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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短篇(ホラー)

したたり《死祟》

夏のホラー2025『水』

 目が覚めると、部屋の真ん中に水溜りがあった。


 新卒採用の東京の仕事を辞め、五年ぶりに帰った地元。

 転職先は決まってないけど、蓄えはそこそこあるので実家暮らしを拒否し、完成したての新築マンションのワンルームに引っ越した。その、翌朝のこと。


 真新しいフローリングに拡がるコップ一杯分くらいの水溜りは、透明な澄んだ水だった。

 はいつくばって嗅いでみたけど、匂いもない。真上を見れば白い天井には、小指の先ほどの黒ずんだ()みが見える。


 内見のときはなかった気がするけど、不動産屋のお姉さんが美人なせいで浮かれてたから、よくおぼえてない。


「ええと、305号室の青木(アオキ)です。はい。床に水溜りが出来てて──」


 管理会社に電話をしてみたけど、上の階は空室だという。

 新築で水回りの不備は考えられないし、今年は空梅雨で雨も一週間は降っていないから雨漏りも有り得ない。管理会社としては、とりあえず様子を見てほしいという結論だった。


「──はい、わかりました。じゃあ何かあれば、また」


 どうも担当の男性は、俺が自分で水をこぼして勘違いしているとでも思っていそうだった。

 しかたなくタオルで拭いて、洗濯機に放り込んだ。


 その日の夜。



 ぽたん


 ぴたん



 ──どこか遠くで、水のしたたる音を聞いた気がした。


 翌朝。同じ場所に水溜りができていた。

 なんとなく量が増えた気がする。

 昨日と比べると、ほんの少し濁って見えた。ちょっと酸っぱい匂いもある。

 天井の染みは、少し離れた場所にもうひとつ浮かび上がっていた。


 それらをスマホで撮って証拠を残しつつ、回していなかった洗濯機から昨日のタオルを引っ張り出して、水を拭き取る。生乾きだったけど、どうにか吸い取れた。

 いちど洗面台で搾ってから、再び洗濯機に戻した。


 なんだか、体がだるい。会う約束をしていた地元の女友達に断りの電話を入れる。


『なんか達也(たつや)くん、声めっちゃ疲れてる』

「ちょっとだるくて。引っ越しで疲れたのかも」

『そういえば、あの新しいマンションに入ったんだっけ? すごいね』

「いや全然。……あ、なんなら部屋に来る?」

『……ああ、うん……まあそのうちね……』


 地元に帰ると伝えたときはテンション高めに向こうから誘ってきたのに、なんなんだ。

 愚痴りつつ、ネトフリで海外ドラマの新シーズンが配信されたのを思い出したので、だらだらとそれを見て過ごした。

 食欲もあまりなくて、食事は買い置きのカップラーメンで済ませた。


 夜。水溜りの位置が映るようにスマホを立てかけ、動画撮影を開始する。

 撮影のため蛍光灯は光量を落とすだけでベッドに入る。また洗濯機を回し忘れたけど、明日にしよう。

 体のだるさもあって、すぐ眠りについた。



 ぽたん


 ぽた


 ぴたん



 ──水音は、昨日よりも近くで聞こえた。


 目が覚める。時計を見るとまだ四時前だ。

 そして吐き気がした。他人が出た直後のトイレみたいな異臭が漂っていた。

 水溜りは当然のようにそこにある。

 明らかに昨日より広がって、茶色く濁りすえた(・・・)匂いを放っていた。

 ただ、水の匂いと部屋に漂う異臭とは別のような気がした。

 スマホを確認すると、動画はまだ撮影中になっている。匂いの出どころを探しながら、映像を再生する。


 冷蔵庫に腐るような食材はない。

 トイレはむしろ芳香剤でいい匂いがした。


 変化のない動画を早送りする。

 二時間を過ぎて、小さな水溜りが出現した。

 撮り始めたのが日付の変わったころだから、ちょうど午前二時ぐらいだろう。

 数秒おきに波紋が拡がって、水溜りはじわじわ大きくなっていく。天井から、水滴が垂れているようだ。


 さらに早送りしてみた。水溜りはだいぶ大きくなっている。

 ためしに音量を大きくしてみる。水滴の落ちる水音、自分自身の寝息、そして微かに何かを囁く声のようなものが聞こえた。

 はっきりとは聞き取れなかったけど、短い二文節ぐらいの同じ言葉を繰り返しているようだった。なぜか聞き馴染みのある言葉の気がして、胸がざわめいた。

 水滴は、単語を言い終えたタイミングで落ちてきていた。


 天井を見上げる。染みが、もうひとつ増えていた。並んだ二つの染みと等間隔の、細長い染み。

 それらはまるで二つの目と口のようで、天井に浮かぶ顔に見えた。


 ぞわり鳥肌が立つ。急激に水溜りへの嫌悪感がわいた。洗濯機に駆け寄ってタオルを取り出そうと蓋を開けた瞬間、洗濯槽内から拡がった凄まじい悪臭にその場で嘔吐していた。


 異臭の出どころは、洗濯機だった。口元を手で拭いながら覗き込むと、白かったタオルは真っ黒に変色して、ところどころにクリーム色の何かがもぞもぞ蠢いている。

 直視するとまた吐いてしまいそうで目を逸らし、ふらふらと後ずさると、素足にひんやりした感触。──水溜りに、足を踏み入れていた。


「くそッ」


 慌てて離れようとした俺は、水のぬめり(・・・)に足を取られ転倒していた。スローモーションで視界に入った天井の(しみ)が無表情に見下ろす中で、床に強打した後頭部を襲う衝撃と共に、俺は意識を失った。



 ──気付けば、池のほとりに立っていた。見慣れた景色、小学校に通う途中でいつも横を通る、茶色い水をたたえた貯水池。俺の背にはランドセル、そうだ今も登校中だ。


 そして池の真ん中あたりには、うつ伏せになった女の人がぷかぷか浮かんでいた。なんとなく見覚えのある紺のスーツを着て、波打つ水面に長い黒髪が拡がって揺れている。

 うーん、あれは誰だったっけ。

 思い出そうとして空を見上げると、ぽつんと顔に水滴が落ちてきた。雨かな?



 ぽつん


 ぽつん



 でも雨にしては、なぜか俺の顔にだけ落ちてくる。いつまでも同じ間隔で一滴ずつ。

 それに、なんだか生臭い。

 そして床にぶつけた後頭部がひどく痛かった。


 ──そこで目が覚めた。


 部屋は暗くなって、異様な静けさに包まれている。

 ちょうど天井の()と向き合う位置で仰向けになっていた。

 目を凝らすと、そこに青白く浮かび上がるのは染みではなく、無表情な女の顔だった。人間の女の顔が、天井に張り付いているのだ。


「───!」


 叫ぼうにも声は出ない。目も逸らせない。

 顔の周囲で長い黒髪が天井に拡がり揺らめいていたから、さっき見た水死体を下から見上げているのだと気付いた。どこかで見た顔だと思った。


 ぽつん、とまた顔に水滴が落ちる。


 女が何かぼそぼそ囁いて、その終わりに紫色の唇からしたたり落ちる水滴だった。

 それは動画に録られていた、例の聞き馴染みのある言葉。胸が、ざわつく。

 体が動かないので、ただ水滴を待ち受けるしかできない。

 耳が慣れたのか、それとも女の声が少しずつ大きくなっているのか、だんだん言葉が聞き取れるようになってきた。それにつれて、胸のざわつきも大きくなっていく。



 アオキ、タツヤくん



 ──それは、俺の名前だった。


 フルネームで、最後に「くん」付け。まるで学校の朝の出欠確認みたいだ。

 ああ、そうか。この顔は小学校の担任教師のものだ。名前は確か……




 ……だめだ。思い出せない。


 諦めた瞬間、天井の彼女が目をカッと見開き口を大きく開けた。

 その中から溢れ出した大量の茶色い水が、俺の顔に猛然と降り注いだ。

 泥や砂利やよくわからない何かの混じった汚水が痛いくらい顔を叩く。

 息が出来ない! なんとか空気を確保しようと口を開けると、泥が中まで入り込んでくる。

 仰向けだから吐き出すことも出来ない。いつの間にか自由になっていた両手で、鼻と口から必死にかき出そうとするけど、もう気管に入り込んで……息が……でき……な……






 ──次に目覚めたのは、病室のベッドの上だった。


 ずっと連絡が付かなかったことを心配して、合鍵で部屋に入った母親が、鼻と口に自分の両手をねじ込んで窒息しかけている俺を見つけ、すぐに救急車で緊急搬送されたらしい。

 母親も錯乱してしまって大変だったようだ。


 経過観察の退屈な時間の中で、俺は思い出していた。


 あの夢は、小学生のころの実体験だ。

 貯水池に浮いていた水死体──当時の担任の女性教師は、まだ若かったと思う。前日の夜に泥酔していたという情報もあって、誤って池に転落したのだろうということになった。


 だから俺たち生徒が、朝の出欠確認のとき彼女を無視したり、容姿を貶めるような発言を日常的に繰り返していた事実は、なかったことになった。

 親たちも、同僚の教師たちも、知らなかったことにした。


 みんなが記憶に蓋をして、忘れ去った。

 いまでも彼女の名前を正確には思い出せていない。

 そして彼女への罪悪感もほとんど浮かんでこない事実に、何よりの罪悪感を感じた。


 ──忘れかけていた顔だけは、もう忘れようがなく焼き付いている。


 貯水池はその後すぐ埋め立てられ、ずっと空き地のままだったが、県外の不動産会社が買い取って昨年マンションを建てた。それが、あのマンションだった。


 ほどなく退院した俺は、すぐに部屋を引き払い、実家暮らしをすることに決めた。

 賃貸の違約金なんてどうでもよかった。

 生まれ育った実家の、見慣れた実家の木目の天井は、言いようのない安心感がある。

 今朝も母親の大きな声が聞こえて、畳敷きの布団で目覚めた。



「──ねえちょっと、廊下に水溜りつくったの誰? なんか嫌な匂いするんだけど」




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― 新着の感想 ―
最後のお母さんのひとことにゾッとしました。
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