7.転生前を懐かしむ(後編)
「ユリウス殿下は、今日はどうしてこちらに?」
「私か? 土産を持ってきたのだ。留学前に頼まれただろう」
ユリウス殿下は指を鳴らした。金髪碧眼の侍従のエリックが木箱を抱えて入ってきた。
エリックは細身というよりひょろひょろで、顔もそんなに美形ではない。王妃殿下はエリックについて、『ユリウスの良い引き立て役』と言っていた。エリックは王妃殿下が親戚から選んで連れてきた。あんな言い方はいくらなんでもひどいと思ったわ。
木箱にはいろいろな形の瓶が入れられていた。中身が液体もあれば、クリーム状になっているものもある。
「豆でできているという調味料は、すべて購入してきた」
わたくしはユリウス殿下に、『本で読んだ美味しそうな調味料』ということにして、味噌と醤油をお願いした。もちろん、味噌と醤油と言っても伝わらないので、『豆でできた調味料を集めたい』とお願いして、買ってきてもらったのだ。
ユリウス殿下がエリックに、宮廷医官を呼ぶよう命じてから退出するよう促し、エリックは扉から出て行った。エリックは扉の外で命令を伝えた後、護衛騎士たちと共にその場で待機するのだろう。
「テレーゼのことを思い出しながら選んだのだ」
まあ、そうだろう。わたくしのことを忘れていたら、ユリウス殿下はわざわざ豆でできた調味料など買わなかったはずだ。
「ありがとうございます、ユリウス殿下」
わたくしがドレスのスカートをつまんでお辞儀をすると、ユリウス殿下は満足げにほほ笑まれた。
わたくしは、味噌に最も見た目が似ている瓶詰を手に取った。開けてみようとしたけれど、蓋が固くて開かなかった。
「私がやってみよう」
ユリウス殿下は瓶の蓋に長い指を触れさせた。わたくしが瓶を渡そうとすると、ユリウス殿下は、わたくしの手を包み込むようにして受け取った。
「おぅっ、落とすといけないだろう?」
ユリウス殿下のお顔を見上げると、笑みが引きつっていた。よほど落とすのが心配だったのだろう。このホルンリン王国にはない、貴重な調味料ですものね。
「そうですわね」
わたくしはユリウス殿下が、軽々と瓶の蓋を開けてくださるのを見ていた。
ユリウス殿下もわたくしも平民だったら、こうしてキッチンで並んで、一緒にお料理したりしながら暮らしていけたのかな。
転生前、開かない瓶の蓋を開けてくれる男性が家にいる、そんな幸せの中で暮らしてみたかった。ユリウス殿下とは一緒に暮らしているわけでもないし、結婚することもできなくなってしまったけれど、わたくしの抱いていた小さな夢を、今、一つ、叶えていただけた。
「どうした!? どうしたのだ、テレーゼ!?」
わたくしは瓶を手に、泣いてしまった。
幸せで、切なくて……。
この世界でも、なにも手に入らないのかと思っていた。
そんなことなかったわ。
わたくしには、この、わたくしを実の妹のように気にかけてくださっている方がいる。
ユリウス殿下はひどく慌てて、わたくしの手から瓶を奪い、テーブルに置いた。
「テレーゼ、今の暮らしが辛いのか?」
ユリウス殿下はわたくしを抱きしめてくださった。
わたくしはユリウス殿下の胸に顔を埋めた。
「いいえ、幸せなのです」
こうしてユリウス殿下が気にかけてくださるならば、このトリッジ子爵夫人としての暮らしにだって、きっと耐えていかれる。
わたくしの唯一の友で、兄で……、わたくしに恋をさせてくださった方。
「そう……なのか。幸せ、なのか。そうか」
ユリウス殿下は突然泣き出したわたくしに、ひどく戸惑っているようだった。情緒不安定な女なんて、きっと面倒だろう。
わたくしはユリウス殿下から離れると、涙をふいてほほ笑んだ。
「わたくし、とても幸せです」
ユリウス殿下がいてくださるから。
こうしてお土産を持って、お忍びで会いに来てくださるから。
ユリウス殿下は今でも、わたくしに幸せをくださる。
突然泣き出したりして、心配をかけてはいけないわ。重い女なんて、ユリウス殿下もきっとお嫌いよ。
「それは……よかった。うん、良いこと、だな。良い」
「はい」
その通りだった。ユリウス殿下はわたくしに、良いことをたくさん運んできてくださる。
「スープ、おい、スープは良いのか?」
ユリウス殿下は子供の頃みたいな、ちょっと乱暴な言い方をした。
わたくしが子供みたいに泣いたから、お城の庭を一緒に走り回っていた、あの楽しかった頃を思い出されたのかもしれない。
わたくしは鍋を火から下ろし、野菜の皮を小さなザルを使ってなんとか取り除いた。大きなザルで一気に漉したかったのだけれど、この屋敷には手頃な大きさのザルがなかったのだ。必要以上に巨大なザルならあるんだけどね。
瓶詰めの中身は、まさかの味噌そのものだった。もしかしてルクコーヒ王国にも、日本からの転生者や異世界転移してきた人がいるのだろうか?
同じ世界にそんなに何人も、転生したり転移してくる人がいるだろうか? ……あまりない気がするわ。
たまたま似たような味だったのだろう。
わたくしは小さなナスっぽい真っ青な野菜を切って、フライパンで炒めてから、ベジブロスで煮込んだ。そこに味噌を溶き入れ、ネギっぽい野菜を散らした。
わたくしとユリウス殿下は、厨房に置かれている、拭いても拭いても粉っぽいテーブルに向かい合わせで座って、ナスの味噌汁を食べた。
ひどく懐かしい味がした。わたくしは愚かすぎるわ。こんなの、泣くに決まっていたのに……。考えが足りないわね。
ユリウス殿下は味噌汁の入ったスープボウルとスプーンをテーブルに置いて、わたくしの横に来てくれた。
「テレーゼ」
ユリウス殿下はわたくしに向かってひざまずいた。
わたくしは驚いて、スープボウルを落としそうになった。
ユリウス殿下は立って、わたくしの手からスープボウルとスプーンを取り上げて、テーブルに置いた。
「本当は……今の暮らしが辛いのではないか? もし辛いならば、私とルクコーヒ王国に行かないか?」
ユリウス殿下はまた、ルクコーヒ王国に戻られるのだ。一時帰国して、フェリシアと婚約して、また海の向こうに行ってしまうのだ。
わたくしがトリッジ子爵夫人ではなく、ユリウス殿下の侍女だった時に言ってほしかった。留学先まで付いて来い、どこまでも一緒に来い、と。
ユリウス殿下、もう遅いです。
わたくしはもう、ユリウス殿下の侍女には戻してもらえません。
国王陛下はわたくしに、ユリウス殿下の侍女として海を渡るよりも、『愛するロスヴィータ』の侍女になることを望まれるでしょう。
「それは……無理ですわ……」
わたくしは小さく首をふった。
この誘いが、もしも『なにもかもを捨てて自分と共に来るように』とか、『二人で逃げてしまおう』といった類の誘いだったら、わたくしは迷わずうなずいていただろう。
わたくしはユリウス殿下にとっては、留学先に連れて行くことを考えても良い、妹同然の侍女にすぎない。
わたくしの異世界ライフは、幸せで、そして、少し悲しい……。