5.金髪碧眼の麗しのフェリシア嬢
わたくしがうつむいて立ち尽くしていると、華やかな薄紅色のドレスが目に入った。
どこかの令嬢がわたくしの前に立ったのだ。
わたくしはゆっくりと顔を上げた。
「テオドール様……?」
そこには、わたくしが転生前に最後に読んだ『異世界(恋愛)部門』の短編小説に出てきた男が、ドレスを着て立っていた。
まるで月光を集めたような淡い金髪を肩に垂らした、森の泉を思わせる青緑色の瞳を持つ、とにかくものすごい美男だった。細身な身体は、武人らしくしっかり鍛えられているように見える。
わたくしが想像していた、テオドール様。あの『伯爵令嬢は最強の平民に嫁ぎます』に出てきた最強の平民そのものだった。
『伯爵令嬢は最強の平民に嫁ぎます』は、伯爵令嬢が父の命の恩人である平民に嫁いだら、その平民は王様の覚えめでたき騎士になっていた、みたいなストーリーだ。
いずれ騎士団長となるお方だったテオドール様は、当然ながらドレスなんて着ていなかったけどね……。
「わたくしはフェリシア・ジランド。辺境伯家の娘です」
わたくしの目はどうかしてしまったようだ。フェリシアがドレスを着た男性に見えるのですもの。
どうやら、わたくしは本気でもうこの異世界が嫌になったようだわ。狂ってきている。
まわりの誰も、フェリシアを見て不審者がいるなどと騒いだりしていないもの。フェリシアが男性に見えているのは、わたくしだけなのよ。
「とても驚かれているようですね。よろしければ、場所を変えてお話したいのですが……」
フェリシアは遠慮がちに、開け放たれている窓を手で示した。
わたくしも夜風に当たって頭を冷やした方が良いだろう。
わたくしが小さくうなずくと、フェリシアはわたくしを気遣いながら、庭へと連れて行ってくれた。
「テレーゼ嬢は、わたくしのことは、ご存知ではなかったのでしょうか?」
フェリシアは人気のない噴水のそばまで行くと、わたくしをふり返った。
月明かりの下でも、フェリシアが、とても美しい淡い金色の髪を持っているのがわかる。
この方は王妃殿下のお望みの物を、生まれながらに持っていた。わたくしの持ちえなかった、美しい色彩を……。
「夫に聞きました。ユリウス殿下と婚約なさる方ですね」
「ああ、ええと、そちらではなく……」
まさか、もうユリウス殿下のお子を身ごもっているとか? フェリシアもルクコーヒ王国に留学していて、お子を授かったからユリウス殿下と一緒に帰国したとかなの?
ユリウス殿下の乳母の娘から、まさかのユリウス殿下のお子様の乳母になる展開ですか!?
だから王妃殿下はわたくしを早く嫁がせたの? わたくしにも子を授からせて、ユリウス殿下のお子様の乳母にするために……。
「テレーゼ嬢、大丈夫でしょうか?」
「あっ、ええ、申し訳ありません」
まるで大丈夫ではなかった。大丈夫な要素が一つもない。
そういえば、あの『伯爵令嬢は最強の平民に嫁ぎます』は、連載版が書かれたのだろうか……? わたくしが転生してくる前のあの某大手小説サイトでは、まず短編版を投稿してみて、人気があったら連載版を書いて投稿するという手法をとる方が多くいた。
わたくしは『伯爵令嬢は最強の平民に嫁ぎます』がデイリーランキング(総合)で十位になったのを確認して、これは連載版が来ると思ったのよ。その矢先に、こちらに転生してきてしまって、連載版が書かれたかを知ることができなくなってしまった。
名前もまったく覚えていない『伯爵令嬢は最強の平民に嫁ぎます』の作者さん、お元気ですか? その後、いかがお過ごしでしょうか? 連載版はお書きになられましたか?
わたくしは異世界で、作者さんのお書きになった、テオドール様のイメージにぴったりな令嬢とお話し中です。
「あの……、テレーゼ嬢、戸惑わせてしまって申し訳ありません」
「わたくし、少し体調が悪いようでして……」
フェリシアが男に見えるとは言えなかった。いくらなんでもクレイジーすぎる。
現実逃避をしても、どうしようもないほどに、フェリシアは男に見えた。
「わたくしが男だということは、把握されていますか?」
「え……」
わたくしはフェリシアを見上げた。フェリシアはひどく困っているような表情でわたくしを見ていた。
どうやらわたくしは、耳までおかしくなってしまったようだ。
フェリシアが男だなんて、わたくしの聞きたいことが聞こえてくるわ……。
「こんな格好をしていますが、男です。辺境伯家は男ばかり五人も生れまして、幼い頃から可愛かった四男の俺は、娘が欲しかった父上に女として育てられたのです」
「大人になったら、さすがにそれはちょっと無理がありますよね」
わたくしは本音をさらけ出してしまった。ここまで育つ間に、軌道修正する機会もあっただろう。
「自分で言うのもどうかと思いますが、俺は幼い頃は本当に愛らしかったので、父上はそれはもうあちらこちらで、俺を自慢の娘として紹介して回ったのです」
「ええぇぇ……」
家の中だけにしておけよ、辺境伯……。育ったらどうなるかわからなかったの……?
「父上はもう引っ込みがつかないようなのです。母上や兄上たちが説得してくれましたが、『フェリクスではない、フェリシアだ!』と言って、決して譲りませんでした」
フェリシアは女性名で、フェリクスは男性名だ。
そんな『メラゾーマではない、メラだ!』みたいな主張を押し通すって、辺境伯は大魔王なのかしら……。
「そんなことってあるんですね」
わたくしはフェリシアなのかフェリクスなのかわからない相手に向かって、曖昧に笑ってみせた。
わたくしが狂ったわけではなくて、辺境伯がちょっと狂っていたようですわね……。
「それで……、王子殿下の侍女だったテレーゼ嬢に、お訊きしたいことがありまして」
「なんでしょうか?」
「大変言いにくいのですが、王子殿下は意中の女性がおられたことはありますか?」
わたくしは衝撃を受けた。ユリウス殿下に意中の女性なんて、いたことがなかった。そんな話は聞いたことがない。赤ん坊の頃から一緒だったのに、一度だって、ユリウス殿下が女性に興味を持っているという話はなかった。
「え……、ありません……」
えっ、そんなことってある!? どういうこと? なんでこの年齢になるまで一度も、ユリウス殿下はどんな女性にも心を動かされている様子がなかったの?
「ああぁ……、やっぱりそうなんだぁ……。どうしよ……。父上、どうしてくれるんだよ……」
フェリシアはあからさまに落ち込んだ。
これって、王妃殿下は真面目に、ユリウス殿下の幸せを考えていたってこと?
ユリウス殿下のために、王妃殿下は男のお嫁さんを迎えようとしているってことなの?
この国では同性婚は認められていないから、男のフェリシアを女性として娶るつもり……?
近くの草むらが、ガサリと音を立てた。
わたくしたちが黙ると、言い合いをしている声が聞こえてきた。
「だから、あれはユリウス殿下がいたからだと言っただろう! 私の心には、ドロテア、君だけだ」
「本当に信じて良いのですか、グスタフ様!?」
「泣かないでくれ、ドロテア。兄弟の誰かが、あの『王子のお下がり女』を娶らなければならなかったのだ。従わなければ、あの王妃殿下は本当にトリッジ子爵家を皆殺しにする。わかるだろう?」
「だからって、なぜグスタフ様だったのですか!? お兄様方は元からの婚約者と婚姻されたではないですか! わたくしのお姉様だって、普通に婚約者と結婚しています! お兄様方やお姉様ばかり、ずるい! ずるいですわ!」
今夜は次から次へとなんなのだろう……。
わたくしの『夫のグスタフと、なんとか共に生きていこう』という決意は、『王子のお下がり女』というひどい呼称の前に、砕け散っていった。
わたくしのどこがどう、ユリウス殿下のお下がりだと言うのだろうか?
ユリウス殿下のお手なんてついていないわ。
そういえば、『ユリウス殿下が誰かに手を付けた』という噂は聞いたことがなかった。
なんで……? ユリウス殿下がただ清い方だったから、そういう噂すらなかったの……?
わたくしは不安に駆られた。
わたくしが叫びだしそうになった、その時。
「テレーゼ」
ユリウス殿下の声がした。
「ユリウス殿下……? お帰りになったのでは……?」
ユリウス殿下はフェリシアの横を素通りして、わたくしの横に立った。
どこかで髪や身なりを整えていらしたようで、ユリウス殿下はいつもの凛とした佇まいをされていた。
「こんなところで男と二人でいてはいけないよ」
ユリウス殿下はわたくしに、どこか凄みのある笑みを浮かべて見せてくださった。どうやらひどく怒っているようだ。
えっ、待って! もしかして、わたくしはユリウス殿下に、フェリシアと不倫していると思われた!? 現況では、本当に不倫している可能性が高いのは、グスタフの方ですわよ!?
ユリウス殿下、よく見て! フェリシアだから! フェリクスではなくてよ! 彼がドレスを着ているのが目に入らないの!?
草むらからは、女性の「あっ」とか「んんっ」という声が聞こえてきていた。なにをやっているのよ!? 最悪だわ。グスタフとお相手の女性は、ここに人がいることに気づかないの!? 二人の世界では、お互いの声以外のなにも聞こえないってこと!? なにそれ、ロマンチックなの!?
「大広間に戻ろう」
ユリウス殿下はわたくしの手を握った。
待って待って! ちょっと待って! わたくし、結婚していますのよ!?
まずくない!? この世界で言うところの、不貞に入りかけているような状況じゃない!?
状況を整理してみよう! 幼馴染の王子様が手を握ってくれている。わたくしの側には、王子様に対する好意がある。
あー、ダメ! 人によってはこれ、アウトだよね!? 不倫にカウントされちゃいますよね!
「さあ、行くよ」
ユリウス殿下はわたくしの手を引いて歩きだした。
夢のような出来事だった。
わたくしは王妃殿下を心から恨んだ。
わたくしさえ未婚だったなら、相思相愛でハッピーエンドまで一直線の展開よ。
『わたくし、不倫思考のクズ女にはなりたくありませんので』みたいなことを考えないといけない状況なのが辛い。
こんなタイトルの短編、某大手小説サイトの各ジャンルを総ざらいしたら、一本くらいありそうだわ。
わたくしは現実から目を背けようとした。
わたくしはどうしたら良かったのだろう。
命を懸けて婚姻を拒んでいたら良かったのだろうか。
あの王妃殿下に逆らっていたら、今頃は生きていなかった可能性が高い。
もしかして、この婚姻は、たとえ死んでもしてはいけないものだったのだろうか。
わたくしは自分が詰んでしまった可能性に絶望した。