九章 〈悪魔の瞳〉 1
「流衣、おいしいものってのはすごいんだぞ。人を幸せにするんだ」
まだ流衣が幼い頃、七つ年上の兄が笑顔満面でそう言った。そして、笑顔のまま、テーブルについている流衣の前に、兄自作のショートケーキを置く。
「それって本当、兄ちゃん」
その頃、まだ九歳かそこらだった流衣は、兄を見上げて問いかけた。
「そうだぞ。ほら、食ってみろ。兄ちゃんの力作だ」
「うん、いただきまーす」
両手を合わせて、フォークでケーキを切り分けて、一切れ食べる。流衣はたちまち笑顔になった。
「おいしい!」
すると兄はニッと笑った。
「ほらな。幸せになったろ?」
「うん! 兄ちゃん、すごいね!」
パクパクとケーキを頬張りながら、流衣は尊敬のこもった目で兄を見上げる。兄は満足げに頷いた。
しかしそこで流衣はふと不安になった。
「でも、兄ちゃん。食べた人が幸せになるんなら、作る人はどうなるの?」
兄は一瞬だけ目を丸くしてから、優しく笑ってこう答えた。
「食べた人が笑っておいしいって言ってくれたら、作る人も幸せになるんだ」
小さい頃の幸せな夢を見て、朝方に目が覚めた。
流衣はまだ暗い室内で目を開けて、ぼんやりと天井を見上げた。
年の離れた兄は普段からあまりお喋りな方ではなかったが、小さい流衣よりずっと大きくて、力も強く、何より優しかった。両親が忙しい為にほとんど兄に育てられたようなもので、それもあって流衣は兄が大好きだった。料理好きな兄の作る料理も好きだった。
しかし兄は流衣が十二歳になった時、パティシエを目指す為に寮制の専門学校に行ってしまい、家を出て行った。
出て行く時、気弱な弟のことを心配そうにしていたのを今でも覚えている。
といっても、長期休暇があれば家に帰ってくるから、今生の別れというわけでもないのだが、まだ小学生だった流衣にはそれでも寂しい別れではあった。
今では、兄は専門学校の近くにあるレストランのオーナーに弟子入りし、下積みの日々を送っている。
兄を思い出したせいか、心臓をぎゅっと掴まれたような寂しさに襲われた。
(これがホームシック、かあ)
悲しくもないのに泣きたくなるのが何とも不思議だ。
兄を思い出したら両親も思い出し、家、自分の部屋、友達、学校と連鎖的に思い出してくる。
これがちょっと離れた所に旅行しに来ている程度なら、電話でもすれば寂しさも紛れるのだろうが、ここには知人は誰一人いない。
それに気付いたら眠れなくなってきたので、ベッドから降りて、窓際にある椅子の方に行って膝を抱えて座る。すると気付いたオルクスが追いかけてきて肩にとまったので、ちょっとだけ苦笑した。どうやら起こしてしまったらしい。
流衣はそれから、徐々に白んでいく朝の空をぼんやりと眺めた。
日の出から一時間後、いつもの起床時間にパチリと目が覚めたリドは、すぐに起き上がって大きく伸びをした。
そして、あくび混じりに目をこすりながら、なにげなく隣りのベッドに目をやってぎょっとする。
なんと流衣がいないではないか。
寝起きで頭が回らなかったのもあり、あいつは夢遊病の気でもあったのかとか、もしかして旅人を狙った誘拐犯にでもさらわれたのではいかとか、少し非現実的な方向に考えが傾いていく。そしてこれはまずいぞ、王国警備隊! と内心で叫んだところで、窓際に流衣が座っているのを見つけた。
何だよそんなとこにいたのか傍迷惑な奴だなと、流衣にしてみれば八つ当たり的な悪態を内心でつきつつ、何となく声をかけられないで、開きかけた口を閉じた。
黒髪黒目の異国の少年が、肩にオウムを乗せ、窓枠に肘をついて見るともなく外を眺めている光景は、まるで一枚の絵のように見えた。朝の白い光がますますそう見せている。
しかしそんな見た目より、流衣がどこか寂しそうにしているので、声をかけるべきか悩んだのだ。考え事をしているのなら邪魔しない方がいいような、そんな雰囲気だった。
これまで生きてきた処世術で、空気を読むことには敏感な性質のリドだったから、尚更憚られた。
少し考えて、声はかけずに洗面所に行こうとそろりとベッドから降りる。
「あ、おはよー」
が、部屋のドアノブを掴んだところで急に声をかけられて、びくっとする。しかしそこは平静を装って振り返る。適当に取り繕うのは得意中の得意だ。
思ったよりも普通の流衣が、ちょっと不思議そうな顔でこっちを見ていた。
「どっか行くの? 起きたんなら声かけてくれればいいのに」
「いや、まあ、うん。考え事の邪魔しちゃ悪いかと思ってな」
流衣はきょとんとする。
「考え事? ぼーっとしてただけだよ」
ああ、そうですか。
気を遣った自分が馬鹿らしくなったリドだった。
* * *
リドにはそう言ったものの、考え事をしていたといえばしていたといえた。
といっても、故郷に思いを馳せるなんて、自分には似合わないような説明文になってしまうのだが。そういうのは、美形がしないとただの鬱陶しい根暗にしか見えない。
そう思って適当にごまかした。
顔を洗っても、朝食を食べても、何となく陰鬱な気持ちが抜けず、ことあるごとに溜め息をついていたら、案の定、リドに鬱陶しいと怒られた。
「何がそんなに不満なんだか知らねえけどな、ちったあマシな面してろ。今日のクエストは無しだ、無し! そんなんじゃかえっていらん怪我をする!」
そんなわけで、今日はクエストはせず、町を散策することになった。
流衣は一人でも平気だと主張してみたが、リドからすると大変問題があるようで――ひどいと思うが、目を離した隙にカツアゲにあいそう、らしい――結局、流衣とリドとオルクスの三人(二人と一羽?)での行動になった。
ちょうどいい機会だと、足りていない生活必需品を色々と買い足そうと思い、店をあちこち覗いて回る。
が、そうして歩いていて、ふと気付く。
二日前より、フラムの店以外の魔法道具屋の闇が濃くなっている。外から見ても分かるくらいだ。
しかも事態はまずい方に進行しているらしく、通行人にもちらほらと黒い煙のようなものを連れている人が何人かいた。
「ふーん、俺には見えないけど、そんなに酷くなってんのか」
リドに伝えると、今一よく分からない様子ながら、リドは言う。
「風の精霊達もたまに嫌がってるけどな、度合いが分からねえ」
あっさりそんな返事を寄越され、流衣は面食らう。
「ねえ、もしかして風の精霊が見えるの?」
確か不可視の精霊ではなかったのか?
「いや、見えねえよ。声が聞こえるくらいだ」
「それでも十分すごいよ」
「お前だって聞こえるんだろ?」
そんな切り返しに、流衣はうっと言葉に詰まる。
「僕のはあれだよ、幽霊とかそっち系だよ。精霊なら可愛い方じゃない」
「そうか? たまにうるさいと思うから、似たようなもんだろ」
すると、その言葉に抗議するように、リドのすぐ目の前に風が渦を作った。小さな竜巻みたいなものが、ビュウビュウと唸り声を上げる。
周りの通行人達はその奇怪な現象にざわつく。
リドは両手を広げ、慌てて精霊達をなだめにかかる。
「ああ、悪かった。幽霊なんてのと一緒にして悪かった! お前らは怖くなくて可愛い! ――だから今すぐやめてくれ!」
どうやら風の精霊達は、自分達は可愛いのだと主張していたようだ。
リドの言葉に満足したのか、風はすぐに収まった。
「ほら見ろ、機嫌損ねるとすぐああだぜ?」
ちょっと疲れたようにリドが言い、結構苦労してるんだなあと流衣はそんなリドを見やる。
気付いたリドは肩を竦め、フラムの魔法道具屋を示す。
「何か進展してるか、フラムさんとこ行ってみようぜ。また顔出せって言われてたしさ」
「そうだね、そうしよう」
魔法道具屋ビスケットに顔を出すと、店は相変わらずボロボロだったが、幾分綺麗に磨き上げられていた。ボロい分、清掃には余念がないらしい。
「モーリス、そこの釘を取ってくれ! 全くこの窓枠ときたら、隙間風が酷すぎる!」
脚立に乗ったフラムが、ぶつくさと文句を言いながら、天井に近い位置にある明かり取り用の窓に金槌を向けている。そして、空いている左手を後ろに向けて突き出していた。
流衣は脚立の足元にある釘箱を見つけ、そこから釘を一本取ってフラムの手に乗せる。
「よし、いいぞ。これで木枠の浮いたのが直って――良し!」
金槌で釘を打ちつけ、大変満足した顔でフラムは脚立を降りた。そしてベキバキと肩を鳴らして顔を上げ、そこで初めて流衣達に気付く。
「うおっ! お主ら、いつからそこに!?」
「さっきからですよ、親方」
カウンターについているモーリスがおかしげに笑う。
それでさっきの釘を渡したのがモーリスではないことに気付いたフラムは、少しバツが悪そうに顔を赤らめた。
「ふん! いるならいるとそう言え! 人騒がせな坊主どもじゃな!」
「はあ、すみません」
理不尽だと思ったが、肩を竦めて謝る流衣。
フラムは気にせずに脚立と道具を持って勝手口から外に出て行き、しばらくすると手ぶらで戻ってきた。
「それで、今日はいかような用件で?」
一つ咳払いをし、気を取り直して問うフラム。
無理矢理感のある取り繕い方に、四人の若い職人達は顔をうつむけてクスクスと笑う。勿論気付いているフラムは四人をねめつけた。
「こないだの闇物の一件、どうなったのか聞きたくて……」
流衣はそう答え、ますます酷くなっているようだという旨を告げる。
フラムはふうと息をつく。
「一応、王国警備隊には連絡したんじゃがのう。何せ一般兵が多いからな、対処しきれんのじゃろうて。ここは自腹を切ってでも、杖連盟に対処してもらうかのう……」
フラムはあの一件以来、他の魔法道具屋を回って、闇物を神殿に納めるように助言したのだ。しかし、ハンスと同じく黒く濁った目をした店主らに睨まれ、その上営業妨害で訴えると言われ、渋々引き下がるしかなかった。
「杖連盟って、そういう依頼も引き受けてくれるんですか?」
流衣の問いにフラムはきょとんとし、それから流衣が魔法使いとしては素人なのを思い出して逆に訊く。
「お主、杖連盟に入っとらんのか?」
「う……。だって、三年に一回の会合に参加しないといけないってウィングクロスで聞いて。僕、そういうのって苦手で……」
未だラーザイナ魔法使い連盟、通称杖連盟を訪れていないのは、そういう理由からだった。
「ただの会合程度で、全く情けない小僧じゃのー」
「す、すみません」
ひたすら呆れられるが、流衣は身を縮めるしかない。その様はますます小動物じみて見えさせ、フラムを含めた職人達はうっかり可愛いなどと思ってしまった。
四人の若い職人達が小ネズミを連想したのに対し、フラムの場合は孫を見るような心境ではあったが。
「あの、それなら、僕も何か手伝えないですか? ほんとに、あれは危ないと思うんです……」
流衣はどぎまぎしながら、勇気を振り絞って言ってみる。近付いただけで吐き気を覚えるような代物が町中を蹂躙しつつあるなんて、放っておいていい問題ではない。それくらい、十五の子供にもすぐに分かる。
「ふーむ」
フラムは顎に手を当てて考え込み、そうじゃなあと天井を仰ぐ。
「それなら、魔昌石を幾つかこしらえて貰おうかの。あれをちらつかせれば、奴らも重い腰を上げるじゃろ」
良い悪戯を思いついたと言わんばかりの態度で、にやりとするフラム。
「そんなことで良ければ」
今一、自分の作り出す魔昌石の凄さを理解していない流衣は、そんな簡単なことで良いのかなあと思いつつ、頷いた。
青く輝く魔昌石を三本作り、店で売る分として更に三本作った流衣は、フラムの店を後にした。
店の分については、今回は代金を貰えた。フラムが宝石店に売りに出て、そこで得た代金から支払えば良いと気付いたのだ。落ち着いて考えればそうするのが一番だと気付けたのだろうが、前は急だったから仕方が無い。
銀貨六枚と銅貨七十五枚が増えてちょっとだけほくほくしつつ、通りを歩いていく。
フラムには、自分で昌石を買って、魔昌石にしたものを店で売ればもっと利益が出るのにと諭されたが、自分には魔昌石は必要ないからこの方式で構わないと返した。フラムだけでなく職人達やリドにもこぞって呆れた顔をされたのだが、何かおかしかっただろうか?
まあそれは除いて、魔法道具作りや道具の燃料にも魔昌石が使えると分かったので、三つ程昌石を買ってみた。何かに使えるかもしれない。
「お前さあ、お人好しってよく言われないか? 俺、ほんっとついてきて良かったよ。ルイ一人だったら、確実に悪そうな奴らにカモられてたな」
メインストリートを歩きながら、リドがやけにきっぱりと断言した。その中身に、流衣はガーンとショックを受ける。
「だ、大丈夫だよ。チビとかドジとかとろくさいとか、そういうことをよく言われてたから、悪そうな人と善い人の区別つけるのは上手い方なんだ」
根拠のない自信を述べつつ、流衣はずんずんへこんできた。
「リド。あなたは、ほんとニ、お馬鹿ですネ! 本気で、最低デス!」
へこんでいる流衣を見て、リドに食ってかかるオルクス。
「馬鹿馬鹿言うな、片言オウム!」
「何ですって、赤猿!」
オルクスは流衣の肩からテイクオフし、爪でもってリドに急襲する。
リドはそれを難なく交わし、舌まで出す余裕を見せ付けた。
「あわわわ、二人とも、こんな所で喧嘩しちゃ駄目だよ……っ」
人通りの多いメインストリートでの喧嘩に慌てる流衣。しかし二人とも聞く耳を持たない。
こんな所でなければ放っておいて、終わるのをじーっと待つのだが……。
妙なところで気の長い流衣は、それぐらいは普通に平気で耐えられる。待たせるより待たされることの方が断然多いので、自然と身についた気の長さだ。
困り果てたものの、止められる自信がない為に一人おろおろする。周囲の人達は面白げに観察するだけで、止めようとする気配すらない。所詮、人間とオウムの喧嘩だからだ。
そうしておたついていたら二人と距離があき、人混みに飲まれてしまう。そのまま、人の波にあっという間に流された。
(うわわわわわ)
慌てて戻ろうとするも、最後には通りを横断してきた黒いゴーレム――ミニゲス五つの列に押され、そのまま路地裏にペッと吐き出された。
「あでっ」
地面に尻餅をついて、唖然と通りを見る。
「うう、とろくさいにも程がある」
駄目押しの一撃に、がっくり沈みこむ。
しかし座っていても仕方が無い。
流衣は立ち上がると、メインストリートに戻ろうとして、やっぱりやめた。ここで戻ってもまた人波に流されるのがオチだ。
さっきの場所まで戻るには遠回りした方が良さそうである。
“急がば回れ”と昔の偉い人も言っている。
もし無理でも、ウィングクロスに戻れば平気だろう。
流衣は一つ頷いて、路地裏の暗がりをどぎまぎしながら歩き出した。