと流衣は気の無い声を漏らす。オルクスの方は「それでこそ騎士です」と感銘を受けていたので、そちらに頷く。
「そうだな。そして師匠に弟子入りしたことを誇らしくなる。あの性格さえなければ、ますます尊敬出来るのだが……」
他人をからかうのが趣味としか思えない。
リリエノーラの愉悦を含んだ色違いの目を思い出して、そう内心で呟く。何故かリリエノーラが楽しげにすると、色違いの目のせいか神秘的にしか見えないし、人間界に迷い込んできた魔女のようにも思う時があった。どこか達観したところのある人で、現実に冷めているようでもあり、その中で敢えて理想を追求しているかのような不思議と一本通ったところがある。
「完璧な人なんてそういないと思うよ。それにそこが長所なのかも。無駄に完璧より親しみやすい気がするなあ」
恐らくフォローしようと言ったのだろう、少し曖昧なその言葉はディルの固定観念にヒビを入れた。
目を丸くし、二つ年下の友人を見やる。普段から軽く突っ込みはすれど声を荒げることはほとんどなく、自己主張もあまりしない彼は、ときどきハッとさせられることを言う。
「完璧でないことが長所か。そのような考え方もあるのだな」
完璧であることが最良なのだと信じていた。そうあるべく努力しているが、完璧でなくともそれでも良いと流衣は言うのだ。何とも不思議だった。
「僕みたいな駄目駄目人間が言うんじゃ説得力ないと思うけどね」
流衣は苦笑し、でも自分のような者からすればそう思う、と付け足した。
やっぱり少し控えめで、きっぱりと言い切ることはしない。
「そう卑下するものではない。人には人それぞれの長所があるものだ」
どうやら性格やドジさ加減が災いして、あまり周囲から良く扱われていなかったらしく、そのせいかどうも流衣は自分を卑下しがちだ。そのせいか年上女性からの好意的な目――例えそれが人形や置物に向けられる類のものとはいえ――にも気付かないのだから、友人としては気になるところではある。
が、口下手なディルでは上手く励ますことも出来ず、結局固い言い回しにしかならない。
自分が嫌になるのはこういう時か。内心、溜め息をつく。
「そうかなあ、そうだといいな。ありがとう」
やはり長所があるとは思えないのか、肯定するよりも希望を口にして、それでも流衣は礼を返す。
そういう所が長所だと思うのだが、それを言っても否定するのだろう。
ディルはそう思い、ちょっとだけ肩を竦めた。
いつもなら町に出向いて買ったハーブと、自分で摘んだ野草や薬草を使って茶を作る。町に来れば大体のハーブと薬草は揃うが、流石に野草までは売っていないようだった。
店を数軒回ってそう結論づけ、リドは空を仰ぐ。青い空には白い綿雲が浮かび、風に流されていく。今日は上空の風が強いらしい。
それで朝から風の精霊達が楽しげに歌っているのかと思いつつ、ブレンドティーについて思考を戻す。あの配合率が一番好みだったが、変えるしかなさそうだ。それに、薬草も生で売られていた。干している時間はないから、まとめてフライパンで煎ってしまうしかないか。
――闇の匂いがするわ。
――嫌だわ、汚らわしい。
楽しげな歌が唐突に消え、精霊達のささやきが広がる。「嫌だわ」「嫌だわ」精霊達はそう繰り返し、潔癖な言葉で空気を震わせた。
なにげなく通りを見回せば、昼に食堂にいたと思しきネルソフの連中が三人、通りを歩いてくる。
三人。
その数字が、何故か不吉な影を心に落とす。
何故その数字が気になるのだろう。
リドは無意識に緊張を覚えながら、三人とすれ違う。
一瞬、一番背の高い男の目が不気味に歪み、リドは後ろ首の毛がチリチリするような殺意を感じて、思わずその場を飛びのいていた。
秋空をつんざく音がした。リドが寸前まで立っていた場所に、小さなクレーターが出来ていた。石の焦げる匂いが鼻をつく。
ゾッと背筋を冷たいものが滑り落ち、リドは琥珀の目に険を込め、男をねめつけた。
「いきなり何しやがる。随分なご挨拶じゃねえか。そもそも誰だい、あんた」
言外に攻撃される理由が分からないと仄めかしながら、じりっと距離を取る。周りの通行人達は悲鳴を上げて逃げ去り、四人の周囲から波を引くように人影が消える。一般人の喧嘩ならともかく、ネルソフに好んで関わろうとする輩はいない。
「見つけた。見つけた。林檎色の髪。こないだいたよなあ、俺は覚えてる」
引きつるような醜悪な笑いを漏らす背の高い男。
リドは眉を跳ね上げる。
「こないだ? 一体、何のことだ? 人違いだろ」
「人違いだそうですが?」
どこか軽薄な響きのある丁寧口調の男が、背の高い男を見上げる。いい加減にしろ、というような嫌悪感が声に含まれているような気がした。
「すみませんね、この人、ちょっとおかしいんですよ。気が立ってましてね」
「俺のどこがおかしい! 俺は獲物は間違えない! おいガキ、あのガキの居場所はどこだ?」
背の高い男が唸るように言い捨て、またも視線をリドに戻す。
当のリドは呆れ果てた。あのガキってどのガキだ? 訳が分からないが、ネルソフを相手にする程馬鹿ではない。呪いをかけられちゃたまったもんじゃないからだ。
「あのガキは、あのガキだ。シャノン公爵とかいうガキだ! この名前なら分かるだろう!」
黙りこくって見返すと、背の高い男は苛立ったように言う。リドは瞬間合点した。こいつらは襲撃者なのだろう。しかし驚愕はポーカーフェイスの下に隠し、僅かに驚いた顔をしてみる。
「そりゃあここはシャノン公爵領だしな、聞いたことくらいあるよ。何が言いたいんだい、旦那?」
「ふざけやがって! 知ってようが知らなかろうが、もうどうだっていい! 殺してやる!」
どうやら沸点が異様に低い男だったらしい。幾らなんでも理不尽だと思った瞬間、男はぶつぶつと呪文を唱えた。
またチリリと首筋の毛が逆立ち、リドは身をひねって後ろへ跳ぶ。
ズガッ、ガッ、ガッ!
中空から落ちてきた黒い色の雷が地面に穴を穿っていく。
すたりと離れた地点に着地してから、リドは素早く周囲に視線を投げた。どう逃げるか。
「ほお、すごい。初撃といい、グドナーの攻撃をかわすか」
一番背の低い、恐らく老人と思われる男が感心混じりに息を漏らす。
「感心してねえで止めてくれ! 人違いだと言ってるだろ!」
「否。グドナーの鼻は利くでな、小僧。こいつがそう言うならそうなのじゃよ」
食堂では何も言わなかった癖に、ぬけぬけとよく言う。
リドは顔を歪めた。
「そうかい、そっちがそうなら俺も黙っちゃいない。応戦させてもらう!」
腰のダガーをすらりと引き抜く。
口ではそう言ったものの、そもそもまともにやりあう気はない。リドは魔法使いでも神官でもないのだ、ネルソフ相手じゃ逃げるが勝ちだ。
足に風を巻きつけ、瞬発力を上げる。
襲いかかってくる黒い雷を走ってかわす。
どうやら戦う気なのはグドナーとかいうのっぽだけのようで、老人ともう一人は傍観に徹するようだ。これなら逃げるチャンスは見つかりそうだ。
間を与えずに落ちてくる黒い雷を必死で避けながら、左腕を振ってグドナーに風の刃を叩きつける。
「!」
グドナーは驚いたように身を揺らしたが、また何か呟いた。見えない壁に風が弾かれる。
しかし一体、闇属性魔法を扱う魔法使いというのは何なのだ?
リドは厳しい顔になる。
魔法使いは杖を持っているものだと思っていたのに、杖を持っているのは老人だけだ。丁寧口調の男は弓矢を背負っているし、グドナーは今のところ素手である。
「あっ、いた! 良かった!」
そこへ明るい声が割り込んだ。――流衣の声だ。
その声をきっかけに、リドとグドナー両者の動きが止まる。ネルソフの三人は新たな一般人の登場に立場を決めかねている風に、じっと声の主の方を見た。
リドはそれに気付いて、何て間の悪い、と、背中にじっとり嫌な汗が浮かぶのを意識の隅で把握する。
通りの向こうから小走りに駆けてくる音がする。同時にカチャカチャと金具の当たる音もしたから、ディルも一緒なのだろう。
「通り魔が出たらしいんだ、早く避難し……」
どうやら現状を分かっていないようで、流衣は若干慌てたような声で注意を促そうとする。その隣で、不穏な空気を察したディルが怪訝そうに眉をひそめる。
リドは内心で舌打ちし、ふと、そこでグドナーが歪んだ笑みを浮かべるのに気付いた。ハッとするが遅く、グドナーの起こした黒い雷が宙を駆けて流衣達の方へ急襲する。
パァン!
硝子の割れるような甲高い音がした。
ディルが咄嗟に大剣を抜き、刀身で魔法を跳ね飛ばした音だった。
後方に追いやられた流衣が目を丸くし、何事が起こったのかとパチパチと目を瞬く。肩に乗っているオルクスはみるみるうちに厳しい色を浮かべた。
「いきなり何をするのだ。不意打ちとは卑怯であろう。そもそも、貴公はどなたか?」
ネルソフの男達をざっと一瞥。知人ではないと判断したディルは、不可解さに眉間に皺をぐっと寄せる。
何となく穏やかでない空気を察し、流衣もまた顔を強張らせる。
「もしかしてこの人達が通り魔……? 危ないよ。逃げた方がいいよ」
青くなって逃亡を訴える流衣。
そんな二人の様子を見て、流石におかしいと思ったらしい。老人は低い声でグドナーを制する。
「待て。どうやら本気で勘違いなようじゃぞ。白服の騎士が確かにいたが、あちらの小僧はおらなんだ」
「はん、そんなこと知るか。俺は一度始めた試合は最後までする主義だ」
グドナーは口元をひん曲げる。
最後までというのが、恐らく死ぬまでという意味だろうと察し、流衣はますます顔色を悪くする。一目で、グドナーが全うな道を歩んでなさそうな雰囲気を感じ取った。相手を傷つけることが快楽であるかのような歪んだ目をしている。
「――ワシに逆らう気か」
底冷えするような声がした。
低く、冷たい、しわがれた声。
場の空気を凍りつかせるのには十分だ。
グドナーは喉を引きつらせたような悲鳴を漏らした。老人の暗い目がグドナーをギラギラと見つめ、グドナーは怯えた様子で首を振る。
「まさか、そんなことはしない!」
「ならば言う事を聞け。ワシは同じことを二度も三度も言うのは好かぬ。また同じようなことを言わせれば……」
老人の目が鋭く光り、グドナーは頬を引きつらせる。
それを見て溜飲が下がったのか、フッと表情を緩ませる老人。
「ふん、良かろう。まあ、お主が勘違いするのも頷ける。あの中にいた奴も、其奴のような赤い髪だったからのう」
仄暗い灰色の目がリドの方を向き、リドは内心ドキリとした。が、やはり顔には出さず、飄々と言ってのける。
「勘違いと分かってくれてありがたいね」
「フン、肝の据わったガキじゃな」
少し面白そうに、老人は目を細める。そして、黒服の男二人を連れ、無言でその場を立ち去った。謝罪の言葉はなかった。
ネルソフの三人の姿が見えなくなった頃、ようやくリドの肩から力が抜けた。
これだから黒服は嫌いなのだと苦々しく思う。しかし何故だろう。自分がここまで黒服、それも黒い外套やマントを嫌う理由が分からない。忘れた記憶の中に原因があるのだろうか?
「―― 一体、何だったのだ?」
事態を飲み込めないでいるディルの問いに、リドは首を振って答えない。代わりにこう呟いた。
「公爵様の所に行こう」
襲撃者が町にやって来ている。それだけで警戒には十分に値する。それに敵の正体も知れた。
アンジェラに話して対策を立てて貰う必要があった。