二章 勇者
言葉交わしの森は、その名の通り、森が言葉を交わして常にざわついていることからその名がついた。森の木達は自身の幹や枝を揺らし、葉ずれの音をさせて言葉を交わす。
一つ言っておきたいが、そんな珍妙な現象が起きるのは、ルマルディー王国のここだけだ。
十三歳の時にこの森にやって来るまで、そんな森は見たことがなかったから、初めて見た時は悪魔の呪いかと仰天したものだ。しかしこれが普通だとカザエ村の人々と木こりの爺さんボロスに諭され、どうにか落ち着きを取り戻した思い出は、今ではすっかり笑い種になっている。
こんな森であるから、木こりの仕事を遂行するには技術が必要だった。揺れない木の相手でも結構な重労働なのだが、ここは木が常に揺れているのでタイミングと腕前が必要なのだ。でないと、木が倒れてくる位置を見誤り、大怪我をしてしまう。
ちなみに一つ付け加えておくと、この木は別に魔物ではなく、単にユレギという種類の木なだけであり、切ったからといって襲われることはないので安心して欲しい。
「今日のノルマはあと二十本っと」
スコーンという木の割れる小気味良い音が辺りに響く。
言葉交わしの森の中にぽつんと建った丸太小屋の前で、赤い短髪と琥珀色の目をした、目にも鮮やかな色の少年が斧を振るっていた。少年の名前はリド。四年前にカザエ村に放浪してきて、ボロスに弟子入りした風変わりな少年である。
風変わりとはいえ弟子入り志望をしてきたので、重労働な上に技術のいるユレギを伐り出す木こり志望者はおらず、ここでユレギ伐りの伝統も廃れるのかと諦めていたボロスはお構い無しにリドを迎え入れた。リドは溌剌とした明るい少年だったのもありボロスの可愛がりようは半端なく、まるで本当の血を分けた祖父と孫のようだったとカザエ村の人達は見ていた。
ともかくとして、可愛がられて技術を学んだリドは、一年前にボロスが他界してからも丸太小屋で木こりを生業にし、今ではカザエ村になくてはならない村人の一人になった。
黒い長袖のシャツの上に緑色の上着を重ね、灰色のズボンと皮のブーツを身に着けているリドの動きは颯爽としていて、俊敏だ。斧を振り下ろす都度、額に巻いた黄色い布とその先についた飾りが翻り、午前の緩やかな日差しに彩りを添えている。
今は薪を作っており、出来あがったら村に運ぶことになっていた。
「……ん?」
ふいに、リドは顔を上げた。
遠くで落雷のような地鳴りのような低い音がした気がしたのだ。
リドは昔から目が良かったが、それ以上に耳が良かった。
「何だ? 遺跡の方か?」
古い建築物が崩れでもしたのだろうか。
しかしそれにしては、空に舞い上がった鳥達の数が多い気がした。
リドは少し考えて、木こり小屋に入ると武器とカンテラを手にしてまた外に出てきた。腰帯にカンテラを結わえ付け、その帯の上にダガーの鞘を取り付けたベルトを固定する。ただの一木こりに見えて、実はダガー使いとしての腕もある方だ。木こりをしているお陰で体力もある。
村に世話になっている手前、不審なものは看過できない。
リドは真剣な顔をして、遺跡の方へと森を歩き出した。
「ひいいい、木が、木が揺れてる! 怖っ、不気味っ、ぎゃっ!」
足元の小石に蹴つまづいて転ぶ流衣。
『坊ちゃん、落ち着いて下さい。この木はユレギという種類で、揺れるだけで害はありませんから』
つまづいた流衣に驚いて、空中で羽ばたきながらオルクスはなだめる。
「そうなの? 呪われたりしそうに見えるけど呪われない?」
『呪いませんとも!』
流衣が怯えるのも道理で、揺れている木のうろが笑いさざめいているように見えてしまうのだ。今から呪いかけるぞーウキャキャキャと笑っているように見えなくもない。
そう見える人間は、薄暗い森と揺れる木という組み合わせに恐怖フィルターがかかってそう見える。落ち着いて見ればそうは見えない。
『ほら、坊ちゃん。こういう時は深呼吸ですよ』
「うう、分かった。スーッ、ゲホゲホッ」
思いきり息を吸い込んだ流衣だったが、急に肺に空気を入れたせいで盛大にむせた。
うう、我ながらなんて情けない。
むせたのと情けなさとで目尻に涙が浮かんでくる始末だ。
己の不甲斐なさに悲しくなりつつ、立ち上がって学ランのズボンについた草を払う。最悪なことにオナモミが生えていたようで、ズボンにびっしりとついていた。取るのは諦め、西の方へと歩き出す。
「ねえオルクス、魔物いない? いたら教えてよ、すぐに逃げるから」
猛獣を恐れる小ネズミのごとくビクビクしながら、肩に降り立ったオルクスに問う。
『今のところはいないようです。でもまあ、ご安心を。危なくなったらわてが助けますから』
「ほ、ほんと? 頼もしいなあ。ごめん、こんな頼りないのを女神様に押し付けられえて」
だんだん申し訳なくなってきた流衣である。
オルクスは人間の自分なんかより余程できた性格をしたオウムだ。いや、使い魔か。
『なんのなんの。わては使い魔、主人に頼られるのは嬉しい限りです。女神様のじきじきのお呼び出しなのですから、尚更です。それに坊ちゃんといると、妙に落ち着くんですよね、不思議なものです。しっくり馴染むといいますか』
「そうなの? 君って心が広いんだなあ。僕も見習わなきゃ」
流衣は心があったかくなり、自然と微笑んだ。するとオルクスはくすぐったそうに笑う。
『坊ちゃんは優しい方のようですね、わてのような使い魔にもお優しい』
「友達だから当然だよ」
昔からだが、友達だと認めた相手にはとことん甘くなるのが流衣だった。友達が笑えば嬉しいし、頼られたら応えたくなるものだ。侮られることが多いせいか、そういう友達は大変貴重な存在だった。
流衣はそんな落ち着いた心で森を再度見た。
すると不思議なことだが、さっきまであんなに怖かった森が何ともなかった。
恐怖が抜け落ちたことで、澱みない足取りで森を歩いていく。あとは魔物にさえ出くわさなければ平気なはずだ。
そう思っていた、のだが。
遺跡から歩くこと三十分ほどの所で、予想外にも人間に出くわした。そしてまたまた予想外にも、刃を突きつけられて凍りつく。
「誰だ、てめえ。遺跡から来たな? 何してた?」
赤い髪をした少年は軽く話しかけているようで、その実、その目に警戒と不審の色を浮かべていた。そんなことは目を見ずとも、武器を突きつけられている時点で気付くだろうが。
「あああ、あの……っ」
目の前でギラリと光る金属性の刃に、流衣は背筋が凍りついた。青くなり、その刃から目を反らせない。
(まずいまずいまずい! 早速泥棒さんに出くわした!)
森の中で刃を突きつけられて脅されるイコール追い剥ぎ、という偏見を持っていた流衣は恐怖でガタガタと震えだす。目にじわじわと涙が浮かんでくる。
意識の遠いところで、走馬灯のように家族との思い出が駆け巡る。
ああ、僕はここで死ぬのか。せめて遺言だけでも書いておけば良かった。
だが、少年は流衣が怯えているのに気付くと、不可解そうに片眉を跳ね上げてから刃を下ろす。
流衣は盛大に安堵して、どっと汗が噴出した。何だかよく分からないが、危害を加える気は……多分ないのだと信じたい。
「あの……、ききき君はその、泥棒?」
「は? 盗掘屋はお前だろう?」
「トウクツヤ?」
聞き覚えのない単語だった。流衣がきょとんとすると、少年は別の言葉で言い換える。
「墓荒らしとも、遺跡荒らしともいうな」
「遺跡荒らし……?」
流衣は本気で首を傾げ、それから洞窟が遺跡の中にあったことを思い出して頭から爪先まで一気に血の気が引いた。バッと頭を下げる。
「すっ、すいませんでした! 遺跡というか、洞窟壊しちゃってっ。あのその、どうすれば良いですか? 修復ですか? もしかして大事な観光資源とかそういうのだったりして、わあああどうしよう!」
弁償なんて出来ないと泣きそうになりながら、こうしたらいいかああしたらどうかと、混乱の余り口早にわめき散らす。
その様に少年は口を挟む暇もなく唖然とし、それから面倒そうに顔をしかめた。
「別に観光資源なんかじゃねえから、弁償なんていらねえよ。怪しい者かと思って訊いてるだけだ」
「えっ!? あ、怪しいですか僕っ」
「ああ」
少年はきっぱりと頷いた。
流衣はショックを受けて沈黙する。
「そんな上下黒い服で、しかも旅人にしては軽装だ。防具も武器もねえし、これは余程の手練か世間知らずな馬鹿のどっちかだろ」
流衣は肩を落としてうつむいた。
「……すみません、世間知らずな馬鹿の方です」
というか、世界知らずなんですけど。
心の中で付け足す流衣。
「坊ちゃん、坊ちゃん、泣かないで!」
オルクスが片言で叫び、それに少年はビクリとする。
「大丈夫だよ、オルクス。泣いてないよ。なんか悲しくなっただけ」
泣く一歩前なのは確かだが。
あんまり自慢にはならないが、流衣は泣き虫で定評がある。
「だあもうそんな顔するなよ! まるで俺が虐めてるみたいだろ! それに男にんな顔されても気持ち悪いだけだ!」
その一言に、流衣はパッと表情を明るくする。
「僕が男って分かるの!?」
「あんだよ、男装した女なのか?」
「違うよ! うわあ、嬉しいなあ! 初対面の人って、すぐに僕の性別尋ねるんだよ、どう見ても男なのに不思議だよね!」
いきなり嬉しげに言い募られて、当の少年は面食らい、それから大仰に溜め息をついた。
「分かった、分かった。お前はどう見ても妙な奴だが怪しくない」
それから、疲れたように付け足す。
「ついてこい、ちょっと話聞かせろ」
「は、はいっ。すみません、妙な奴で!」
流衣はビシッと返事をして、それから少年の後に続いた。
俺も風変わりと言われてきたが、こいつには負ける。
リドは眼前の少年を見て、そう判じた。
遺跡の方からやって来た少年は、歳は十二歳くらいだろうか? 黒髪黒目で、詰襟のある黒い上着とズボンを身に着け、白い布製のような不思議な光沢をした靴を履いていた。それに、横に提げた鞄も黒い皮製。全体的に真っ黒で、どこから見ても怪しい。加え、肩にオウムを乗せているのが胡散臭さを倍増させている。
よく見れば肌の色も不思議な色だ。白でも黄色でもない、初めて見る人種。亜人だろうか? しかし亜人は寒さに弱いから南方に住んでいるし、身体の一部がどこかしら獣のパーツをしている。見た所、獣のパーツは無い。
軽装なのは余程の手練なのかと警戒してかかったが、刃を向けた時点で怯えたので違うようだった。
一見すると地味だが、よくよく観察してみると顔立ちは整っている方だ。背が低くて目が大きいせいで、小動物を連想させるのもあって女みたいに見える。が、これは男だと思う。ちょっと脅かしたくらいで泣きそうになるなんて、なよっちい奴だ。
しかし男だと断定したら、普段から女に間違われるのに辟易していたのか急に嬉しそうに主張し始めたから驚いた。
目まぐるしく表情を変える少年を見ていたら、こちらの方が疲れてきたので、ついてくるように言って丸太小屋の方へ歩き出す。
妙な奴ですみませんと謝りながらついてくる少年に、何だか厄介ごとの匂いをかぎとったリドである。
完全に大丈夫だと判断出来るまで、ひとまず丸太小屋で話を聞いて監視してみることにしよう。
――と考えていたのに。
丸太小屋の中のテーブルにつき、休憩も兼ねて茶を準備したリドに、少年は非常に言いづらそうに口火を切った。
「えーと、多分信じられないと思うんですけど。というか僕も信じられないというか、信じたくないというか」
いいからとっとと話せ、とばかり、茶を一口飲みつつ顎で促すリド。
「僕、違う世界から来たんです!」
ブフッ。
初っ端からのカミングアウトに、リドは思わず茶を吹き出した。
――何を言い出してんだ、このチビ!
口元を袖口で拭い、もしかして俺はとんでもない変人を拾ってきたのかと少年を見れば、嘘を言ってるようには見えない真剣な顔をしていた。
ひとまず落ち着いて、話を聞いてから判断しようと意味を話すように催促する。
すると、少年は若干落ち込んだ様子ながら、訥々と身に起きた不幸とやらを語りだした。
人に会えたのが嬉しかったのもあって事情を暴露した流衣は、軽い興奮状態が冷めると急に不安になった。
こんな話をいきなりされたら、自分の世界だったら間違いなく精神病院を紹介されるか、妙な宗教団体と勘違いされるに違いないと思ったのだ。
居心地悪く、椅子の上で身じろぎする。
「信じられねえ」
少年は思いっきり眉間に皺を寄せて呟いた。
(やっぱり……、そうだよ、普通信じられないよ)
内心がっくりしている流衣に、少年は「だが」と付け足す。
「どうも嘘言ってるようには見えねえ」
そう言いながら、参ったとばかりに天井を仰ぐ少年。
「俺は人を見る目には自信があるってのに、こればっかりはお手上げだぜ。でもなあ、そんなへんてこな嘘つくなんて、そっちの方が余程怪しいもんな」
少年は流衣に視線を戻す。
「お前がちょっとでも怪しかったら、村長んとこに突き出そうと思ってたんだけどなあ」
「ええっ!」
流衣は椅子から落ちそうになる。
「でもまあ、魔法使いなんて奴らがいるんだし、一人くらい異界人が混ざっていてもおかしくねえか」
「はあ……」
目をパチパチさせる流衣。そう言われると納得してしまうような不思議さがあった。
「ところでさ、女神様は勇者を召喚したんだって言ったよな?」
「はい、そうです」
「じゃあ、その勇者ってのはお前の世界の奴ってこと?」
「へっ!?」
訊かれてみて、初めてその可能性に辿り着く。
「いや、僕は知らないんだ。女神様は勇者を召喚したって言ってただけで……」
目の前がパッと開ける気がした。
元の世界に戻ることを第一目標にして、第二目標は勇者に会うっていうのが良いかもしれない。
(そっかあ、同じ日本人なのかもしれないなあ。会うだけ会ってみよう)
勇者なら身の回りに頭の良い人間がついていそうだし、手がかりが得られるかもしれない。
「そうだよオルクス、そうしよう! 勇者って人に会いに行こう!」
『坊ちゃんの仰せのままに』
「ありがとう!」
すっかり舞い上がってオルクスに話しかけ、返ってきた返事に礼を言う。
それを目の前で目撃してしまった少年は、哀れみの混ざった視線を流衣に向けた。
「あーあー、動物に話しかけるなんてなあ、よっぽど衝撃的だったんだなあ」
「?」
少年の言い分が分からず、流衣は首を傾げる。
「オルクスは見た目はオウムだけど、僕の友達で使い魔なんだよ。女神様がつけてくれたんだ。さっきも喋ってたでしょ?」
「はあ? オウムは何も喋ってねえだろ」
「え?」
流衣は動きをぴたりと止める。
『こうして意思疎通が出来るのは坊ちゃんとだけです。声を出せばそちらの少年にも伝わるでしょうが』
そ、そうなのか。それでは、端から見ると随分同情を誘う感じじゃないか。
「わてハ、坊ちゃんと、心を通わせラレルの、デス」
オルクスが片言ながら喋ると、少年はビクリと肩を揺らした。
それから、まじまじとオルクスを見つめる。
「まじで喋ってんのか?」
「そうでス」
テーブルに飛び移ったオルクスは、少年を見上げてコックリコックリと頷く動作をする。
少年は参ったと言いながら両手を広げる。
「分かったよ、信じる。お前は異界人で、そっちは使い魔な」
そこで息をつくと、少年はにっと口の端を引き上げた。
「俺はリドだ。よろしくな」
そんな少年に、流衣も笑顔で名乗り返した。
* * *
怪しくないことは認めてくれたが、どちらにしろ村長に話を通さなくてはいけないということで、流衣はリドと共にカザエ村へと向かった。
村に運ぶ薪があるというので、微力ながら流衣も手伝う。本当に微力だ。リドは薪を重ねた台のようなものを背負っているのに対し、流衣は両腕で抱えきれる分だけ。オルクスも薪を一本両足で掴んで運んでくれた。
薪を各家に配ってから、その足で村長の家に向かう。
「こんにちは、リドです。オルドフさんいらっしゃいますか?」
リドが村長の家の戸を叩くと、中から三十代くらいの女性が顔を出した。腰まである茶色い髪を三つ編みにしている、穏やかそうな人だった。
「あら、リド君こんにちは。お父さん、今さっき酒場に出かけた所なのよ」
「酒場ですか? まだ日は高いですけど」
村長が堅物なのを知っていたリドは、日のあるうちから酒を飲みにいったという話に目を丸くする。それに小さく吹き出す女性。
「違うわよぉ。お酒飲みに行ったんじゃなくて、話し合いに行ったの。隣町から伝令が回ってきたんですって」
「伝令?」
「ええ。勇者がどうとかっていう話と、ここ最近活躍してる盗賊団の話をしてたわ」
「!」
タイムリーな情報にリドは息を呑み、思わず流衣の方を振り返る。
流衣も流衣で驚いていた。
すると女性は流衣に気が付いて、軽く目を見張る。
「あら、その子どうしたの? 初めて見る子だけど」
「あー、なんか道に迷ったらしくて森をさ迷ってたんすよ」
それで村長に話をと思って、とリドは付け加える。
女性はそうだったのと驚いて、
「あの森って遊び場にちょうど良いものね。次からは気を付けなさいね」
にっこりと、どこかずれている気のする注意をした。
流衣は素直に頷いた。
「あのさあ、お前の事情はここの村の人達には黙っとけよ」
酒場の方へ歩きながら、リドが言う。
流衣は不思議に思う。
「どうして?」
「どうしてってお前、こういう村の人間ってのは迷信深いからだよ。異界人なんて聞いたら追い出されるぞ」
「でも君は信じてくれたでしょ?」
「俺はこの村に流れ着いた者で、元からここに住んでたわけじゃねえし、迷信なんてものは信じてねえんだ。風変わりってよく言われてる」
流衣は、目の前を颯爽と歩くリドを見る。流衣より一、二歳くらい年上に見えるリドは兄貴然としていて、頼りになりそうな印象だ。
(これで風変わりなら、僕は相当の変人になっちゃうな)
そう思い、他の者には他言しないようにしようと決める。
「分かった、他の人には黙っとくよ」
「おう」
そうこうしているうちに酒場に着いた。
酒場はくすんだ薄茶の煉瓦造りの壁と干草で葺かれた屋根をしており、一軒家をまるごと店に当てているようだ。出入り口である緑色に塗装された扉の上部には、酒の絵が描かれた看板が釣り下がっている。
リドについて中に入ると、酒場の中では村の男達が集まって何事か話していた。どこか陽気な気配である。
彼らはリドを見つけると明るく挨拶し、それから流衣に気付いて訝しげな顔になる。そこにリドが適当にそれらしくでっちあげた話――森をさ迷っていた旅人談――をして、男達の中で一番の年長者である老人に問う。
「――ってわけで、困ってるみたいだから今日一日俺の家に泊めようと思うんですけど、良いですか?」
老人――オルドフは灰色の短い顎鬚を手で梳きながら、じろじろと流衣を見る。
「ふぅむ、お主がそう言うんなら大丈夫か。一日くらいなら、まあよかろう」
許可が下りたので、流衣は頭を下げる。
「ありがとうございます! 今日だけお世話になりますね」
そう言って流衣がにっこりと笑うと、ガチャンと何かが割れる音がした。
びっくりしてそちらを見たら、カウンターでグラスを磨いていたらしい少女と目が合った。二つのお下げを垂らした少女は何故か頬を上気させてこっちを見ていたが、グラスを床に落として割ったことに気付くとあたふたと床にしゃがみこんで片付けだした。
結構ドジな子なのかなあと思いつつ首を傾げる流衣。目の前の男達も不思議そうな顔をしていた。
「大丈夫? メアリー」
カウンターの奥にある台所から、おかみさんと思われる中年女性が箒とちりとりを持って駆けつける。
メアリーは何事かをコソコソとおかみさんに話し、おかみさんはこっちを見た。
「あれま、本当だ。カワイイね」
そのおかみさんの視線を辿ると何故か自分に行き着いた。流衣は首を傾げ、更にその視線の先を見る。すると目が合った中年の男が、まさかとばかりにブンブンと首を振った。
流衣は何がカワイイのか考え、自分の肩に乗っているオルクスのことだと気付く。
「あ、ありがとうございます。良かったね、オルクス」
オルクスに笑いかけたら、オルクスは身体を前後に揺らして頷くような動作をした。
すると今度はゴトンと音がし、箒が倒れる。
おかみさんまで表情を緩めているので、オルクスの可愛さは万国共通なんだと流衣は誇らしくなった。
「お前……」
リドは呆れた目をして何か言いかけるが、そのまま口を閉じた。
「?」
流衣は首を傾げ、肩に乗っているオルクスと目を合わせた。
小動物みたいな見た目と頼りなさは、庇護欲かなにかを掻き立てるらしい。
笑っただけで酒場のおかみとその娘を落とした流衣を見て、リドは不思議と同情を覚えた。
これが格好良いとか素敵とかいう言葉だったらイラつきもするだろうが、褒め言葉が「カワイイ」では同じ男として同情を禁じえない。他の村の男達も同様に思ったらしく、可哀相にという目を流衣に向けている。本人が肩のオウムのことをカワイイと言ったと思っているのがせめてもの救いか。
空気がしんみりしてしまったので、それを払拭せんとばかりにリドは村長に質問を投げる。
「あ、オルドフさん。さっきポーラさんに伝令の話を聞いたんですけど、なんなんです?勇者って」
「おお、あの話かの。最近、魔物が異常行動をとりだしたのは知っておるじゃろう?」
オルドフの問いに、リドは頷く。
ここ二年程の間、急に魔物が妙な行動をとったり凶暴化しているという噂が流れていた。前ならそんな場所に出てくることはなかったのに、という場所で鉢合わせ、それほど危険でもなかった魔物に襲われて重症を負ったという話だ。
「その原因が北の山に魔王が誕生したせいだとカザニフの託宣で出たのじゃと。それで今日の早朝に勇者を異界より召喚したんじゃそうだ。これでそのうち片が付くだろうから安心しろという伝令じゃな」
オルドフは顎鬚を指先でいじりながら、面白そうに口元を歪める。
「あの、その勇者ってどこにいるんですか?」
流衣が話に食いつくと、オルドフは微笑ましげに目を細める。勇者に憧れるとは子供らしいとでも思ったのだろう。
「今はカザニフの神殿にいるはずじゃ。何じゃ、お主、勇者に会って仲間に入れて貰おうと言い出すクチかね?」
「いえ、単に会ってみたいなって」
「そうかそうか」
ますます微笑ましそうにするオルドフ。子供は無邪気で良いのう、と呟く。
それに流衣は複雑そうな顔になった。
「あのう、僕、もう十五歳なんですけど……」
爆弾発言に酒場内がどよついた。
「なっ、坊主、そのなりで十五か?」
「嘘つくなって、どう見ても十二かそこらだろー」
冗談だと流そうとした大人達に、流衣は消え入りたそうに身を縮める。
「……冗談なら良かったんですけど、本当です」
酒場内は静まり返った。
それから、実際年齢十五といっても子供に変わりはないことに気付いた大人の一人が慌ててフォローに走る。傷つきやすい年頃だから思いつめたら悪いと思ったらしい。
「ま、まあ、それでも十五は子供だからな」
「そうそう、気にしなくてもあと三年もすれば背が伸びて、歳相応に見られるさ」
「三十年経ちゃ嫌でも貫禄つくしな!」
誰かが冗談めかして言ったことに、「言えてらあ」と笑いが起こる。
それで納得したようで、流衣も一緒になって笑った。
「あー、それじゃオルドフさん、これで失礼します。話ありがとうございました」
リドは聞きたいことは聞いたので、村長に礼を言って酒場を後にすることにする。
あんまり居座ると、流衣が余計な墓穴を掘りかねない気がした。見た所、約束事は守りそうだが、うっかりで暴露しそうなタイプだ。流衣が妙な奴だとばれたら、ようやく得てきたリドの信用もなくなってしまって困る。
「待ちなさい、リド。あと一つ話しておく。
ここ二ヶ月程だが、東部である盗賊団の活躍が目立つらしい。襲われた村や町は焼かれ、金品は盗まれ、男は殺し、女子供を人買いに売り飛ばすという非情な集団だそうだ。この村も他人事ではないから、警戒しておいてくれ」
「分かりました」
リドはそう頷いて、それから何気なく尋ねる。
「ところで、その盗賊団の名前はなんていうんです?」
「レッディエータだそうじゃ」
* * *
酒場で盗賊団の話を聞いてからというもの、リドは浮かない顔をして黙りこくっていた。
盗賊団に嫌な思い出でもあるのかもしれない。
さばさばしてはいるが、自分からしても怪しい人物としか思えない流衣を泊めてくれるというし、リドは良い人なのだろうと流衣は思い、そんな人を煩わせるのも嫌だったので、気付かれないようにそっと丸太小屋を出た。そして庭先の木陰に腰を下ろす。その際、鞄から〈知識のメモ帳〉も持ってきた。
『何やらあのリドという少年は悩んでいるようですね』
オルクスが流衣の右膝にとまり、クリッとした目で見上げた。
「そうだね、だから静かにしてよう」
流衣はやんわりと言い、オルクスが頷くのを見るとメモ帳を広げる。
『何か気になることでも?』
「うん。あの勇者って人のことと、カザニフについて知りたくて」
そう呟くと、メモ帳に文字が浮かんだ。
――勇者とは、魔王を倒すのに一番相応しい人物のことである。
今回の勇者は地球という世界の日本国より召喚された。
名前は川瀬達也。歳は十七で、寡黙な少年である。
「川瀬達也?」
『お知り合いで?』
「ううん、知らないよ。歳も二つ上だし」
『左様ですか』
でも名前が分かっただけでも行幸だ。それにやはり自分と同じ世界から呼ばれたのも分かった。
「じゃあ、カザニフは? 地図でいうとどの辺?」
メモ帳に地図が浮かび、世界地図のちょうど中心地点を示す。その下に説明が浮かぶ。
――カザニフ:五芒星を描くように建てられた、五つの神殿のほぼ中心部に位置する神殿のある都を指す。
神殿は別名を中央神殿というが、正式名称はカザニフ神殿である。
世界各地にある神殿の最高峰である為、各地から訪れる巡礼者により栄えている都である。
流衣は地図を見て溜め息を零す。
ここが東部なら、カザニフがあるのは北西の方だ。ルマルディー王国内ではあるが、地図で見ると遠すぎる。
「オルクス、カザニフまではここからだとどれくらいかかるかな?」
『そうですねえ』
オルクスは地図を見下ろして、少し考えるように小首を傾げる。
『坊ちゃんが旅慣れていないことと、徒歩で行くことを考えたら、早くても三ヶ月ってとこでしょうか』
「そんなにかかるの!?」
『ええ、遅れると半年ってところですね』
「…………」
ガーン。
そんなにかかるなんて、反則だ。
半年後にカザニフに勇者がいるとは限らないし、もしかしたら用事を済ませて帰っているかもしれない。
女神ツィールカはかなり離れた場所に流衣を放り出していってくれたらしい。鉢合わせたら可哀相だという慈悲なんだろうかこれって。
「帰る方法探しに集中した方が良さそうだね。もし勇者に会えたらラッキーくらいに思っとくか」
それが妥当だろう。
というかそれしかない。
流衣は大きな溜め息をついて、メモ帳を閉じた。