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8.両親の死(前編)

 妄想の自給自足というものは、精神がある程度は安定していないと難しいものであるようだ。

 ユリウス殿下がまた留学先のルクコーヒ王国に戻られることは、わたくしに自分で思っていた以上の衝撃を与えたようだった。


 たまに、転生前に最後に読んだ『伯爵令嬢は最強の平民に嫁ぎます』のことを考えた。主人公のオリビアとテオドールは、一時的に小さな石造りの家で暮らしていた。


 わたくしもユリウス殿下と共に、小さな家で一緒に暮らせたら、と想像した。その小さな家で、ユリウス殿下はわたくしのために、味噌の瓶を開けてくれるの。


 何度も何度も、想像の中で、わたくしとユリウス殿下はオリビアとテオドールになって、小さな家の小さなキッチンで味噌の瓶を開けた。


 まさか作者さんも、自分が書いて某大手小説サイトに投稿したものが、異世界の子爵夫人によって、こんな風にくり返し使用されているとは想像もしていないだろう。



「これではダメですわ! このままでは病んでしまう!」

 わたくしは昼間から寝台でごろごろして、味噌の瓶を開けてもらう想像をしていた。


 これは良くない。グスタフも、わたくしを監禁しているわけではないのですもの。ただちょっと、外出したりすると嫌な顔をしてくるだけよ。

 街にでも行って、新しいドレスでも作って、気分転換しないとだわ!


 この世界の本屋にも行ってみたらどうかしら? 味噌そっくりな調味料だってあったんですもの。案外、好みに合う小説が置かれていたりするかもしれないわ。


 ラジオ体操をするのも良いわね。なんとなくしか覚えていないけれど、とにかく身体を動かして、病みかかっているのをなんとかしないと!


 わたくしは王妃殿下の侍女になって、ユリウス殿下が年を取っていくのを見守るのよ。

 ユリウス殿下が王子妃殿下や、即位後は後宮の方々と、お子を成したりされるのを見るのは辛いだろうけれど、それでも、わたくしはユリウス殿下を見ていたかった。


 わたくしは外出するために、侍女を呼ぶことにした。

 少し離れたところにあるテーブルに、使用人を呼ぶためのベルが置かれている。

 わたくしはそちらへと歩いて行った。


 わたくしはベルを手に取ろうとして、動きを止めた。

 遠くで男たちの騒ぐ声がしたのだ。

 なにかあったのかもしれない。

 案外、面白いことで、気がまぎれるかもしれないわ。


 わたくしは自室を出ると、声を頼りに歩いて行った。

 騒ぎはどうやら厨房で起きていたようで、わたくしが入っていくと、一人の平民が縄を打たれていた。



 ……わたくしの精神は、本格的にもうダメなのかもしれない。



 質素なシャツとパンツに身を包んだユリウス殿下が縛られているように見える。


 次はまた日本に転生して、某大手小説サイトの『異世界(恋愛)部門』を読み漁る人生に戻りたいと思います。神様、どうぞよろしくお願いいたします。


「奥様、お呼びしようと思っていたところでございました」

 執事のモーリッツが、わたくしとユリウス殿下らしき男の間に立った。自らを盾として、わたくしを守る姿勢なのだろう。


「こちらの平民が奥様を呼び捨てにして、呼べ呼べと騒いでおりまして……」

 モーリッツは遠慮がちに説明してくれた。


「ええ、ええっと……、わたくしの実家で新たに雇った下男です。実家でなにかあったのでしょう。縄を解きなさい」

 ユリウス殿下はご自身で、『この国の王子だ。縄を解け』と命じておられない。なにか名乗りたくない事情があるのだろう。

 ユリウス殿下に対して下男だなどと言うのは不敬だろうけれど、きっとお許しいただけるはずよ。


 ユリウス殿下の縄が解かれた。

 わたくしはユリウス殿下を伴って、庭を散策しに行くことにした。

 メイドや下男、料理人たちは、陰でひそひそと「まったく人騒がせな」などと言い合っていた。


「テレーゼ」

 庭に出て二人きりになると、ユリウス殿下はわたくしの名を呼んだ。


「ユリウス殿下、どうなさったのですか?」

「馬車を用意させろ。すぐにメリッタのところに行くのだ」

 ユリウス殿下の血の気を失った唇が、お母様の名を口にした時、わたくしはお母様が亡くなったことを確信した。


 お父様はどうしているのだろうか。ひどく心配だった。

 お父様とお母様は、お母様が王妃殿下の侍女になる前から婚約していた。

 子爵家同士で領地の規模や財力なども釣り合い、当人同士も好きあっていて、理想的な婚姻だったと聞いている。


「テレーゼ、大丈夫か?」

 大丈夫なわけがなかった。

 ユリウス殿下は自ら厨房に戻って、使用人に馬車の用意を命じてくださった。

 すぐに馬車が用意されて、わたくしとユリウス殿下は馬車に乗り込んだ。


「あのー、奥様。下男まで馬車に乗せるので?」

 御者が嫌な顔をした。


「話を聞く必要があるのです。余計なことを言っていないで、早く馬車を出しなさい! わたくしの実家に行くのよ!」

 わたくしが叫ぶように言うと、御者はびくりと身体を揺らした。

 すぐに馬車が動き出した。


「テレーゼ、すまない」

 ユリウス殿下はひどくためらってから、わたくしの手を握った。

 わたくしはこれで良いのだろうか。


 この方は、お母様を殺したあの王妃殿下の息子だわ。

 王子様がお供も連れないで、元侍女の嫁ぎ先に来るなんておかしいわよ。

 わたくしがお母様を失って、どんな顔をしているのか見に来たのだろうか。


 わたくしはユリウス殿下の手から、自分の手を引き抜いた。

 仇の息子のくせに、わたくしに触れるなんて。


「その……、テレーゼ……」

 ユリウス殿下は真っ青な顔をして、わたくしを見ていた。

 わたくしも同じくらい、ひどい顔をしていたに違いない。




 馬車がわたくしの実家に着くと、わたくしは馬車から飛び出した。

「テレーゼ!」

 ユリウス殿下の声を背中に聞きながら、自ら屋敷の扉を叩いた。


「マルティン! マルティン!」

 わたくしは執事の名を呼んだ。ひどくかすれた、小さな声しか出なかった。


 ユリウス殿下がわたくしの横に立って、力強く扉を叩いた。


「誰かいないか! お嬢様のお帰りだ!」

 ユリウス殿下が怒鳴ると、すぐに扉が開けられた。

 わたくしは屋敷の中を走って、お母様がいる寝室に向かった。

 ユリウス殿下の足音が、ずっと後ろをついてきていた。


 お母様の寝室からは、老いた侍女が泣きながら出てきているところだった。


「ネリー!」

 お母様が実家から連れてきた侍女だった。

「ああっ、テレーゼお嬢様!」

 ネリーはわたくしの元へと小走りでやって来た。

「メリッタお嬢様……、いえ、奥様が……!」

 そこまで言うと、ネリーはその場で座り込んだ。


 ネリーは古ぼけたハンカチを握りしめて号泣していた。わたくしはネリーのそのハンカチをよく知っている。お母様が幼い頃、ネリーの誕生日に贈ったハンカチだ。お母様が自らネリーの大好きな猫を刺繍したのだ。


 わたくしはよろよろと寝室に向かった。扉を開けようにも、手がひどく震えて、うまくいかない。

 ユリウス殿下が横に立って、扉を開けてくれた。


 わたくしは寝台に横たわるお母様のところへ歩いて行った。

 お母様はひどく苦しまれたのだろう。眉間にしわが寄っていた。

 化粧では隠せそうにないほど深く刻まれた、苦悶の痕跡。


「おかぁ……さま……っ」

 わたくしは寝台の横で泣き崩れた。

 転生前の母にできなかったことを、今のお母様にもっとしてあげたかった。


「お嬢様! お嬢様! お戻りになったのですね!」

「カタリナ……」

 カタリナはお母様が実家から連れてきた料理人で、この館で同じく料理人をしているライナーと出会って結婚した。

 カタリナはお母様の寝室に入ってきた。


「お嬢様、旦那様が、旦那様が……」

 カタリナの声もまた、ひどくかすれていた。両目から大粒の涙が零れ落ちている。


「カタリナ、どうしたというの……」

「旦那様が、王宮から、お戻りに……」

 カタリナは泣きながら気を失った。

 お父様が王宮に行ったとするならば、お母様が亡くなったことを王妃殿下とユリウス殿下に伝えるためだろう。


 ユリウス殿下はここにいて、お父様は後から戻ってきた。

 カタリナは気を失って倒れている。


 わたくしは震える足でお母様の寝室を出て、エントランスホールに向かった。

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