十五章 ヴィンスの正体
服装を着替え、風呂にも入って身綺麗にしたヴィンスを見て、ディルは彼を見たことがあるような気がしてならなかった。
“会った”とはいわない。
会って話をした人物なら、覚えておくようにしている。ディルの家の位の高さがそうさせた。三男とはいえ、公の場での言動や行動によっては家名に傷がつくからだ。それに顔と名前を覚えるのは割合得意な方でもある。
それでも覚えていないというならば、どこかで見たということなのだ。
もしかしたら、社交界で見かけたのかもしれない。三男である分、例え家が高位だろうと、ディル本人の身分は低くなるから、身分の高い人間から声をかけられるか、父や兄達に紹介されない限りは話かけることもない。
きっとそうなのだろうとディルは思った。
どう見たってヴィンスは貴族だ。立ち居振る舞い、食事の仕方、話し方、全てにおいて洗練されている。それこそ宮廷の礼儀作法を弁えていると感じる程。
気になっても、今のディルは修行中の身。一般庶民と変わりないつもりだから、深く足を踏み入れないようにしておく。
それにヴィンス本人が目立ちたくないようであることだし。
――ところで、フードを目深に被って用心深く辺りを見回しているのは逆に悪目立ちすると、教えた方が良いのだろうか?
* * *
火の神殿ヒノックは、ギリシャにある神殿みたいな形をしていた。ただし素材は大理石ではなく白い煉瓦で、四角い形をした、建物の外周が回廊で囲まれている、そんな形。土台も重厚でちょっとやそっとの振動では崩れたりしないだろうという安心感を覚えた。
出入り口の扉前にある階段脇では、二つの篝火が燃えている。
開け放たれた扉の脇には臙脂色をした詰襟の服の神官が二人、槍を持って立っていて、おかしな挙動をする者がいないかじっと観察している。が、取り立てて何かを質問される訳ではなく、居心地の悪さを覚えながら入口から中へ入った。
中に入ると、玄関口の両脇に台が置かれており、そこに幾つもの小さなロウソク並んでいた。そのうち、幾つかには火が灯されている。
この神殿に参拝する時は、ここで火を灯してから祈り場に行くのだとディルに言われ、見様見真似で火を付けて、奥へと進んだ。また入口があり、そこから燭台が二つ置かれた祭壇らしきものが見えた。
祈り場に入ると、教会を思わせる造りになっていた。一番奥に祭壇があり、そこに至るまでの通路の両脇には長椅子が並んでいる。
そこに何人かの参拝者がいて、祈りを捧げている。ほとんどが一般人だが、若干、神官らしき者が混じっている。白い衣装を着ているから、何となくだ。
流衣は一番後ろからついていき、きょろきょろと物珍しげに祈り場を見回す。
八百万の神がいるとか、正月には三社参りするとか、成仏を願うなら仏教とか、そういう漠然とした信仰感は持っていても、熱心に祈るということからは縁遠い典型的な日本人である流衣だからとかく珍しいのである。宗教に関係するものなど、良くて観光名所扱いだし。
「神官殿、リシャウス神殿長殿にお会いしたいのですが……」
ヴィンスは祭壇の燭台のロウソクを取り替えている神官に、静かに声をかける。
「神殿長とお約束をされておいでですか?」
ここのメインカラーなのか、臙脂色の上着とスカートという格好の女性神官は、やんわりと聞き返す。
「いいえ、急用でどうしてもお会いしたいのです。ヴィンスが来たと伝えて頂ければ、伝わるかと思います」
「畏まりました。では、確認して参りますので、そちらにて少々お待ち下さいませ」
女性神官は言い、近くの長椅子を手で示すと、右手奥の小さな扉からどこかに出て行った。
一応神殿まで来たものの、この後ヴィンスが無事に過ごせそうか気になるので、確認してから別れようとディル達とも話し合っていたので、共に長椅子に座って待つ。
しばらくすると、さっき女性神官が出て行った扉がけたたましい音を立てて開いた。
「殿下――っ! ご無事だったのですかっ!!」
そこから現れた、がっしりした体躯の三十代くらいの男がやおら叫び、どたたたと走ってくるとヴィンスを力いっぱい抱きしめた。
「ああ、殿下! 貴方様の乗った馬車と護衛達が死体で発見されてからというもの、私は気が気ではありませなんだ! 夜も眠れず、吉報を祈るばかり! ああ良かった、良かった!!」
金茶色の髪を後ろで一つに束ね、赤茶色の目を涙で潤ませた男が野太い声で叫ぶ光景は、なかなか見ていて圧巻だった。
抱きしめられているヴィンスが苦しげに唸っているのが哀れだが、圧倒されて誰も何も言えない。というか非常に暑苦しく、近寄りたくない。
「リシャウス、やめて下さい! 皆さん、呆れて見てるじゃないですかっ! というか苦しいんですよ、いい加減離せっ!」
仕舞いにはぶち切れたヴィンスが鉄拳をお見舞いする。
「ぐふっ!」
鳩尾に右ストレートを決められたリシャウスという名らしき男は、低く呻いてヴィンスから離れ、げほげほと咳をする。
それに対し、どこかこざっぱりした印象のヴィンスは「ふう」と溜め息をつき、ずれたマントを直している。どこか手慣れた感がある。
「ああ、お騒がせしてすみません。この人、昔、私の教育係をしていまして……。過保護気味なんですよね」
困ったように微笑むヴィンスはやはりどこか儚げにも見えるのだが、本当にさっき鉄拳を見舞った人物と同一人物なのだろうか?
流衣達三人はドン引きで固まっている。
「ごほっげほっ。ううーむ、相変わらず良い拳の持ち主でいらっしゃいますな。このリシャウス、殿下の成長ぶりに感激もひとしおです」
咳をしながら、それでも嬉しそうにするリシャウス。
流衣達はますます身を引く。怖い! そしてそこはかとなく気持ち悪い!
「この人の戯言は無視されて結構ですよ。リシャウス、彼らが私を助けて下さったのです」
「おお、それは失礼致しました。私は当神殿の神殿長をしております、リシャウス・ソラッレと申します。こんな所で話もなんです。どうぞこちらへ」
ヴィンスの言葉に、リシャウスはたちまち好意的な目を流衣達に向けた。まるで山賊の親分ばりの迫力で、にかっと歯を見せて笑い、先に立って歩き出した。
「ここは私めの自室にございます。ささ、殿下はあちらへどうぞ。お客人方もそちらへお掛けください」
テーブルと丸椅子、寝台やクローゼットや箪笥といった、生活用品しか置かれていない殺風景な部屋に客を通すと、リシャウスはヴィンスに上座をすすめ、後は適当に促した。
言葉こそ丁寧だが、すごく扱いに差を感じる。
そして一旦部屋を出ると、茶菓子を携えて戻ってくる。
「は~、殿下が私の部屋においでになったのはいつぶりでしょう。かれこれ、二年とんで七ヶ月と十二日ぶりでしょうかね」
のほほんとのたまうリシャウス。
かれこれとかいう割に、無駄に細かい。
「……いい加減にしないと、燃やしますよ」
頬を引きつらせたヴィンスがぼそりと脅しをかける。
他三名もまたドン引きだったが、内心では、ヴィンスがこういう態度に出るのも分からなくはないと思った。正直、ものすごくうざい。これを過保護で片付けるのは、きっとヴィンスの心が広いからだ。多分。
「すまぬが、先程から“殿下”という聞き捨てならん言葉が飛んでいるが、まさか……」
少し頬に汗を浮かべ、ディルが恐る恐る口を開く。
それに、リシャウスが笑顔を浮かべ、恭しく答える。
「左様。こちらにおいでになられます御方は、先の国王陛下のご子息にあらせられ、現女王陛下の弟君でいらっしゃいます、ヴィンセント・クロディクス・シャノン公爵閣下でございます」
「二年前までは王城で暮らしていたので、リシャウスは私を殿下と呼ぶのですよ。やめるように言っているのですが、一向に聞いてくれないので困りものです」
ヴィンスがさらっとそんなことを言った。
「……っていうことは、王子様?」
本当に王子様だったっていうことか!
ぽかんとする流衣の横で、ディルとリドがバッと床に膝をついて頭を下げた。
「馬鹿、お前も頭下げろ!」
「うわっ」
唖然としていると、リドに引っ張られて流衣も頭を下げさせられる。
「存ぜぬとはいえ、度々の非礼、お詫び申し上げます!」
ディルがびしっと言い放つ。
「構いませんよ。身分を隠していたのは私の方ですし……」
困った顔で、顔を上げるように促すヴィンス。
それに応えて顔を上げ、ディルは片膝をついたまま、右手を拳の形にし、左胸の前に構える。
「申し遅れました。私はレヤード侯爵家が三男、ディルクラウド・レシム・カイゼル伯爵と申します」
「レヤード侯爵家の方だったのですか?」
「はっ」
短く返事するディル。
(うわあ、騎士っぽい……)
修行修行と熱血ぶりをかましているだけかと思ったが、こうしていると騎士にしか見えない。
そんな感心を覚えつつ、ふと首を傾げる。
レヤード? どこかで聞いたような。それもここ最近……。
「しかし私は未だ修行中の身、家名を名乗るのを禁じていたのです。身分を名乗らなかったこと、どうかご容赦頂きたく願います」
「ええ、気にしてませんよ。そんな風に畏まられると困ります。旅の間のように、普通にして下さい」
ヴィンス本人の許可が出たので、さっきと同じように席につく。が、ディルとリドの態度はどこかぎこちない。
「それでどうして王子様が盗賊に襲われて、こんな所にいるの?」
思った疑問をそのまま口に出したら、ディルが青ざめた。無礼な口を聞くなとでも言いたげだ。
しかし当のヴィンスは普通に返す。
「それが私にもよく分からないのです。王都に向かっていたところ、何者かの襲撃に遭いまして。供の者を皆殺されてしまい、逃げていたら、あなた方に助けられたというわけですね」
身分がばれてしまったからか、今まで拒否していた事情をさらさら語ってくれた。
「私の方は、通りがかった旅人による通報からの伝達でそれを知り、探し回っていたのですよ。ところで、あなた方の紹介をお願いしても宜しいですか?」
ディルがもう一度名乗り、リドも名乗る。その後に、流衣も口を開く。
「僕はルイ・オリベっていいます。こっちは使い魔のオルクスです」
「オルクスと申しマス。どうぞ宜しく」
羽を広げてお辞儀をする仕草をするオルクス。
リシャウスは片眉を跳ね上げる。
「人語を解す使い魔ですか? リンキスタ様以外にそんな使い魔を呼び出した例は存じておりませんが……。しかもオルクスと? 愛と慈悲の女神ツィールカ様に仕えている、五匹の使い魔の内の一つと同じ名とは。面白い偶然ですな」
「それはそうデス。わてがその魔物です」
あっさりオルクスが答えると、事情を知らないヴィンスとリシャウスの目が点になった。
「は?」
おかしな空耳を聞いたというように、リシャウスがぽかんとするので、オルクスは付け足す。
「ですから、わてが、第三の魔物オルクスです」
誇らしげに胸を張るオルクス。
「なっ……なっ……」
口をパクパク開閉するリシャウス。
「諸事情がありまして、今は女神様の元を離れ、坊ちゃんの使い魔ヲ、させて頂いておりマス」
駄目押しにオルクスが続ける。
流衣は何かまずかったかなと冷や冷やしながら、苦く笑って、二人を見やる。
「何だ? このオウム、そんなにすげーのか?」
神様の使い魔については深く知らないリドが至極不思議そうに問いかけ、爆発が起こる。
「すごいも何も! 本来なら口をきいただけでも十分歓喜に値する魔物ですよ! なんでこんな所にいらっしゃるんですかっ? っていうか貴方一体何者なんですっ!」
「ぐえっ、な、何者って言われても……っ」
リシャウスは感情を高ぶらせるあまり、流衣の方にテーブル越しに身を乗り出し、襟首を掴んで問い詰めてくる。
そのせいで息が詰まって、苦しさに眉をひそめると、オルクスが怒った。
「坊ちゃんに、何をするんデス! 地獄に落としますよ!」
「申し訳ありません! ですから地獄は勘弁して下さい!」
流石は神官職。オルクスの脅しは痛烈に効いた。
リシャウスは顔色を変え、手を離した。
急に手を離されたせいで椅子にどさっと落ち、ついでむせて咳をする流衣。
「大丈夫かよ、おい……」
「げほっ、うう、大丈夫」
隣の席にいたリドが背中をさすってくれ、そう返す。
うう、何て感情的な人なんだ。
目の前に出されていた茶に手を伸ばし、一口飲んで、喉の乾きを鎮めると咳が止まった。
「あの、まあ、色々ありまして……」
ごまかし笑いを浮かべると、リシャウスには納得いかないと首を振られる。
「どう色々あるとこうなるんです! きっちり教えて下さい!」
掴みかかられはしないものの、リシャウスの目がギラギラしているのに気付いて背筋に冷たいものが浮かぶ。羨望と嫉妬と知的好奇心とがごっちゃになったような輝きだ。
リシャウスの眼光に気圧され、ちょっとだけ涙目になりつつ、怖いので白状することにした。
ほんと、この人、苦手かもしれない。
「ははあ、やはりツィールカ様は慈悲深い神様でいらっしゃる。ますます信心増すばかりです」
話を聞き終えたリシャウスは、ほーっと感嘆の溜め息を漏らし、その場で祈りを捧げた。
「そうです。良い事を言うじゃないですか」
その一言でオルクスはリシャウスへの印象を変えたようだ。一番の主人を褒められると嬉しいのだろう。
「慈悲深い……のかもしれないけど。うーん、物凄く面倒臭そうにしてたけどなあ」
一方で何となく納得のいかない流衣である。まあ、何もしないで放り出されなかったことについては感謝しているのだが。
「ちなみに、ツィールカ様はどのような姿形をしておいでなのですか?」
好奇心に目を輝かせ、ヴィンスが首を傾げる。
「ピンク色の長い髪をしてて、赤目で、白い布を巻きつけたみたいなワンピースみたいな服着てて、あとはとにかくすごく綺麗だった」
流衣が答えると、リシャウスの興奮も最高潮に達する。
「素晴らしい! 流石は愛と慈悲の女神様!」
「リシャウス、いい加減、落ち着いて下さい。気持ちは分からなくはありませんが、あなたはこの神殿の長でしょう」
敬愛するヴィンスにたしなめられ、リシャウスはハッと落ち着きを取り戻す。
「殿下のおっしゃる通りですな。いやはや、つい興奮してしまいました。申し訳ありません」
居住まいを正し、軽く咳払いを一つするリシャウス。が、まだ物足りなさげにちらりとオルクスを一瞥し、振り切るように口を開く。
「神様方のお話をもっとお聞きしたいところですが、それよりも、目の前に異界人がいるというのが驚きですな。こたびの勇者様は異界人と聞き、楽しみにしていたのですが、まさか同郷の、それも巻き込まれた方に先にお会いするとは……」
リシャウスは物珍しげにじろじろと流衣を観察する。流衣は視線が痛くて首をすくめ、居心地悪く椅子の上で身じろぎする。
やがてリシャウスの顔が好奇心から不憫めいたものに変わった。
「こんな子供だというのに、見知らぬ土地に一人きりとは……。さぞかし辛いことでしょうな。使い魔を与えることにした女神様の気持ちが分かるような気がします」
おまけで召喚されてしまった流衣を哀れがるのではなく、子供が知らない土地に放り出されたことに心を痛めているらしいリシャウスを、流衣は意外に思って見た。てっきり、おまけでなんて……と不憫がるかと思ったのだ。
見た目はごつい男だが、心根は優しいのだろう。神殿の長を務めているだけはあるのかもしれない。
少し苦手に感じていたことを、内心で謝っておく。
「リシャウスの言う通りです。もし自分の立場だったらと考えると、恐らく途方に暮れていたでしょう」
同意し、神妙な顔をするヴィンスを、流衣は苦笑混じりに見返す。そりゃあ最初は相当落ち込んだが、女神ツィールカから事情の説明を受けたし、言葉も通じる上にオルクスを案内役に置いていってくれたので、そこまで大ダメージを受けずに済んだといえる。
そう考えてみると、ツィールカの慈悲による施しがどれだけ大きなものか、初めて気が付いた。巻き込まれて迷惑としか思っていなかったのだが、施しがなかったらどれだけ大変だったかを考えるとゾッとする。
「え、えーと。まあこんな風にどうにかやっていけてるし、僕は大丈夫なので……。それより、ヴィンス君がこの後どうするのか気になって仕方ないんですが」
リシャウスは、そうだったと相槌を打つ。
「そうでしたな。申し訳ない」
居住まいを正し、軽く咳払いを一つ。が、まだ物足りなさげにちらりとオルクスを一瞥し、振り切るように口を開く。
「それでは殿下、どういたしましょうか。このまま王都に行かれるというならば、こちらから護衛を出しましょう。領地に戻られるにしてもそう致しますが」
ヴィンスは秀麗な顔を悩ましげにひそめる。
「……リシャウスは、私が狙われた理由は知らないのですか?」
「一つ心当たりはございますが、確証がありませんので口に出来ません。恐らく、女王陛下にお尋ねになるのが一番かと」
「やはりそうなりますか」
はあ、とヴィンスは軽く溜め息をつく。
「あまり姉上の手を煩わせたくはないのですが……。未熟な身なのが悔やまれます」
「何をおっしゃいます、殿下。殿下は十分やっておられますよ。まだ十五、未熟で結構ではありませんか。それに女王陛下は、殿下に頼られると喜ばれますしな。かくゆうわたくしめも、こうして頼りにされること、とても光栄に存じております」
「……貴方にそう言われると、嬉しくないのは何故なんでしょうね」
ふーっと溜め息をつき、こめかみをグリグリ押さえるヴィンス。自己主張の激しい教育係がものすごく煩わしい。良い歳した大人が、目をキラキラさせないで欲しいと思う。
「ははは、またまたご冗談を」
「…………」
ヴィンスは、ちょいと目を反らす。
「では、王都まで参ります。護衛を数名貸して下さい。それから、この方達にお礼をして欲しいのです。王都の屋敷に着きましたら、ちゃんと返しますから」
「そんな! 殿下の大事は私の大事。むしろ私から出したいくらいです。否、出します。というわけでお返しは却下します」
清清しく笑うリシャウスを見て、ヴィンスも緩く笑って肩を竦める。
何だかんだ言っても、教師と教え子で仲は良いようだ。何となく、信頼関係のようなものが垣間見える光景だった。
「では、後はこちらで処理致します。殿下は、今日は神殿にてお休み下さいませ。お客人方も……」
「いえ、我々は失礼します。気遣いには及びません」
ディルが素早く断った。
「左様ですか。では、こちらで少々お待ち頂けますか。ささ、殿下、お部屋に案内致しまする」
「ええ」
ヴィンスは頷いて立ち上がり、そこで流衣達を見てにっこり笑った。
「私を助けて頂き、本当にありがとう。短い間でしたが、とても楽しかったですよ」
そして、そう一言残して部屋を退出していった。
パタンと木製の扉が閉まると、皆、どっとその場にへたり込む。
「……はは、まさかシャノン公爵様とは……」
額に冷や汗を浮かべて呟いたのはディルだ。
「僕、あの神官さん苦手……」
げっそり呟いたのは流衣。
「おう、俺も苦手……。ていうか、レヤード侯爵って東一帯治めてる領主だよな? ディル?」
重い溜め息をついてから、リドは思い出したように問う。
ディルは複雑そうに眉尻を下げる。
「そうだ。だが私は三男故、身分としては伯爵の地位を貰っている。出来れば名乗りたくなかったのだがな……。態度を変えられると哀しくなる」
沈んだ声で呟く。
流衣は首を傾げる。
「え? でも修行中は一般人なんでしょ? じゃあいつも通りで良いよね?」
普通に言うと、ディルは目を見開いた。
「いつも通りにしてくれるのか?」
「くれるも何も、僕、敬い方とか分からないし。僕のいた国、身分制度が無いからさ」
「そうなのか? それでどうやって国が成り立つのだ?」
心底不思議そうに問われても、流衣にもさっぱりだ。時代の流れで変化しているのだから。
「貧富の差はあるけどね。でも僕はそれが普通で、こっちの方が良く分かんないや。王子様って言われてもピンとこないし」
「王族には頭はすぐさま下げた方が無難だぞ。無礼とか難癖つけて斬り殺す奴もたまにいるらしいしな。それは貴族も同じだけど」
リドの言い分に、ディルは苦笑する。
「だが、理由もなしに殺すのは犯罪に当たる。そういう暴挙を成す輩がいる場合、王国警備隊に名乗り出れば解決するぞ」
「そうなのか? 噂とはいえ、結構信憑性あったけど」
「たまにいるのも事実だがな。ときどき暴君もいることだし、村人が王都に直訴しに行くこともある。そういえば、南の方の領地には暴君がいると聞いたな。まあそれが家臣であるならば、領主に告げれば解決する。領主が腐っていなければ、だが」
その辺の事情に詳しいディルがすらすらと答え、居たたまれない顔になり、ふうと息をつく。
「そうなんだ、分かったよ。はあ、ややこしいな身分制度……」
前途多難な気がしてきた。
「で、いつも通りで良いんだよね?」
ディルはしっかり頷く。
「勿論だ!」
そんなディルをリドはにやにやと見、オルクスはパサッと羽音をさせてディルの頭に乗る。
「わては元々、敬う気なんてゼロですがね。女神様と坊ちゃん以外、皆、ただの人間ってだけですから」
ふふんと胸を反らすオルクス。
「そんなこと言って、ディルのこと気に入ってるじゃないか。リドもただの人間じゃなくて、喧嘩友達でしょ?」
流衣が口を挟むと、オルクスはちょっと慌てた。
「いいえ! ご安心を、坊ちゃんが一番ですから!」
「………何だ、その、浮気を疑われた亭主みたいな返事は」
リドは呆れ混じりに半眼で突っ込む。
「うん、ありがとう」
リドの突っ込みに軽く吹き出しつつ、礼を言う。
「坊ちゃん……!」
主人に礼を言われてご満悦なオルクスは、バサバサと翼を羽ばたかせる。
「すまぬが、頭の上で暴れないでくれ」
そうディルが申し出た時、また扉が開いた。